次回日を改めて、から随分時間がたってしまったが、『カスミン論』の続き。
ファンタジー、あるいは異世界ものにとって、常に問題になるのは《トンネル》の存在だ。つまり、どう
やったら無理なく、自然に、違和感なく、《あちらの世界》に入るか、だ。簡単な例えを挙げれば、
『ロストワールド』。《あちらの世界》に入る為に、地下の洞窟を苦労して通り抜けるさまにページを費や
している。この場面に時間と手間を掛ける事により、読者は、その向こうに現れた《異世界》を受け入れら
れるのだ。この《トンネル》を、どう尤らしく、そしてオリジナルに創造するかに、作家の技量が問われる
とても重要なファクターなのである。尤も、最近のビジュアル世代のファンタジーは、端から《あちらの世
界》や《異世界》で物語が始まり、その世界は当然在るものとしてストーリーが進んでゆく小説が増えて
しまったが。つまり、最早《トンネル》という暗号は必要なくなりつつあるのかもしれない。ただ、それら
の小説群は、あくまで《あちらの世界》の人間(若しくは異世界人)が《あちらの世界》で繰り広げる物語
であって、《こちらの世界》の人間が《あちらの世界》に行って繰り広げられる物語には、やはり、
《トンネル》は必要だろう。
宮崎駿のアニメに例を取って、もう一度説明しよう。『風の谷のナウシカ』は《あちらの世界》(と言っ
ても未来の地球だが)で《あちらの世界》の人間が繰り広げる物語。『天空の城ラピュタ』は《こちらの世
界》の人間が《あちらの世界》へ(《あちらの世界》の人間の末裔と一緒にだが)出掛けて行く物語。で、
『風の谷のナウシカ』には《トンネル》は存在しない。(厳密に言えば、その《あちらの世界》にリアリテ
ィーを持たせる為の《トンネル》は在るのだが、それは何時か機会があれば語ろう。)一方、『天空の城ラ
ピュタ』の《トンネル》は、一番判りやすいのは、パズーとシータが小さな飛行艇で潜り抜ける竜巻の雲の
《トンネル》だ。あの場面の緊迫感が、より、その雲の《トンネル》を潜り抜けた向こうに現れた《異世界》
に真実味を与えている。(勿論、他にも沢山、《トンネル》の形を取らない《トンネル》は用意されている
のだが。)もう一つ面白い例を挙げよう。『魔女の宅急便』では、冒頭、ごく普通の明るい草むらに寝転ぶ
少女の映像から始まる。そして、「よし決めたっ!」と叫んで少女は明るい日差しの中を走り始める。草む
らを抜け、小さな林を抜ける時、重なり合った木々が作る影の中を潜り抜けるのだ。その一瞬、それまで
明るい日差しに照らされていた少女の姿が闇の中に消え、次の瞬間、再び明るい陽光の中に現れる。この光
から闇へ、そして闇から光へと、一瞬瞬きさせられた時、観客は、魔女と人間が共存する《あの世界》に
居るのだ。
前置きが長くなったが、『カスミン』の第1話で“カスミ”に“霞家”を訊かれ、大袈裟に驚く(根谷美
智子演ずる)“おばさん”の役どころが実は重要なのだ、という話だが(もう忘れちゃいました?(^^ゞ)。
この、大袈裟に驚く“おばさん”こそ、“カスミ”と視聴者を『カスミン』の世界へと誘う《トンネル》の
形を取らない《トンネル》なのである。勿論、その後に“霞家”の門から玄関へと続く長い鬱蒼と茂った小
さな森のような木々の《トンネル》も用意されているが。しかし、やはりその前に“おばさん”が気味悪が
る事で、視聴者は、《トンネル》を潜るのだ。
という話をしたかったのだが、書いてみたら前置きの方が長い……(^^ゞ。やれやれ(^^ゞ。
(2002.01.01)