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(コラム004)

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■楽しんでやる 面白がってやる
 
今日は、ひきこもりの子どもたちの社会参加のためのフリースペース『夢工房の開所一周年記念の集い』に進行役として参加してきました。ご来賓の方々のご挨拶に続き、野点を楽しみました。普段飲んでいるお茶と違い、たまにはいいものです。横ではお琴が演奏されています。そして、今度は「尻文字ゲーム」なるものを見ました。ゲームのリーダーが例えば「あ」という字を呼びかけると、舞台にあがったプレイヤーが後ろ向きにお尻をつきだし、「あ」という字を書きます。これが結構愉快で笑えます。
 そして、フィナーレはミニコンサートです。グランドピアノを弾くピアニストたちの音色に耳を傾けます。さて、いよいよ私の出番。「夢を紡ぎだす夢工房」にかけて「いつでも夢を」を二人でデュエット。この歌の出だしがなかなか難しいのです。カラオケではなんなく歌えるのが、ピアノの伴奏つきで歌うとなるとどうも勝手が違います。前日、娘の特訓を受けて臨んだのですが、出だしでつまづきながら、なんとか最後まで歌いました。
 観客から急なリクエストが飛び出しました。「真室川音頭」をやってとのこと。さてさて、この歌を知っている人はそう多くはなかったですが、少しは知っている人5人で歌いました。ピアノ伴奏をしていた娘が家に帰ってから言うことに「マグロ川音頭」だと思っていたとのこと。(笑)
 この集いはみんな手作り、一応計画らしきものは立てるが当日のその場になってみないとわかりません。だから、思いもかけないハプニングの連続で大笑いです。つくづくこれが本当の笑いだと思います。笑わそうとして笑いをとるよりも「臨機応援」「妙意即答」でやる楽しさ、意外性が面白いのです。なにかものごとをやるときに面白がってやると、まず自分で楽しむことができるし、周りの人もたのしくなるのではないかと思います。綿密な計画をたてればいいものでもありません。間違えていい、失敗を楽しむ、そんな心境に子どもたちがなれる日を信じて、また新たなスタートを切ろうと思います。(2003年4月20日)


■前置きの言葉の功罪
 
先日ある話し合いの席で前置きの言葉をよく使う人の話がでました。
私たちは人と話すときに「用件のみを伝える」ことは少なく、用件の前の話し始めのときに前置きの言葉を使うことがあります。この前置きの言葉には2種類あると思います。
 ひとつは、例えば「恐れ入りますが、その資料をお送りくださいませんか」などと依頼するときに使います。この「恐れ入りますが」がここでいう前置きの言葉になります。丁寧に頼むときに使うものでクッション言葉とも言われています。柔らかな物腰が伝わるのでこの前置きの言葉はいい人間関係を築くのに有効と思います。
 問題はもうひとつの使い方です。例えば、「変な話ですけど」といって話をする人の内容を聞いていると決して変な話ではなかったりします。また、「こんなことをいうと笑われるかも知れませんが」といって話をします。一見謙虚な風に聞こえますが、「笑っても構いませんよ」という自尊心の弱いメッセージに聞こえますし、そういいながら本当は「笑うはずがない」という傲慢の気持ちが潜んでいるようにも聞こえます。
 昔の職場で私の上司がなにかにつけて、この後者の前置き言葉を多く使い、それも、延々と手を変え品を変え使うのです。そしてなかなか本題に入らないので、先方の方の困った顔が目に浮かぶようでした。近くでその電話を聞いていると丁寧というよりも、慇懃無礼な嫌な感じがしたものです。
 相手の人と率直なコミュニケーションをとりたいと思っているときは、このような余計な前置き言葉はできるだけ使いたくないものです。そのほうが生きやすいと思いませんか。(2003年4月13日)

■映画「戦場のピアニスト」を観て
 
映画「戦場のピアニスト」を観て来ました。
監督はロマン・ポランスキー。
第二次世界大戦のポーランドで実際にあった出来事をベースにして
映画にしたもののようです。
戦争という異常な環境下の中での人間の尊厳というものを考えさせられ、また、絶望のなかにありながら生きようとする人間の生命力にも驚きました。
そして、音楽の持つ不思議な力に支えられ、生かされていくような主人公の
運命に安堵しました。敵のドイツ将校の前でピアノを弾く主人公には、
これからの不安な未来にかかずらうことなく、確かに「いまを生きている」
という時間が流れていました。そこには、現実をそのまま受け入れようとしている人間の強さがあります。殺そうと思えば簡単に殺せたドイツ将校がなぜピアニストを殺そうとしなかったのか。ここにも将校の真性を垣間見ることができます。

 映画を見終わって、私はかつて「人はなぜ音楽を聴くのか」を探り続けたことを思い出しました。このテーマは私にとっていまだ永遠の謎です。
そして、一人ひとりは音楽を楽しむ人間が、なぜ戦争というおぞましさを回避できないのか、これも私にはわからないものです。(2003年3月4日)

子どもに"不安"を教える親

 
先日、音楽教室を運営している楽器店を訪問しました。お店の方から、「ピアノを習いに来ている子どもたちが小学生4年くらいになると、やめていくケースが増えている」とのお話を聞きました。
その理由を尋ねましたら、「親が子どもを塾へ行かせるため」とのことでした。そして、「楽器店のライバルは楽器店ではなくて、学習塾なんですよ」と伺い、驚きました。
 私が切ないと思ったのは、「子ども自身がピアノを嫌いになったわけではない」ということを聞いたときでした。親の理由を想像してみます。
  ・みんながいっているから
  ・勉強させないといい学校に入れないから
  ・いい学校に入れないとこの子の将来にとって困るから
こんなところでしょうか。なぜ、"今"を楽しく精一杯好きなことに熱中していることを断つのでしょうか。なぜ、その子なりの個性、持ち味を生かそうとしないのでしょうか。なぜ、自分の子に信頼を寄せようとしないのでしょうか。なぜ親の価値観を押し付けようとするのでしょうか。
 親の不安を子どもに映すと、その子どもも 失敗を恐れる、自分を信じられないなどの心を持つようになる気がしてなりません。
親と子という上下関係あるいは強弱関係ではなく、一人の人間として接する、向き合うことが大切だと思います。そして、自分で考える、自分でするなどの自立型の人間の基礎を育むことが大切ではないでしょうか。(2003年2月16日)


■成人式騒動
テレビのニュースを見ていたら、成人式の会場で騒ぐ若者を映していた。
毎度のことで見飽きた光景であるが、ふと彼らの居場所のことが気に
なった。居場所といっても住まいということではなく、学生なのか
職業に就いているのかという居場所である。
なぜそのようなことを思ったかというと、あのように騒ぐからには、
学校で、職場で自尊、自負を発揮していないイライラがあって、
その場を離れたところで、自分なりの価値を観客(マスコミを含めて)
に確かめているのではないか。恐らく観客の視線を十分意識しての
行動ではないだろうか。それだけ、自分の存在に自信がもてず不安な
のだろう。見た目には「怖いものはない、不安なんかない」と映るで
あろうことを計算している。ではなんのためにあのような行動をするのか。
一人でもいい、自分の行動に拍手を送る人(自分を支持してくれる人)が
いることを期待してやるのではないか。ただただ自分のために。
私には、学芸会に出たくて、駄々をこねている子どもにしか見えないが。
彼らに人の自由を奪う権利はない。勝手と自由を履き違えている。
ノーベル賞の小柴さんの「やりたいことを見つけなさい」というメッセ
ージはどのように伝わるのだろうか。
それでも私は期待したい。あのような騒ぎを起こした昔が恥ずかしいと思
う時が彼らに訪れることを。(2003年1月14日)


■返事をしない人が増えている?
4年ぶりに風邪を引いてしまい、やむなく病院へ行く羽目になりました。8時半に受付を済ませ、番号は43番であった。いつものことながら、何時に終わるだろうか、2時間は覚悟しなければならないだろうと考えつつ、どうやって時間つぶしをしようか、ちょっと憂鬱な気分で待っていました。
 新聞も見終わってなにげなく、患者を呼び出す看護婦さんの言動、呼ばれた患者さんの様子を見ていました。そのときやはりというか、あらためてというか感じたことがありました。看護婦さんが"なになにさーん"と呼ぶわけですが、ほとんどの方が返事をしないのです。なかには返事をしているけれど、声が小さく廻りには聞えないこともあるかも知れません。しかし、明らかに無言で看護婦さんの方に近づき、そこで看護婦さんがもう一度"なになにさんですね"というと、はじめてそこで"はい"と言っている方が多いように感じます。
 これを見ながら、2日前に大学1年生を対象に行った「進路・就職ガイダンス」で講演したときのこととあわせて想い出していました。その講演では中心テーマを「コミュニケーションの大切さ」において、話を進めました。主旨としては、企業が求める人材の資質として重要視している能力が「コミュニケーション力」であるので、「おはよう」「おやすみ」「申し訳ありません」「ありがとうございます」などの具体例をあげて、日頃から意識して使いましょう、といったものでした。日頃学生を観察していて、「返事をしない学生」が多いなぁと思っていたこともあり、1年生の時から意識付けしたいと考えたわけです。
 「返事をしない人は若い人に多い」という印象を強くもっていた私は、この病院での様子を目の当たりにして感じたことは、もしかしたら、学生にとってのご両親なども、ひょっとしたら返事をしなくなっているのではないか、その影響で子どもたちに伝染しているのではないかと思ったことです。
 多様な価値観や暮らし方を受容していくことが共生社会の生きる知恵として大切になっている今日、人とのかかわり方の基本は、相手への思いやりであり、相手の理解を促進するような表現力などがより求められていると言えるでしょう。的確な意思表示を相手に求める前に、まず自身からコミュニケーション力を磨いていきたいものです。(2002年11月28日)

■感動していますか?
11月2日NHK手話ニュース845で著名な丸山浩路さんの講演が秩父市の横瀬町で開催された。私のお世話になっている方からのお誘いを受けて行ってきました。手話にあまり関心の無い私は、自分のこれからの活動になにか参考になればいいやという程度の考えで、出かけた。
 「上を向いて歩こう」の音楽とともにステージに登場してきた丸山さん。ちょっと変った登場のスタイルに少し唖然としていると、なんのてらいもなく、身体全体で表現をしている。この空気は何だ?と思っているうちに、「最近感動していますか、空気を動かしていますか」といい、これだけは自信があるという意味で「オンリーワンを目指せ」と畳み掛けてくる。この圧倒するようなリズム、テンポ。ああ、この人はただものではないなぁと感じました。そして、私とステージの丸山さんと橋が架かったような気がしました。
 61歳の青春、人生を思い切り楽しんでいる姿に深い感銘を受けました。笑いと感動、泣くまいと思っていても、つい涙が頬を伝わってしまう。いま、自分は本当に真剣に生きているのだろうか、もっともっと楽しく精一杯生きて行きたいと思いました。そして、決して人まねでない自分の個性を磨いて行きたい。また、他人と接する時も、その人の個性を更に伸ばせるように支えていこうと思いました。
 丸山さんは聴衆に向かって、こう叫びました。「今夜、このもみ上げの長い私が夢に出てきますよ」と。夢には出てこなかったが、朝、目覚めた時、昨日の興奮が静かに蘇ってきました。(2002年11月3日)


■子どもの可能性を信じる
 9月30日にスイス・バーゼル市で開かれた国際児童図書評議会創立50周年記念大会に出席された皇后さまのスピーチが朝日新聞に掲載された。
 このスピーチのなかで紹介された詩の一節に目が釘付けになった。それとともにこの詩をとりあげられた皇后さまの心に深い感銘を受けた。
その詩は、こんな風に始まっている。
・・・・生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に 母よ 絶望の涙を落とすな・・・・
 無垢な子どもに、お母さんの不安を投影すると、折角の可能性を秘めた子どもの成長を妨げる、だから、子どもの可能性を信じて生きようという呼びかけの詩である。

 この詩に触れながら、不登校の子どもたち、引きこもりの子どもたちのことを思った。彼らの可能性を信じて、あせらず、子どもの心のありようをありのままに見つめ、支えていく姿勢が大切だと。教育者ニイルはこんなことを言っている。「親の考えや価値観を子どもに押し付けるのは、子ども時代に対する大きな罪である」「子どもを悪くするのは道徳としつけである」。(2002年10月5日) 


■黒いウソと白いウソ

 企業の不正が後を絶たない。
数日前の新聞に、企業の不正に照らして、伊藤忠商事の社長が自社の法的遵守の規律として「白いウソ」も何らかの咎めをうけることを制度化したいと表明した。
ウソに黒いウソと白いウソがあるのかしらと思っていたとき、いま読んでいる本の中に、「黒いウソ」と「白いウソ」の言葉が記述されていたので驚いた。1925年にイギリスの教育者ニイルが発表した『問題の子ども』のなかの「第4章コウノトリの嘘」のなかに次のような言葉があった。

・・・・・ウソといっても、黒いウソもあれば白いウソもある。白いウソとはどういうものか。私にもはっきりとはわからない。意図的につくウソとはちがって、軽い気持でごまかすウソといってよいかもしれない。・・・・・

 これを見て思ったのは、どうやら「白いウソ」とは社内において、不正を働いてる当事者を黒とみなしたとき、自分をごまかして見て見ぬ振りをするあるいはしたことを言うようである。つまり、一番悪いのは不正をした人だが、それに対して本来なら組織の継続のため、毅然としていさめる行動を起こす必要のあるのにそれをやらない人も罪深いことを表したものである。誰が白いウソをつきやすいか。それは一般社員ではなく、管理職についているミドルの人たちである。管理職の立場にいるとそれらの不正のにおいに気づくことが多い。ではなぜ気づいても「白いウソ」をつくか。それは、本人に直接は言いづらい、さりとてトップに告げ口はなにかしら卑怯のような気がする。トップが承知していることであればなおさら言えない。へたに騒ぐと自分の身が危うくなるからである。
このようにして、問題が先送りされ、責任が不明確のまま、衰退に向かう企業の姿は、氷山にぶつかって沈没した「タイタニック号」に似ている。

 やはり社長になることはできても、経営するのは簡単ではない。GEの前会長であったジャック・ウェルチが経営理念にインティグリティ(「統合性」「誠実性」)という価値観を標榜し、実践してきたことを思い出す。

 これらのことは、私たちに、企業人の前に、一人の人間として、ごまかして複雑に生きるか、自分をごまかさずにシンプルに生きるかを問い掛けているのである。(2002年9月1日)


おかげさまで一年経ちました 
 みなさまの励ましのおかげで、本日の8月18日で「団塊ドットコム」も早、一年が経ちました。ホームページ・ビルダーの本を読みながら、妻と悪戦苦闘した夏休みを懐かしく思い起こしています。
 丁度、その頃、拙著「団塊の逆襲」の最終校正にも取り組んでいました。本が出来上がる前にホームページを立ち上げ、そこで宣伝しようと考えたわけです。本を書いたのも、ホームページを作ったのも、今日の情報化社会を愉快に生きていくためには、自立し、自らの責任の下、情報を発信することが大切であると思ったからでした。丁度そんな矢先、中村教授が本(『考える力 やりぬく力 私の方法』の中で言われた「人の目にとまること」の言葉が目にとまり、わが意を得たりの気持がして、励まされました。
 拙著の出版の記事も、たまたま読売新聞の記者の方が、私のホームページを見ていてくださったのがご縁でした。そのおかげで、本を出版するにはどうしたらよいかなどの問い合わせがあったり、拙著を購入していただいた方よりうれしい感想をお寄せいただきました。また、新聞記事がでたことで、知己になった方のところで、いま、ボランティアをしつつ、勉強させていただいてます。
 いまは、だめもとで、とにかくやってみることの大切さをあらためて感じているとともに、これからの社会は人との連携がますます欠かせないとの確信を強く抱いております。
 本当にみなさまの励ましでここまでやって来ることが出来ました。更新されない日が続くと温かいおしかりを頂戴するのも、申し訳ないと思うと同時に大変ありがたく思っています。どうぞ、これからも「団塊ドットコム」を宜しくお願いします。掲示板へ是非お立ち寄り下さい。感謝。(2002年8月18日)