コラム 過去ログ
ホームへ戻る
コラムのトップへ戻る
コラム(010)
コラム
■言葉の定義
 横綱朝青龍がとうとう引退に追い込まれた。追い込まれたと書いたのは、形は自主的に判断して引退となったわけだが、精神的肉体的限界をさとって、いさぎよく引退の花道を飾ったのではないことは明らかである。最終的には日本相撲協会から引導を渡されての決断だった。
 それを受けて、朝青龍本人は傷害事件のこと、功労金、退職金への影響を計算もしたことであろう。しかし、朝青龍はまだ29歳、これからも優勝を積み重ねていきたいという意思は、あったように思う。自分のまいた種という自覚はあったにしろ、くやしさはひとしおであろう。
 朝青竜については以前より、、委員会や協会において、土俵上の態度とか横綱としての品格とかが常に取りざたされて来た。例えば、土俵上のガッツポーズはいけないという。私には、精一杯精進して、やっと会心の一番を勝ったという誇り、安度から自然に出たように見えた。
 今回の始末について、日本相撲協会の説明責任が果たされていないのは残念だ。なぜ、きちんとした説明責任が果たされないのだろうか。そこには、協会としての倫理規定のあいまいさが潜んでいないだろうか。
 相撲の永い歴史の中で、あるいは国技の名のもとで、日本人の力士像が前提となっている取り決めがあるのだろう。外国人は「郷に入れば郷に従い」を守って欲しいと願っているのかもしれない。問題は、規定と処罰の関係が明確になっているか、規定の解釈があいまいになっていないかということである。
 私は、「品格」なんて定義できるものだろうかという思いが強い。人によって感じ方が違う。幸福に感じるか不幸に感じるかなどは個人によって違うように。ただ、協会が「品格」はとても大事で「品格」を損なうことがあれば処罰を受けるという取り決めがあるのだということであれば、「品格が著しく低い」事例を具体的に上げ、その個別に合わせて処罰のルールを明らかにし、力士に指導しなければならない。そのような仕組みがあるのだろうか。力士がそれらに対して、意見をいうような場があるのだろうか。
 最近の外国人力士の数はとても多い。文化や生活習慣の違いを乗り越えて活躍することは並大抵の努力が必要である。そのような彼らに対して協会や親方衆のコミュニケーション力は大丈夫だろうか。そのような積極的な改革を推進しないで、力士側のせいにするのは、力士になりたい若者は増えないし、ファンの相撲離れを促進する。
 コミュニケーションは対外国人だけでなく、日本人力士に対しても同等にわかりやすく説明し、指導していく責任が相撲幹部にある。
 折しも、先般協会の理事選挙がもめていた。これらの騒動が新しい日本相撲協会の発展につながることを期待したい。(2010/02/11)


■しょっぱいカプチーノ

 今日は年末の日曜日。家族が外出していたので、ひとりでおやつとコーヒータイムにしようと台所に立つ。さて、コーヒーも沸かすのは面倒と、廻りを見渡したら、カプチーノと書かれたのが袋であった。これは以前飲んだことがある。粉末をカップに注ぎ、少し甘くしようと砂糖を小さじ一杯入れて、お湯を注いだ。うん?熱くない。レンジでチン。おやつを食べて、早速カプチーノを口に運ぶ。うん?甘くない。しょっぱい。どうして?おやつのあられがしょっぱいせいかな。まぁ、いいかぁ。こんな味だったかな、カプチーノって。どちらかといえばコーヒーより紅茶が好きなので、コーヒーのことはよくわからないのだ。
 しばらくして妻が帰宅した。「カプチーノってしょっぱいのだっけ」と聞いた。「いや、甘いよ」「変だな砂糖を入れたんだけど」「どこの」「台所の手前のカップから」「手前のは塩」。ギャフーン。
そういえば、白かったな。砂糖はいつも茶色だったことに気付いた。あぁ、塩分取りすぎ。
 なぜ、入れるときに気がつかなかったんだろう。
 その日、テレビで若年性認知症になった57歳の男性のことが放映されていた。計算ができないとか、時計がわからなくなったり、物忘れがひどくなったりするそうだ。いやいやまさかね。
 若年性認知症とは、18歳から65歳未満の人のことを言うらしい。まだ、僕も65歳未満だから
「若年」でいいんだ、などと変に感心しているのだった。
 でも、気をつけよう。この病気の予防にはちゃんとした食事と睡眠、適度な運動が大切らしい。また、予防に役立つ食品はゴマ、青魚、人参、ピーマン、緑茶らしい。(2009/12/27)

■中高年への音楽普及の提案

 いま、中高年が音楽を楽しむ活動が活発だ。テレビでは、おやじバンドなどのコンテスト番組が作られている。地方で予選会を通過したアマチュアバンドが、決勝大会で全国に放映される。いわば、中高年の音楽版甲子園といってもよい。
 楽器メーカーなども子育てが終わり、そろそろ定年を迎えようとしている、あるいは迎えた中高年に対して、プロモーションが盛んである。中には、大人のための音楽教室を開いていたり、発表の場を提供しているところもある。団塊の世代の多くの中学生、高校生時代は60年代のアメリカンポップスに親しんだものだ。その人たちが、しばらくぶりに音楽をじっくり楽しみたいと思うのは当然で、そのような音楽環境が整備されるのを期待している。
 近年、音楽CDなどの音楽ソフト・パッケージが売れない。そのため、レコード業界では、中高年の音楽ファンの開拓に躍起になっている。彼らを意識した企画CDなどを発売している。先日も、ビートルズのCD発売が人気を呼んだ。
 かつて、30数年音楽業界に身を置いていたものとしては、このような音楽業界の関係者の取り組みにエールを送るものである。
 ただ、ひとつ不満がある。それは、アーティストのライブのチケット購入に関することである。先日、あるアーティストのチケット購入をしようとインターネットでアクセスしたら、「受付終了」のサインがでた。当日の受付開始が10時であることを失念していて、午後12時半頃、あわててアクセスしたので、遅くアクセスした私の方が悪いことは、百も承知であるが、なにか釈然としない。他に購入する手だてがあるのかわからない。日常、毎月のようにライブのチケット購入をしていないので、チケット購入のシステムについて知識がなく、このような結果を招いたのである。しかし、それで、なにがなんでも、そのチケットを購入しようというほどのエネルギーはない。ただ、とまどい、やるせなく茫然とするだけである。
 そこで、チケット販売について提案したい。ライブのチケットを買う人は当然、こんなことは知っているよね、当たり前だよね、という暗黙の了解が業界の方々にないだろうか。ライブを観たいコアの音楽ファンだけではなく、たまにかも知れない中高年の音楽ファンのために、チケットなどの購入について、いろいろの方法があるならば、そのようなことの啓蒙運動や、簡便なわかりやすい購入システムなどの構築をお願いしたいと思うのはわかがまだろうか。業界の課題として、中高年の音楽人口を開拓したいのであれば、中高年(特に高齢者)の音楽に関するニーズや不満を感じ取って欲しいと願わずにはいられない。せっかく、扉をノックしているのだから。(2009/09/26)


■浅草サンバカーニバルの夢物語
 先週の土曜日、浅草で飲み会があった。飲み会は午後4時からなので、折角だから、少し早めにぶらりと観光でもしようと思った。偶然、その日は、浅草のサンバカーニバルが開かれている日だと聞いた。浅草のサンバカーニバルはいつも新聞などのニュースで知っていた。しかし、観たことがなかったので、丁度よいと思い、デジカメ持参で浅草に向かった。日差しが暑かったので、炎天下の見物で日射病にならぬよう、帽子をかぶっていった。銀座線の終点の浅草で午後3時到着。わぁ、すごい人出。中には、道路沿いにシートを広げ場所取りをしている人が多かった。
 プログラムもなにも持っていないので、さて、どのようなことが起こるのか皆目、見当もつかなかったが、遠くで音楽や笛の音が聴こえてきて、胸騒ぎがしてきた。なんで胸騒ぎかといえば、もう少し待てば、向こうから、若く豊満な肢体をくねらせながら、ブラジル女性が現れると信じているのである。最初に、現れたのは、確かにエキゾチックな人たちだったが、女性だけでなく男性も、マントみたないものを身にまとい、踊りながらやってきた。うん?これがサンバカーニバル。少し待機していると、次に来たのも、日本人だし、別に胸騒ぎなんかしないただの踊りだった。
 飲み会までの時間が迫る。少し焦る。もっとスタート地点に移動すれば、きっとすごいのが観られるはずと信じ、人込みをかき分け、進む。人だかりで写真撮影ができない。すると、ある金融会社の玄関前の傘立てに上がっているおじさんがいた。これはいいなぁと、しばし、その横にたたずむ。おじさんが疲れたら、代わりにその場所を占拠しようという魂胆だ。願いが通じたのか、ようやくおじさんがその傘立てから降りた。しめた。さっと、そこに上った。傘立てと言っても、パイプでできており、高さ40センチ、上面は縦20センチ、幅30センチの小さなものである。きわめて安定性がよくない。それでも、体重を均等にかけながら、デジカメの電源を入れてスタンバイ。期待に胸が高鳴る。
 そうこうするうちに、音楽が聴こえ、踊り子集団が来た。あれっ?日本人?ブラジル人じゃないの?やや失望するも、いゃ、きっと今に来ると待ちわびる。傘立ての上に立つこと20分。コケないようにしているものだから、足にしびれがきている。もう少しの我慢と自分を勇気づけていたが、次から次と日本人ばかり、それも、踊り子といえない衣装もまとっている。とうとう、限界を感じ、傘立てから降りて、飲み会の会場に向かった。
 とても気温が高かったので、最初のビールはおいしかったのだが、飲むうちにもなぜか充実感がいまひとつ。もしかしたら、これは相手(浅草のカーニバル実行委員会)が悪いのではなく、こちとらの勝手な勘違いかも知れないと思った。日本人の祭りなのだ。でも、グラスの向こうに、リオのサンバカーニバルの踊り子が見えた気がした。少し、酔ってきたかな。団塊エロジジイの祭り報告でした。歳をとっても、なにごとも興味を持って、行動に移すことが大切と納得させている今日この頃だ。(2009/09/05)


■肉食と内食の話
 あぁ驚いた。22日の日経産業新聞に掲載されたタイトルを見てびっくり。タイトルが「働く男性 内食増やす」とあった。副題に「NTT系調べ 簡単メニューで節約」とある。 驚いたというのは、このタイトルの早読みで僕がこう読んだからである。「働く男性 肉食増やす」と。最近、マスコミが「最近の男は肉食系よりも草食系が増えている」という記述をしているのが目立つ。いつのまにか僕の脳裏にこのフレーズが刷り込まれていたらしい。まあ、もっとも、こんな早とちりは僕だけかも知れないが。
 ただ、ここは少し弁解がましくも、言いたいことがある。最近のマスコミが、男に対して、なぜ、単純に肉食系と草食系なんてのに分けるんだろう。一体全体、肉好きばかりの男とか野菜ばかりの男なんて、単純に分けられないだろう。宗教的にとか特別の精神的こだわりを持った男ならともかく、こうもスパッと割り切れるもんではないだろう。これは食べ物の嗜好性の変化を言っているのではないとわかっていても、この手のマスコミの論調にはいつもうんざり。
 話をもとに戻そう。この記事の中身はこうだ。「昨年以降、働く男性が自宅で朝食や夕食を取る回数が多くなっている」というものだ。要は、アンケート結果より、最近の節約志向の一端を紹介したもので、外で飲んだり食べたりの回数を減らしているということなのだ。
 ここでまた、吠えたくなった。だって、外食という言葉は国民に定着している言葉だが、内食なんていう言葉、僕は知らなかった。どう読むのだ。ナイショクと読ませるのか。だったら、少し前まで出ていた言葉の中食はなんだ。チュウショクがそれともナカショクか。ナカショクになぞらえればウチショク。おかしかないか。外食はまぎれもなくガイショクだ。
 国語は時代とともに衰退する言葉もあれば、新しく登用される言葉もあるのが世の中の常なれど、マスコミに関わる仕事をしている人の言葉遣いは慎重にして欲しいものだ。
 時あたかも衆議院が解散し、政界が揺れ動いている。与党野党の言動にマスコミが同調加担して欲しくないのだ。具体的には、ひと頃の小泉内閣のときのようにワンフレーズの言葉を新聞紙上やテレビで言い続けないで欲しい。総じて、ムードに弱いのが日本国民だ。私たちは、このワンフレーズの怖さはかつての戦争時代の日本にいやというほど、経験したはずである。だから、視聴者、読者に媚を売らないマスコミの矜持を期待したい。自分のおっちょこちょいからこんなことを言うのもなんだが、なにかが変わる時の熱情は大切だが、一方、冷静に気持ちをいつも持ち、ムードに酔わないでしっかり判断していくことが求められる。そのことを自制を籠めて言いたいのだ。(2009/07/23)


■サイモン&ガーファンクル日本公演
 サイモン&ガーファンクルの日本公演が7月15日日本武道館で
追加公演があり、行って来た。
 S席2万円で安くはないが、このチャンスは絶対逃したくなかった。
ただ、チケット購入に慣れていないので、少し遅めに注文した。
そのせいか、1階のアリーナ席(ちゃんとイスがあった)の半分より
やや後ろの席だった。でも、二人の顔はしっかり見えた。
 観客は当然ながら僕の年代に近い人が圧倒的に多い。それと、夫婦ずれが
目立った。しかし、40代くらいの人も結構いた。
最初の登場から、地響きがするようななんとも言えない歓声のなか
始まった。これは、予想していなかったので、心臓が驚いているのが
自分でも分かった。
 ガーファンクルの持ち味の高音はさすが、少し苦しいがそれでも
力強い声に圧倒された。そして、サイモンも相変わらずのギターテクニックと
アクションで観客を引き付ける。ふと、斜め前の50代の男性が肩を震わせ泣い
ている。彼にどのような思い出があるのだろうか。ライブで泣いている人を見
たのは初めてなので、新鮮だった。
 最高潮に達したのはやはり、「明日に架ける橋」。ピアノがスタートすると
水を打ったような静けさ。そこから、徐々にテンションがあがり、万雷の拍手
が鳴り響く。
 そして、なんどもなんども拍手に促され、登場。締めは「セシリア」だ。
最後までバックのミュージシャンの演奏も素晴らしかった。あっとい間の2時間だった。
 僕は1970年に就職した。そこで、レコード店からひっきりなしの注文が来たのが
写真にある「明日に架ける橋」のLPだった。このアルバムはポップス界の歴史的
名盤に入る。ニューヨークの9.11事件の後にラジオ局からこの曲が流れ、全世界に
感動を呼んだといわれている。この曲の詞に"I'm on your side"というものがある。日本語訳は「僕は君の味方だよ」。この言葉は、僕が学生の就職支援にかかわる時の理念の言葉でもある。
 帰り道、心地よい興奮の中、明日を信じて、明日の一日も自分なりに精一杯頑張って行こうと心に誓った。(2009/07/16)



■「自己信頼」という言葉

 オバマ大統領の座右の書といわれている『自己信頼』を読んで、昨今の刑事事件のことを考えてみた。
この本の著者はアメリカの思想家・詩人ラルフ・ウォルドー・エマソンである。160年全世界の人々に読み継がれているという。副題には〜自分の考えを「徹底的に」信じて生きているか?〜とある。
 最初のページのトップに書かれている言葉がある。それは、「汝、自らの他に求むることなかれ」である。この本の内容はこの言葉に凝縮されている。
 自分の考え、自分の信ずるままに生きなさいということをいっている。「ねたみは無知であり、人まねは自殺行為であること」「自分に与えられた土地を耕さないかぎり、身を養ってくれる一粒のトウモロコシでさえ、自分のものにはならない」と述べている。
 最近、うっぷん晴らしのような凶悪な殺人事件が相次いでいる。秋葉原の無差別殺傷事件、元厚生事務次官殺傷事件、先日も、大学の教授が元教え子に殺されたばかり。この大学教授事件の真相はまだわからないが、報道では、容疑者が自分の今現在の不遇を嘆き、そうなった原因は教授のせいだといっていることを伝えている。
 これら一連の事件の犯人(容疑者)に共通項があるように思う。それは、前述の言葉「汝、自らの他に求むることなかれ」ではないか。彼らは「なにごとも自らの他に求めている」と言えるのではないか。自分の内面を静かに観察することを忘れ、常に外を意識している。だから、いつも振り回される、いつも不安感にさいなまされる。自分自らがそのようにしていることに気づかないでいる。自分の足を食いちぎっているタコがいつか足がなくなり、泳げなくなるということに考えが及ばず、相も変わらず腹を立てて自分の足を食べている構図だ。自己信頼がないのにあると思い、他人を信頼できないという考えに立っているのではないか。その結果、他人に攻撃の矛先を向け、突き進む。その刃が自分に向かっていることに気づかずに。どんな環境に置かれても「イエス」という生き方もあることを事件を引き起こした犯人(容疑者)は、いつ知ることになるのだろうか。あるいはこれからも知らずに刑務所のなかで人生を送っていくのだろうか。
 私たち人間の感情には絶えず喜怒哀楽が宿っている。どんな時に喜びを感じるか、どんな時に怒りを感じるか、どんなときに哀しみを覚えるか、どんな時に楽しいと思うかは人それぞれである。その感情が起きる前提の事柄への解釈の違いが、人によっては怒り、人によってはさほど怒らないということを生み出す。
 自分の中にある感情が芽生えた時、とりわけ怒りの感情が芽生えた時には、もしかしたら、他の解釈・理解の仕方がないかどうかと想像してみることは極めて大切なことではないか。なにごとも物事への対応の仕方で変わってくる。人間だれしも、生きたいように生きることができるのではないか。あるいは、生きたいように生きているのではないか、と思う。事件を起こしている人たちは、そのような道を自ら選んでいる自分に気がついていないのではないかと思う。自らを信頼できて初めて他人を信頼できる。自分を尊重し、自分を信頼できない人がどうして、他人を尊重し信頼できようか。(2009/5/31)


■石川ファイト!
僕の大好きなプロゴルファーの石川遼がアメリカツァーで予選落ちするなど苦戦を強いられている。期待が大きいだけに予選落ちすると大きく騒がれる。スター性のある石川
だけに致し方ないか。先日の予選落ちの要因などは素人の僕にわかるわけないが、ある程度の推測はできる。ここは一人のファンの勝手な意見を述べることをお許し願いたい。
 今回に限らず、最近の予選落ちの要因のひとつはスイング改造である。プロのコーチのアドバイスによるものらしい。右肩を下げてアッパーブローに打つことで、飛距離を伸ばそうとするものだ。このニュースを見たときに、おやっと思ったことがある。石川はドライバーなどはもともと弾道が高い。それなのに、いま以上に弾道を高くする必要があるのかという疑問である。
 もうひとつは、技術的なことではなく、精神的なものではないか。精神的なものとは、ゴルフというスポーツに対する考え方、それを土台にしたコースマネジメントのことである。そのことの追及、思考を深めていくことが彼にとっていま必要な課題ではないのか。 彼がアマチュアのときの座右の銘として「急がば廻らず」ということを語ったことを聞いたことがある。これは、多少の危険は避けるのではなく、果敢に挑戦することで活路を切り開いていく姿勢を重視したのだと思う。そのことが、長期的にみて、自己成長を促し、長期の成功をもたらすと信じているからだ。いわば長期的投資だ。
 このことについて、少し懸念がある。というのは、ゴルフはリスクに対してどう向き合っていくのかというスポーツだと思う。彼の考え方は「いつもリスクを取る」ということたけにこだわっている気がする。大事なことは「リスクを取るとき」と「リスクを取らないとき」の両方の使い分けが重要ではないか。彼のいう「急がば廻らず」にしても、ときには「急がば廻れ」も必要なのではないか。要するに我慢である。これは消極的というよりは積極的な勇気ある意思決定という側面があるのだ。
 このような考え方を持つとか、試合に臨む当日に、考えを鮮明に持つには、コーチを雇った方が良いと思う。コーチングをしてくれるコーチだ。コーチを雇うことがいやであれば、自分がコーチになればいい。セルフコーチだ。自分が自分をコーチするのである。
 例えば、こうだ。「遼、今日の一番ティーにはどんなイメージで立つんだい」と自分に呼びかけ、それに対する答えを声に出して確認することだ。このメリットはたぶんゴルフに集中できることだ。
 今の石川は人気者ゆえ、まわりが必要以上にフットライトを浴びせる。そのさなかで今の石川はゴルフに集中できていない気がする。彼の会見とかインタビューを観ていると、なかなかスマートで好感が持てる。それはいいのだが、まわりやマスコミに気を遣いすぎているのではと思ってしまう。プロとしての責任、義務としてサービスをすることは当然かも知れないが、あまり他人の目線を意識することにエネルギーを費やして欲しくないと思う。これだけの逸材である。マスコミも一喜一憂しないで永く温かい視線を送りづけて欲しい。
 ついでに僕の石川に対する願いをふたつ。ひとつは、プレー中にミスしたときにクラブを地面にたたきつけることは絶対して欲しくない。もう一つは、将来タバコを吸って欲しくない。後に続く子どもたちのためにも。
 愚直にゴルフ道をまい進する石川のことだ、日々進化し続けるに違いない。どっしりと着実に前を向いていって、僕たちに子どもたちに夢をプレゼントして欲しい。石川ファイト! (2009/03/29)


■資格取得ブームにつけこまないで
 漢字検定で有名な日本漢字検定協会に文科省の指導があり、近く同協会に対し、立ち入り調査を行うことが新聞報道された。
 この日本漢字能力検定協会は京都市にあり、財団法人で文科省の管轄下にある。今回の調査理由は、検定ブームにのり利益が過剰になっており、税の優遇措置を受けられる公益性の立場にありながら、受験料の値下げなどがなく運営が不適切だというもの。
 2000年には158万人の受験者が2007年には272万人ものに増えている。この漢検の受験者の特徴は小学生か高齢者までと幅広い。多くの受験者のおかげで、利益は毎年、7億円から8億円にも上っているようだ。
 この協会は毎年、今年の世相を漢字一文字で表現しているもので、昨年は「変」という文字が公表された。今回の指導を受けたことは、まさしく、社会から見れば「変」である。この協会では、日本語文章能力検定というものも実施している。これらの試験では合否に関する問い合わせは受け付けていないシステムになっている。私も、以前受験した時に、その試験結果を見たら、ある設問の採点が零点になっていたので驚き、問い合わせしたが、完全に無視されてしまった。専門家が公正に採点しているので間違いはないと思うが、あまりにも納得がいかないでの問い合わせに対して、調査もしてくれないというのは、その公益団体としては不適切な対応、あるいはサービス心がないと感じたものだ。
 まず、国は財団法人などが取り行っている資格試験の実態について、この際、緊急に調査し、公表すべきである。また、いま国会で問題になっている天下りのことも併せて調査すべきである。
 次に、財団法人に限らず、民間の資格試験を行っている企業の受験料や審査基準、合格率の適正さなどの実態も調査していただきたい。合格率を厳しくするということは、安易に資格取得者を増やさないということでもあり、その資格の厳格性や価値を高めることなのでやむを得ない。しかし、一方、不合格になり、何度も受験者が受験するということは、その度ごとに受験料が発生する。よもや、利益を上げるために合格率を厳しくしていることはないと思うが、実態調査に乗り出して欲しいと願うものである。
 離職のリスクをいつも感じながら働いている人にとっては、資格取得なので自らの生き残りをかけていることもあろう。あるいは、就職難の昨今、資格取得に励む学生も多く存在する。このようなブームにつけ込む悪質な業者もいるかも知れない。国は、今回のケースに限らず幅広く調査し、国民に開示すべきである。(2009/01/24)


■家の改装
 昨年末、家の改装をした。工事は11月中旬から12月末までとかなり大がかりだった。住みながらの改装だったので、荷物の整理や移動はしょっちゅうだった。職人さんへのお茶出しにはじまり、注文など妻の負担は大きかった。
 ただ、いいこともたくさんあった。なにより、よかったのは、仕事から帰って来て、その日の工事の進み具合を確認できることだった。「おっ、こういう風に変わったか」など驚きの連続だった。
 そして、家の中の整理が進んだこともよかった。必要だと思って長年持っていた本や使わない食器や衣類など相当数廃棄処分した。捨てる時は多少の勇気がいるが、捨ててしまうと、部屋の中が片付き狭い部屋が有効に使える。所有欲もほどほどにしないとと思った。
 家の改装をして感じたことは、ただ単に壁や屋根がきれいになるのではなく、それまで暮らしてきたことの整理でもあることだ。家族それぞれが、一緒に住みながらも自分の暮らしをしてきた。そこで、改装という共通の大仕事に立ち向かうことになった。大げさにいえば、各人の生き方の棚卸でもあったのだ。
 棚卸は過去の振り返りとともに未来への準備でもある。今年一年家族全員が健康に留意し、どんな困難にもたじろかず、自分を見失うことなく、牛歩のようにゆっくりと、どっしりと過ごしたい
ものだ。(2009/01/04)



■プロの涙
 プロゴルファーの石川遼選手が11月2日プロとしてマイナビABC選手権に初優勝を果たした。ショット、寄せ、パットとも好調で、その技のすごさに見ている方がわくわくして見られた。一言で表せば「小気味よい」プレーぶりだった。その集中力、執念はおそらく並はずれたものを持っているのだろう。
 プレッシャーがなかったはずはない。みんなの期待をエネルギーに転換できる力は凄い。時には「みなさんが考えているほどにはうまくない」とかの気持ちももったことがあるという。それは、アマチュア時代には感じないことだっただろう。そして、優勝を勝ち取ったときの涙は見る人を感動させた。その涙は頑張った自分へのねぎらいと応援してくれるファンや親族、スポンサーなどの周りの人たちへの感謝の気持ちが表れたものだ。
 数日前にマラソンの高橋尚子選手が引退記者会見で記者からのねぎらいの言葉と拍手に思わず涙したという。この涙も、石川選手と同様やりとげた充実感とともに、まわりの方の支援があったればこそを実感として再認識させられた瞬間にわき起こった涙なのであろう。
 このプロとしての涙はなにもアスリート特有のものでもない。プロということばを自分に置き換えても、給料をもらいながら仕事をしているということはまぎれもなくプロということだ。この二人の涙を見ながら、自分も涙をながしたくなるほどの仕事をいましているだろうか、心のどこかに人のせいにしたりはしていないだろうかと反芻するのだった。
 石川君ありがとう。そして高橋さん御苦労さま。(2008/11/03)



映画『おくりびと』を観て
今月13日に封切された映画『おくりびと』を14日に観てきた。音楽家をやめて、納棺士になるという設定が耳新しかったし、主役の本木さんがどのように演技するのか、また私の大好きな俳優の一人である山ア努さんが出ているので、ずっと前から楽しみにしていた。私自身は、葬儀のときの納棺には何度も立ち会ってきたが、体を清めたり、化粧をしたりなどの儀式をここまでやるのは見たことがなかった。だいたいが納棺士なる職業があるのさえ知らなかった。「死は終わりではなく、門をくぐること」と言った火葬する役のセリフが重たい。本木さんは、尊厳を籠めて最後の旅たちを取り仕切る納棺士の役を見事に演じている。また、テーマが暗いのだけれど、コミックさを適当にちりばめており、見終わって暗くなる映画ではなかった。バックに流れる音楽も非常に良かった。木本さんが弾くチェロの音色も、人々の心の中を吹きわたる情景を写し出していた。納棺という仕事がテーマではあったが、本質的には人間の心のテーマを扱った映画だと思う。
映画館は封切直後ということもあってか、結構、満席に近かった。そして、最近、新聞の投書欄で「さわがしい観客」のマナー不足をなげくのを見たが、とても静かであった。映画の中身のせいか、たまたま観客の皆さんがマナーが良かったかはわからないが。お陰さまで集中して楽しむことができた。1000円で楽しめる映画は貴重な娯楽である。
(2008/09/15)