巡洋戦艦インコンパラブル級(英)

 インコンパラブル
 インプラカブル

 本級は、米国のサウスダコダ級に対抗できる火力とインビンシブル級に追従可能な高速性を要求されて建造された高速戦艦で、建造が中止されたインビンシブル級の5番艦、6番艦の資材と予算を拡大して建造された。
 本級は、第一次世界大戦末に計画された同名のバルト海侵攻用超大型軽巡インコンパラブル級とは全くの別物で、リナウン級巡洋戦艦の拡大改良型であるポスト・ジユットランド型計画艦名H3級高速戦艦を基として建造された18インチ砲搭載艦である。
 しかし本艦も、セント・アンドリュー級と同様に建造中に発効した海軍制限条約に従うため16"/45 Mark1型3連装砲塔3基を搭載する基準排水量48、000トン、全長275m、全幅32.5mのスマートな戦艦として就役する事となった。ただし、もちろん砲塔基部は18in砲搭載砲塔へ短期間で換装できるよう増長性を持って作られていた。
 また、補助火砲としては、副砲に4"/45 BL Mark9B型3連装砲塔5基装備していた。この砲は、戦艦としては本級の他にはリナウン級のみが搭載した比較的珍しい速射砲で、本級の搭載したB型は、18"主砲の発射爆風に耐久できるよう全砲塔にシールド防御が施されていた。
 この他に対空対水上近接防御火砲として4.7"/40 QF Mark8型単装高射砲6基と4"/45 QF HA Mark5型単装高射砲12基が搭載され、加えて英国戦艦として初めて水上機を運用するための各種装備と格納庫が艦中央部にはじめから設けられていた。
 また本級の外見的な最大の特徴としてインビンシブル級、セント・アンドリュー級と続いて英戦艦が採用してきた船体前部への主砲塔集中配置方式を採用しないで、2基の前部主砲塔、艦中央構造物、1基の後部主砲塔の順で艦上構造物を配置したオーソドックスな艦形を持つ戦艦であった事がある。
 これは退官してアームストロング社へ戻ったサー・ユースタス・ダインコートに代わり、主砲塔集中配置方式に否定的な意見を持っていたサー・スタンレー・グッドールが本級の主設計を担当した事と艦隊側から巡洋戦艦隊の旗艦として使用できる広さを有する艦橋構造と設備が強く要求されていた事によるものであるとされる。
 グッドールは、長年ダインコートの下で活躍し、愛弟子のひとりにあたる人物であったが、第一次世界大戦末期には、英国の外交政策に従って米国に渡り、3年計画艦のサウスダコダ級やレキシントン級の初期設計に参加した変わった経歴を持つ人物で、それまでの英国造艦設計者達とは若干違った設計方針を持っていたとされる。
 また、グッドールは日本軍艦の父と呼ばれた平賀譲造船中将が英国グリニッジの海軍学校に留学した際のクラスメートで、その縁により平賀中将ばかりでなく、その他の日本海軍造船官とも多くの親交があり、後々まで日本海軍の造船に協力を惜しまなかった人物である。
 このグッドールの設計により本級の艦影は高速戦艦らしい極めて優美な姿となり、英国国民の間では、リナウン級やフッド級とならんで高い人気を持つこととなった。
 また、本級の装甲防御力は、主砲塔正面445o、同天蓋203o、同基部支持筒381o、水平防御甲板203o、舷側装甲帯355oと、同じ18インチ砲搭載艦のセント・アンドリュー級と比べて若干薄く、特に舷側装甲帯は16インチ砲搭載艦のインビンシブル級と同程度であった。
 この薄目の装甲は、主砲塔集中配置方式をやめて従来の艦首2基、艦尾1基の主砲塔配置を採用した事に加え、大出力機関搭載のため機関部が巨大化し、装甲を施すべき主要防御部の容積が拡大したためである。
 しかし本級は、装甲が薄くなった代わりにインビンシブル級やセント・アンドリュー級と比べて排水量に占める主要防御部の容積が大きく、加えて主砲塔弾火薬庫の誘爆を防ぐ構造が強化され、一世代新しい耐水雷防御構造が採用されている等、極めて総合耐久力の大きい艦となっていた。
 しかも、18インチ砲搭載砲塔への換装後の本級は、主砲塔正面457o、同天蓋229o、同基部支持筒406oと主砲塔部の装甲が強化されたばかりでなく、はじめて米国戦艦を手本とした仰角固定装填方式が採用され、砲塔部の被弾による火炎や破片が弾火薬庫に影響を与え難いようになっている。
 また本級は、この余裕のある船体を利用した燃料タンクを持つため、当然ながら航続力や航海能力も高い性能を誇っていた。
 本級は、1930年代中期までの戦間期に、18ノットで10、000海里の長大な航続力を活かして太平洋方面での哨戒及び植民地警護任務に従事しており、日本へも何度も寄港しており、特に呉や横須賀と言った帝国海軍の軍港ばかりでなく神戸等の民間港湾へも寄港しているため日本国内でも馴染みのある外国籍巨大戦艦のひとつとなった。
特に1933年と35年にインコンパラブルが神戸へ寄港した時には、民間人の艦内見学が許され、市内の小中学生達が招待されたばかりか、大英帝国領事館のはからいで、日英国旗の印刷された包み紙にくるまれた砂糖菓子や絵葉書を見学者に配ったため大人気を博した。
 そして、この御礼として子供達が送った千羽鶴は、本艦の士官ラウンジの片隅に飾られ、多くの戦火を本艦と共にくぐり抜けたと伝えられる。
 この千羽鶴の一部は、現在ロンドンの大英帝国海軍博物館に両国有効の証しとして丁寧に陳列されている。
 本級は、海軍制限条約失効に合わせてセント・アンドリュー級に続いて大改装に着手し、主砲を当初の計画通りの18インチ砲に改めただけでなく、補助火砲を4.5in両用砲に統一し、加えて電子装備の増設を含む艦橋設備の近代化や煙突の形状変更、航空機運用のための設備増設等の改装が行われ艦容が一変した。
 この改装により搭載された主砲は、セント・アンドリュー級の主砲である18"/45 Mark2を発展させた18"/45 Mark3型連装砲3基6門であった。この主砲換装においてセント・アンドリュー級のような3連装砲塔が搭載されなかった理由は、装甲防御力の問題と同じく重量制限を原因とする諸問題に加え、防御力に優れるが砲塔重量や容積が増大する仰角固定装填方式が採用された事によるとされる。
 こうして改装を終えて艦隊へ復帰した本級は、主砲門数が9門から6門に減少しており、世界の海軍関係者の間では、この換装の是非が、その後長期にわたり論議の対象とされた。
 ただし、この18"/45 Mark3型連装主砲は、1門あたり2発/分の発射速度を持ち、総発射弾数は12発/分とセント・アンドリュー級に迫る能力を持っていたのに加え、砲システムが始めから遠距離での一斉射撃を前提に設計されている等18"/45 Mark2型より優れており、大戦勃発後は本級が実戦を重ねる毎にこの論議は下火となった。
 また、本級の搭載した18"/45 Mark3型は、セント・アンドリュー級が搭載する18"/45 Mark2型砲を連装砲塔に搭載したものであったが、実際には、当時建造中のライオン級に搭載するため開発されていた18"/45 Mark4型用砲システムの試作品と言うべきもので、仰角固定式装填方式の採用や、新型砲弾(弾重1505s、初速760m/s)の発射が可能となるように改造された高性能砲であった。
 この改造により本級2隻の主砲砲弾は、第二次世界大戦開戦時には日本の駿河型と並んで一発当たりなら世界最大級の砲弾威力を有していたのである。
 また、後に日本の尾張型が主砲に連装3基6門を採用して建造された理由には、本級の活躍が大きく影響しているとされている。
 加えて、この大改装で補助火砲が、5.25"/50 QF Mark1型連装両用砲7基と2pdr Mark8/M6型8連装機関砲6基、同M7型4連装機関砲4基に変更されている。
 特に5.25"/50 QF Mark1型連装両用砲は、6"副砲と4.5"高射砲の役割を兼ねる新型火砲で、この砲も建造中のキング・ジョージ・5世級や、それに続く新型戦艦に搭載するための運用試験的意味で搭載されたものである。
 本級は、この砲の搭載により英国戦艦として初めて副砲を装備しない戦艦となった。
 この船として優れた能力と、近代化改装による優れた戦闘力を持った本級は、大西洋、太平洋、インド洋と言った広大な大洋に散らばる大英帝国植民地での作戦を可能とした新世代の外洋型高速戦艦として第二次世界大戦においてはその性能を遺憾なく発揮した。
 条約失効前後に米国が続けざまに新戦艦を起工したのに対して、英国は本級とセント・アンドリュー級の主砲換装および各戦艦の近代化改装と軽巡洋艦以下の護衛艦艇の建造を優先させた。この是非に付いては、現在でも各国の海軍関係者の意見を大きく二分させている。

 基準排水量 48、000トン 満載排水量 55、000トン
 最大速力 31.5ノット 航続距離 18ノット/10、000海里
 武装 18"U×3 5.25"U×F 2pdrMG[×E/W×C

   航空機3機 射出機×2他

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