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球場のビール・マーケティング

今日16日に西武球場へ西武とダイエーの試合観戦に妻と行って来た。
今朝、朝食を食べながら、妻からの西武の試合を観にいこうかとの思いつきの提案があり、久しく野球を見ていなかったことと、ビールを飲みながらの観戦も悪くないかと、ちょっと打算的な気も働いて、とにかく急遽行くことになった。(ちなみに妻は西武ファン)。
弁当はコンビニでおにぎりを、ビールは安く上げるために、家の近くのディスカウンターであらかじめ、仕入れて行った。

さて、試合は、西武元気なくダイエーの一方的試合で、あまり面白くなかった。
しかし、面白かったのは、生ビールのタンクを担いだ売り子さんである。妻は、「いつか見たが、かわいい女性の売り子は人気があり、売上も多いのではないかと思った」と言う。
その話を聞いた私は、俄然好きなマーケティングの虫がうずき始めた。そして、最初にいいアイデアが思いついたので、妻にこう言ってみた。「じゃ水着を着せれば売上は上がるのじゃないの」。とたん、冷たい軽蔑の視線が飛んできた。うーんまずかった。今度は、一人で頭の中で考えてみた。
メーカーは違うので、その人気度である程度売上に差が出るかもしれない。しかし、工夫すれば、売上向上策はありそう。

例えばこういうのはどうだろう。「さぁさぁ、ここでビール3杯の注文があれば、1点入るかもしれませんよ、さぁいかがですか」。「リストラと戦っているビジネスマンを応援するビールです」。顔だけではなく、消費者の購買意欲をどう高めるか、まさしくマーケティング・スキルがものをいうと思うのだが。歩合制のバイトなら考えて見る価値はないかしら。

どんなつまらない仕事でも、人に喜んで貰おうと工夫しながらやると、自分も楽しくできると思うのだが。
(2001年9月16日)


■次へ渡せ

今月23日にペイ・フォワードのビデオがレンタル開始されたので、早速借りてみた。実は、この映画のことは知らなかったのだが、たまたま、私が通勤の帰り道、女性二人の通行人の会話から知り、興味を持ったものである。(その主人公は、今流行っている映画の「A・I」の主人公でもある)

どうやらタイトルのペイ・フォワードという言葉は、人から人へ善いことをせよという意味で”次へ渡せ”という翻訳になっている。この言葉は何度もセリフとして登場してくる。主人公のトレバー少年は新しく赴任してきた社会科の教師の課題---”Think of an idea to change our world___and Put it into Action!”---に立ち向かうのだ。

そのトレバー少年がこんなセリフを言っている。「日々の暮らしに慣れきった人たちは良くないこともなかなか変えられない、きっと。だから、あきらめる。でも、あきらめたら負けなんだ。」

ずっと以前に、これに似た言い回しがあったのを思い出した。それは「あせるな」「おこるな」「いばるな」「くさるな」「まけるな」で、その頭文字をつなげて、「あおいくま」と語呂合わせしたもの。ここから、発展させてこういうのはどうだろう。「あきらめるな」「おこるな」「いばるな」「ひとのせいにするな」「ぐちるな」「まけるな」で「あおいひぐま」だ。

借りてきたビデオを2回見終わった部屋には、「考えて考えて考えたら、あとはやるのみ!勇気をだそう!」と、勇気のない自分に言い聞かせているもう一人の私がいた。(2001年8月25日)


■被害者の写真掲載報道に思う

8月に入って、2つの誘拐事件が発生した。一つは、8月3日に東松山市で発生した女児略取事件で、もう一つは8月14日に黒磯市で小学2年生の子供が誘拐された事件である。両事件とも、翌日、新聞各社では無事保護された様子を両親とともに写真付で掲載、報道された。その記事を見て、あぁ良かったと思うと同時に、何かおかしく、被害者にとって迷惑なのではないか、と感じた。

案の定、8月24日の朝日新聞の記事によると、女児の母親に対して、非難のはがきが被害者宅に届いたという。母親は報道陣に対して「自分に落ち度があった」と何度も誤ったという。しかし、新聞やテレビでは、この言葉が報道されることはなく、助かったという喜びの表情だけが報道された。報道のされかたで、非難が集中したのだと言い切ることは困難かも知れない。しかし、紙面一杯に写真付きで喜びの表情を伝えた報道の仕方が、一部の心ない人達の非難を誘発したであろうことは想像に難くない。

今回の2つの報道について、写真を掲載しなければならない必要性はどこにあるのだろうか、写真が掲載されることをご本人はもちろん、ご両親は望んでいたのだろうか、という違和感である。無事保護されたことの報道で十分ではないか。無事保護されるまでマスコミ各社の報道自主規制の申し合わせがあったであろうことは、推測できる。それは、無事保護されたら、各社足並みを揃えて、写真付きで報道することとセットの申し合わせなのだろうか。

私が問題提起したい本質的な意味は、「マスコミの権力からくる傲慢さ」のことである。マスコミの使命として、読者に対して、正確に事件を報道することはあっても、それが、読者が望むものだからと勝手に講釈をつけて、結果的に被害者の心の中までのぞき込むようなやり方は行き過ぎであり、それは決して使命の範囲ではない。マスコミという巨大な力を背景に「私たちは、娘さんの無事を最優先に考え、保護されるまでは報道を自主規制します。その代わり、無事保護されましたら、ご家族全員で写真を撮らせて下さい。全国民がみんな心配してますので、その喜びをいち早くお知らせしたいのです。」などとご両親に対して、有無を言わせないような了解の取り方はなかったのだろうかという疑念が生まれる。

数多くの報道陣の前で、フラッシュをたけば子供の将来に渡る精神的ストレスを生むかも知れないという危険性に思いは及ばないのだろうか。ここに正義を振りかざした傲慢さを感じるのである。マスコミ各社に対して、被害者への迷惑が及ぶかどうかという想像力、真の誠実さの欠如を感じるのである。

マスコミ各社の報道に対する姿勢、理念の内省への期待を込めて、小さな一声を出してみた。(2001年8月26日)


■自殺予備群からの帰還

9日、警察庁より、昨年一年間に自殺した人が31、957人と3年連続で3万人を超えていることが発表された。特徴的なのは男性が全体の7割を占めていること、50歳代と60歳代で全体の6割を占めていること、経済・生活問題による原因が増えていることだ。

景気悪化に伴い、企業は、すさまじいリストラにより中高年を追いつめている。いままでの年功序列制度や終身雇用制度はもはや終わったとし、「これからは成果主義」と言う美名に名を借りた賃金カットや首切りなどが多くの企業で実施されている。業績の良いときは「経営は人なり」などと唱えていた経営者が自己矛盾に陥っているのではないかと思えるほど、冷淡というかクールな合理化政策に転換している。

成果主義や能力主義の考えの基に導入される人事制度の功罪は企業文化や規模によりいろいろ違いがあり、簡単には言い得ない。しかし、なぜ成果主義や能力主義を導入するのかなどの従業員への説明は十分に納得をさせるものになっているのかという疑問がわき起こる。さらに、「成果」や「能力」の基準が変わったのかどうか、また、それらをどのように判定するのかという公平性、開示性への視点において不十分な点はないのだろうか。

国や企業側の政策はともかく、私達は自分の身は自分で守らなければならない。各国のさまざまな調査によって、自殺者の9割が何らかの心の問題を抱えていると言う。東京都精神医学総合研究所の高橋祥友副参事は、中高年の自殺の原因にうつ病が関与していることを指摘している。そして、自殺者の数倍はいると言われている自殺予備軍にも警鐘を鳴らしている。夢を捨てられない人、二者択一的な人、挫折を知らない人は要注意のようだ。自殺予備軍に入らないためにも、一人ひとりの生き方を考え直してみることも必要かも知れない。(2001年8月11日)


■「中年よワンタックを穿こう」

以前、NHKのテレビ番組「ためしてガッテン」で中高年がおしゃれに見えるズボンの選び方について特集をしていた。

私は、かねがね、自分の体型に合うズボンがなく、泣く泣くツータックのダボダボのズボンをはいていたので、私は、興味津々画面に集中した。。そこの番組での主張は、腹の出ている中高年はツータックではなく、ワンタックのズボンをはいたほうが細身でスッキリ見えるということであった。

画面でもかなりその違いがわかり、なにやら自分の味方が増えたようで、永年のうっ積したモヤモヤがすうっと消えた。愉快、愉快。

私のように足周りは細いのに腹だけが(ちなみにウエストは82センチ)でているのでお尻から下にかけてどうしても幅広いズボンになっていたので誠にかっこわるいと思っても、諦めていた。これで少し光明が射したと思った。そして、最近デパートでワンタックのズボンを探して試着してみた。確かにいままでのものよりは、細くやや窮屈に感じたが、鏡に映っている54歳の中年が少しばかりカッコよく見えた気がしたので、妻の不安そうな視線を感じつつ、もちろん買った。その後、身につけてみると、さっそうと姿勢を良くして歩いている自分に気がつく。やはり、ファッションは気持ちを変える。

それにしても、案の定デパートでは中高年を対象にしたワンタックの品揃えは少なく全体の3割程度らしい。中高年のこのような隠されたニーズに応えようとしていない売場ばかりという印象が染み渡ると、売場すら見に行く気にすらなれない。メーカーや小売店は、モノが売れないと嘆くが、消費者の悩みを感じ取るセンスとマーチャンダイジングの工夫がメーカーや小売店に求められている。努力次第で需要は創造できると思うのだが。(2001年8月9日)


■「人の目にとまること」

 先日、中村修二著『考える力 やり抜く力 私の方法』を読んだ。中村さんは、今年になって”高輝度青色発光ダイオード”を開発、世界中をあっと言わせた記事が数多く新聞に掲載されたので、ご存じの方も多いことであろう。

 その本のなかで、私が特に印象に残った項目が首題の「人の目にとまること」である。著者は、なにかをやりとげること、完成させることが大切なのは、それが「人の目にとまる」ことができるからだと訴えている。 これを、私なりに解釈したことは、次のようなことだ。

 まず、「人の目にとまること」を考えてなにかにとり組もうとするその人は、明らかに目指すゴール、目標を持っているということ。先行き不安のことばかり考えて、目標を持たず、今日を精一杯生きようとしない人は、決してハッピーな生き方を送れないのではないか。

 次に、どんなささいなことでも、なにかを形に残すこと、完了させることが、次のステップに向かわせる強力なエンジンになると思う。

 ちょっとした勇気を出して、決断して、とにかくやってみる---”考えて、行動する”---と道は開かれる可能性が高まる。縮こまりがちな時こそ、自分自身を信頼して、何事にも積極的にトライしたいものだ。(2001年7月27日)

(コラム001)