コラム 過去ログ
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(コラム007)
コラム
■風邪をひいて
 風邪をひいてから、今日でなんと15日目に突入した。病院へは三回も診察と薬をもらいにいった。仕事も三日連続の休みをとる羽目になった。物覚えついて人生五十年、こんな体験は初めてである。少しは快復しているので昨日から暫くぶりに晩酌をした。その晩酌であるが、兎に角効くのである。ある程度予想はしていたが、これほど効くとは思わなかった。つまり、いつもの日本酒だと二合で少し物足りない感じがするのだが、やっと飲む感じで、それも焼酎を飲んだようにすぐ効くのである。体内に暫く酒を入れていないと内臓の適応力が鈍るのであろう。
 今回の風邪の特徴はなんといっても、咳がひどいことである。それも、日中よりも寝た後で、二時間ごとくらいに咳き込む。仰向けになって咳き込むのは胸が張り裂けそうに痛く、喉が絞り込むように痛くなる。そこで、妻が考案した。寝るときに布団の中に座椅子を持ち込み、それに寄りかかりながら眠りにつくのである。途中で咳が出ても、かなり楽で、出なければその状態でだんだんずり落ちながら眠りにつけるのでいい。安心という暗示の効果があるのかも知れない。
 さて、病院へ診察にいったときの観察を披露しよう。
初日、8時30分の受付に間に合わず9時3分に受付けてもらった。受付け表を診察室前のカウンターに持っていく。受付の係りから10時過ぎからの診察の順番であることが記載された受付け表をもらう。そして係りの女性が「10時過ぎからですが、場合によってはそれよりも早まる場合があるのでロビーで待つように」と説明を受けた。
 新聞を見たりしながら待つこと一時間あまり、時計を見ると10時20分。係りの女性にいつ頃になるかと尋ねると、ちょっと後ろに引っ込んでからでてきて、わからないとのこと。わからないという返事に多少ムッとしたが待つことに。それから暫く待つ。そして時計は10時50分になる。今度は受付ではない男性の方に聞いてみる。そしたら、ちょっと調べたらしくあと3番目になるとの返事。結局、診察を受けたのは11時10分であった。そして診察時間は3分であった。予約患者でないので遅くなることは覚悟していたが、あまりにも時間がかかるのには閉口した。わたしだけがせっかちなのかと思いもしたが、どうやらそうでもないらしい。次々とまだかと尋ねているのである。
 人間待つことはできるのだが、一番待ちきれないと感じるのは情報が提供されないので待つまでの覚悟というかそれができないのでイライライするのだと思う。以前、他の病院の診察を受けたときのシステム、対応の素晴らしさに感動したことがある。まず、自分の待ち時間が待つべき部屋の前に提示されているのである。これは安心であった。一つのシステムが機能していると思った。顧客満足度を意識して経営されているのである。
 二回目からは慣れたので、診察券を出してからいったん自宅に戻ってころあいを計って待機した。さて、血圧測定である。測る準備をしながら看護婦さんに風邪の直りが遅いことを話してみた。そしたら、その看護婦さん「ええ。年とると直りにくくなるんです」というじゃない。確かに今年58歳だから年なんだけど、ズバットいわれるとなんだかいい気持ちしない。それも、私の顔もみないでいうもんだから、「当たり前でしょう。顔なんか見なくてもあんたが歳だっていうのはわかりますからね」と念押しさた気分になるからなおさらショックなのだ。まあいっか。その看護婦さんも間違いなく私より年上のたぶん64歳はいっているだろうから。と一人つぶやいてみる。やはり、いくら年とっても、異性と言葉を交わすときは気をつけたいものだ。
 さて、血圧測定が済んで先生の診察。最初の申し送り事項で4日間の薬が効かないときは少し強めの薬を出すこととなっていたので、それをいただくこととなった。相変わらず熱は平熱なので、インフルエンザではなさそうなので少し安心した。ただ、これで効かないときは精密検査といわれで不安がよぎる。
 そしてとうとう三回目の診察。レントゲンをとってこいといわれた。そうか精密検査というから心配していたがレントゲンのことだったのだ。だったら、精密検査なんていわないでレントゲンといってくれれば患者としては少し安心するのにと思った。
 レントゲン室に入る。男性技師から上着のセーターとボタンのついたシャツを脱ぐように指示があった。下着のシャツはいいらしい。胸を映す機械に進み出ると、技師が「あっ背中のホカロンは外しましょう」「取りましょう」といって取ってくれた。やさしい人だな、受付けの係りの人もこのような配慮ができるといいのになぁと思いつつ終わった。
さて、シャツを着る段になって、ホカロンを貼り付けようにも手が届かない。一瞬、取ってくれた技師につけてもらおうかと考えたが、結局躊躇し、断念した。いってみたら面白かったのにという思いを隠しながら。 今回感じたのは病院はサービス業だから、もう少しお客様の気持ちに配慮した対応や仕事の進め方をシステム化するべきではないかと思った次第である。待っている間、テレビを観れるとか、インターネットができるとかのサービスがあれば退屈しないのだが。それと、待合室で新聞を読むときは、新聞の下部は触らないほうが良さそうだ。私が読みたい新聞を読んでいる年寄りがいた。なんと一ページずつ指に唾を付けてめくっていたのであった。(2006年2月9日)


■模型飛行機づくり

 元旦に模型飛行機づくりに挑戦した。正月の休みに飛ばしてみようと年末に買っておいたのだ。普段、利用しない模型玩具店に行き、B級競技機ライトプレーン中級者向き600円のものを買い求めた。模型玩具店に入るときは、気恥ずかしさもあり、ちょっとドキドキした。さて、模型飛行機はいま、いくら位なのか、種類は昔と違っているのかなどと思いつつ、眺めてみると種類も二種類しかなく、数も三つしかなかった。選ぶも何も他に500円のものがあっただけなので、100円の差がわからないまま、よりましなものと思い、600円のものにした。
 模型飛行機をつくりたいと前から思っていたのだが、機会もなく、その感情は半ば頭の隅に眠ったままだった。ところが、昨年、昭和三十三年頃の東京下町を題材にした映画『ALLWAYS三丁目の夕日』を観ていたら、模型飛行機を手にした少年が登場したのである。その映画を観ながら、模型飛行機をつくりたいと思っていたことを思い出したのである。それで正月に作って、飛ばそうと計画したわけである。
 さて、この模型づくりは家族、とりわけ子どもに父が小さいとき遊んだことを伝えておきたかったこともあり、妻と子どもと三人で作製にとりかかった。まず、部品と図面の照合から始めた。最初に竹ヒゴを曲げなければならないのだが、竹ヒゴをお湯に浸して、手でしごいて曲げろと説明してある。あれっ、そうだったかな、忘れたのかなと思いながらも、やってみる。ところが、これがなかなか図面のようなカーブにならないのである。ちょっと力を入れると、竹ヒゴが少しはじけて、完全に折れそうになった。危ない危ない。自分より娘のほうがむしろうまい。やっているうちに、昔は、ローソクの火に近づけて曲げたことを思い出したが、いまさら変えてやってみる勇気はない。なにせ、約50年ぶりの挑戦であるからと変に納得させながらなんとか曲げの作業は終わった。
 さて、次は竹ヒゴをニューム管でつなぐ作業だ。これがなかなか難しい。こんな作業、昔のものにあったかどうか覚えていない。結局、これも妻にやってもらう羽目になった。ああ、情けない。さすが昔とった杵柄と言わせたかったのに面目なしである。そして難関は主翼を角度をつけて跳ね上げるために、つなぎ目のニューム管のところで、竹ヒゴを折る工程である。説明には角度をつけると書いてあるが折れとは書いてないのでとても不安だ。しかし、そうしないと角度はつかないのでこわごわ折ってなんとか角度はつけた。そして、車輪、ゴムひもかけと進み、最後は翼への大事な紙の貼り付けである。慎重に紙を図面どおりに切って、のり付けの前に一応、翼にあててみた。なんと、寸法が違うのである。つまり、図面どおりに翼の竹ヒゴが曲がっていないのだから合うわけがない。あせったが、なんとかごまかして貼り付けることができ、完成である。取り掛かってから三時間半が経過していた。ああシンド。乾燥させて明日飛ばすことにした。もう、思いは少なくとも一分間は飛んでいるシーンが浮かんでくる。
 さて、翌日、天気はよし、風はなしで絶好のコンデションだ。車の前で写真に撮っておく。娘曰く「取っておかないと壊れたら写真に映せない」。家族三人で車に乗り込み、空き地に着いた。まず、試し飛行である。何回か微調整し、いざ本番。ゴムを巻くのに結構力が必要で、なおかつ巻き過ぎると切れるので神経を使う。空に向って離す。なんとか二十メートルくらいは滑空した。まずまずだ。家族にはビデオ撮影を頼む。しかし、飛んでいる時間がイメージよりも早く終わってしまい、空に向って押し出す勢いと角度によっては、キリモミ状態になり、頭からドスンと落下する始末。そのうちにゴムの巻き過ぎのせいか、ゴムが切れた。それもなんとか補修し、何回かやっているうちに少しは飛ばし方も上手くなったようだ。滑空時間も一分とはいかなかったが、まあ満足満足。童心に帰れた一日であった。(2006年1月3日



■未来ある逸材を潰すな

フィギュアスケートのグランプリファイナルで浅田真央選手が優勝した。ランクとしていわば横綱格のスルツカヤ選手の得点を大きく引き離しての優勝は快挙である。中学3年生のかわいらしさ、高い技術レベル、物怖じしない態度に国民の多くが拍手喝さいしたことだろう。私も、凄いことだと画面に向かって拍手した一人である。女子スポーツ界でゴルフの宮里選手への人気に続く勢いである。この人気は、いま毎日スケーティングの厳しい練習に明け暮れている小中高生に、勇気と希望を与えたことは間違いない。
 そこで、連日テレビ、ラジオ、新聞などのマスコミ各社、司会者がこぞって「優勝した人がどうしてオリンピックに出られないのか」「彼女が出ないオリンピックで金メダルをとっても、その価値はどうか」など、過剰な興奮状態で発言している。テレビのインタビュアーは、無理矢理に出場についての彼女の声を意図的に引き出そうと質問を浴びせかける。これは、本人の気持ちと言うよりも、視聴者という向こう受けを意識した独善的な向き合い方だ。同じように、12月20日付けの朝日新聞では、「トリノで見たい」というタイトルで社説にまで登場している。この一連の騒動はおかしくはないか。15歳の少女の気持ちに寄り添うと言う配慮が感じられない。今風の流行り言葉で言えば「美しくない」のだ。
 国際スケート連盟がオリンピックの出場資格として「16歳未満はダメ」と規定しているのである。17日に同連盟のチンクアンタ会長は、特別措置は適用しないと明言している。それに呼応するように、日本スケート連盟は「連盟として、国際スケート連盟に働きかけることはしない」との見解をだした。その後、日本スケート連盟の松本専務理事は「世間の方がこれだけ関心を寄せている問題を、このまま放置するわけにはかない」として、早速、連盟の協議に入るとのコメントを出した。これには驚いた。インタビュアーとなんら変わりはない。人気取りだけのものである。「世間の反響」という言葉を使いながら、本人に掛かる重圧の重さに思いをはせることはない。
 日本スケート連盟が国際スケート連盟に交渉し、トリノのオリンピックに出たとしよう。しかし、ここにきて、にわかに出場期待へのニュースが日に日に高まっている。仮に金メダルを獲得できたとしよう。日本を始めとして世界からの賞賛は、彼女の予想をはるかに越えたものになるだろう。運悪くメダルに届かないときは、どうなるのだろう。彼女に対しての誹謗、中傷が跋扈することはないだろうか。もし、そのような事態になったとき彼女の心の痛みはいかほどであろうか。このような想像を持って、対応することが大人の責任ではなかろうか。そして、どうにもならないルールというものが世の中にはあること、そのお陰で秩序が保たれていることなどを、彼女に限らず、多くの小中高生に教える絶好の機会になることを望むのである。トリノの次を狙おう真央ちゃん。(2005年12月21日)



■ボケ予防の「10の習慣」

 認知症に詳しい湘南長寿園病院のフレディ松川さんは、著書『今日からできるボケないための7つの習慣』で、次のことを挙げている。「散歩を日課にする」「日記をつける」「恋愛をする」「料理を作る」「旅行の計画を立てる」「社交ダンスをする」「囲碁・将棋・マージャンをする」の七つである。このなかで、「散歩を日課にする」「料理を作る」のは私にもやれるかも。この二つのほかに自分で考えた「8つの習慣」を生活の中に取り入れようと思う。
(1)ゴルフ・・・今度、妻も始めるので楽しみである。(2)温泉・・・車のなかにいつも温泉道具がはいっている。(3)ホームページ・・・こまめに更新する。(4)交流・・・職場以外の交流を持つ。(5)仕事・・・誰かに役立つ仕事をする。(6)デジカメ・・・腕を上げる。(7)花・・・花を育てる。(8)株式投資・・・新聞をよく読み資産を増やす。
さあ、これでボケるひまは無いぞ。五十代から始めるとかなりの効果が期待出来るらしい。
 一人暮らしの高齢者が一日中テレビを観ているのは健康にもよくないし、脳を刺激することもないので、肉体的精神的にも不健康である。これから、高齢化に伴い、このような老人を増やさないための地域の社会的なシステムの構築が待たれる。将来的に「老人よ書を捨て、街へ出でよ」なんて標語がはやらなければいいが。
 いずれにしても、周りに感謝し、知的好奇心を持ち、くよくよせず、プラス思考で、まあまあのゆとりの気持ちを持って過ごしたいものである。(2005年12月19日)


■エンデに会いに
 ミヒヤエル・エンデの資料館を11月4日秋晴れのなか、訪ねてきた。エンデの名作『モモ』を読んで以来、エンデその人に興味が湧いてきていたとき、セミナーでこの資料館の存在を知り、いてもたってもいられず車を飛ばした。場所は信濃町インターから約20分の黒姫高原のスキー場にある「黒姫童話館」。紅葉をみながら、山道を上がるとようやく着いた。駐車場に車を止めて、無料の送迎バスに乗る。バスに乗り込んだのは私たち夫婦のみ。さて、バスを降りるときに、車の中にデジカメを置いてきたことに気づいた。走って取りに戻ろうというと、バスの運転手さんが「いいですよ、また、もう一度戻ってきましょう」とおっしゃるではないか。それに甘えることにした。乗ってから3分くらいの近さであるが、おだやかというか、のんびりというか恐縮するとともに、運転手さんにモモを感じた。きっと、秋晴れの景色のすばらしさとそれにマッチした童話館のつくりやエンデに会いに行くという気分もあったからかも知れない。
 そうそう、入場券はおとな600円なのだが、途中の道の駅で野沢菜などを買って、行きかたを聞いたら、100円割引券があるという。ありがたく頂戴した。
 童話館のエントランスは白樺の木を使った動物たちの工作物が歓迎してくれる。いよいよエンデの資料館だ。入り口に飾ってあるのは『モモ』に登場した亀のカシオペイアだ。年表があった。落第になったときの通信簿や写真が飾られていた。エンデが影響受けた人物として「二人の父」というタイトルで写真があった。一人は画家であった父てあり、もう一人は教育者のアドルフ・シュタイナーである。
 エンデはファンタジー作家と呼ばれているらしい。しかし、これらの資料を見ながら、感じたことはファンタジーというより、当時の、戦争という過酷な歴史の中に生きてきた一人の人間のギリギリの自己表現であり、哲学者と呼ぶほうが私は似合うような気がする。ヒットラー政権のなか、一時、絵を描くことを禁じられた父の苦悩を目の当たりにみているエンデが、その後の作品に父とは違う形での表現であったが、父の生き方に影響を受けていたことは明らかであろう。父と息子の関係がうまくいかなくなった時期もあったが、親子の心根は相通じていたように思う。
 エンデ没後10年にあたる今年10月29日、エンデの友人でもある子安美知子先生の講演で今回の童話館の存在も知ることができた。また、その講演で紹介してくださったエンデの本(例えば、『誰もない庭』『エンデのメモ帳』など)を次々と読みたくなった。さらに、子安先生のシュタイナー教育の実践活動にも注目していきたい。出会いはまさに、偶発された誘導である。そして、出会えることは幸せである。(2005年11月5日)



■阪神タイガース選手、日本一に向けて集中せよ!
 阪神タイガースが二年ぶりのセリーグ優勝を果たし、連日その祝いの美酒に酔いしれている間に、なんとびっくりニュースに酔いが吹っ飛んだ。阪神タイガースが上場するかも知れないというのである。一介の投資家を自認しているタイガースファンの私としては、思いもよらぬことであった。しかし、考えてみれば、親会社の阪神電鉄は上場しているわけで、村上ファンドが筆頭株主に躍り出ても、不思議はない。
 そこで、阪神電鉄の株価を調べてみた。もともと、鉄道関係の会社の株価には興味もなかったので、阪神タイガースのファンである私にとって、その親会社の株価にまったく興味、関心を持っていなかった。それで、株価を調べてみた。なんと、1000株単位の株価で1000円以上になっていた。つまり、最低単位の株式を購入するための資金は100万円を必要としているわけである。村上ファンドが筆頭株主に登場したとき、一時は、124万円まで上がった。今年の一月では35万円で買えた株である。うーん、いかに阪神タイガースファンであっても、100万円の投資額はそう簡単ではない。
 では、株主優待券はどんな内容だろうか。1000株保有の株主に対して、ホテルの割引などである。甲子園球場の招待引き換え金(一試合二枚)を獲得するには、5000株の保有、つまり、500万円の投資が必要になる。いかに、ファンであっても、試合の優待券欲しさに、500万円の投資には二の足を踏む。
 そうなると、村上ファンドの代表者である村上氏の発言を見る限り、単位株の引き下げで、5000円で株主になれる道を切り開くという考え方は、歓迎される向きもあるだろう。ただ、理論的には5000円で株主にはなれるが、投資妙味から言えば、あまり意味がない。例えば、買った金額よりも300円上がったとしても、購入コスト、購買コストを入れれば売ったとしても、賞味の利益額はほとんどないこととなる。だから、5000円に単位株価の引き下げをしても、株主が大幅に増えるかどうかは疑問である。ただ、100万円くらいの投資でタイガースの試合が甲子園でなくても、優待券で見られることになれば、投資家は増える可能性がある。阪神のフロントと言えば過去にいい印象があまりない。フロントと監督・選手の間のリレーションがまずく、補強がうまくいかず、戦力低下してきた過去を振り返るとき、今回の出来ごとは、今後さらに王者として定着するためには、いいきっかけかも知れないとも思う。
 しかし、いま、日本シリーズを控えて、念願の20年ぶりの日本一を目指すタイガースにとって、この騒動は鎮静化して欲しいと願う。投資家としては、経営権が誰になるか確かに気になるが、いまは試合に集中したい。一試合平均、42907人の観客動員数トップの実績を誇るタイガースの一ファンとして、とにかく願うのは日本一である。あの20年前のバース、掛布、岡田の3連続フォームランの映像がいまも瞼に焼き付いている。その再現がいま来ようとしている。折りしも、日本の経済も復活のスタートラインに着いている。タイガースの日本一はその勢いに弾みをつけることは間違いない。
岡田監督、そして選手の皆さん、今は日本一目指して集中あるのみ。
阪神タイガース、フレー、フレー、フレー。(2005年10月14日)
 


■目標を持てる喜び
 最近、またゴルフに夢中になっている。というのは、ここ10年近く、ゴルフをやる回数はせいぜい1年に二回位であった。ところが、あるきっかけから、月に二回のペースでいくようになった。あるきっかけとは、地域の住民で楽しんでいるゴルフ倶楽部のメンバーの方から、仲間に入るお誘いを受けたことである。入った動機は、ゴルフを猛烈にやりたいからということではなく、長年、つきあいといえば仕事でのつきあいばかりで、住んでいる地域の方たちとの交流はほとんどなかった。いずれ、仕事をリタイアすれば、地域の方たちとの交流が必要になるし、大切なことだと思っていた。しかし、交流が必要とわかっていても、きっかけもなしで、いきなり交流をしようとしてもうまくいかないことはわかっていた。そんな折、ゴルフを一緒にやりませんかのお誘いがあった。それで、ゴルフを通じて、交流の第一歩が踏み出せるいい機会なので参加したわけである。
 遊びとはいえ、一緒にプレーするみなさんに迷惑をかけるわけにもいかない。練習もしないゴルフだっので、心配だったのである。それと、必ず「ゴルフを何年やっていますか」と聞かれるので、あまりみっともないスコアを出すわけにはいかない気分もあった。まあ、簡単にいえば、見栄があった。
 そんなことを妻と話しているうちに、今度、コンペがあるなら、どうせだから、道具を買いなおせばということになった。確かに、十数年来、買い換えていなかったので、スコアが悪ければ、道具のせいにしたりしているうちに、ゴルフへの熱が冷めていたこともあった。思いがけない展開になり、その気になってしまい、思い切って道具を買い換えることを決めた。ただ、そうはいっても、クラブは安くはない。まあ、それなりの価格で、満足できるものを探すこととなった。
 ゴルフ専門店に行ってみると、まず手ごろな値段で、従来使用していたクラブと違う新素材のクラブが特別陳列してあった。マルマンのV-SONICメタバイオというブランドである。試打ができるという。早速、七番アイアンを借りて、店の外に設置されている場所で打ってみた。ここでは、スイングをコンピュータで計測できるシステムが整備されていた。なんと、二回目に打ったときに、174ヤードと計測表示が出たので、なにか、機械の計測ミスではないかと思い、店の販売員に聞いてみた。そうしたら、決して計測ミスではないという。信じられなかった。いままで使用していた七番アイアンでは、大体、キャリーで150ヤードであった。軽い気持ちで打てるので、実際のコースではこうはいかないまでも、驚きであった。
 しかし、店員さんの次の言葉に愕然とした。「お客さん、失礼ですが、いまお持ちのクラブは何年間ぐらい使われていますか」の質問に、「大体、十五年くらい使っている」と答えた。すると、「最近の技術革新のおかげで、クラブは進化しています」「だから174ヤードが出たのも、決しておかしくはないのです」と言うではないか。
 そうして、アイアンもウッドも揃えて買った。まだ不安半分ながら、買ったその日のうちに練習場へ直行。いつもの順番、つまり、サンドウェッジ、次にピッチングウェッジ。あれ?ピッチングで大体100ヤードだっだが、120ヤードが出ている。九番140ヤード、八番150ヤード、さて肝心の七番、さすがに170ヤードは少しきつい気がするが、少なくとも、160ヤードは楽勝である。ネットまでの距離が限られているので、正確な距離はわからないが、得意の五番は180ヤードは軽くでているようだ。ドライバーはアイアンで感じた距離が出ている驚きはあまりなかった。ただ、曲がりが少ない気がした。
 さて、本番のスコア。第一回45 48、第二回51 57 、第三回46 55、第四回44 48であった。二回目と三回目は大雨の中だったので、まあ納得。それと、やはりパットだけは、回数やらないとダメのようだ(二回目が終わってパターも買い換えた)。なによりうれしかったのは、アイアンの距離が伸びたこと、ドライバーの曲がりが少なくなったことである。安心感が持てるようになったのが一番大きい。ドライバーももっと距離を出したい誘惑はあるが、曲がらないということの方をいまは優先して考えている。
 まだ、買い換えてから四回しかコースに出ていないながらも、少し気が早いが、自己新記録へ挑戦しよういう意欲が湧いてきた。ベストスコアは二十年も前に出した90である。いままでなんとか80台を出したいと夢をなかばあきらめかけていたが、更新したいと思っている。つくづくゴルフは道具だと思うようになっている。特に、我々アベレージ・ゴルファーにとっては、スコアアップのためには道具は重要である。素直に技術革新に対しては、信頼を寄せてみるべきかもしれない。
 歳を重ねると特にスポーツの世界では、記録への挑戦なんて無理だと思っていた。しかし、まだ夢をかなえたい、かなえるかもしれない、そして、目標を持てる喜びをかみしめているところだ。考えてみれば、このことは、単にゴルフの上達というメリットだけでなく、生活への生きがいにつながるようだ。
 そんな折、この夏に、私より六つ年上の私の従兄弟がアルプス登山で4000メートル級の登頂に成功した。聞くところによると、永年の夢だったようだ。そして、いま満足感いっぱいだという。なにごとも、目標を立てて、それに挑戦することに歳をとっているとかは関係ないことを改めて感じる今日この頃である。
 来場者数の伸び悩みで、ゴルフ場の閉鎖が続いてるという。これはゴルフ場だけの問題ではないかもしれない。ゴルフ業界関係者に提案したい。料金がまだ全般的に高いのでプレー代金や諸経費などを安くするべきである。また、食事代が高い所が多いので、食事の量を少なくしてもいいから、もっと料金を下げて欲しい。そして、ゴルフ専門店、ゴルフ練習場なども連携して、元気なシニアを呼び込む工夫を考えてもらいたい。

・・・・・・・私たちが真の幸福感を味わうのは、自分自身に定めた何らかの目標を達成したときである・・・・・・(ヴィクトール・E・フランクル『医師と心』より)
(2005年9月17日)



■まだ見ぬ未来の子ども達へ
  夏休みに入ってから、あまりの暑さに、昼間はもちろん夜寝るときにもクーラーを頼っていて、家の中で過ごすことが多くなった。この時期は甲子園での全国高校野球のテレビ観戦が始まるので、なおさら体を動かさない日が続くこととなる。体を動かさず、冷たい麦茶ばかり飲んでいるせいか、心身ともにけだるさが続く感じである。
昨晩、妻と話し合って、健康のためにも体を動かそうということになり、今朝は早起きウォーキングとなった。朝、四時半起床、十五分くらいで支度して、川沿いの土手に向かった。幸い曇り空で日差しは弱そうだ。久しぶりのウォーキングで足も軽い。最初の五十分くらいは早足のピッチで、田んぼの稲、草木、川からの新鮮な空気が心地よく軽快に進む。
 帰路、「あっ ゴマの花が咲いている」と妻の声。土手の下の畑に目をやると、背丈一メートルくらいのゴマに白い可憐な花がついていた。数日前に、ゴマを見なくなったと話をしていたばかりであった。昔、田舎でお袋がゴマを採ってきて、日のあたる庭に乾していた光景を思い出す。
そうこうするうちにウォーキングも終盤に差し掛かる。久しぶりに歩いたせいか、はたまた最初に少しばかり早足だったせいか、ややペースダウン。橋の上から川を眺めると、鯉が数匹悠然と泳いでいた。水も前よりはいくぶん澄んできたようだ。
  家に着いて、花に水をやった後、昨晩の温かさが残る風呂に入る。同時にひげも剃る。風呂から上がり、冷たい牛乳を飲みながら新聞をゆっくり読み始める。ご飯ができたようだ。「ああ、うまい」。いつもと変わらぬ朝食メニューだが、うまく感じた。炊き立てのコシヒカリそのものがうまいということは確かなのだが、それだけではなく、どうも感謝の心がうまいと感じさせてもいるような気がした。感謝の心とは、健康でいられることへの感謝、朝食を用意してくれる妻への感謝、平穏で生活していることへの感謝、などの心である。やはり、幸せは格別のことでなくても、日々の生活の中にもある。
  この感謝の心を持てる幸せは、幾多の先人の苦労や犠牲の上に成り立っているとを忘れてはなるまい。昨日八月九日、長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開かれた。六十年目の「原爆の日」である。伊藤一長市長は、挨拶のなかで、米国市民に向けて「新たな核兵器使用は平和をもたらさない、ともに平和な世界を目指そうと」と訴えた。いまなお、被爆の後遺症に苦しめられている人々がいる。やり場のない怒りを、体を振り絞って、惨劇を伝えようとしている。しかし、世界はいま、核の廃絶に向けての意志統一はなく、その使用制限方法をめぐってもめている。核を持っている国が、これから持とうとしている国あるいは既に持っている国に対して、どんなにその使い方を制限させようとしても、無理な話しであり、こっけいですらある。そのようななか、いま、世界に向かって、核の恐ろしさを伝え、核の廃絶を訴える責務を負っているのは日本である。とりわけ同盟国である米国に真のリーダーシップを発揮することが日本政府に求められている。そして、私たち大人一人一人が、その人のやり方で、いまいる子ども達に、二度と戦争をする国にしてはならないことを繰り返し話続けていかなければならない。そうすれば、やがて大人になるいまの子ども達が、まだ生を受けていない未来の子ども達へ「平和に感謝する心」を引き継いでくれよう。
  子ども達の行く末に温かいまなざしでエールを送る一冊の写真集がある。それは、『山古志のこどもたち』と題して、今年の八月一日に小学館で発行されたものである。昭和四十九年から山古志の自然、生活を撮り続けてきた写真家の片桐恒平さんの作品である。昔の村や子ども達、そしてこの間の中越地震の仮説住宅での子ども達の暮らしぶりが写真と文で表現されている。その表紙に次のようなメッセージが書かれていた。"きみたちがいるから、だいじょうぶ。きみたちがいれば、のぞみはかなう。"子どもは宝である。(2005年8月10日)



■にわか作詞家きどり
 団塊世代の応援歌をつくりたいと思いながら、あっというまに半年が過ぎた。
そして、一ヶ月ほど前にようやく五つの作詞ができた。
団塊世代の応援歌をつくろうと思った動機は、最近、2007年問題とか、老後の準備とかマスコミに団塊という文字がすさまじく増えて、とらえ方によっては、不安を増幅しかねない風潮に逆らってみたくなったことにある。産業界も買え買えの大合唱を団塊世代に向かって放っている。いくら商魂たくましくても、だまされないぞと生来の天邪鬼がむくむくと起き上がる。
 応援歌としての作詞は最初から曲調を意識して、演歌風、ゴスペル風、音頭風などにあわせてつくってみた。しかし、もとより作詞のなんたるかを知らないでつくろうというのだから、できあがっても、こんなものに曲がつけられのかさえもわからない。それで、インターネットで作詞のつくり方などを調べてはみたが、どうも素人にぴったりの情報が得られず、勝手につくることとした。もともときっちりと準備してからやるほうではないので、ある程度進むとうんと苦しむことになる。
 一番の歌詞は簡単に思いついて、書けるのだけれど、二番目の歌詞が全然書けず、数週間もほったらかしたのもあった。そして、気づいたことは、文章で言えば構成力、つまりストーリーが描けないと、二番、三番の文句が出てこないことだった。
 とにもかくも、作詞になっているかどうかの確信もなく、五つできたので、誰かに見てもらえたくなった。そこで、悩ましい問題に突き当たる。こんな作詞でも、取り上げてくれるところはどこかわからないと思ったり、また、無造作に公表した場合、勝手に盗作される心配はないのだろうか、などなど。ワープロでつくってみたが、権利を主張するコメントをつけるのかつけないのかわからない。そんな折、ある方から「直筆のサインを入れておくこと」のアドバイスをいただいた。やはり、権利を主張したかったら、事前の備えが必要のようだ。
 こんなお笑い騒動をしているときに、ふと真面目にレコード業界の活性化の企画が思い浮かんだ。タイトルをつけるとすれば、「あなたも作詞家、作曲家になれる」という、まさしくうたい文句で、作詞をつくってみたいアマチュア、曲をつくりたいアマチュアに積極的に呼びかけチャンスがあれば登用するシステムをつくる企画である。
 いま、日本の歌謡曲の世界が沈滞している。具体的には、CDが売れないのだ。これは、もちろんITやメディアの技術革新の影響を受けていることは否定しないが、聞きたい、買いたい歌がないのではないかと考えている。では、この構造はどこから来ているか。先生と呼ばれるような大作詞家、大作曲家に依存しすぎていることから起きているのではないか。つまり、似たような歌ばかりで、飽きがきているのではないかと思う。そのような閉塞感を持ちながらも構造改革ができないところに業界のうめきが聞こえる。
 そのような沈滞感、閉塞感を打破するためには、意図して、アマチュアの活躍する環境を整備することである。レコード業界に限らず、いま、「わたしつくる人」「わたし買う人」の供給側の論理が通用しなくなっている。むしろ、消費者側が積極的に供給側に関わっていくことが受け入れられているのだ。消費者の声が製品づくりやサービス提供に生かされる瞬間、それが真の顧客満足ではなかろうか。その結果、斬新な歌が生まれ、業界の活性化につながる可能性だってある。
 今回の、にわか作詞家きどりの一連の騒動を通じて、考えさせられたことがある。それは、自分自身がインターネット過剰依存になってはいないかということ。パソコンがあたかも玉手箱であるような錯覚を持っているような気がしたのである。パソコンを使っているようでいて、実は、逆に使われているというか、制約を自らに課しているようなこっけいな気分になったのである。
 デジタルに親しみつつ、アナログの効用を見直そうとあらためて考えさせられた数ヶ月であった。幸い、明日、音楽業界の人と会う。さて、五編の作詞が、大笑いの酒の肴になるかどうかお楽しみ。また、それもよし。(2005年7月12日)

 

■新勝手主義の蔓延
 なにやら、仰々しいタイトルをつけたが、若者に蔓延している「勝手」の意味について自分の考えを述べることで、彼らに問いたい思いもあってつけた。今回のこのテーマは、ここ数日、電車の中で何回も遭遇したこと、つまり、若者の勝手なふるまいのことを取り上げた。
 一週間でほぼ毎日のように、電車の中で食事している人と隣り合わせになり、不愉快な気分になった。自分とちょっと距離があるところで食べている分には、こちらまで被害の程度は低いのでまあまあ仕方ないとあきらめている。しかし、運悪く立て続けに3回、隣の座席に座った人が、おもむろに袋からパンやお菓子を取り出して、堂々と食べた場に居合わせたのである。なにがいやかといえば、そのお菓子やパンのにおいがいやなのである。「なんであなたに付き合ってにおいをかがなければならない」と言いたいのだ。だけど、言えない。言えば、キレて喧嘩をふっかけられるかも知れないから。相手が女性なら喧嘩というようにはならないだろうが、それでも気まずさは残るから言えない。
 そのうちの一つの例。夜の音楽会の会場へ向かう電車の中であった。隣に座っていた若き麗しい女性が素敵な花束を抱えていた。こちらと同じ音楽会にでも行くのだろうか、などとその花を眺めていたら、なんとおもむろにバックからパンを取り出して、ムシャムシャ。びっくりして、失礼ながらもおもわず横顔を見てしまった。それでも、一つのパンを食べ終わったらやめるのかとな思っていたら、そうではなかった。ああ、この甘酸っぱいにおいが苦手なのだ。困ったけど、息をできるだけつめ、我慢した。
 もう一つの例は、朝の混雑している通勤時のことである。いつものようにドア側に立っていた。そこに若いサラリーマンが左手に鞄、右手にビニール袋から食べ途中のサンドイッチが顔を出している。いやな予感。すると、ああやっぱり、私の目の前せいぜい30cmもないところにそのサンドイッチがあるでないか。おいおい、よしてくれと念じたとて、終わる気配がない、次の駅でどっと人が乗り込んできた。人にパンのクリームがつかなければとヒヤヒヤしながらみているが、本人はお構いなし、とうとう三つ目の袋を破いてムシャムシャと食べている。案の定、OLがとても気にしている。パンが洋服につかないか心配しているのがそぶりでわかる。周りの人のそのような態度に気がつかないのだろうか、それとも無視しているのだろうか、うかがい知れない。なんだか、憂うつな気分になった。そして、この人が将来、子どもを連れて、電車に乗ったときに子どもと一緒に食べたりするのだろうか、などと想像した。
 また、通勤時の混雑しているときに、缶コーヒーやなかには紙コップのコーヒーを立ち飲みしている者も結構いる。電車に急ブレーキがかかって、周りの人に引っかかったらどうするのだろうかとヒヤヒヤする。
 先日、これらのことに関連した記事がでていた。一つは、投書欄で、女子学生グループがシルバーシートに座り、化粧を始めた。それを見ていた男性が「そんなしつけをどこで教わったのか」と一喝したというものであった。その勇気は敬服に値する。ただ、果たして、注意すべきと思った相手が男性ならば、同じようにできたのだろうか。
 もう一つの記事は、人前での化粧について、会社員の26歳の女性が「時代とともにマナーの意識は変わるはずであり、周りの人に危害を加えないように気をつければいい。逆に他人の化粧の仕方にも興味がある」とあった。確かにマナーの意識が時代とともに変わることは理解はできる。しかし、「危害」を加えることでなければ、周りの人に多少の迷惑を掛けても許される、と思っているのだろうか。そのいきなりに「危害」という極端のことを人とのかかわりの基準に置くことにとても不思議な気がする。他人の化粧の仕方に興味があるから見ていたいということにいたっては、「ああそうなんですか」と思うくらいで、その勉強熱心さに変に感心するのみである。
 さて、本題に入ろう。例えば、相手に注意したら「お前には関係ねぇーだろう」「俺の勝手だろう」というせりふが返ってきそうなのだ。こちとらしては、大いに関係あるし、迷惑を掛けていて、あるいは掛かることが予測できるのに、勝手とはなにごとだ、といいたくなる。彼らは、「勝手」ということばをつかいながら「自由」の意味としてとらえてないか。自由と勝手のはき違いである。もちろん、「自由勝手にやる」という言葉は誰しも使う。ただこの自由には責任があるし、勝手もまわりに迷惑を掛けないということが前提にある。「勝手」ということばをすぐ使うのは、対人関係においての思いやりや想像力の欠如があるせいではないか。「勝手な振る舞いは」できるだけ快適に通勤したいという自由の権利を侵していることになるのである。
 さらに、大人としての恥ずかしさというものを持ち合わせていないのだろう。いや自分のプライドを踏みにじられれば、そのときに恥ずかしさが生まれるのかも知れないから、持ち合わせていないというのは的を射ていないかも。しかし、プライドを踏みにじられなくても、自分として恥ずかしい行動を律するというのが大人だと思うのだが、そうしないのは、恥ずかしい行為とは思っていないということになる。もっとも、恥ずかしいと思わない人はなにも若者だけではない、タバコのポイ捨てや大きな声で電車内で携帯電話を使っている中高年も見かける。
 こういうことにいちいち神経を使っている方が、おかしいのだろうか。もう少しおう揚に構えていたほうが利口なのかな。でもね、電車の中で食べ物を食べてはいかんとは言わない、おなかが空いていて、ポンと口の中に食べ物くらい入れてもいいと思う。ただせめてながながと時間を掛けての食事の場所にはして欲しくはない。よく電車の中で、自分の欲望を満たすために、意識して親に泣き喚く子どもがいる。この子どもたちは大衆の中で周りに迷惑をかけないということを親からいずれしつけられていくであろうから将来は自分を律する人間になる可能性がある。しかし、二十歳も過ぎた大人のそれらの行動は、無意識にやっていると思わざるを得ない。この無意識さは始末が悪い、本人が気づかない限り、修正はされないから。
 さてさて、結論としては、注意する勇気のない自分としては、電車内での飲食行為は無視することにするのがいいかな。(2005年5月22日)


■女性専用車両は定着するか
 今日から首都圏の主要私鉄が女性専用車両を設置した。設置した目的は痴漢の被害から女性を守るためである。今朝の通勤時に観察した。最後の車両が女性専用車両である。その隣に乗ってみた。一つ前に発車した電車と自分が乗る電車の二本の込み具合を観察した。駅員と警備員が二人でホームで案内していた。ホームにはピンク色で女性専用車両という字の下に、Women Only。まずピンク色のけばけばしさに違和感がこみあげた。そして、その横文字にかつてのアメリカでの黒人差別の映像が浮かんできて嫌な気分になった。
 さて、込み具合だが、やはりというか、二本とも女性専用車両の方はゆったりとした込み具合、それに引き換え隣の車両はいつもより込んでいた。両隣の人と体が触れてしまう状態。女性の車両は隣の車両の6割程度の込み具合だ。私の車両にも女子学生や女性もいたが、圧倒的に男性が多い。なにか割に合わない気持ちがした。
 この仕組みは定着するだろうか、これらの導入に至る検討の経過を何も知らないのはどうしてか、不合理なことが発生しないのだろうかなど考えてみたくなった。具体的なことを思いつきで挙げてみよう。
・男性が乗り込むのをストップする、というが男性の年齢について下限上限の規定はあるのだろうか?
・お年寄りの女性の連れ合いをお年寄りの男性が女性専用車両に乗せられず、込む車両に乗せなければならない
・いつも比較的空いていた先頭車両が今回の電車死傷事故で益々乗らなくなるので、そのしわ寄せが他の車両にいく
・女性専用車両に乗らない女性は周りの視線を気にしないだろうか
・女性専用車両が適当に込めばいいが、予想以上に混雑するということはないだろうか
・朝の通勤時に男女別の平均利用数などの数値もとにして一両にしたのだろうか
・女性専用があればなぜ男性専用をつくらないのだろうか
・女性専用車両以外で痴漢にあった女性被害者がでたら、世間は、だれにどのような視線をあびせるだろうか
・景気に左右されない鉄道事業なのに、車両を増やさない理由はなんだろうか
・痴漢予防のために監視員を設置することは検討されたのだろうか
・専用車両の利用時間が各車バラバラなので乗り降りにとまどい、事故が発生はしないだろうか

 痴漢被害に会わないか毎日神経をすり減らしている女性にとっては、今回の仕組みは大いに歓迎されているし、その点では喜ばしいことだ。切羽詰ったことで一応の理解はできるが、ただ、なにか対症療法的な気がしてならない。そのための事故を含めたマイナス面が発生しないだろうかと思う。
 それにしても、ここは七人がけだとか、シルバーシート専用だとか、そうしないとだめですよといわんばかりのことがあまり多いと、なにやらさびしさを感じてしまう。そういう環境に生きていると、ここはそういう指示がないからいいのだと勝手に解釈したり、権利だけを主張したりとギスギス、イライラとして、思いやりの心が薄らいでいくような人が増えたり、そのうな人を増やすことに加担していることにならないだろうか。養老先生が『バカの壁』で言いたかったのはこのようなことではないだろうか。(2005年5月9日)


■友よ、「しなやかに、したたかに」生きよう
 団塊世代についての評論や話題がにぎわしくなってきた。「団塊」をキーワードにすれば雑誌が売れたり、記事がそれなりに埋まるので、団塊世代ではない人たちがこぞって書いている感がする。わたしのところにも、ここ一年で五回の取材の申し込みがあった。取材先を特定するのに、ホームページなどを開設している団塊世代の人を探したほうが手っ取り早く効率的なのだろう。それはそれでかまわないが、なかにはテーマがどうも自分には適しているとは思えないものもあるし、家族の同意を必要とするものもあったので取材をお断りした場合もあった。ホームページ開設者に取材申し込みが来るのも、それだけ団塊世代の人がホームページ以外のところで、あまり情報発信をしていないということもあるだろう。しかし、取材側のクライアントの考えとして、団塊を取り上げれば一応ビジネス(商売)になるという安直さが見え隠れもする。
 取材に応じる側のメリットとしては、自分のホームページの宣伝になったり、また新しい出会いからの人脈作りができる可能性がある。他の世代と比較して、ことさら声高に団塊世代の特徴、価値あるいは主義・主張をしようとは思わない。あくまで自分たち個々人の生き方、楽しみ方の問題として情報交換をし、社会に役立つ何かを創り出せればいい。そんなことをつらつら日頃考えている者として、文芸春秋4月号の特集「団塊1085万人のこれから」を読んで思ったことを書き記してみた。
 まず、冒頭に堺屋太一さんが「これからは団塊世代にとって最高の十年が始まる」とメッセージを寄せていた。私も堺屋さんがおっしゃるように、悲観シナリオにいたずらに恐れおののくは愚の骨頂だと思う。ただ、「最高の十年」になるかならないかは、結局のところその人次第だと思うわけで、ゆめゆめ社会・経済のシステムが私たちを救ってくれるような幻想を抱きたくない。確かに、かつてはなんだかんだといってもいい思い?をしてきたのも私たち世代である。流れに身を任せてきたとも言えそうである。しかし、これからの社会で生きていくうえで、かつてのように、「国はなんとかしてくれるに違いない」なんて思うのは危険だ。だから、「最高の十年」という言葉を、「最高の十年になる」というよりは、「最高の十年にする」という気概を持とうと思う。
 それと、「最高」という概念は人それぞれによって当然受けとめ方が違う。それでいいのである。自分なりの豊かさや楽しさの基準を持って生きていくしかないのだから。
 そのほか、同じ特集のなかに、アナウンサー山根基世さんが「団塊女性にも言わせて」が面白かった。それを読んでいて、マスコミ関係者には、団塊世代の女性の意見をもっと取り上げて欲しいなあと思った。その意見のなかで、故郷の高校の同窓会への参加数が少ないことが指摘されていた。特に男性が少なく、参加が少ない理由として、人それぞれの境遇が違うからというものがあった。確かに、そのあたりはフットワークの軽い女性と違い、構えてしまうのだろうか。第二のステージにこれから移ろうとする人は、他の人と比べて、果たしてハッピー・リタイアメントであったかどうかという強い意識を持つのだろうか。仮にそうだとすれば、過去のことより、「これからをハッピーに生きればよい」というようにはいかないだろうか。もう一度、自分の心のなかに火を灯す、つまりハッピー・リタイアメントではなく、八ッピー・リファイアメントでいこうではないか。そんな思いもあって、今年こそ、故郷の中学校を卒業して首都圏に住んでいる同期生に同期会を呼びかけようと考えている。
 いずれにしても、自分の信念だと思っていることも、見方を変えれば、かたくなな思い込みになっていないか。つい「絶対こうだ」とか「〜すべき」「〜しなければならない」などと思い込みを持っていないか。そんも思い込みを捨てて、物事に柔軟にしなやかに対応していこうではないか。
 思い起こせば、永い会社勤めから離れて三年経ったが、離れる前に変化することは不安だったし、恐れを抱いてきたことも事実であるが、それ以上にきっと新しい出会いがある、新たな気づきがあるはずという思いが強く、自分がなにより変わりたかった。そして、いま、はっきりとそれは間違っていなかったと言える。定年を前にして将来を見据えれば、確かに経済的にも不安な気持ちがあることは否定できないかもしれない。しかし、自分の立ち位置が変わると、不思議なことに新しい見方ができる、ことだけは確かなようだ。 私たち世代は、真面目な頑張りやさんが多いと思う。それだけに、深刻に考えがちだ。だからこそ、自分の中にあるアホさも否定せずにむしろ慈しみたい。そして、出来る限り笑って、楽しく、人生の先輩の人たちへいささかでも役立つことをしたいし、後輩の若い人にも私たちの知恵を伝えたい。ここまで生きてきたあるいは生かされてきた自分を少しはほめてあげて、「どっこい生きている」の心持ちで生きていきたいと思う今日この頃である。(2005年3月27日)


■人間の残虐性を考える
 昨日、3月20日は平成7年に起きた地下鉄サリン事件から十年目であった。死者12人、5千人を超える負傷者を出し、いまなお被害にあわれた当事者はもとより、家族も苦しんでいる。あの日、私は会社に休暇届けを出し、実家に帰省していた。通勤時の事件であったので、職場の仲間が心配になり、すぐ会社に電話したことを昨日のことのように覚えている。
 いま、凶暴な事件は増えているのか減っているのか警察庁のホームページで調べてみた。それによると、刑法犯の認知件数(警察において発生を認知した事件の数)は、平成15年は平成7年の1.6倍であり、その内、粗暴犯は2.2倍、風俗犯は2.1倍、凶悪犯は2.0倍と増加率が高くなっている。平成16年の凶悪犯の検挙件数、検挙人員は前年同期(1月〜11月)と比べ4件、73人とそれぞれ減少しているが、依然として高水準で推移している。
 このような不安な社会を前にして、私たちはどのようにして自分を守っていかなければならないのだろうか。そんなことを考えていたら、以前から気になっていた論評がヒントをくれるのではないかと思い、もう一度読み直してみた。その論評は、朝日新聞において生命科学者の柳澤桂子さんが「宇宙の底で」というタイトルでシリーズで述べられていたものであった。私が特に気になっていたものは、昨年6月22日付けの論評で「残虐性は人間の本能か」というテーマであった。折りしも、幼児虐待のニュースが頻繁に新聞で報道されていたので、いつかはこの人間の残虐性についてこのコラムで触れたいと思いつつ、先送りにしてきた。地下鉄サリン事件で再び想起させられたので、取り上げてみた。
 その論評では、アメリカ兵のイラク人捕虜に対して行われた残虐な行為に触れ、人間は先天的に残虐性を保有している可能性があることを指摘しているものだ。その根拠としては、イギリスの動物学者で、永年、野生のチンパンジーを観察してきたグドールの研究によるものである。グドールはチンパンジーが他の群れのチンパンジーを残虐に傷みつけるのを見て、人間はチンパンジーの残虐性を遺伝的に引き継いでいるかも知れないということを発表した。
 これらのことから柳澤さんはこう述べていた。「私たちは、自分たちが先天的に残虐性を持っているという考えに恐れを感じる。できれば否定したいと思う。けれども、ほんとうに残虐性を持つことが証明されたら、それをただ否定だけではなく、この事実を率直に受け入れて、理性でこの未開な感情をコントロールすることを考えなければならないのではないだろうか」
 「理性で未開な感情をコントロールする」とは、「自律」のことだと思う。私たちの日常においても、さまざまな言葉の暴力を受けることがある。そのようなとき、キレないで上手に自分の気持ちを抑えていく、あるいは違う形で放射させる知恵、それが「自律」であろう。もうひとつの「自立」とともに、この「自律」はいくつになっても大切なものである。言うは安し行いはなかなか困難なときもあるが、いつも心のどこかに意識しておきたいものだ。
 柳澤さんは、また、別の日の同論評で「一人の人のいのちは多くの人々の心の中に分配されて存在している。分配されたいのちは分配された人のものである」と述べた。ここには生かされている自分がいる、人とつながっている自分がいる、ことを示唆していると思う。数多くの凶悪犯はこの言葉をどう受けとめるのであろうか。
 地下鉄サリン事件のいまだ逮捕されていない3人の容疑者が逮捕されることと、被害者および家族への手厚い支援が早期に施されることを祈りたい。(2005年3月21日)


■春よ来い
 春一番が吹き荒れ、関東平野にも日増しに春の日差しを感じるころとなりました。今日は、天気に誘われて越生の梅を観にいってきました。三分咲き程度でした。これから花が咲き乱れ春爛漫になっていくこの時期は心がウキウキする大好きな季節です。特に私の好きな黄色い花が多くなるからです。庭では蝋梅に続いて福寿草が咲き出しました。その次は水仙、ヤマブキが楽しみです。我が家の黄色い花はこれくらいですが、よそでは黄色いチューリップ、黄色いバラと次々に目を楽しませてくれます。
 黄色は私にとってハッピー・カラーです。また、黄色はコミュニケーション・カラーとも呼ばれているのだそうです。人を話し上手にさせたり、楽しさを演出できる色らしい。私には黄色い洋服を着ている女性は美しく華やいで知的に見えます。さすがに私自身は黄色い服を着る勇気がないけれど、春を楽しむために、せめて黄色を使ったネクタイでも新調しようかなと思っています。
 三月六日は啓蟄。越後の雪深い大地の中で冬眠している虫たちも春の気配を感じているころだと思います。川面にネコヤナギの芽が膨らむころには、ふきのとうも咲き始めるでしょう。魚野川にはいまでも自生のネコヤナギがあるのでしょうか。子どものころネコヤナギを観ると春を感じ、魚釣りの到来を楽しみにしていたものです。
 越後のみなさん、どんな厳しい冬でも春は必ず訪れます。福寿草を想い起こしてください。福寿草の花言葉は「幸福を招く・長寿」だそうです。さぁ、もう少しで春。ファイト!
(2005年2月27日)


■映画『北の零年』を観て
1月16日封切り初日の映画『北の零年』を観た。主演は吉永小百合で、他に渡辺謙、豊川悦司、石原さとみなどの豪華キャストである。明治政府の命により、北海道の原野へ移住することとなった稲田家の人びとの、いわば人間ドラマである。廃藩置県という明治新政府の変革の波に翻弄されながらも、生き抜いていく人間を描いている。
 吉永が演ずる志乃は、人を疑うこともせず、どんな人の心の中にも住んでいるであろう人間としての尊厳をただひたすらに信じて待つ。そして、そのときどきに運命を切り開いていく強い心の持ち主を好演している。どっしりと大地に根を張る志乃と、その生き様を受け継ぐ子どもや仲間たちの心意気に、同時にまた人間のもろさに幾度となく涙をぬぐった。
 志乃の夫である渡辺が演じる小松原が荒地にも育つ稲の種を求めて、住民の代表としてひとり札幌へ旅立つ。半年以内で戻る約束が何年経っても音信不通で、残された志乃への風当たりが強まっていく。志乃は苦労の末、馬を育てあげ生活の基盤を作りつつあった。そんなとき、明治政府は戦争への準備としてその馬を徴用するとの命令を下すのであった。その命令を下すために志乃の前に現われた役人は、なんと夫の小松原であった。しかも、他の女性と縁組をし、名前まで変わっていた。この予想もしない急展開のシナリオはとてもドラマチックで最大のヤマ場である。それだけに、夫の裏切り、身勝手さの言い分やそれに向き合う志乃の心模様の場面をもっと深く抉り出せないものかという一種の物足りなさを感じた。
 しかしながら、夢は叶うと信じて生きていくことのひたむきさが清清しく物足りなさを充分カバーしていた。人間賛歌のこの映画に立ち会うことのできた幸せにただただ感謝した。
 今日17日は奇しくも阪神・淡路大震災の十年目。最近では中越地震、スマトラ沖津波で数多くの尊い命が奪われた。生き残った人びとは、いまだ物心両面の深い傷を負っている。万物流転で、自然環境は一時も同じ形に留まっていない、日々刻々と変化しているのだということを思い知らされる。しかし、自然の前には小さな存在に過ぎない人間だけど、例えどんな環境に置かれていても、それでも生きる価値を見出し、楽しく生きていくことができると信じたい。
 1月15日朝日新聞に高杉晋作の辞世の歌といわれたものが載っていた。「面白きこともなき世におもしろく すみなすものは心なりけり」。どうやら世の中を面白くおもうかどうかは結局のところ本人の心次第という意味らしい。被害に遭われた人にしてみれば体験したものでなければその苦しみはわからないと思うのは至極自然である。月日が心の痛みを和らげてくれないかも知れないが、それを信じて生きていかれることを願って祈りたい。(2005年1月17日)