補足:「記紀」のツッコミどころ


私個人的には、用明と菟道皇女の子が鏡王で、鏡王と推古の孫の山背姫王の子が額田王というのは、説を唱えた方の妄・・想像の域を出ないのでは、と思います。ちなみにこの「説」は、神田秀夫という人のものですが、『シャーマン誕生』(小島信一)という本に載っていると、山中智恵子『斎宮志』という本に紹介されてます(ややこし〜)
それではこの説が全くのトンデモかというと、必ずしもそうではなく、むしろこれは「記紀」のツッコミどころをひとつふたつ擦ったものだと思ってます。

まず、「古事記」には、推古の孫・・敏達天皇の皇子(押坂彦人皇子)と推古の娘との間に、「山代王」なる人物がいることが書かれてます。やましろ、ですね。この書き方では、性別はいちおう不明です。
ところで、この「山代王」と同世代の人物で、かなりの有名人がいます。聖徳太子が蘇我氏の娘との間に儲けたという「山背大兄王」です。こちらも、やましろ、です。同世代で同じ名前を持つ王が二人いるというのはヘン、それで斎王研究家の方は、こっちの「山代王」は女性なのだ、と判断したのではと推察します。

しかし・・もしも、この「山代王」と「山背大兄王」が同一人物だとしたら・・?
「山背大兄王」は蘇我系王族ではなく、継体系の血も引く限りなく皇位に近い有力な皇子ということになります。舒明天皇の異母兄弟で、母の血筋では勝ることになるでしょう。「書紀」には「山背大兄王」が聖徳太子の子とは書かれてなく、また平安時代頃に「山背大兄王が聖徳太子の子ではないという噂があるのはけしからん云々」ということが言われていたそうです。かの小林惠子氏は、「山背大兄王」は推古の子で、一時期皇位についたとしていますが、真偽・説得力の有無はともかく、みなそれぞれ同じ箇所を突っ込んだということなのでしょう。

もう一つ言うと、額田王の素性として、用明系の子孫というのは不自然でないように思われます。私は、天智=漢皇子(用明の孫?の高向王と皇極との間の子)だと思っているのですが、額田王は、天智の身内・近親と考えてもおかしくないと思ってます。天智=漢皇子だったら、天智はいわゆる「聖徳太子」と近い関係にあるわけですね・・(^_^;)



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