アヤシイ大王
 
― 用明天皇(547?〜587)



 多少の想像を交えて生没年を書いてみましたが、生年はもとより、没年も疑おうと思えば疑えます。私的には、存在や業績がいまいち定かでない日本の古代史の人物の中でも、とってもアヤシイ度が高いです。

 言うまでもなく、用明天皇と言えば、聖徳太子のパパとして有名です。推古女帝の実のお兄ちゃんとも言えます。イメージ的には、天皇としての在位期間は短く、短命だったと想像され、土壇場で仏教に帰依する発言をした以外では大した業績も挙げていない(ってゆーか、これが一番のポイントなのかも知れないが)、影の薄い天皇かも知れません。息子や妹の方が派手に活躍してます。異母兄の敏達天皇の後を受けて即位したのも、はっきりいって妹の敏達皇后(のちの推古)のおかげっぽいんじゃあなかろうかと想像。

 しかし、注意して資料を見てみると、おや、と目を引くことが出て来ます。有り体にいうと、「池辺皇子が斎王の菟道皇女を犯した」件です。この池辺皇子が誰なのかというのははっきりとは書かれていないですが、まず用明のことだろう、と言われているようです(違うならそれっきりであるが)。私的には、この事件が妙に喉に引っかかった小骨のような気分がしたのでした。何故かと言うと、まず、同種の事件がいくつか起こってます。「茨木皇子が斎王の磐隈皇女を犯した」という話がまずあり、それから池辺皇子と菟道皇女、また、その後敏達の殯宮で穴穂部皇子が敏達皇后(推古)を犯そうとしたというのもあります。これはかなり有名ですね。
 用明は磐隈(と推古)の兄、穴穂部は茨木の弟です。正直言って、(茨木はともかく)この連中、学習能力がないのか?と思ったものでした・・。(そういう問題だろうか!?)

 茨木皇子は、用明の異母弟で、用明の妃の穴穂部間人皇女や用明と皇位を争おうとした(?)穴穂部皇子、そして祟峻天皇らの長兄という立場であるにもかかわらず、史料では磐隈皇女との件の一行を最後に姿を消してます。それ以降、鳴かず飛ばずになったのは、もしかすると早世したのかも知れないけれど、いずれにせよ、この件の影響もあったのかも知れません。仮に最初の茨木と磐隈の事件が「スキャンダル」であるなら、ちょっと理性の働くものなら損得勘定で自粛しませんかね?(!)  もっとも、同種の事件を引き起こしていながら、用明が即位できたのは、そんなこと別に大した事件ではなかったのか、そうでなければ(多分、こっちが本命?)妹の敏達皇后(後の推古のことね)がかばったのでしょう、と想像。 (ちなみに、穴穂部皇子が用明即位に文句言ったのは、そのせいでは、と梅原猛が言っていたような)

 小骨の二つ目、というのでしょうか(笑)、敏達の娘の「菟道皇女」は、資料を信用すると、二人います。敏達と息長広姫との間の娘、菟道静貝皇女と推古の娘の菟道貝蛸皇女(聖徳太子の妃として知られる)ですが、菟道貝蛸皇女のことを菟道静貝皇女と記しているもののあり、この二人は混同されているのではないかと思っております。もっとも、推古の娘だとすると、あまりに鬼畜と言うか(意味不明)、私が推古の立場なら、娘を犯した(恥をかかせた?)相手を、たとえ実の兄であれ、夫の次の天皇に推すことはしたくないと思うが・・。しかも、後に息子の方の妻にするというのも大変に妙では・・?。(取りようによっては、敏達(もしくは推古)の娘婿として云々、はありかも知れませんが、それについてはちょっとここでは留保しておきます)
 推古以外の妃の娘であれ、敏達の娘が相手では、敏達天皇の7年(576年?)という時期、年齢的にいかがなものか、と思わぬでもないような・・。年齢については、古代の人物の没年など、ホントかいな?というものが多くて特定できないのが残念ですが、筆者的には数え14〜5を下限としていただきたい(意味不明)  しかしその、用明の妃の穴穂部間人皇女が夫の死後に再婚しているのも、なんとなく心情的に分かるようなわからないような・・(???)

 茨木と磐隈の話を聞いた時、その後彼らはどうしたのだろう?と素朴な疑問が沸いたものでした。どこかでひっそりと二人で暮らしたのか・・身も蓋もない言い方すると、夫婦に収まったのか、切れたのか、ということですが(汗)
 さて、菟道皇女の件について非常に面白い説があります。つまり、用明と菟道皇女の子が鏡王、すなわち額田王の父である、という(『斎宮志』(山中智恵子)に紹介)。根拠があるのかないのか、ぜひ知りたいところなんですが、ヒントになったのは、「秋の野の み草刈(か)り葺(ふ)き 宿(やど)れりし 菟道(うじ)の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ」という額田王の歌らしいですね。ついでながら、額田王の母は、推古の孫の山背姫王が比定されているのですが・・マジ?



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