■どこかお苦しいのですか?
最近、作家の大江健三郎さんはテレビというメディアを使って、積極的に社会に、世界にメッセージを発信している。
先日2月4日夜もNHKテレビで「世界はピンチだ」というテーマで中学校での講演の様子が放映されていた。
そして、次のようなことを話されていた。
-----自分が、誰かが、ピンチだと感じたときは「注意深くしていることが役に立つ」。
だから、いま、自分は「注意深くしているだろうか」と反省してみるといい。それが出発点である。
そして、それを試すには、自分に対して、人に対して「どこかお苦しいのですか?」と聞いてみることだ。-----
大江さんにとってのこの気づきは、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユという人から、人の苦しみに注意を払うことの大切さを学んだことも影響しているようだ。
この問いかけの大切さは、なにか感じたときに、さっと直感的にばかり反応しないで、ちょっと間をおいて考えてみるとか、本当はどうなんだろうかと自分で考えてみるところにあるのであろう。それが、自立した人間に繋がっていくのであろう。
近頃、政治家を見渡せば、ムード、雰囲気、感情が幅を利かし、「ホット・ヘッド&クール・ハート」の言動が目に付く。そうではなく「クール・ヘッド&・ホット・ハート」であって欲しいものだ。(2002年2月10日)
■聞きたかった講演
今朝、朝日新聞の一つの記事にショックを受けた。それによると新潟県立三条高校は創立100周年記念事業として、校長が作家の大江健三郎さんに講演依頼をしていたという。しかし、校長はその後、政治的な話題に配慮して欲しい旨、大江さんに注文、要請したことがきっかけで、大江さんから辞退を受けたという記事である。大江さんは「私は子供達への講演を政治的宣伝のためにするような人間ではない」とのコメントを発した。大江さんは「自立した人間ということ」という演題で「寛容」について語ろうと思っていたとのこと。
今回の校長の行動にはどのような背景があったのかを知る由もないが、不自然不可解に感じる。最近の大江さんのメッセージを見ると、自身の責任として、「いま、世界へ、子供達へ呼びかけるとき」との認識にいたっているように私は思う。校長は大江さんに対してどのような思いを馳せているのだろうかとも思った。校長は何かを失うことを恐れているのだろうか。外部からの圧力でもあったのであろうか。それにしても、演題が「自立した人間ということ」とはなんたる皮肉だろうか。
今回の件で一番の被害者は高校生である。なぜなら大江さんのメッセージがひとり一人の高校生の魂に、なにかしら響きあうチャンスがあったのに無くした訳だから。いま、世界ではイデオロギーを越える人間の知恵が求められるとき、あるいは試されるときだけに残念でならない。
吉田兼好の「徒然草」第211段に「人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極まざる時は、喜怒これにさわらずして、物のために煩わず。」とある。何かに依存する姿勢を戒めたものらしい。まさに「自立」の大切さを説いている。それと今回はもう一つの「自律」も欠けていたような気がしてならない。これは決して校長個人の問題だけでなく学校組織としての問題でもある。ふと故郷の母校を思い出す。(2002年1月21日)
■受け入れる勇気
今日1月11日、正月の名残を惜しみながら、親戚から戴いた大吟醸を飲んだ。そしていい気分でテレビをつけた。何気なくつけたら、映画をやっていた。別にその映画を見たくて見ていたわけではないが、いつのまにか引き込まれ、とうとうお終いまで見た。後で新聞を見たら、その映画は1993年に製作された「天と地」というものであった。ベトナム戦争が引き起こしたベトナム女性とアメリカ兵との愛憎、人の生き方について問い掛けたような内容であった。
絶望的な局面に置かれていても、希望を失うことなく強く生きることの大切さを教えてくれていた。エンディングで流れる詩に「弱気になったら強気を、怖くなったら勇気を」と歌い、今の運命から逃れようとすると幸せは来ない、だからそのまま運命を受け入れようと結んでいた。
丁度、今読んでいる「ジャック・ウェルチ我が経営」にも似たような言い回しがある。それは、ジャック・ウェルチが大切にしている言葉「現実直視」である。彼は、GEの官僚機構を排除したかった。そのため、現実のありのままの姿を理解することの大切さを何度も言い続けた。このことと今日見た映画の「運命を受け入れる」ことは共通項があると思う。ふたつの事例とも、ありのままに現在の状況を予断を入れずに素直に見ることの大切さと、勇気がいることだということを教えてくれる。
私達は他人と意見が合わなかったり、自分の期待にそぐわない言動に会うと、つい、相手をなじったり、怒りをぶつけてしまうことがある。冷静に考えれば、そのやり取りはお互いのためにならないエネルギーの消耗戦であることはわかっているのに、つい忘れてしまう。これらを回避する手立てとして、次のようなことは考えられないだろうか。今の怒りは本当の自分ではないと自分に言い聞かせ、相手の言い分をそっくり受け入れてみる(承認する)ことである。相手への寛容の心とも言える。そこに個人の成長が生まれるのではないか。
感情の高ぶりに任せるとろくなことにならない、あるいは取り返しのつかないことにもなりかねない。"刹那"は怖い。(2002年1月12日)
■成果主義のワナ
12月16日朝日新聞がトヨタ自動車の新人事制度のニュースを報じていた。その骨子は、課長級の評価において「部下の育成力」を80%という高い点数配分にするというものである。トヨタがいつ頃から成果主義に重点を置いた評価制度をとりいれてきたのか知らないが、会社全体の最適化よりも自部署や自分の成果を上げるための仕事の進め方になっており、その弊害を感じての転換であろう。
ここ1〜2年多くの企業があたかも熱に浮されたように、そして終身雇用制度や年功序列制度と対比しての成果主義制度への転換を打ち出した。やや天邪鬼的に言えば、その成果は果たして上がっているのであろうか。例えば、自社にとって「大切にしたい成果」の中身を吟味することなく、中高年の賃金切り下げ、首切りというリストラ進めるための正当化あるいは方便として打ち出されていることはないだろうか。
成果主義で思い出されるのは、日本経済新聞社が97年に実施した「ミドル意識調査」である。これは、大手企業の課長100人に対してのアンケートをまとめたものである。
そのなかで、「成果主義そのものについてどう思うか」という質問に対して「歓迎する」が76%であった。その当時、結構高い割合だと思った記憶がある。その調査から約4年半、当時の課長さんたちは、いま何を思っているのだろうか。
また、自社の価値観や文化、資源を見極めることなくムードで大手企業のマネをする企業の先行きは危ないのではないだろうか、などと一向に上昇する気配のない株式欄を眺めながら、思った。(2001年12月21日)
■コーチに感謝!
人は自分の話しているときの癖を意外と知らないものである。
いま、コーチングを受けるためにコーチを雇っている。3回目のコーチング・セッションの日、あるテーマについて話していた時のことである。前半、10分くらい過ぎた頃、私の話を聞いていたコーチが「いまの10分間に"結局"という言葉を10回以上使っていたことに自分で気づいていましたか?」と私に言った。驚いた。"結局"なんていう言葉を使っていた記憶するないのに、まして10数回も使っていたとは信じられなかった。さらに、笑ったのは、その言葉をなぜ使うのかという話になった時にも、"結局"を何回も使ってしまうのだ。
どうやら、日頃、人と話す時にエネルギッシュに、結論づけたような話し方になっているらしいのである。そのようなコミニュケーションのスタイルが染み付いているのだ。コーチの説明によると、そのように話をされる相手にとって見れば、違う意見を言いにくく感じたり、拒否されるような圧力を感じてしまうような気がするとのこと。その言葉自体を使うことが一概に悪いのではない。しかし、相手を承認する必要のある時などに使うと、目的を達成しにくいことに繋がりかねないのである。
このような「自己発見」「気づき」という宝物を得ることができるのが、コーチングである。そして、人とコミニュケーションをとる時に、言葉を意識して使うようになれるのがコーチングの魅力の一つである。職場において人とのコミニュケーションがうまく行っていない人にはこのコーチングがオススメである。ただいまクライアント受付中!
(2001年11月17日)
■文化祭を見て
今日11月4日地元の公民館で文化祭があり、妻と散歩がてら、見学に行ってきた。
バザーや写真展、絵手紙、俳句などの展示品も素晴らしいものがたくさんあって感心した。そして、特に楽しかったのは、多目的ホールでのコーラスやカラオケなどの歌、三味線や大正琴などの演奏だった。特にシニアの方が多かったわけだが、いずれの方も顔が輝いていた。今日の発表に備えて練習に励んできたことが伺えた。いくつになっても、いきいきと生きるためには適度の緊張感、人に見られている、自分の技術を発表する、人に喜んでもらう、人と協力して何かをなすなとが欠かせないとつくづく思った。自分もいつかあのステージでなどと、想像を逞しくしてたんぼ道を帰ってきた。 前回のコラム「夜明けの散歩」で「見上げてごらん夜の星を」の歌を歌ったことを書いたが、なんと今日のコーラスで見学者も一緒にこの歌を歌ってきたのだ。やはり九ちゃんのCDを買おうっと。(2001年11月4日)
■夜明けの散歩
おはようございます。今、朝の6時ですけど、夜明けの散歩から帰ってきてとてもすがすがしい気分でこのコラムを書いています。
昨日は、待ちに待った晩酌の日、ところが、曜日を勘違いしていた妻は、「あっ、つまみなんにもないよ」といいつつ、トマトを出してくれた。まぁいっか。会社での重い気分を頭から排除しつつ、笑顔で八海山を飲む。自作のお銚子の小ささにかこつけて、3回燗をつける。そして、今日は早く風呂に入って寝よう、明日は朝早く起きて手紙を書こうと思いつつ、9時40分に寝た。
ところが、朝、なぜかしら、夢うつつの感じでトレイに起きた。時計を見たら2時半。また、夢の続きをうとうとしながら、1時間半。夢はどうしても、快適な夢ではない。人生の決断のことだ。頭は既にはっきり起きている。よし、ちょっと早いけど、散歩に行こう。4時20分。妻が心配するといけないから、メモを残し出かけた。こんな時間に散歩したのは初めてだ。まだ真っ暗である。途中ベンチがあったので、休んで夜空を見上げた。満点の星だ。小さな声で歌を歌ってみた。「見上げてごらん夜の星を」次は、「上を向いて歩こう」「明日があるさ」と立て続けに九ちゃんの歌が自然に出た。次は、「希望」だ。いいぞいいぞその調子。未来に目を向けよう。絶望の淵と思っていたが、その手前の失望の淵だ。まだまだ大丈夫だ。なにか気持ちがいい。
また歩き出した。今度は、いつも歩いている高麗川の土手だ。空が少し明るくなってきた。また空を見上げた。そしたら、たった一つ大きな星が輝いている。あぁ星の名前を覚え出せない。日ごろ下や横ばかり見ているからかなと反省した。でも、待てよ。いろいろ仕事に私生活に頑張ってきたじゃないか。今年の目標であったホームページも作ることができたし、本も出版(後日ご案内、乞うご期待)できたし、自分なりに納得しながらやってきたじゃない。ほぼ意思が固まりつつある気分になってきた。あぁそれにしても、家族は大切だ。いつも応援してくれている妻と娘に感謝感謝。
みなさん、意識的に非日常をつくるためにも、夜明けの散歩をしてみませんか。(2001年10月20日)
■小出監督と長嶋監督
今日(おっともう昨日になった)ベルリンマラソンで高橋尚子さんが女子で初めて2時間20分を切るという世界新記録で一位になった。トップでのゴールがまるで最初からシナリオができているような感じさえする見事なものであった。それにしても、ゴールに飛び込んだ高橋選手の淡々とした表情が印象的であった。それは何故だろうと思った。しかし、謎が解けた。小出監督のインタビューによると「98年当時からいずれ18分台で走れる子」との確信があったとか。恐らくは、最終目標は18分を切ること、あるいは16分台を出すことを監督と選手の間で持っているから、あのような表情になったのではないか。だから、今日のレースはあくまで一里塚なのであろう。
そして、今日感じたもう一つのことは、小出監督と長嶋監督の共通項のことであった。小出監督は常々高橋選手に「君ならできる」と言ってきたとか。高橋選手にとってみれば信頼されている、あるいは認められているという気持ちがエネルギーになっていることは想像できる。
長嶋監督の名台詞に「ミラクル・アゲイン」がある。これは、勝負を最後まで捨てないと言う監督の哲学であり、信頼している選手に対する期待の言葉でもある。
なにが共通項か。それは「可能性への信頼」ということをお二人とも大切に持っているということである。つまり、ゴールに向かってできると信じて選手とともに突き進むそのプロセスを重要視していることである。それに対して、結果だけを重視して、思うような結果にならないとき、その結果の原因を選手のせいにして追及するということを「結果への信頼」と言う。このように「信頼の法則」には二通りあるが、選手のモチベーションを高めるためには、「可能性への信頼」が有効である。このことは、スポーツの世界だけではなく、会社での上司の態度としても、いま、それが望まれているのではないか。つまり、いかに、部下を信じ、伸び伸びとチャレンジする環境をつくってやることが上司としての大切な役割だと思う。
(2001年10月1日)
■カボスとすだち
(コラム002)