おまけ:再婚の大后


 用明の大后と言われる穴穂部間人皇女は、用明と別の妃との子・田目皇子との間に娘を生んでます。この件について、かなりショッキング・スキャンダラスな捉え方をしている人も多いようです。うろ覚えですが、かの梅原氏も「信じがたい」とか「あり得ないように思える」とか、思い切り個人的主観を丸出しにしてらっしゃいますし、小説などでも「(蘇我馬子か推古によって)夫の死後に無理やりに再婚させられた」とか、ちょっと待て?再婚すると言うことは要するに悪いことなんだな?という評価がなされているようです。
 この「再婚否定的見方」は、「用明善人像」と同じくらいに違和感を持ったものでした。再婚すると何が悪いのでしょう?f(^ー^;

 「無理やり再婚」の動機づけに挙げられているのは、「皇后(大后)の地位から追い落とすため」というのがあるようです(ホントか?)。あとは、年頃の息子(聖徳太子とか)に与える「悪影響」というやつでしょうか(そんなん、知ったことか・おい!)。確かに、現代的な感覚では夫が他の女性と儲けた子とデキちゃうのは、アレですね。

 別方面から、この件を擁護することが可能なようです。すなわち、「穴穂部間人皇女はそもそも大后ではなかった」という考え方です。記紀をよく読むと、必ずしも皇后扱いされてはいない(らしい)です。さて、何故?本やらネットやらで見かけた説には、

 その1:大后は別にいた。候補1・蘇我稲目の女、石寸名媛、候補2・「菟道皇女」
 その2:用明はそもそも大王(天皇)ではなかった。何らかのデッチ上げがあったため、周辺人物が混乱している。

 田目皇子の母とされる蘇我稲目の女の名も、用明の母と混同気味ですし、流行の(?)「聖徳太子架空人物論」なども含め、様々な想像(妄想?)が可能なようです。

補足:
 「書紀」の読みようによっては、実は敏達皇后であった炊屋姫(後の推古女帝)が再び用明の皇后になった、と解釈できるらしい。推古の年齢の矛盾(夫と死別したのは34歳?32歳では?)を編集ミスとしないわけでせうか。
 そして、用明のところで書いた、磐隈皇女と茨木皇子とか、菟道皇女と池辺皇子とかのループネタが、これを暗示していると、、、この場合、用明と推古は母の違う兄妹と解釈するのかな?それとも、同じ母の・・。
 しかし、本当にそうだったら、穴穂部間人皇女、グレてよいぞ!いや、この時代の常識などは分からないが、大抵の場合の感覚において、コケにされていると感じてよいと思う(謎)

 ところで、どういうわけだか再婚で大后になってしまった女性がいます。舒明天皇の皇后である宝姫王こと後の皇極天皇です。子連れで舒明の妃となり、皇后(まだ大后かな)→天皇(大王)・重祚(斉明天皇)という出世(?)を遂げてしまいました。こちらの子連れ再婚は、後世の人の憶測を呼び(「連れ子」ってひょっとして・・?)、穴穂部間人皇女の場合よりもよほど物議をかもしているようなf(^ー^;



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