(コラム005)
■「帰らざる河」を渡りきらないで
イラクへの自衛隊派遣が決まった。
小泉首相は「自衛隊は軍隊」という。
小泉首相は「現地はかならずしも安全ではない」という。
小泉首相は「可能性のことをいえばきりがない」という。
小泉首相は「戦争に行くのではない。復興支援に行くのだ」という。
小泉首相は断固とした意思を表明するために、簡単なフレーズで国民にあるいは世界にメッセージを送るのが多い。その点では、従来の政治家に多かったあいまいな表現を出来る限り少なくしようという意思でもあり評価できる。しかし、私はこの「歯切れのよさ」に一種の危険性を感じてしまう。危険性とは「日本の戦争への参加」である。日本人はムードに酔いしれる気質を持つ国民性である。だから小泉首相の言動は怖いのである。
大儀、正義をかざし、自らを納得させながらの外交交渉は一人合点に終わることが多いのは歴史が物語っている。「自衛隊は軍隊」の言葉にしても、イラク国民には「日本の軍隊はアメリカのそれとは違う」と解釈できる人がどれくらいいるだろうか。テロとの戦いというが、自爆をしたり、復興支援の施設などを攻撃している人が全てテロの仕業なのだろうか。イラク国民はテロとそうでないひとのふたとおりにすみ分けられているわけではないだろう。諸外国の介入を「過剰なおせっかい」と感じ、「失業のうきめにあっている」のもその介入のせいだと憤っている人も多いのではないか。
外務省の職員は無防備だから攻撃の的になったという。しかし、自衛隊は訓練を積んでいるので防御できるというのもナンセンスのこと。小泉首相は自衛隊に犠牲者が出たらどういうのだろう。「残念です。戦争に参加しているのではなくイラク国民のために復興支援に当たっている人を攻撃するとは」というのだろうか。犠牲者がでたときにどのような意思決定をするのだろうか。まさか犠牲者の数の多少によって支援の続行あるいは撤退をいまから想定しているのではないことを念じる。
小泉首相には、一人でも犠牲者が発生したら、「勇気ある撤退」を決断して欲しい。過去の過ちを繰り返してはならない。あげたこぶしは状況によってはさげなければならない。「国の威信」をかかげたまま突き進まないで欲しい。小泉首相の言動を見ていてマリリンモンロー主演の映画『帰らざる河』を思い出した。いま、日本は帰らざる河に向かって船を漕ぎ出した。日本は帰らざる河を渡りきってはならない。向こう岸につく前に、戻る柔軟性を持って欲しい。
危険にさらされた自衛官が自らを守るために相手を攻撃する可能性だってある。そのような戦場での「正当防衛」は自国の一方的見方でしかないことを理解すべきである。自衛官に犠牲者が出た場合「安全だなどと言った覚えはない」などと釈明はして欲しくないものである。
日本は二度と戦争をしないことを世界に表明し、社会科の教科書にも日本の加害者責任の情報が盛られている。決断の時には、次の時代をになう若者にどう説明するのかの視点も入れて欲しいものだ。そして、侵略や原爆の悲惨な体験をしてきた日本の使命として戦争の愚かしさを訴え、非暴力、対話による国際平和の建設に乗り出すのがわが国の理念であることを貫いて欲しい。外交においては、いまこそ、盟友ブッシュ大統領に「国連がリーダーシップを果たせるよう日本が諸外国に働きかけたい」と提案すべきだ。
これからの政治家には「見ざる」「言わざる」「聞かざる」ではなく「事実を見る」「真実を語る」「誠実に聞く」を期待する。また、情緒的にムードで動く癖のある私たち日本人は、既成事実に簡単に納得しないことを自分に言い聞かせたいものだ。
もう一度小泉首相政府に言いたい。自衛官に一人でも犠牲者がでたら勇気ある撤退をお願いしたい。いま戦争の被害を受けている人たちに、はやく平穏なときが訪れることを祈りたい。(2003年12月29日)
■「読む力」、「聴く力」を高めよう
文科省が最近、学生の学力の向上特に国語力の向上が必要だと発表した。また、『日本語練習帳』の著者である学習院大学の大野名誉教授は論理力が欠けていると指摘している。
日ごろ、学生の就職活動の支援をしている身としては、コミュニケーションの場面において自己表現力をどう高めるか模索の連続である。いま、企業側は大学生の採用に厳しい基準を設定している。特にコミュニケーション能力があるかないかの評価に重点を置いている。ここでのコミュニケーション能力とは、自分の考えを自分の言葉でわかりやすく伝える能力と言えよう。つまり、「書く力」、「話す力」である。
「書く力」、「話す力」を高める条件として、「考える力」がなければならない。よく「話が下手で」と言う人に出会うが、注意深く聞いていると、そのように話す人は、「話が下手」の原因は「話す技術」が不足していると思っているきらいがある。確かにそのようなこともある。しかし、その技術というよりも、話す内容のことを「考えていない」ために、話せないということにも気づくべきである。そして、「考える力」を育むために、「読む力」、「聴く力」を高めるトレーニングが大切である。
先日、熊谷市の吹上町のコスモスを見に行ってきた。"コスモス・アリーナふきあげ"という立派な建物が完成していた。そこで、講演会が行われるという看板に誘われて会場に入った。さて、いよいよ開演である。講演者の作家の先生が登場した。それを見て、あれっ!と思った。先生の名前は北村薫さんというミステリー作家の先生である。このとき、私の勘違いにはっきり気づいた。高村と北村を勘違いしていたのである(北村先生失礼!)。看板の名前を見た時になにか変だとは思っていたのだが・・・。 講演のなかで、北村先生は「読書は我慢する力を育てる」とお話なさっていたことがとても印象的で共感した。
学生に限らず私たち大人も、時にはちょっと我慢して、集中して、本をじっくり読んだり、人の話に耳を傾けることがとても大切だ。自分の知的好奇心を満足させるために、人から学ぶという姿勢である。それらの体験を通じて心の中にどんな感情が沸き立つか静かに見つめてみよう。そして自分で考えたことを人にわかりやすく伝える能力--自己表現力--を磨き続けたいものだ。人との楽しいつながりを持つために。(2003年11月9日)
■心豊かな人 心貧しき人
最近、農作物の盗難事件が後を絶たない。
農家の人が、せっせと丹精をこめて育ててきた米、りんご ぶどう ナシ 栗をごっそりと盗む手口である。
私がこれらの事件の報道を見て、最初に感じたのは、誰がどのような目的でこのようなことをするのだろうかと思ったことである。犯人はたったひとりで実行するのもあるだろうし、規模から見て、グループでの犯行と思われるものもある。目的は、食べるものがなく空腹に耐えかねてというものではなさそうである。多くは、盗難品を売りさばくことでお金を得ることが目的のようである。
ある日、栗の盗難に合った農家を取材したテレビ報道を見た。
そこでは、納屋から出荷のために準備されていた栗があった場所を示している家族がカメラに映されていた。
そして、60代後半と思われる奥さんがカメラの前で「とても残念です」と答えていた。私は、奥さんの「とても残念です」という言葉にハットし、ズシンと心に響いた。そしてあらためて奥さんの顔を眺めれば、その表情は悔しいというより、とても憂いを残した淡々とした表情であった。当然ながら悔しいことに違いないのに「残念です」と言った。この言葉を発した心に感動したのである。自分が物を盗られた悔しさよりも、丹精込めた農作物を盗むという犯人の心根の貧しさを「残念です」で表したもののにように聞こえた。
この奥さんは「心豊かな暮らし」を生きる軸にしてきたのではないか。それに引き換え、うまく盗めたと笑っている犯人の「心の貧しさ」が際立つ思いだ。
これら一連の犯人はものの豊かさを追い掛け回している「心貧しき人」たちである。この人たちはこれからどのような人生を送っていくのだろうか。人間は、自分の一生をどう生きていくか。結局、人の生き方は、自分の意思で自分で決めていくのだなと改めて思った。
今回の栗盗難事件が起きている背景には日本人の経済優先主義、ものの豊かさを貪欲に求めつづける姿勢があるように思う。いま、そのひずみがあちこちに出ているようだ。
総選挙を前にして、与党も野党も「強い日本」を再建しようと国民に呼びかけている。「強い」とはなにを指し示しているのか。この強いには、「経済に強い日本」というイメージが浮かんでくる。さらに、この「強さ」は他国に対して、軍事力をちらつかせる交渉へと導かれる危険性を含む。原爆の悲劇を体験している日本が戦争をしかけない「強さ」を持って欲しいと願わずにいられない。
日本人の、私たちひとり一人の、「心のありよう」が求められている時代と言えよう。(2003年10月13日)
■「潔さ」を考える
巨人軍の原監督が9月26日辞任した。この辞任に驚きを感ずるとともに興味を持った。
3年契約で長嶋監督から引き継いだ原監督は、いきなりセリーグ優勝、そして日本シリーズで見事優勝という実績を残した。しかし、今期の成績不振を理由に辞任に追い込まれた。
「ふがいない成績で巨人の威厳、権威を傷つけるので」と辞任理由を語った。私が興味を持ったのはこの言葉でである。責任を感じているのは確かだろうが、自らの素直な判断で辞任を決意したようには思われない。その言葉はあなたの本心ですか?と問いかけたい。長嶋監督が「身を持って行動したことにすがすがしさを感じる」と語ったという。私は表情からしてもとても「すがすがしさ」は感じられなかった。
もう一人ダイエーの王監督が記者にコメントを求められて「潔すぎる決断」と語ったと新聞にあった。私はこの言葉に共感した。私が驚きを感じたのもまさしく「潔すぎる」と思ったからだ。この言葉は「カッコつける」と似通った意味が含まれる。
この「潔さ」という言葉を聞いて、山本周五郎の『樅ノ木は残った』を思い出した。伊達62万石崩壊の危機に直面した原田甲斐は崩壊を企む者の戦略に引っかからないよう周到な対応を考えていた。しかし、若い家臣たちは、目の前に起きている事件に過敏に反応し、「武士道の潔さ」を守ることに重きを置き、命を落としていくのである。原田は潔く命をかけることのおろかさを解くが、理解されず、結局はその人間の宿命とあきらめるのである。
原監督の強みはいろいろあろうが、選手とコーチとの信頼関係を大切にするためのコミュニケーション能力にあったのではないか。それが常勝巨人の基盤を固める原動力になる可能性があったのではないか。勝ったときも、負けたときも、「信頼の絆」を大切にしていたようなコメントや表情が多かったように思う。
原監督が本当に巨人の将来を憂慮するならば、信にもとらず戦う道はあったのではないか。球界のためにも戦って欲しかった。
オーナーや経営陣が今回の辞任劇を「巨人魂のリレー」と思っているならば、巨人軍の将来は危ないのではないか。つまり、説明責任を果たさないままの監督の首のすげ替えは「強い巨人」から「弱い巨人」への行軍へアクセルを踏み出すようなものだ。阪神ファンとしては、宿敵巨人が弱くなっていくのは本来喜ぶべきことかも知れないが、そのような気分になれない。強い巨人に勝つことが阪神の真骨頂、使命だと思うからである。
さて、全国の巨人ファンのみなさま、私の見解についてぜひご意見を賜りたい。 (2003年9月27日)
■疲れているお父さんをいやしてあげよう
国が「仕事」と「生活」に関する調査を8月25日と8月30日に相次いで発表した。
「仕事」に関しては、厚生労働省が昨年実施した「労働者健康状況調査」(8月25日発表)である。それによると、
・「仕事で身体の疲れる」人は72%で過去最高となった。
・「仕事で強い不安、悩み、ストレスがある」人は61%と以前高い水準である。
具体的な内容としては、「職場の人間関係の問題」がトップ、次いで「仕事の量
の問題」となっている。
・不安、悩み、ストレスについて相談できる人として「家族・友人」がトップになって
いる。ただ、男女別に見ると、男が女に比べて12ポイントも下回っている。
また、「相談できる人がいない」が男は女の2倍も高い。
「生活」に関しては、内閣府が8月30日に発表した「国民生活に関する世論調査の速報が
ある。それによると、
・日常生活で悩みや不安を「感じている」人は67%で過去最高になった模様。3人
に2人が悩みや不安を感じている。悩みや不安の内容は「老後の生活設計」が
最も多い。
さて、そこでとても疲れているお父さんを家族のみなさんでいやしてあげる工夫を考えてみた。お父さん(男)は概して、自己表現が下手だと思う。会社でのストレスを一人で抱え込みがちだ。今回の調査でも、女が家族や友人に相談する度合いが高いのに男は低い結果がでていることでも明らかである。
家庭内の妻や子どもたちにとって、疲れて暗い気持ちで食事をしたりする夫やお父さんを見るのは結構しんどいものがある。大変だろうけれども、人に頼るのをよしとしないと思っているお父さんもいるので、そこはひとつ夫・お父さんの元気を回復する手立てを考えてほしい。思いつくまま以下の工夫を考えてみた。
工夫その1・・・お父さんが帰宅したら「お帰りなさい」に付け加えて「今日は蒸し暑かったね」と一言添える。
工夫その2・・・晩酌をするお父さんであれば、「はい、お疲れ様」と最初の一杯だけお酌をしてあげる。
工夫その3・・・ご飯が終わり、お茶タイムになったとき、「いま、どんな仕事で疲れている?」と聞いてみる。
工夫その4・・・有給休暇の消化具合を聞いて、休暇をとることをすすめてみる。そして、「今度あそこに連れて行って」と頼んでみる。
工夫その5・・・「お父さん、疲れたときに聞いてみたい曲ない?」「お父さん、疲れをとるおすすめのCDない?みんなで聴こうよ」と声をかけてみる。
疲れているのはお父さんだけではないとの声が聞こえてきそうだけど、一度試してみてはどうだろうか。「情けは人のためならず」。もしかしたら、お父さんもハットして、家族への感謝と支えられている喜びを感じ、思いがけなく元気を回復するやも知れぬ。
(2003年9月7日)
■コラム「ただ生きていて欲しい」
7月24日警察庁は昨年1年間で自殺した人が3万2143人で前年より1101人増え、5年連続で3万人を超えたことを発表した。 この報道を目にして、「また今年も3万人を超えたのか」という悲しい気持ちにさせられた。そして、私は、この報道について、自分のホームページで何かを伝えたい、しかし、何が伝えられるというのかという自問になかなか行動が伴わず、日にちが過ぎるばかりであった。
本(『団塊の逆襲』)を出版したとき、そのなかで「2年続いて自殺者が3万人を超えている」と書いた。あれから、3年続いて3万人、その間、国としても自殺者の数の削減に取り組んできたが、その成果は見られない。そしてとうとう5年も続いて3万人突破という悲劇が続いている。この連続性にただ驚きとむなしさとそして無力感がホームページのコラムに書くことをためらわせていた。
しかし、思いあぐねていてはなにも始まらないと考え、また、ちっぽけな私のホームページではあるけれど、誰かがこのページを見て、たった一人でもいい、自殺を思い留まることのきっかけになればと考え、メッセージを発信したいと思った。
昨年の自殺原因のトップは「健康問題」次が「経済・生活問題」「家庭問題」のようである。「経済・生活問題」の内訳は、負債、生活苦、失業の三つであるという。
年代別では60歳以上がトップで、次に50歳代である。私と同じ50歳代、リストラなどによる失業なども自殺の引き金になっているのだろう。ああ切ない。
親を亡くした自殺遺児たちは、「あのときお父さんとお風呂に入っていれば」とか、また連れ合いは「もう少し話を聞いてあげればよかった」と後悔とともに自分を責め、そこから脱却できずにとても苦しい日々を過ごしている。遺児や連れ合いの心のなかは「ただただ生きていて欲しかった」という思いではなかろうか。自らの意思で限りある命をリセットしても、残された身内の人々の心の中には、「死」はずっと生き続けているし、それと向き合って生きていかなければならない。
自殺が頭をよぎるときは、切羽詰った状況のなかではあるに違いないが「ふと思い留まる瞬間」に遭遇する、あるいは見つけることは困難であろうか。そんなことを考えていて、二つのことを思い出した。
その一つは、「ことわざ」である。日本には昔から言い伝えられていることわざがあることを思い出した。このことわざをいくつか紹介したい。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」・・・もうだめだと思うときは、命を捨てるつもりで
物事に当たれば、かえってうまくいくこともある。ここはじたばたせず、自然に身を任せてみようというある種の開き直りの心持ちをいう。創拓社出版の『似た言葉 使い分け辞典』のなかに「捨てる」という言葉の説明があった。それは「不用の物として投げ出す」という意味のほかに「物事に対する執着をなくする」という意味もあるという。
「人間万事塞翁が馬」・・・世の中のことは先々何が幸いするかわからない。
「禍福は糾える縄の如し」(かふくはあざなえるなわのごとし)・・・不幸と幸せはより合わせた縄のように、交互にくるもの、表裏一体のものである。
もう一つは、「考え方・思考」である。社会心理学者である相川充(あつし)教授は、悲しみに遭遇したときにその悲しみの正体を見直してみることをすすめている。具体的には、ある人が「出来事」にあう、そして「感情」が起きる。いわば「出来事」が原因でそれによって引き起こされた「感情」が結果という図式である。しかし、この出来事は動かしがたい事実であって変えられるわけではない。実は「感情」を引き起こす原因は「思考」、考え方にあると説く。つまり、「出来事」→「思考」→「感情」という図式である。
私たちはしばしばこの真ん中の「思考」を忘れがちになる。この「思考」はその人の考え方の癖であり、信念である。しかし、信念は客観的に見れば思い込みという側面もある。「なになにすべきである」とか「なになにせねばならない」という思い込みがあるということである。信念と思っていることを、一度疑って見ることも、違った見方をする上で大切なことである。いつのまにか「世間の常識」で自身を縛っていないか、静かに内省してみるのである。「思考」のカードを一枚ではなしに、複数持ちたいものだ。
いま、失望から絶望の淵を眺めている人に、私はこう言いたい。「人間生きているだけで価値がある」「ただただ生きていて欲しい」と。(2003年8月10日)
■目立つ「驕れる政治家」
政治家は昔より先生と奉られ、権力の象徴とされてきた。それゆえ、自らの信念と実際の行動とが合わない政治家は昔から存在した。
しかし、最近の政治家の驕りぶりはどうだ、目に余る言動が多すぎる。
早稲田の学生のレイプ事件に触れ、「それぐらいの元気が・・・」どうのこうのの発言。そしてまた、長崎市幼児殺害事件に触れ、加害者の親に対しての「市中引き回し」発言。一方の側に立ってまるで魔女狩りを先頭に立ってやっているみたいだ。
正義を振りかざすがごとくのこの発言は、評論家ならいざしらず、政治家としてはその責任の重さを認識していないといわざるを得ない。言動のあまりの軽さにただただ驚くばかりだ。さらに、日本の中国侵略での虐殺事件がなかったかのような発言。これは、発言後にどう言い訳をしても、心の奥底の考えからの発言ゆえ、発言後の対応はどういいつくろってもお茶を濁すことになっているのをわれわれは見抜いている。このことは、靖国問題を取り上げるまでもなく、何年も何回も相変わらず繰り返される。この光景を見るにつけ、海外とりわけアジアの国々からはアジア同胞としての連帯感の薄さ、あやうさを感じている。つまり「二枚舌の日本人」だ。
小泉総理の誕生以来、総理自身のマスメディアを意識したパフォーマンスが影響しているように思う。簡単に言い切ったような発言が信念を印象付けるうえで効果的だと計算しているのだろうか。選挙を意識して、後援会を意識しての利得計算が働いているのかも知れない。それらの政治家にいいたい。「その発言の動機は善なりや」と。
信頼できない政治家、尊敬できない政治家、政治家の通信簿は選挙結果だ。
政治家から愚弄されていることを感じたら選挙で態度を表明しなくてはならない。
投票にいかないのは、「問題ある政治家に対しての消極的賛成派」といって差し支えないだろう。
国民を愚弄していると思っても自らの意思を表明しない(投票にいかない、意見を伝えないなど)のは、積極的に社会参加していないことである。そういう状況が続くと、ますます変な自信が政治家について、驕り高ぶる政治家を増やすことになる。国の政治・社会を変える原動力はわたしたちひとり一人にかかっている。
それにしても、気骨ある政治家が少ないと感じる今日この頃である。(2003年7月27日)
■体験した者でなければわからない。
先日のNHKの番組で妻や子どもをなくした人のこころのありようがどのように変化していくのかに焦点をあてた放送がありました。愛する人を失って残されたわが身を振り返るとき、後悔に似た感情がわきあがり自責の念にとらわれ、無気力のどん底を味わう。しかし、人間としての生きる力が時間の経過や周りの人とのコミュニケーションを通じて、やがて自己を許し、亡くなった人も生きていたときは、それなりに人生を精一杯生きていたのだと思えるようになったというものです。
この放送の中で「この悲しみや苦しみは体験した者でなければ他人にはわからない」という言葉が印象に残りました。私にとって、この言葉はたびたび聞かされる言葉であることを思い出したのです。
私はこの言葉を聞くときにふたつの気持ちが思い浮かびます。一つは、「それはそのとおりであろう」とその体験者に素直に共感をする気持ちです。もう一つは、その気持ちとは相対するということではありませんが、「この悲しみや苦しみは体験した者でなければ他人にはわからない」という言葉を聞かされる側の人にとっては、その言葉を前にしたとたん、立ちすくみ、何の言葉も発してはまずいだろうという気分にさせられるのです。
体験者がいまだ悲しみの渦中にいるときは、前者の気持ちのままでいられます。しかし、ある程度時間が経過し、体験者の人も次なる段階へ手探りで進もうとしているとき、あるいはすでに過去のものとししているときに、「この悲しみや苦しみは体験した者でなければ他人にはわからない」という言葉を言われると、なにか考えるヒントみたいなものをプレゼントしたいと思っていても言葉を呑みこんでしまうのです。なにか突き放された感じを持つのです。そして、確かに体験者ではないけれども、「だからこそ」の考え方も体験者の人に受け止めて欲しいと願ったりするのです。こう願うのは、その人のためといいつつ、それはその人のためでもなく、自分のための自己満足のしろものなのでしょうか。私はそうは思いません。
さて、私もこれからさきいつか悲しい出来事に遭遇したときに、その言葉を発すまいと思っていても同じ言葉を発するのでしょうか。自信はありませんが、できるだけ発しないようにしたいものだといまは思うのです。(2003年6月14日)
■人が育つということ
いま、NHKテレビでは月1回NHKスペシャルとして「こども輝け命」というテーマで放映されている番組があります。子どもたちの生きる力、愛する心、命の輝きに光を当てた記録物です。5月11日は「こども輝け命第3集・涙と笑いのハッピークラス」でした。その録画ビデオを5月17日に見ました。私のモットーは「ハッピーに生きる」なのでどんな内容だろうかとワクワクしながら再生ボタンを押しました。
登場するのは金沢市にある東小立野(こだつの)小学校の4年1組の生徒と金森先生との授業を1年間記録したものでした。金森先生は生徒に言います。「この教室に来るのはハッピーになるためだ」「人との心のつながりを大切にしよう」。さらに「人生は1回しかない。だから楽しくやろう」と。勉強ができるとかできないとかいうよりも大切なのは「人の心」だと諭しています。
先生の教え方は、一方通行のそれではありません。子どもに考えさせる、子どもの気付きを待つ、子どもに自分の力で行動を起こさせるものです。これは「答えはあなたの心の中にある」を原則とするコーチングに通ずるものです。先生は「0Kなら0Kと言って」と自分の考えを表明することを促しています。
ある日、このクラスに一つの事件が起こりました。おしゃべりをしていた一人の生徒を先生がしかりつけました。いつもおしゃべりが多くて日頃先生に注意されていた生徒でした。その生徒に今日の筏遊びに参加させないという罰を与えました。その厳しい罰に当人はもとより、他の生徒もみんな当惑しています。沈黙が流れた後、突然一人の生徒が意を決したように、先生に敢然と抗議したのです。
その生徒の言い分はこうです。先生の判断を一応認めつつ、「おしゃべりしていたことと筏でみんなで遊ぶこととは関係ないという考え方もある」「だから自分たちの仲間であるその生徒を参加させて欲しい」というものです。私はこれを見ていて「すごい、この子はものごとの道理や本質を見る目を持っている」「心のつながりの大切さを理解している」と思ったのでした。。この大人顔負けの論理と勇気に感動したのです。さあ先生は堪えるだろうなぁと思ってみていました。やはり、先生はこの申し出た生徒の勇気を誉めたのです。そして参加を認めました。結果的に罰を免れた生徒にも「心のつながりの大切さ」を教えたのです。先生はあとで「あれは並みの大人でもなかなかできないことです」「私の完敗です」と言いました。そのときの先生の表情は教師冥利に尽きる感がし、私は強く胸を打たれました。
自立心・自尊心・自負心を育まれた生徒は、これから先、いろいろな障害にぶつかったりしてもきっと自らの力で乗り切って行けるだろうと思うと、涙があふれて止まりませんでした。人を信じ合う信頼の絆が周りにハッピーの空気を送るのだと思います。
この子たちの未来に幸あれ!(2003年5月18日)
■平易なことばで書く 言う
4月25日国立国語研究所は外来語の分かりやすい言い換えとして62語について最終案を発表しました。それでその中で私が比較的よく使っている外来語を数えてみました。
その結果、次の言葉が挙がりました。
アウトソーシング インキュベーション インターンシップ インタラクティブ オンデマンド キャピタルゲイン コンセンサス コンテンツ スケールメリット タイムラグ インサイダー シンクタンク デリバリー フレックスタイム ポジティブ メンタルヘルス モチベーション アクセス ガイドライン シェア プレゼンテーション ライフサイクル リニューアル インパクト など24語。
以前勤めていた会社の社内で使っていたものを含んではいますが、自分ながら結構使っているなぁというのが実感でした。ただ、プレゼンテーション(発表)やライフサイクル(生涯過程)なんかはかっこ内の日本語では今後も使わないような気がします。みなさんはいかがですか。
英語の言葉で必ず私が思い起こす言葉があります。今回は挙げられていなかったのですが、「プライオリティー」という言葉です。この言葉は以前勤務していた会社で頻繁に使っている管理職(当時40歳代)の人がいました。私は当時初めての本社勤務で会議の度にこの言葉を数ヶ月間に何回も聞かされることとなりました。営業現場の長い私の職場経験で一度も使ったことがないし、聞いたこともありませんでした。私はこの日本語訳である「優先する事柄」という意味であることを職場の他の人に聞いて解かった次第です。そのとき、率直に感じましたのは、"どうして分かりやすい日本語で言わないのだろう""なにを気取っているのだろう"と思ったものです。私は意地でも英語は使わず"優先順序はこれこれ"というように話していました。
英語に限らず、難しい言葉や漢字はできるだけ避けたほうがよさそうです。何かの集まりではそのメンバー(ここでも
)に合わした言葉を使うことがいいコミュニケーション(時には意思疎通としても使う)を取れそうな気がします。うーん難しいですね。
まぁあまり難しい言葉特にカタカナ語を頻繁に使うと、威張っているように聞こえますのでご用心ご用心。(2003年4月29日)