コラム 過去ログ
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(コラム008)
コラム
■振り込め詐欺になぜあう?
 毎日のように埼玉版の新聞に振り込め詐欺に出あった記事が載る。載らない日はないくらいである。詐欺にあわれる方は50代後半か60代以上の人がほとんどである。それも、女性が多い。そして、大抵は息子からの電話だと思い、振り込んでから、確認がとれて、そこで詐欺だと気付くパターン。金額は200万円とかの高額が特徴である。それも何回も振り込んでいるケースもある。
 いったいなぜこの被害はなくならないのだろうかと考えた。答えは決して一つではないことは推測がつく。いくつかの偶然が重なることもあるだろう。また、被害が出るのはごく一部で、その数の何十倍も犯人は失敗していることだろう。だから、交通事故みたいなものだから、気にしてもしょうがないという人もいるだろう。しかし、それにしても同じような手口に、いい大人がなぜ簡単にだまされるのだろうか、と考えてしまう。
 以前、俳優の児玉清さんが新聞にそのだまされる要因について、本を読まなくなったので想像力が働かないのではと論評していた。この見方に私も賛同するものである。そして、更に言えば、新聞を読んでいないのではないかと思ってしまう。新聞の被害の記事そのものを読んでいない、新聞そのものを読んでいないかも知れない。また、被害にあわれる方は外との交流が少ないのではなかろうか。他人を性善説で見てきた習慣、考え方が変わっていないところに落とし穴があるのではないか。そのため外との接点である電話に変な信頼を寄せてはいないだろうか。
 いまの社会はとても危険なことが待ち受けている社会である。社会全体で、個人の危機管理意識を啓蒙することが重要な時代になっているのではないか。安部総理の「美しい国日本」もいいが、耳ざわりのいい言葉ではなしに、「危険がいっぱい日本」とのメッセージを国民に知らせる必要がある。そいうことなしに、なにかあると最終的には「自己責任」と突き放すのはどこかおかしいと思う。
 被害額によっては、一気に生活に困窮する家族となってしまう危険をはらむ。犯人への刑罰は、いま以上に厳罰の度合いを強めることも必要ではないか。
 そこで、被害を少なくするためにふたつの提案をしたい。ひとつは、一連の振り込め詐欺について、警視庁は新聞の全面広告を使って、予防運動をするべきである。
 もうひとつは、地域の公民館などを使って、振込め詐欺について、その手口などを模擬で演じてみせることで注意を喚起することである。(2006年12月20日)


■「もたれあい」と「同調圧力」
 最近、子ども達のいじめが原因と思われる自殺報道にふれる機会が多くなった。
その報道ぶりはやや加熱気味でさえある。例えば、自殺者が残したメモがそのまま新聞紙上に掲載される。文部科学大臣あてに遺書あるいは自殺予告の手紙が届くと、全部公開される。テレビでは、自殺をした家族や親戚、友人への意図したインタビューが報道される。これらの報道をする側の考え方としては、いじめをなくそう、死んではダメだよとの思いがあってのことであろう。また、教育側への反省を促すねらいもあるだろう。
 しかし、これらの報道の仕方が果たして一定の抑止効果なり、改善の機運につながるのだろうか。はなはだ疑問である。それが証拠に、いじめにからむ自殺は何十年も前から繰り返し起きているではないか。特に、最近の報道ぶりからは、かえって自殺者を増やしかねない危険もつきまとう。いま、いじめにあって一人悩んでいる子供たちが「私と同じくこんなに苦しんでいる人がいるんだ」「私が自殺を考えるのも無理からぬことだ」などと考えたりしないだろうかということだ。これらのリスクについて報道、教育に携わる人たちの話し合いの場を持つことを早急に望みたい。
 さて、一連の報道を見る限りにおいて、他にも気になることがある。ひとつは、学校側と教育委員会および文科省との関係において、「もたれあい」と「同調圧力」があるのではないかということである。もうひとつは、子ども達の考え方である。
 「もたれあい」とは、学校内部での校長先生と先生方の間に責任あるいは役割といったものが明確になっているかどうか。学級内で起きているいじめの事実を把握しようとしているのかどうか。学校と教育委員会の間においても、いじめ問題について、変な阿吽の呼吸が存在していなのかどうか。つまり、見てみぬ振りをしていないか。また、人事面において、天下りの事実、天下りによるもたれあい構造が生まれていないか。福岡の事件で中学校の教師が自殺した生徒を評して「からかいやすかった」との発言には驚きを隠せない。「からかいやすかった」とはなにごとか。これではいじめている生徒のレベルと同じではないか。ましてや、亡くなった生徒の親の前で、そのせりふを吐くとはなにおかいわんやである。この先生の意識の中に、自らの人気とりのために生徒と「もたれあう」ということはなかったか。
「同調圧力」とは、ある意図のもとに権威者、力のあるものが集団をひとつの考え方に導こうとする圧力である。校長が責任を感じて自殺に追い込まれる。この原因のひとつにこの「同調圧力」が存在しないか。そして、この「同調圧力」は知らずのうちに子ども同士の中にも発生する危険がある。発言力のある者がいじられる者に対して、からかい、はやし立てるなどということもあるのではないか。
 もう一つの気になることは、子ども達のいじめについての認識である。先日、テレビの番組で小学生の子ども達がいじめについて議論していた。それを観ていて、おやっと思ったことがある。ある生徒が「いじめられる生徒にも問題がある」との発言をした。この論理はなんだ。その発言の仕方が深刻ではなく、むしろにこやかにやっているのである。そして、さらにその発言に対して、誰からも否定する声が上がらなかったのである。なにか冷ややかなものを感じてゾクッとした。
 久しぶりに書架から、小学生版と中学生版の「心のノート」を開いてみた。小学5・6年用の思いやりのページで「あなたの思いやりはこうして伝わる」との言葉の下に、「言葉で」「態度で」「表情で」「行動で」とあった。これらのことを授業の中でどのように学習しているのだろうか。ただ、知識として教えているのだろうか。素晴らしい教材があっても、それに魂を吹き込むのが先生の仕事である。
 そこで、ふたつの提案がある。ひとつは、学校内部での取り組みについてである。まず、いじめについての定義を具体的事例をだして、子ども達にわかるように教えるべきではないか。そして、生徒会みたいなもののになかに、「いじめ撲滅委員会」なるものを作ったらどうか。上級生がリーダーシップを発揮していくなかで、生徒自身が主体的に関わる仕組みを学校側で作ったらどうか。
 もうひとつの提案は、私たちは教育基本法の改正の動きとそれらに関係してくる委員会などの動きに大いなる関心をもって監視していこうということである。いじめという問題がクローズアップされて、だから教育について国が責任を持って改革していく必要があるかのごとく論調は危険このうえない。国が政府が声高に言うときほど、危ない。巧妙な論理のすり替えを注意ぶかく観察していく義務が私たちに課せられている。なにもしないつけはいつの時代も私たち国民自身が払うのだから。それも、これからの希望のある未来の大人が。(2006年11月19日)


■「格差」と「差別」
 今日は日曜日なのに、早く目が覚めてこのコラムを書いている。いつもの日曜日より早く目が覚めたのは、熟睡したからというよりも、昨夜のコンサートでの出会いから、脳があるいは心が刺激を受け続けているせいのようだ。
 昨夜、川越でこじんまりしたコンサートが開かれた。「トーク&パンフルートコンサート」という催しである。三人の出演者と一人のゲストでの演奏とお話である。出演者は高校の先生でもある江藤善章さんがパンフルート演奏とトーク。それにギターの富成千之さん、歌の小山真理子さんである。ゲストは川越の町雑誌『小江戸ものがたり』編集発行人である藤井美登利さん。
 江藤先生の活動を支えている知人からの知らせでこのコンサートに参加した。参加の動機は、パンフルートという言葉の懐かしさに惹かれたことと江藤先生その人に合いたかったためであった。
 江藤先生は自作のパンフルートを手に、神戸や山古志の震災の現場から、韓国、中国とまわって、人々と交流している。「人は人と交わることが大切。憎しみからは悲劇しか生まれない」と語る江藤先生の言葉は重い。
 江藤先生は人間の差別解消運動にもずっと関わってきたという。この「差別する」という考えの心根は「さげすむ」「からかう」にある。そして、それが「いじめ」に繋がっていく。
 「いじめ」と言えば、先日報道された北海道の中学生自殺事件は「いじめ」が引き金となったようだ。担当している先生が「いじめ」に加担していたらしい。亡くなった両親の前で「からかいやすかった」と言ったという。この言葉は生徒の言葉ではなく、先生の言葉である。言葉を失うとはこのことである。この中学の先生は自分に誇りを持って生徒を育んできたのだろうか。先生は偉い職業と勘違いしているのではないだろうか。
 いま、「格差社会」という言葉が頻繁にマスコミに登場している。しかし、「差別社会」という言葉は注意ぶかく観察していないと気づかない。
 私自身も自らの「格差」にばかり注意が行き、「差別」に目がむかっていない。他人の批評はいくらでもできるが、では、自分はと自問すれば恥ずかしい限りだ。今回のコンサートでは、もちろん演奏も楽しんだが、軸を持って、持続的にそれに取り組み、その輪を広げていくという生き方の素晴らしさを再確認させられたと同時に、自らの非力さを教えられた。この出会いのきっかけを作ってくれた知人に感謝多謝。
※お知らせ・・・江藤先生が実行委員長をなさっている委員会主催の「第2回 復活!唐人揃い-朝鮮通信使 多文化共生・国際交流パレード」が川越で11月12日午後1時より開催されます。(2006年10月29日)


■アテンション・プリーズ!
 後援会主催の地区別懇談会のため北海道に出張してきた。10月7日釧路会場、10月8日は札幌会場。私の役目は学生の保護者のみなさんに、進路特に就職状況について説明すること。
 二日目の札幌会場では予定通り15時過ぎに終了。同僚と新千歳空港に電車で向う。私は18:30分札幌発ANA74便である。同僚は一便遅れの飛行機。ふたりで空港でまずはお土産を買い、その後、旨い肴で一杯やることとした。
 空港に着き、お目当てのお土産として、はさみ漬けを探した。「羅臼の海」という名のかにと白菜のはさみ漬けを525円で五個買う。決して安くはないのだが、このはさみ漬けはつまみになるし、ご飯が進むので最近のお気に入り。そして、釧路からの特急電車の中のパンフレットで見た札幌銘菓のタイムズスクエアを買ってみた。友人が買っていたロイスのちょこまんも家族用に少し買った。あとは、お決まりの六家亭のチョコレートを買った。
 さて、搭乗までまだ時間は一時間はある。魚のおいしそうな店にふたりで入る。とりあえず、ビール。同僚が「ここにきたら札幌クラシックという名の限定生ビールを飲まなきゃ」ということで、尿酸値を気にしつつも、一杯だけ飲む。うーん、どこにもある味で全然なにがいいのかわからない。味オンチになったのかしら。
 次に酒は千歳鶴一合500円を注文。つまみを頼もうということで、友人は「まぼろしのボタン海老を食べようという。二尾で確か1700円。さて酒が来た。うん?これで一合ってか。小さいとっくり。あぁ量りたいぐらい。まぁいっか。空港だもんな。ボタン海老が来た。どれどれ、うんこれは旨い。三色の海鮮セットもつまみながら、酒の追加と、トロほっけを頼む。このトロほっけは七味のかかったマヨネーズをつけて食べる。これが700円の割りに意外に旨いんだナァ。
 18:30分発なので18時丁度に切り上げ、トイレを済まし、搭乗口へ。まもなくアナウンスがあり、機内へ。三つのシートの窓際である。どうやら隣は空席でひとつおいて通路側にうら若き女性。ラッキー? しばらく美しいスチュワーデス(近頃はアテンダントというらしいが、やっぱスチュワーデスがいい)をほろ酔い加減で眺めていた。ユニフォームだけでなく、ヘアスタイルも誰も同じなんだなぁとか変に関心しながら眺めていた。
 そうこうするうちに、なんだか少しオシッコをしたい気分になった。あの限定ビールのせいかと思い出す。日頃からビールを飲むとオシッコが近いことを思い出し後悔した。でも、離陸して飛行が安定したらいけばいいかと思って雑誌などをめくっていた。すると18:20分頃だと覚えているが、機長からのアナウンスが入った。上空の気流の関係で暫くお待ちくださいとのこと。えっ、ちょっと心配になる。そのとたん、さっきよりも尿意をもよおす。「暫く」って何分なのよ。あいまい表現は安部総理でたくさん。
 「暫く」と言ってから、もう13分くらい過ぎている。落ち着かないナァ。いま、トイレに行くべきか。目の前の表示にトイレは後方だと出ている。シートベルトを締めろと表示があるが、トイレはダメとは表示がない。うつろな眼差しでそわそわしていたのだろうか。もしかしたら、「アテンション・プリーズ」と目が訴えていたのだろうか。そうしたら、少し年配のスチュワーデスが、すかさず、「新聞をお持ちしましょうか」と聞いてきた。流石、プロ。その目配りに感激。おもわず、「トイレはまだ間に合いますか」と言おうとしたが、美人のスチュワーデスに気後れしたことと、通路側の女性が目を瞑っていたので、起こしても悪いし、格好悪い気がして、左手を挙げて「いいです」と言った。もしかしたら、挙動不審なテロリストみたいだったのだろうか。ああ、これで二度とトイレのことは聞けないと覚悟した。人生の幾多の修羅場をかいくぐってきた男59歳、ここは我慢できるはずと言い聞かす。
 ようやく7時になって、いよいよ離陸に入るとのアナウンス。30分遅れかぁ。まあいいや、飛べば。アナウンスが入ってから、バックをし始めているがやけにのろい。全然滑走路に向わない。59歳の脂汗が出てきた。5分くらいかかって、エンジン全開。滑走路を加速する。頭の中に音楽が流れた。レイ・チャールズの「旅立てジャック」だ。なぜ、この歌なんだろう。「ローハイド」でもよかったのに。レイに代って、テンポのいい歌を無言で口ずさんでいる。早く、もっと加速してと願いを込めながら歌う。黒いサングラのこめかみ付近に汗を噴出しながら歌っているのだ。ようやく離陸。高度一万メートルとかいっていたなぁ。そこにいけば水平に安定飛行に入るのだろう。あと何分位かな。アナウンスが欲しいナァ。
 そうこうするうちに、飛行も安定し、もう席を立ってもいいらしい。焦るそぶりを見せず悠然とトイレに向おうとしたら、男にさっと先を行かれた。しまったと思ったが、顔に出さず、少し待たされてから、スチュワーデスに促されて進む。思わず紳士の方はどこと探したが無駄だった。飛行機のトイレを使うのは生まれてこの方二度目のはずなどと昔を思い出す。やけにでかい鏡があるものだと落ち着かない。
 やっと席に戻る。一件落着。今度11月の博多から帰るときは、直前にビールは飲まないことを誓う。ANAさん、今度、トイレに関してのインフォメーションを丁寧に表示してくれませんか。ANA(あな)恐ろしき飛行機かな。(2006年10月9日)

 
■替え玉事件
 替え玉事件といっても、先頃の福岡の飲酒運転による事故のことではない。
あの事件は酷いものである。自分が犯したのに、人にその責任を押し付けようとした犯罪だった。二重に犯した罪は重いですね。
 今日ご紹介する「替え玉事件」は私が体験した出来事である。私にとっては事件だった。職場でお昼の時間になった。さて、今日は何を食べるかな。いつも妻が作ってくれるおにぎりはないし、学食は夏休みでやっていないし、売店でパンでも買って食べるかなと校内を歩いていた。すると、いま食事をし終わった職場の人が、私に向かって「今日の一指膳は社長が自分で作っているから、いつもより凄く旨いよ」というのだ。それを聞いた私は方針変更。ラーメン屋「一指膳」に向った。「一指膳」は「いっしぜん」と読み、東上線の上福岡の国道254号線にある。ラーメンの旨さでは評判の店である。久しぶりに行った。
 時間は12時丁度。この店は人気なのでお昼はいつも待たされる。今回は運良く、すぐにカウンターへ座ることができた。いつもの「一指膳ラーメン」600円を頼む。ランチサービスとしてゆで卵とサラダを頼む。このゆで卵とサラダはサービス。さて、ラーメンが七、八分で出てきた。とんこつのこってりスープが旨い。そこに高菜とネギを入れる。"うーん<、まいうー"ときた。いつもより更に旨い気がしたので、もう少し食べたいと思ったので、生まれて初めて「替え玉」100円を追加した。
 替え玉がすぐにラーメン鉢に入れられた。目が点になった。なんだぁこりゃ?これでは二杯目のお替りと同じではないの。「替え玉」とは、ラーメン半分のお替りと思っていたの私はびっくり。旨いのだが、あまりにも量が・・・。食べ物を粗末にできない性分だし、なにより、作ってくれたお店の人に残したら申し訳ない。結構、無理して食べた。
 職場に帰ってことの顛末を話したら、「よく食べましたね」と言う。言葉を飲み込んでいる台詞だ。つまり、「その年でよく替え玉を注文しましたね」ということである。あまりおかしさに腹が立たず、「替え玉」の意味すら知らなかったことにお笑いの種となり、皆で爆笑。知ったかぶりはいけないの教訓を得る。
 お昼休みも終わったのであるが、しばらくお腹が重い。なにせとんこつである。ウェスト83がミシミシと悲鳴をあげる。ゴルフのスコア83ならいつか目標としたいが、ウェスト83はメタボリック・シンドロームの合格点である「ウェスト85」に近いではないか。ああくわばらくわばら。
 そこで悲劇は続く。3時頃になって、同僚がそんなこことと知らずに、おやつを買ってきた。見ると「みたらし団子」である。どうぞと言う。お腹が膨れているのに、つい、折角の申し出でだからと、迷いもせずに手にとってしまった。躊躇しないことが恥ずかしい。食べてから気が付く。いゃ、とんでもないこととなったと。その後、トイレにいったり、歩き回っても体が重い。この間、世界の難民たちの飢えの話を聞いたばかりだというのに、なんとあさましや。人間の食はエサになってはいけないことを知っているくせに。ああ、落ち込む。
 いつもの時間に帰宅する。お腹が空いていないから、床屋に行くことにした。そして、終わって、料金を払いつつ、「ご馳走様」と言ってしまった。床屋の主人、気が付いたのか気が付かなかったのか、いつもの通り「ありがとうございました」と言った。
ヒヤヒヤ。明日から気をつけよう。とんだ事件の一日だった。(2006.9.8)


■パフォーマンスばやり
 先ごろ、ボクシングのチャンピョンになった亀田選手の話題がマスコミを賑わしている。発端は判定をめぐることにあった。今回の結果は、最近のボクシングの判定において、ドローではなくて、差がでるように変更したというルールが影響したのだろうか。テレビを観戦して「ああ 残念負けたか」と思った瞬間、勝ったとのアナウンスに驚いた。驚いたが仕方が無い。判定者に抗議したところで、判定が覆ることはないからである。これは他のスポーツのルールとて同じである。
 亀田選手の試合にはいつも高い視聴率が出るという。そして、今回の判定が他の選手だったら、これほどマスコミを騒がせていたか疑問だ。どうしてか。この背景には、亀田選手、亀田兄弟、亀田親子のマスコミを使ってのパフォーマンスがあるのではないか。発言、態度、表情などにおいて、過激なパフォーマンスがわざとらしく取り上げられている。それを観ている視聴者には大きく二つに分かれているのであろう。一つは、彼らの生き方に賞賛を送る人たち、もう一つは、逆に、「バッカじゃなかろうか」と馬鹿に見下す人たちだ。
 政治の世界でもパフォーマンスが流行っている。長野県知事選で敗れた田中県知事もパフォーマンスが仇になった。その行動力に賛同した人たちも今回の選挙では田中知事から離れたという。この秋退陣する小泉首相もパフォーマンスがお得意である。刺激的な言葉を使い、人々の興味・関心をひきつけた。ただ、最近の外国での小泉首相のパフォーマンスには恥ずかしさを覚える。
 彼らに共通していることは、テレビや新聞、インターネットなどメディアの影響力を使っていることである。彼らは、メディアの向こう岸にいる人たちに見得を切ることで、得点を稼げるという計算がある。だから、意図的に過激な言葉を好んで使う。
 そして、テレビ局としてもそのほうが視聴率を稼げるという計算が働いている。そこには良質な番組とか節度ある方針とかは木っ端微塵に吹っ飛んでいる。
 これら一連の現象は有名人が対象とは限らない。秋田の小学生死亡事件の報道の仕方にも表れている。事件などの報道において、重視すべきは真実を伝えるというこだと思うが、視聴者にさまざまな推測を起こさせようとしているような報道が目立った。被疑者に対して、事前に撮影していた映像を繰り返し茶の間に流すやり方である。事件の事実を伝えるという本来の使命を横に置いて、茶の間の人を喜ばそうという意図が見え隠れするテレビ局の姿勢に大いに疑問を感じる。どうしてそこまで執拗に流すのか。恐らく、視聴率を上げるために、人々の覗き見志向を「ニーズに応える」という美名のもとにくすぐるということが、組織の文化として定着しているのだろう。
 名古屋大学大学院の速水敏彦教授の著書に『他人を見下す若者たち』がある。その中に「仮想的有能感」という言葉が登場している。これは、他者の能力を低くみることで、自分の自己評価を吊り上げる意識のことである。このことは、パフォーマンスをする人、それらを取り扱う人だけでなく、観ている私たちの心にも「仮想的有能感」が知らずのうちに潜んでいるかも知れないことを教えてくれる。(2006年8月9日)


中田選手の引退に思う
 サッカーのワールドカップはフランスとイタリアの決勝が行われ、PK戦でイタリアが勝って幕を閉じた。引退を表明していたフランスのジダン選手は相手選手を頭突きで倒し、レッドカードで退場となってしまった。子ども達のファンが多いジダン選手のこの行為は残念ながらほめられた行為ではなかった。
 準決勝に勝ち残ってきた四カ国の技、スピード、チーム力は目を見張るものがあった。特に、玉をコントロールしながら、緩急をつけて、縦にドリブルで持ち込むスピードはいずれのチームにもあり、流石であった。残念ながら、これらの技は日本チームには不足していた。
 日本がブラジルに1対4で負けが決まった瞬間、ピッチに仰向けになった中田選手をテレビカメラが映していた。そして、翌日の新聞には、その写真とともに「孤高の中田」という言葉が使われていた。
 私は、この「孤高」という表現方法に違和感を持った。新聞報道では、この試合までにもチーム内での中田選手の孤立感、あるいは他の選手に「激怒」というような言葉を繰り返し使ってきた。その流れの中で「孤高」という表現につながっているように思う。
 「激怒」とか「孤高」といった言葉は、情緒的な表現を好む日本人の国民性には受けるかも知れない。しかし、それらの表現は、中田選手一個人のことに留まらず、中田選手の技術の高さ、信頼性を背景にして、他の選手のそれらとの比較の上で表現された言葉のように垣間見られるのである。「孤高」という字を見た他の選手はどんな感慨だったのであろうか。
 「孤高」の意味を大辞泉で調べてみた。・・・俗世間から離れてひとり自分の意思を守ること。また、そのさま。・・・とあった。文藝批評などでは、「孤高の世界」などと芸術家を紹介したりしている。恐らく中田選手の気持ちとしては「孤高」という感慨はないであろう。一人一人の技術水準の低さ、チームとしての一体感、連係プレーの欠如感を持っていたのではないか。
 チームと中田選手の関係がぎくしゃくしている原因は、「コミュニケーションの仕方」にあるとみている。意思疎通のやり方と置き換えてもいい。意思疎通の基本は「なぜ相手はこのことをわからないのだろう」と相手を攻めるのではなく、「相手が理解してくれるにはどのように接すればいいか」と相手の立場をまず第一に考えることである。
 中田選手の言動は相手から見れば、「攻撃されている、あるいは批難されている気分」であろう。それが証拠には、キャプテン宮本が中田選手の引退に新聞記者に語ったと言われている次のような言葉が新聞に載っていた。引退せずにもう一度チームにあって、「もっと文句を言って欲しい」と。中田選手の気持ちとは裏腹に相手は「文句」ととらえているのである。キャプテンだけではなく他の選手も似たような感じを持っていたのではないか。
 もし中田選手がコーチングのコーチをつけていたら、違う自己表現のスタイルを発揮できたのではないか。「中田さん、いまチームに望むのはどんなこと?」「どのようにして伝えたら効果的だと思う?」とコーチがクライアントである中田選手に質問したら彼はどう答えるだろうか。彼のコミュニケーションのための自己表現が「攻撃型」となっていたと思われるのである。自分の見解を述べつつ相手の意見も受け入れる「アサーティブ」な自己表現をしていたらチームの戦い方の展開が異なったのではないか。同時に、中田選手以外の人の中には「黙秘型」となっていたために打開へのチャンスを逃していたのではないか。つまり、中田選手に対して、納得していないのに納得したような言動をとるとか、恐れがあるから自分の意見を言えないとかがなかったかどうか。
 会社の中の人間関係はコミュニケーション力に頼ることが多い。自分の役割を責任持って誠実に実行していきながら、常に会社全体の目標と離れない、他の人と協力して目標達成に動くのが大切だ。サッカーも同じだと思う。
 こんなことをジーコ監督はどのように考えていたのだろうか。次期監督のオシム氏は今後のチーム作りにどのようなメッセージを発信するのだろうか興味深い。
 ともあれ、次の進路・ゴールに向けてさっと行動に移す果敢な精神に溢れている中田選手は多くの若者に強烈な刺激を与えてくれた。彼の前途に大いに期待して、魅力ある世界の「ナカタ」に拍手を送りたい。(2006年7月15日)


■熱血漢の危険性
 五月八日、引きこもりの若者を支援する団体の代表者らが、逮捕監禁致死容疑で愛知県警に逮捕された。自宅から男性を連れ出し、施設内では、暴れる男性を手錠や鎖で拘束していたという。この報道を見て、数年前のテレビ放映を思い出した。そこでは、引きこもり支援の活動を行っている女性代表者が、両親の了解を得て、男性を施設に入れようと説得し、ついには力づくで男性を部屋から引きずり出す場面であった。不快感を抱いてそのテレビを観たことを昨日のように思い出す。その時期私は、ある引きこもり支援のNPOにお手伝いとして関わっていただけに、その過激なやり方に批判の目を注いで観ていたのてある。
 今回の事件報道のなかで、施設内で「暴れる」から手錠をかけたとの記述がある。この「暴れる」という行為は、この男性にとっては、当然の権利ではないか。自分が了解してもいないことを無理矢理させられるわけであり、拉致されているという思いにいたることは理解できるではないか。「暴れる」ことに非があるのではなく、「暴れる」ようなことをした側に非があることは間違いない。
 この事件の本質は、「人間の尊厳」への姿勢の是非であろう。教育的な活動に携わる人間が、「人間の尊厳」に対して、どのような姿勢を持っているかという問題である。
 引きこもりの態様はさまざまである。自室に完全に引きこもっている人、外には出られる人、社会参加をしつつある人、人の視線が気になり人と目をあわせることのできない人、精神的な治療を受けている人など一様ではない。確かに、自己肯定感は概して低いかも知れない。しかし、「人間としての尊厳」は失っていないのである。怠惰な人でもない。自分を取り巻く、社会、学校、家族、友人などのなかにあって、生き方が苦しいともがいている。強い思い込みも持っている。精神が鋭敏すぎるともいえる。少なくとも鈍感な人たちではない。彼らは、いまの状態から脱却したいという意思はある。焦燥感も持っている。その意味では、社会に関心があり、決して、世を捨てているわけではない。
 教育活動に関わる人でよく「熱血漢」が紹介されることが多い。マスコミもニュース価値が高いと踏んで、安易に取り上げる。私はこの「熱血漢」とか「熱血教師」という肌合いは嫌いである。そのように思うのは、私の軟弱さとか優柔不断さから来るのかも知れない。しかし、教育するということは、相手が存在する。一つの人格を持った人間が相手である。それを、自分の信念や思い込みで「強力に(強引に)」に指導するということに違和感を持つのである。教える立場の人間が「熱血」という気を相手に放ったときに、相手にとっては、それが「過激」とか「攻撃」に置き換えられることも想像できると思う。熱血が高じて体罰とか暴力につながらないことを願うばかりである。
 いま、引きこもり青年とメール交換をしている。かつて、支援する場所で関わったことのある青年である。一年くらいお互いに連絡をしわなかったが、今年の年賀状メールが彼から来て以来、メール交換をしている。彼は、いまブラックホールのなかをさまよっている。どんな目標に向っていいかわからない状態である。それでも、日常の悩み、苦しみ、時には新しい発見などを便りしてくれる。具体的な提案を求めてきて、それに対して、提案してもなかなか実践できないでいる。私は、それでも、彼の「いつか」を信じ、見守っていきたい。1'm on your side のメッセージを伝えていきたい。(2006年5月21日) 


土のぬくもり
ゴールデン・ウィークに故郷の実家に遊びにいってきた。湯沢あたりは田んぼにもまだ雪があったが、実家に近づくにつれなくなっていた。豪雪の年だったので、例年より数週間遅い雪解けのようだ。山にはまだまだ雪がたっぷりと残っているが、里には桜、スイセン、モクレンなどが一斉に咲いており、春爛漫という景色だ。

実家の兄が精魂込めて作った野沢菜のおひたし、とう菜の漬物、大根菜の味噌汁が山菜とともに並んだ朝食はおいしかった。兄は「青物ばかりで」というが、新鮮な野菜を何種類も食べられる幸せに、一種の贅沢さを感じる。

次の日は天気も最高で、桜の花吹雪がなんともいえぬ風情をかもし出している。今日は、畑にごぼうの種まきと長芋の植え付けの手伝いだ。兄の運転する軽トラックに乗り、畑に。まず、兄が、くわで土を掘り、畝をつくる。そこに、種芋を約三十センチ間隔で並べて、土をかぶせる。それが終わったら、長芋のつるがからまるよう、ビニールパイプを向かい合わせに建てて、紐で縛る。
次はごぼうの種蒔きである。ごぼうの種を初めて見たような気がする。畝の上に二三個単位に離して筋蒔きにする。そこに土をかぶせていく。そして、強い雨が当っても、種が土の上に出ないように手で土をたたいておく。

土に触りながら、そのぬくもりになぜかホッとする。土に触るのが気持ちいいのである。どうしてだろう。こども達がよくどろんこ遊びをするのが好きなのも、土が気持ちいいせいではないか。大人も子ども気持ちいいのである。これは恐らく、人間の遺伝子のなかに、土の成分と相性のいいものがあるに違いない。

気候と水と土という自然条件に恵まれながら、人が愛情を込めて作物を育てる。そして、収穫時には感謝しながら、それをいただく。ビニール・ハウスには食べるタイミングを計りながら、時期をずらして種を蒔く。農家の知恵である。食べたいときに自分が食べる分だけ収穫する。このことは本当の贅沢といえるのではないか。

今、都会で定年を迎えた、あるいは迎えようとする人たちが、故郷に農村に住み着きはじめているという。過疎化と高齢化に悩む農村がそのような人たちを迎えるためのさまざまな環境整備が施されている。かつて、若者が田舎を後にして都会都会へと旅立って行った。そのかつての若者も人生の後半を迎えて、鮭のごとくに、生まれ育った故郷に回帰するのだろうか。その背景には、土のぬくもりを感じたくて、心のやすらぎを求めて、生活の拠点を移動しているのであろう。地方あるいは農村が見直されつつあるのかも知れない。ほどよく汗をかいた後に、温泉に入りながら、「ああ極楽」と思わずにいられなかった。(2006年5月8日)


■母と「にぎりめし」
 桜も散り始めた日曜日、天気もよかったので、おにぎりを持って鎌北湖に向った。
遊歩道を登り、中腹にあるあずま屋でお昼にした。山のひんやりとした空気が心地よい。眼下には湖の桜がハラハラと湖面に舞い散っている。へらぶな釣りの風景にとけこんでいる。満開の桜もいいけど、散る桜も趣がある。さあ、おにぎりのお昼だ。

 コシヒカリのおにぎりが旨い。山や野では弁当よりも、パンよりも、やはりおにぎりである。そう感じるのも、小さい頃の食習慣や生活体験があるからだと思う。お腹を空かして学校から帰ると、母がにぎりめしを作ってくれた。おにぎりではなくにぎりめしである。昔はおにぎりなんて言わなかった。当然ながら海苔で包んではいない。
丸くにぎったご飯にいりゴマと塩がまぶしてある。母がいないときは、自分でにぎって食べてから外遊びにでかけたものである。当時、お菓子類のおやつなんてなかった。お菓子は客人が来たときに出すくらいである。それでも、お腹が空いてるので、にぎりめしは旨かった。

 もうひとつ、にぎりめしの思い出がある。田植え時期のことだ。農家にとって田植えはネコの手も借りたいほど忙しい。いまみたいに機械で植えるのではなく、人が手で植えるのである。だから、子どももかり出された。この田植えは重労働である。中腰での作業で腰が痛む。そんな作業をお昼過ぎから取り掛かり、3時も過ぎると、疲れもピークに達する。すると、田んぼ道の遠くの方から、母が片方の手にはお茶の入ったどびん、もう片方の手には、にぎりめしの入ったおぼんを下げてこちらに向ってくるのが見える。この瞬間は、ホッとする。急いで、田んぼからあがり、道端にゴザを敷き、そこに家族が車座になり、にぎりめしとこうこうを食べる。いわゆる中飯(ちゅうはん)だ。このときのにぎりめしが旨いのだ。家にいったん帰っての休憩は時間がもったいないし、長時間の重労働なので夕飯にはまだまだなので田んぼで食べるわけである。

 当時の田舎では、日常のにぎりめしには海苔は使わない。海苔が高価だったためである。その代わり、遠足のときなどは、海苔が使われる。真ん丸いにぎりめしを米が見えないように海苔で包んである。大きなものがふたつ、必ず新聞紙で包んである。食べるときに新聞紙のインクの匂いがするのだ。このインクの匂いはなぜかしら嫌ではなかった。おにぎりを食べるたびに母を思い出す。

 いまは、おにぎりとかおむすびという言い方が一般的である。ものの本によると、にぎりめしがおにぎりとなり、女房言葉としておむすびと変化してきたらしい。おにぎりと形も地方によって違うようだ。関西では俵型、関東では丸型、三角型が多いらしい。私は、とにかくまん丸で、あらかじめ海苔が巻いてあるのが好きである。小さい頃からの体験が染み付いているのだろう。

 そして、おにぎりはコシヒカリが一番である。とにかく、おにぎりが冷たくなっても旨いのだ。コンビニで売られているおにぎりはそうはいかない。一度お試しあれ。

 おにぎりの話題といえば、最近公開されて人気の映画『かもめ食堂』でフィンランドの人々がおにぎりをほおばるシーンが登場する。もしかしたら、日本の代表食として鮨に代りおにぎりが世界に流行するかも知れない。そうなると愉快である。(2006年4月18日)


■みちのくの春はすぐそこに
 家族で一泊二日の「激安旅行」をしてきた。
行き先はみちのく仙台である。この地を目指したのは、長女が仙台生まれであり、生まれ育った所を訪ねたいということで計画した。
 3月30日朝5時半起床。いくつになっても、旅行というと早く眼が覚めるようだ。食事をして、少し余裕を持って家を七時前に出て、川越から大宮に向う。通勤する人たちのなかにいると、こちとらのゆとりのせいか「ご苦労さん」といいたい気分である。大宮8時35分MAXやまびこに乗る。二階建ての一階席である。これは、しかたがない。なにしろ格安ツアーなのだから。平日ということもあり、車内は閑散としている。途中、福島あたりに差し掛かると軽い雪が舞っている。天気予報では仙台は曇りとあったので、もしかしたら雪かも知れないと多少不安になる。10時20分仙台に着く。やはり、曇り空で少し雪が舞っていた。とにかく風が冷たい。タイツに保温袋で正解であった。
 宿泊先のホテルに荷物を預け、まずは塩竈へ。仙石線で仙台から約20分で本塩釜駅に到着。お昼には少し早いが、かねてからのねらいの鮨屋さんで腹ごしらえすることにする。特上にぎりとめぬけの味噌汁、そして熱燗を頼む。やはり熱燗が先に来たか。セットで頼むより、少しずつ食べられるおまかせを頼んだほうが良かったかと多少後悔。
そうこうするうちに、鮨が来た。大皿に十二貫あり、うまそう。早速手前から順番に食べる。いくら、うに、えび、赤みと続く。やはり旨い。酒も旨い。鮨屋のカウンターで昼間からの熱燗に感謝感激。背中にはストーブの熱が暖かい。仕上げにフグ一貫が圧巻。人気のせいか11人のカウンターは満席である。長女の追加注文のしらうおを出しながら、長女に手を出せという。そして、自分のグローブのような手と比べながら、「しらうおのような手だと言われませんか」と、親方の駄洒落が空気を和ませる。こういうの好きだなぁ私は。
 腹ごしらえも済み、歩いて10分くらいの塩竈神社へ向う。ゆるやかな坂は、昔なんども観た景色だ。桜どころか梅もまだという。梅がほんの少し咲いているがほとんどつぼみである。桜まっさかりの関東から来た身にはみちのくの遠さを実感する。
 神社を後に、また本塩竈駅で遊覧船のチケットを買い、船着場まで約十分歩く。そして、乗船。船が出港する前から、かもめが船を取り囲む。船内にはかもめが好むというえびせんべいが売られている。手の上において差し出すとさっと器用に取っていく。かもめと戯れながら、ガイドの島々のいわれに耳を傾ける。
 船から下りたところが松島海岸である。そこから瑞巌寺に詣でる。平成7年にできた宝物館に入った。中は暖かくちょっと一休みに最適。境内に伊達政宗が朝鮮より持ち帰ったといわれている紅白の臥龍梅があるが、まだ蕾であった。樹齢400年の梅の花を愛でられず残念。
 仙台に戻り、さて夕食をどこにするか。私は懐かしいろばた焼きの店を訪ねたかったが妻が「三吉」のおでんが食べたいというので、そこに決めた。「三吉」は老舗のおでん屋で、いつ行っても賑わっており、仙台時代によく通った店である。親子三人カウンターに座り、目の前のおでんの種を見ながら食べる。私は、おでんとしては初めて食べたわらびとホッキ貝が特においしかった。ほんわかと相手をしてくれる調理場の職人とお喋りしながら、飲む酒とおでんに少し酔いが回った。
 翌日は、朝から雪が舞っているなか、長女が三歳まで住んだ団地を訪ねる。あたりの風景は変わっていたが、団地はそのままあった。遊んだブランコや公園で写真を撮った。そして、生まれた大学病院を経由して、青葉城址にタクシーで向う。正宗公の銅像前から、晴れていれば仙台市内が一望できるが、今日は霧で見えない。あまりにも寒いので、名物の「ずんだ餅」屋さんで「ずんだ餅」を食べる。「ずんだ」とは、枝豆のすりつぶしたもの。午後、市内を散策し、お菓子や笹かまなどのみやげをS-PALで買い求め、帰路に着く。
 久しぶりの家族旅行なので、お互いじっくり話ができると多少期待していたが、そんな風にはいかなかった。旅に出たからって、じっくり話ができるわけはないので、考えてみれば、当たり前かも知れない。でも、同じ時間を一緒に過ごした体験そのものがいいと思った。お互いのスケジュールがめったにあわないので、あったときこそと思い計画したのはよかった。長女にとっても、いつまでも楽しい記憶に残るに違いない。
 さて、今回の旅は激安と最初に書いたが、本当に安かった。JR東日本のパック旅行であったが、新幹線と宿泊で一人11600円なのだから。今は、このようないろいろのサービスがあるから、旅行に行く前にいろいろ調べたほうが良さそうだ。計画から実際の切符の手配や行程の調査などをやってくれた妻に感謝である。
 家族の絆について、書こうと思いつつも、楽しい思い出をきままにつづったため、コラムではなくエッセーとなった。まあ、これもよしとするか。(2006年4月2日)
 

■パーシモンののろい
 昨日22日、「めぐろパーシモンホール」で第2回KFC Charity Concertがあった。
タイトルは『円熟のアンサンブルが奏うヴィヴァルディ「四季」』である。
演奏はヴァイオリン永峰高志 チェンバロ井上道子 指揮家田厚志 N饗団友弦楽アンサンブルである。このコンサートはカンボジアに学校を建設するための募金活動の一環でもあった。その趣旨に賛同したことと、日頃お世話になっている先生がご出演なさること、クラシック音痴の私でもどうやら知っている曲があることなどのきっかけで参加した。
 さて、その演奏会のシートに身を埋めるまでに予期せぬできごと、つまり想定外のことが起きた。
 職場で最後の学生の就職相談が終わったのが午後五時ぴったり。さすが、やるじゃないと一人で計画が着実に進みつつあることに満足感を覚えつつ、バス停に向う。五時十分発に間に合うぞ、そうすれば軽い食事をしても、開演の七時には充分間に合うはずだ。意気揚々とバス停に向う。もうバスがあるではないか。うん?先発の札がまだバスに表示されていないぞ、とやや不安な面持ちで発車時間を確かめる。なんといつもの五時十分発バスは特別ダイヤのため運行されていないではないか。しかたがない、次のバスを待つよりは駅まで歩くほうが早いと計算し、駅につき、順調に池袋経由で目黒に着いた。時間は午後六時十分。
 余裕余裕といいつつ、勝手知ったる目黒駅。一応コンコースの地図を見たら「めぐろパーシモンホール」の表示が無い。それでキオスクのお姉さんに一応場所を聞いてみた。わからないという。そして、交番の場所を教えてもらったのだが、いずれにしろ近いところにそのホールがあるからと思い、その前に軽くお腹になにか入れたいと眺めればチェーン店のうどん屋があるではないか。ぶっかけうどんが何故かしら399円なので注文し食べる。旨い。食べ終わった後、隣で食べ始めた高校生が四人でいたので、一応「めぐろパーシモンホールはどちらか知っていますか」と尋ねた。するとそのなかの一人が「ああそれならば、駅の向こう側で右折してちょっと歩いた所にあります」と言う。そうだよな、確かあのあたりのあのビルだと想像した。なにしろ、目黒駅界隈は結構詳しいという自負があるものだから、その説明を信じ歩き始めた。ところが、歩いてもそのホールはでてこない。道を行き交う人に尋ねてみてもみんな知らないという。あれっ?変だなと思いつつ、不安を抱えながら尋ねるために近くのホテルに飛び込んだ。受付けの方がこういうではないか。「お客様、ここは目黒が最寄り駅ですが、ここにはそのようなホールはありません。」調べてもらったら「お客さん、お尋ねのホールの最寄駅は目黒駅ではなく、都立大学駅です。」と言う。えっ!なに!都立大学駅って何線?パニックである。
 そのとき時間は既に六時四十分。ホテルの人にタクシーを呼んでもらい乗り込んだ。そしてタクシーの運転手に地図を見せた、するといま渋滞しているので裏道を行くという。こちとらは、いまの場所と都立大学駅との土地勘はない。果たして、どのくらいの時間で料金はいくら掛かるのだろうかと心配であった。
 タクシーのなかで、どうして最寄駅を間違ったのかを考えるのであった。どうやら、数日前に家族にそのホールの話をしたこと、そのホールが駅前であることを聞いたように思う。ああそうか、駅前といっても、目黒駅前とは言ってなかったかも知れない。自分で勝手に目黒駅前と思い込んだ気がした。確認しない自分が悪いと忸怩たるものがあった。
 タクシーのなかで、時間は刻々過ぎ、駒沢通りとか下馬とかの表示が見えてきた。しかし、さっぱり方向がわからなく、あとどのくらいで目指すホールに着くのかもわからない。落ち着かない。
 そのとき、これはもしかしたら、パーシモンが私に復讐しているのではないか、間に合うはずの計画が間に合いそうもないことは、パーシモンののろいではないかとタクシーのなかで一人心配するのであった。メーターは刻々上がっている。
 そうこうするうちに七時五分目指すホール前に到着。タクシー代1980円を支払い、結構の出費だったと思いつつホールに駆け足で急ぐ。着いたとたん、よく聴いたことのあるメロディーが流れている。トイレを済まし、ほぼ満席のなか空いている二階席に座る。
 初めてのホールなので周りを眺めつつ、遅れてきたことを悔やんだり、どうしてこんなことになったのかを考えた。防音装置にパーシモンを使っているからこのような名前がついたのかなと考えたりしていた。その一方、もしかしたらということで、これは「パーシモンののろい」かもしれないと思ったのである。
 パーシモンののろいと考えたのは、永く使用していたゴルフクラブ、そのなかでパーシモンで出来ているドライバーが好きだったのに捨てたことで、そののろいが襲ってきたと思ったのである。あのパーシモンのドライバーの乾いた音色が好きだったのである。そのクラブに出会ったのは、ゴルフに熱を上げていた若い頃のことである。ゴルフの上手な職場の先輩からゴルフクラブを十五万円で譲ってもらったのである。そのクラブセットは当時有名プロゴルファーが使っていてとても人気があった。ところが、アベレージゴルファーの自分に会わないことを十何年もあとに知ったのである。そして、最近、そのクラブを新しいセットを買うときに捨てたのである。その捨てたパーシモンのドライバーが私をのろっているのではないかと思った。
 さらにまた、柿が好きで庭に柿の木を植えていたことがあったことを思い出した。毎年、柿がなるのを楽しみにしていたが、ある年からならなくなった。それで根元から切ってゴミに出したことがあった。これものろいかな。
 演奏が午後九時に終わった。帰りの最寄駅である都立大学駅まで急ぐ。そして、道すがらの商店街にある名前を目にした。柿の木坂商店街とあるではないか。「柿の木」?うん、そうか、だからパーシモンなんだ。ゴルフクラブではないのだ。待てよ、柿の木坂?
昔、流行った歌があったな。青木光一の『柿の木坂の家』だ。あの高音をまねつつ小さく口ずさんでみた。おかしくなった。そうか「めぐろパーシモン」という名前はこの土地の名前から出来ていたんだ、きっと。
 ああ恥ずかしい。日頃、学生に「思い込みを持つな」と言っている自分にガツンとパンチを食わせている自分がいた。そして、今度コンサートに行くときは、行きかたを事前にしっかり把握しようと学習した自分がいた。パーシモンはのろったのではなく、私に教えてくれたのだ。
 そうそう、演奏が素晴らしかったので、充分に楽しめたことは伝えておかなくてはならい。(2006年2月23日)