■MD録音に挑戦
 コーチング・セッションの始まりにアイスブレーキングとして、音楽をラジカセから流すことを考えて、持っているCDからMDに録音しようと挑戦してみました。
 「マニュアルがあるからそれを見てからやればできる」との家族の励まし?を背に、まずMDを買いにお店に行きました。高いのと安いのといろいろある。あっそうか、録音時間によって定価に違いがあるのかな。それとも、メーカーによって違うのかな。えぃっ、わからないからこれでいいやと選んだのが74と書かれたものであった。どうやらこれが録音時間のようだ。
 さて、いざCDをラジカセにセッティング。よしよし。では録音スタート。あれっ。CDが始まっているのに録音が同時にスタートしない。まぁ適当に録音してみよう。それっ。よしよし、では確認してみようと再生してみた。あれっ、録音したつもりのない曲が録音されている。うーん。そして、肝心の曲が途中で終わっている。マニュアルを読んでも、困ったときの対応が書かれていない。困ったなぁ。開始してからもう1時間経過している。
 困った私は、うんと若い友人のところへ行き、「教えて下さい」と頼んだ。その若者はマニュアルをゆっくり見ながら、着々と録音してくれる。そして、録音したい曲を聴いてそれが正しければ、MDO.T.E.なるボタンを押せば、曲の最初から録音できることを教えてくれた。これはどうやら、どんなラジカセでも同じルールのようである。さらに、タイトルのつけ方も教えてくれた。ありがとうH君。君のお陰でマイMDが完成して嬉しいです。

 なにごともチャレンジが大切。とはいえ、中高年にもう少しやさしいマニュアルとラジカセを作って欲しいとメーカーさんに願わずにはいられない1日でした。(2002年8月4日)


常識に縛られるな


美輪 明宏さんの言葉をご紹介します。

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煩雑な世の中に身を任せておりますとね、どうしても世間の「常識」というものに合わせて生きるようになってしまうんです。それは、とても危険なことだと思いますね。

 先達たちが書き残したり言い残したりしたものは、時空間を超えた真理なんです。ところが、世の中は、真理を追究して身につけようとせずに、常識を身につけようとしますでしょ。常識の物差しは最初から狂っているから、あらゆる意味で計算に狂いが生じますよね。

(朝日新聞2002年6月30日)         -------------------------

これを読んでいて、以下のことを思い出しました。

人はよく「これは世間一般の常識だよ」と言います。しかし、ちょっと考えてみるとおかしいことに気づきます。「世間一般」というのはどの程度の人がそうしていたら、「世間一般」というのでしょうか。また「みんながそう言っているから」のときの「みんな」って誰のことでしょう。一体全体、「ここからが常識の範囲」「ここ以降は非常識」なんていう線はひけるのでしょうか。ひけませんよね。漠然として、抽象的なものでしかない。

つまり、個人の認識の違いによって、ある人は「常識」と思うし、ある人は「非常識」あるいは、そのどちらでもないに分かれるのです。

もともとがあいまいな、人や時代によっての認識によって違いがある「常識」に縛られて生きることは、「自分の人生の主人公は自分」を放棄したようなものだと思います。そして、その「常識」を人に強要することは傲慢のような気がします。

 「常識」に縛られている人は、「すべきである」とか「しなければならない」というように、自分を制約してしまい、それが叶わないと嘆いたり、憤慨したりします。柔軟性や創造性の乏しい人になってしまいます。
(2002年7月3日)


■今を儀とし、信に悖らざること
 先日、この間まで同じ業界で働いてきた友人から、映画のチケットが贈られてきた。早速、今夜観に行って来た。映画の題名は「陽はまた昇る」である。日本ビクターのVHSビデオの開発に命を燃やした240名の社員の物語である。先にNHKのドキュメンタリー番組である「プロジェクトX」で放映されていたのでご存知の方は多いと思う。
 最近、涙腺が弱くなったのか、涙は流すまいと思って観ていたのであるが、ダメだった。熱き情熱を傾け、一心不乱に取り組む人間の魂の素晴らしさに共感するのであろう。
 このビデオ事業部長、トルシエ監督、カルロス・ゴーンなど、リーダーに共通の資質がある。それは、「人を信じる」、「ビジョンを示す」、「目標達成にまっすぐ突き進む強い意志」である。
 タイトルの「今を儀とし、信に悖らざること」は、私がボランティアでお世話になっているところのリーダーの言葉である。この映画を観て、この言葉を思い出した。この意味は、「本質を掴まえたら、あとは自分を信じて、決して恐れたり、おびえる必要はない」ということらしい。言い換えれば、信念であり、余計な瑣末の事に目をくれないで、物事に集中してあたれ、ということであろう。
 時代は変っても、常に何が大事かという本質を見極める目をもち続けたいものである。(2002年6月23日)


■本物は分かり合える
 日本のサッカーが決勝トーナメントに駒を進めてきた。にわかサッカーファンとしては、ここまでくると優勝だって不可能ではないと思えてきたから不思議である。そしてジメジメとした「梅雨と景気」を追い払ってもらいたいものだ。
 それにしても、中田(英)選手の表情が実にいい。プロとしてのプライドと自信が顔つきに表れている。また、インタビューされたときのコメントを聞いていると、成熟した大人を感じる。
 数年前、中田選手の言動がわがままとか自己中心的だとかと報道されていたのを見聞きしたことがあった。では、いま彼は大きく変ったのだろうか?そうではあるまい。わがままだとか自己中心的なイメージを焼き付けたのは、一部のマスコミが読者への媚あるいは受けを狙ったものだったのではないか。彼本来は、もともと自立的かつ自律的な統合性のある青年であろう。その本質は変らず、変ったように見えたのはリーダーシップの発揮の仕方・スタイルが変ったに過ぎないのではないか。
 そして、これも真実の程はわからないが、トルシエ監督と馬が合わないと言われてきた。これとて、無責任な評論ではなかったか。一流の監督が一流の選手の心がわからないはずはなく、また逆も言えること。お互い一流同士として尊敬し合い、信頼し合っているからこそ、考え方の違いを超えて分かり合えるのだ。本物は変に妥協しない。快団児の18日予想は3-1で勝ち。(2002年6月15日)


■そっ啄同時
(そつは口偏に卒と書きます。外字のためヒラカナにしました)
 「そっ啄同時(そったくどうじ)」とは、どのような意味か、まず三省堂の辞典による定義を紹介し、つぎに、その言葉から私の脳裏に想起したことがらの解釈について述べたい。

三省堂の辞典によると、「絶好の機会。逃すことのないできない好機。”そつ”は呼ぶ、叫ぶ意で、卵から雛がかえろうとするとき、殻の中で鳴く声。”啄”はついばむ意で、親鳥が外から殻をつつき壊すこと。本来、禅で弟子が悟りを開く一歩手前にまで成長したら、師は直ちに教導して悟りに到達させることをいう。」とある。

 卵の殻をはさんで、中からは雛がそろそろ出たいと合図を送り、それを察知した親鳥が絶好のタイミングで外から殻をつついて、まだ力の弱い雛を助けてやることで無事この世に出てくるイメージが浮かんでくる。

 この言葉を想起したのは、親とこどもの関係に思いを馳せていた時である。人間の出産とその後の親子関係にも同じようなことが言えまいか。出産は時が満ときに行われるものであろう。そして、時が経過して、こどもはさまざまな障害に出会いながらも、日々成長していく。この成長の節目節目で、時には親にSOSの信号を送りつづけているのではないか。それに対して、意識的に、あるいは無意識的に親は関わっている。つまり、その信号を無視する、見過ごす、聞く、気づく、そしてこどもに向かい合う何らかの態度を決めるのであろう。このとき大切なことは、親とこどもの間に掛け橋が掛かるかどうかである。こどもにしてみれば、自分が発信した信号が親に的確にとどいたかどうか確認したいと思うだろう。そして、親はその信号をどう読み取ったかこどもにフィードバックすることが、お互いの理解を助け、信頼を高めることにつながるのではないか。

 親もこどももコミュニケーションの重要性を再認識したい。これは、家族内のことに限らず、人が社会でさまざまな人と関わる上で、きわめて大切な素養である。とかく人は「なんで私の話を相手は理解しないのだろう」と自分の立場で相手を攻めやすい。そうではなく、「相手が私の話を理解しにくい原因はなんであろうか」と相手の立場に立って思うことが意思疎通の出発点である。自省。(2002年5月19日)


■「だめもと」と「転んでもただでは起きない」
 先日、朝日新聞に川口外務大臣へのインタビュー記事があり、その中で「私はいままで、だめもとでやってきました」というようなコメントがあった。
私も、自分にちょっとだけ勇気を与えるとき、「だめもと」を良く使う。「だめもと」とは、「だめでもともとと思って、やるだけやってみよう」ということを略した言葉である。結果をいたずらに心配するよりも、前へ踏み出すこと、行動してみることを優先する考え方の上に成り立つ。もちろん、悪い結果あるいは失敗の結果よりも、いい結果あるいは成功の結果を望むわけだが、例え、いい結果がでなくても、そこでつまづかないぞということを心に言い聞かすようなものである。挑戦することを楽しむ心情でもある。そして、少なくとも、やってみて初めてわかることがあり、その意味では何かを学べるわけである。この経験が自分の資産になるし、次につながるのである。これは、部下、それもやや慎重な性格の部下に使うと、結構はりきってなかなかの成果を出すことがある。また、コミュニケーションが深まるという利点もある。

 これと似たようなことを言い表す「転んでもただでは起きない」がある。この言葉について南無の会会長の松原泰道先生が次のように語っている。
-------「転んでもただでは起きない」とは、決して欲得なことを言うのではなくて、挫折しても、そこから何かプラスになるものを見つけて立ち上がろうとする希望に満ちた姿勢です。過去をマイナス思考で顧みないこと。安心感、充実感を保つためには、今、ここで、自分は何ができるのかに集中することが大切です。追い詰められていてもユーモアを解する余裕と希望を持つ人間でありたい。(プレジデント2002年4月1日号)--------

いずれも、創造性や挑戦心を高めたいと思ったら、憶えていてもいい言葉だと思う。(2002年5月6日)


■わかりやすく書く人、話す人
 
いま、売れている『漢字と日本人』(高島俊男著 文春新書)を読み終り、あらためて言葉の使い方についていいかげんだったなと考えさせられた。
 自分のいいたいことをわかりやすく書いたり、話したりすることは本当に難しいことだなと思った。私もつい漢字を使わなくてはと思ってしまうことが多い。
どうやら、この原因は、漢字を使ったほうが、なにか麗々しく知的に感じている自分のせいのようなのである。うすうす感じていたことではあったが、なにか謎が少しとけた気がした。そして、さらにいえば伝えたいことを漢字にするかかなにするかをあまり考えないで使ってきたような気がする。漢字を多く使うのは学生時代のなごりで使うのだろうか、それとも職業環境によるのだろうか。

 この本で「十冊」をなんと発音するかというのがあった。「ジュッサツ」と思ったらどうやら間違いで正しくは「ジッサツ」らしい。「十」は「ジュー」と「ジツ」の2本立てになっており、使い分けるらしい。数字の次の言葉がカ行の「十軒」は「ジッケン」、サ行の「二十冊」は「ニジッサツ」、タ行の「三十点」は「サンジッテン」、パ行の「四十本」は「ヨンジッポン」という具合である。そのほかは例えば、「十人」は「ジューニン」だし、「二十枚」は「ニジューマイ」である。こう言われるとなるほどと思うが、ふだん、いかにいい加減に使ってきたかとちょっと恥ずかしくなった。私が使っているワープロソフトでは「ジュ-」でも「ジッ」でも両方とも、変換できるものだから、ますますいい加減になってしまうかも。

わかりやすく書ける人は、話もきっとわかりやすいのではないかと確信した。(2002年4月23日)


■真の決断
 
昨日2日晴天に誘われ、家内と秩父路へと車を走らせた。全体的にはまだ6分咲きくらいであったが、種類によって違うのか満開に近い樹もあって、桜の樹の下で,おにぎりとビールがこのうえなく悦びであった。
 ほろ酔い加減で寝そべり、下から花を眺めていたら、桜=早く散る=はかない=いさぎよい、とのイメージが浮かんできた。そして、最近の国会議員の辞職の決断について考えてみた。国会議員であろうが、会社の役員であろうが、「職を辞する」ことは大きな決断がいるだろう。人が決断へ踏み切る動機または意思決定要因がどんな価値観から生まれるのだろうか。
 そこで、帰宅してから、ある本を久しぶりに読んでみた。平成9年に亡くなられた哲学者会田雄次著『決断の条件』(昭和五十年 新潮選書)である。その序論にこんなのがある。

---私たちは、殆ど決断や選択という能力を持たないのではないかと思うほど「優柔不断」な国民である。実業界や政治界でのトップたちのいわゆる一世一代の決断とかいわれる話しを調べてみても、そこに真の決断は殆どみられない。殆ど各種各様の自然的、社会的、政治的、経済的、社内的、党派的状況に押され,それに順応しただけに過ぎぬ場合が殆どである。---

 また、会田は次のようにもいっている。

---とにもかくにも意思決定に際し、知己の援助や協力を希望的に観測し、それに期待するのは失敗の最大原因。もっともつつしむべき事柄なのである。---

 今回の政治家で辞職した人もしない人も、その動機は何也や。そして、また、決断が長引けば長引くほど国民の政治家への不信からくる政治への無関心さへとつながって行く。早期決着を願うばかりである。政治家に限らず「寄りかかり」は禁物である。自戒したい。そして自らの決断は自らの価値観にもとづきたいものだ。(2002年4月3日)


■悲嘆のプロセス

 最近、肉親の死に立ち会った。亡くなった人への悲しみは当然ながら深い。ただ私の悲しみ以上に深いであろうつれあいを亡くした人の悲しみをどう支えていけばよいか、ずっと考えてきた。その時に出会った言葉がこの「悲嘆のプロセス」である。支えるなにかの手ががりが欲しくて、図書館に出向いた。そこで、アルフォーン・デーケン上智大学教授が曽野綾子さんとの共著(『生と死を考える』春秋社)のなかで提唱している考え方を示したこの言葉に出会った。
 「悲嘆のプロセス」を簡単にいうと、人は親しい人の死に直面した時、悲しみの淵から立ち直るプロセスがあり、それを乗り越えることで人格的に成長していくのだというものである。たとえば最初の段階ではパニック状態になっても、やがてその現実を受け入れるようになり、そして故人に感謝しつつ前向きな人生を送ろうとの気持を持つようになる、などのことをいう。
 それらを私なりに要約して先方に渡してきた。この行為が果たしてどのくらいその人の心の支えになったかはわからない。これからも死に立ち会った時には、この言葉は私の脳裏から消え去ることはないだろう。それは自分の生き方、死に方にも通じるものであるから。(2002年3月23日)


■たまには東京タワーへ

 昨日、都営地下鉄三田線に板橋区役所から乗った。目的は、白山と神保町へ向かうためだ。白山で用を済ませ、神保町に向かう途中の電車内の広告が目に入った。それは、芝公園の梅林の写真であった。どうやらいまが見頃らしい。芝公園で下りたこともないうえ、梅林のあることさえも知らなかったので、梅でも見ながら弁当とビールのお昼も悪くないと考え、急遽予定変更。
 さて、芝公園の梅林を人に尋ねてやっと見つけた。といっても、私が知らないだけで、駅の直ぐ側であった。梅林とはいっても梅の数は少なかったが、満開で綺麗でした。問題は、コンビニを探したが、ないのである。散歩も兼ねて、ぐるぐる歩いていたら、なんと東京タワーの下についた。またまた、タワーの上でお昼にしようと予定変更。
 運悪く一番上の特別展望台が修理中だっので、820円払い途中の大展望台へ。景色の前に腹ごしらえ。まず550円の生ビールと360円のたこ焼きを注文。あれっ!この量で550円のビールはちょっと高いよ。これじゃスキー場の方が安い。まあいいか。ビールを飲みながら、おみやげを見たら、面白いのを見つけた。その包装紙には「ガンバレ 純ちゃんの景気まんじゅう」とあった。そして、景気の景の文字の前に「好」。そうか、小泉首相が好きと好景気をかけたのだ。値段はと見れば800円10ケ入り。聞いては見なかったが、いまの景気では売れないだろうなぁと思った。
 窓の上方に昭和43年当時の写真が飾ってあり、今の見える風景と比較できる仕掛けだ。それを見ていて、ふと思った。今と大して変わっていないのである。ビルばかりで、森などの緑が見えないのである。考えてみれば当然か。昭和43年といえば日本が高度経済成長の真っ只中だったのだから。今と比べて明らかに違ったのは、ビルの高さである。
 私が会社員になったのも、昭和45年。思えば会社の売上拡大、規模拡大によくもまぁ頑張ってきたと思った。今は確かに景気も悪く、将来の生活不安は誰にもある。しかし、地球環境と折り合いながら持続的成長・発展のために、効率・拡大一辺倒の経済市場主義でいくのが本当の豊かさをもたらすのだろうかなどと、2杯目のビールに少し酔いながら考えた。
 東京タワーに登ったのは何十年ぶり。中学生の頃の修学旅行も思い出した。ちょっと暖かい心持になった。みなさん、たまには寄り道してみませんか。(2002年2月14日)
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