エピソード9.ソ連軍ドイツ国内侵攻 ソ連軍の攻勢開始からほんの数週間で戦場が急速にドイツ本国へ近づき、そして遂にはドイツ国内へ雪崩れ込んだ・・・。
しかし、連日の空襲により鉄道網が寸断され移動の列車用意に手間取る間に、泥濘の中で開始された「春の目覚め」作戦は、停滞し、やがて失敗した。
その後、我々の戦闘団は、グーデリアン将軍の命によりオーデル河戦線でソ連第1白ロシア軍の突出部を切断し包囲殲滅する「夏至」作戦参加のため南方のSS装甲軍への編入が命じられたが、その「夏至」作戦は総統命令により北方の国防軍単独で開始され、3日後にはソ連軍の頑強な抵抗により失敗した。
この反撃によりソ連軍は、東ドイツの掃討を決意しベルリンへの前進を停止していた。
このように我々の戦闘団の行き先が決まらず春の泥土の中で右往左往し、総統命令で優先供給される燃料と物資を無駄に消費している間に、いよいよ戦局は悪化して行き、遂には、ベルリン正面最後の要衝キュストリンが包囲された。 遂にソ連軍の赤い津波はオストプロイセンの掃討を終え、ドイツ本土中心部にまで侵攻して来た・・・目標はもちろんドイツ第三帝国帝都ベルリンである。。
帝都ベルリンへ対するソ連軍の最後の侵攻が始まる直前に我々は、キュストリン−フランクフルト・デァ・オーデル方面でGD師団の姉妹師団であるクルマルク装甲師団やミュンヘベルグ装甲師団、ノルトランド装甲擲弾兵師団、ブランデンブルグ装甲擲弾兵師団らを主力とする部隊と共に防衛線を構築した。 装甲師団2個師団、装甲擲弾兵師団2個師団を中核とする防衛部隊の戦力は、本来なら1個軍の戦力にも達するはずだったが、続く後退戦により疲弊し尽くしていたため実際には、我が戦闘団を加えても1個増強師団程度の戦力を集結させていたに過ぎなかった。
エピソード10.ゼーロー高地の戦い クルマルク装甲師団の側面支援を命じられた我々バンパー戦闘団は、同様の命を受けた空軍降下猟兵部隊と共に、陥落したキュストリンの西方、ゼーロー高地をベルリンへ向かって走る国道のとある十字路周辺へ展開した。 ゼーロー高地は、ベルリンまでに存在する最後の地形的要害であり、また、ここを敵軍に突破されるとベルリンまでの間に存在する友軍は、草臥れた老兵と、まだ子供のような少年兵からなる国民擲弾兵のみと言う、此処が事実上の最終防衛線であった。 猛烈だが狙いの甘い事前砲撃の弾幕が途切れると、いよいよT34戦車を主力とする旅団規模の戦車が進撃してきた・・・。
我々の砲火は路上を前進して来る旅団規模の敵戦車の先頭グループと最後尾グループを狙って集中され、そこの敵戦車を瞬時に屑鉄に変えた。さらに前後の戦車が残骸に変わり果てたため自由の利かない敵戦車へ続けざまに砲弾が撃ち込まれる。 混乱する自軍の輸送車や歩兵を押し退けて壊走する敵戦車へは、ティーガーU重戦車とパンター戦車が追撃を行い、後続の敵突撃砲部隊やロケット砲部隊の隊列へまで突入し散々に蹴散らす。
この日の戦闘で我々は、クルマルク師団の側面攻撃の支援も受けて最小の損害と引き替えに旅団規模の戦車部隊を含む師団規模の敵侵攻部隊を殲滅し、多数の戦車と装甲車をスクラップにしてドイツ装甲部隊最後の大勝利と後世に伝わる大戦果をあげた・・・。 前日の戦闘で大戦果をあげた我々だったが、それと引き替えに弾薬に心配が発生していた。そしてそんな我々にお構い無く、その日の戦闘が開始された・・・。 黙示録を再現した宗教画の如く、どんよりと重く曇った空一面を赤い炎の尾を引くソ連軍のカチューシャロケット弾が埋め尽くす。
ソ連軍は、攻撃重点を此処に選んだのか、この日の事前砲撃は、先日のそれとは比べ物にならない程濃密で非装甲の擲弾兵や対戦車砲に損害が続出し、直撃を受けた戦車にも損害が発生した。 そして弾幕が途切れると、この日も大規模な戦車部隊が進撃してきた。
「ティーガーとヤークトパンターはJS2を、その他はT34を狙え ファイアー!」バンパー中佐の的確な命令の下、我々は、正確で強力な砲撃を開始した・・・。 最初は順調に敵戦車を撃破し続けた我々で有ったが、次第に弾薬欠乏の影響が出始め、また重装甲のJS2重戦車が前線へ到着し始めたため戦局が劣勢に追い込まれ始めた。 埋伏していた擲弾兵と対戦車砲兵は義務を果たして全滅し、遂には味方の戦車にも次々と損害が出始める・・・。 更に戦線左翼を守っていた降下猟兵部隊の高射砲が回り込んだソ連軍戦車部隊に撃破されるに及んで我々は最大のピンチを向かえた。 この戦線左翼に空いた穴を埋めるためロケット砲兵が投入され、最後の弾薬が放たれた。
遂には、JS2重戦車を食い止められず防衛線内へ突入され壮烈な乱戦となったが、防衛線内へ突入してきた敵戦車に対してティーガーU重戦車から擲弾兵までが損害を省みぬ果敢な接近戦を挑み最後まで防衛線の崩壊を許さなかった・・・。 この日も我々は、辛うじて戦線を維持することに成功した。しかし、この日の戦いで受けた損害と燃料弾薬欠乏の戦車を放棄自爆させた為、我々の戦闘団の可動戦車は半数以下に落ち込んでいた。 戦えば頼もしいティーガーU重戦車やパンター戦車も燃料弾薬不足では、巨大な屑鉄の塊、お荷物に過ぎないのだ。 深夜、我々の戦闘団に転戦命令が出された、南方でコーネフ将軍のソ連第1ウクライナ軍が前線を突破したと言うのだ、我々に下った命令は「ミュンヘベルグ方面に離脱後、第9軍へ合流しベルリン救援へ赴けと」と言うものだった・・・。 我々は、殿を受け持つ消耗しきった空軍降下猟兵部隊と老人と少年しかいない国民擲弾兵達に別れを告げ、深夜の国道を使って転進した・・・我々の抜けたこの防衛線の兵力では明日に予想されるソ連軍の攻勢を食い止める事は不可能であろう・・・クルマルク装甲師団から増援が派遣されてくると伝えられたが、クルマルク師団の消耗を考えると、それも焼け石に水程度の効果しか期待できないだろう・・・何故なら我々が此処に残ったとしてもこの防衛線を守りきる事が不可能な程に追い詰められた状況だからである。 しかし、我々の行く先も絶望的な状況がまっている事に違いはない。私は感傷を振り捨て部隊に前進を命じた・・・夜が明ける前に前線から充分に離脱しなければ空襲と砲撃の混乱に巻き込まれる事になるのだ。 エピソード11.映画館 第9軍への合流のため敵機の影に脅えながら恐る恐るアウトバーンを西へ進んでいた我々の戦闘団は、連合軍の空襲を受け廃墟と化したペーツコフの街で意外なプレゼントを手に入れた。
戦闘団の戦車整備中隊の兵士達が整備途中で放棄されたヘッツァーへ次々と取り付き最終組立を始める。こうして貴重な戦力が増援された・・・。 その合間に私は、空襲に叩かれ続けたこの町の片隅で半壊こそしているものの奇跡的に焼け残っていた映画館を見つけ、老いた館主の好意で一本の映画を見る事ができた・・・。 「ナチスの手先に過ぎない親衛隊なら別だが、国防軍は最後までドイツ国民のために戦う軍隊だと信じている」と言う館主に協力して瓦礫に近い映写室跡から掘り出したフィルムの中に偶然にも我々が撮された作品を見つけだした。
ドイツ軍前線ニュース・・・そこには、軍司令官の閲兵を受ける我々の兵と戦車、そして鉄十字賞を授与するバンパー中佐が映っていたのだ。 一年にも満たない時間しか経過していないのに、この映画に登場している戦友達の殆どは、もうこの世に存在していない・・・そしてこの時の私は、自分も程なく彼らの下へ逝くのだろうとぼんやりと考えていた私の両頬を気付かぬ間に熱い物が流れていた・・・。
ラスト・エピソード.脱出 我々の戦闘団が第9軍へ合流するのをを待たず、南方戦線を突破したコーネフ軍とゼーロウ高地を突破したジューコフ軍の2つのソ連軍部隊がベルリンを包囲し、遂に市街へ怒濤の如く突入した。
我々の第9軍は、南方から猛進してベルリンへ突入したコーネフ軍と東方から侵攻するジューコフ軍の重囲の中に取り残されていた。
それは、ソ連軍包囲線を突破し西側連合軍、つまりヤンキーへ投降する事である。
我々の戦闘団は、戦闘可能な第9軍所属の諸部隊を取り込みつつ勝利に奢り士気の緩んだソ連軍警戒線を巧みにくぐり抜けエルベ河目指して前進した・・・。
多種多様の雑多な戦車で構成されているものながらこの時期のドイツ軍としては奇跡に近い戦力だった。
未だ黎明に達しない早朝に脱出の為の最後の突破作戦が開始された。米軍前線のあるエルベ河まで残り50km余り。「お前達の戦友はモスクワまで行った、それに比べたら指呼の距離だ。一気に自由目指して突破しろ」
緊急命令でかき集められたとは言え、戦勝気分に浸る敵前線部隊の士気は緩んでいた。
そして、潜入した弾着観測兵の誘導でロケット砲兵の一斉射撃がソ連軍防衛線を襲った。彼らロケット砲兵は手持ちの弾薬を徹底的に撃ち尽くすと、砲身へ手榴弾や爆薬を詰め込み、突撃銃とパンツァーファウストを手に取りあらゆる車両へ乗り込み我々の戦車に後続した、自由への脱出へ参加し彼らも擲弾兵として戦うのだ・・・。 敵軍は、豊富な機動予備戦力を持っており、包囲の厚さも刻々と厚くなっている。この状況下では中途半端な迂回移動等で時間を無駄に費やす余裕は無い・・・。 我々の戦闘団は、バンパー中佐の率いるティーガーU重戦車を先頭にパンッァーカイルを組み、砲撃により混乱しているソ連軍防衛線へ強引に突入した。
「奴ら、もう戦争が終わったと思っているな・・・ドイツ戦車兵精神を教育してやるか、敵左側面へ突撃する。パンツァーフォー!」
簡単に敵の第1線を突破した我々だったが、しかし第2の防衛線は、違っていた。
そしてそこを守る敵軍は急造の簡易陣地へ籠もったSU100駆逐戦車やJSU122重襲撃砲を主力とする強力な部隊で、その全てが緒戦の混乱より立ち直りつつ有ったのだ。 彼らは我々の反撃を予想して準備されたのではなく反共主義者として名高いパットン将軍率いる西側連合軍との不用意な遭遇に備えていた部隊なのだが、我々にとってやっかいな相手である事に違いはなかった。 敵のキルゾーンへ飛び込んだ我が軍へ、たちまちあちこちに待ち伏せていた敵戦車の強烈な砲撃が降り注ぎ損害が続出した。 しかし我々は、先頭を行くティーガーU重戦車の強力な装甲に物を言わせ、怖れず突撃は続行された・・・。 「ジェノ大尉、離れるんじゃないぞ、しっかりついて来い!」「了解!地獄までもついていきます。1時に突撃砲の縦隊、ファイアー!!」私の中隊も近距離から受けた砲火で数両のパンター戦車を失ったが、躊躇無くSU100駆逐戦車の籠もる敵陣地へ突入し、至近距離から75mm砲を撃ち込み10両以上を撃破し突破した。
(蹂躙攻撃時に固定砲塔車両は不利になるルールがあります)
しかし、敵防衛線の突破で混乱し消耗した味方部隊の再編成も終わらぬ間に南方からT34/85戦車を主力とする敵阻止部隊が戦場へ現れた。
これに対してバンパー中佐は、我々をパンツァーカイルの穂先として先行させると、直率するティーガーU部隊とヤークトティーガー重駆逐戦車で猛烈な砲撃を加え、短時間でその意図を挫いた。 その後もバンパー中佐はティーガーU重戦車を率いて何度も引き返し側面や後方から追いすがって来る敵戦車を追い払い、孤立した戦友達を救い出した。 この戦いで砲弾を撃ち尽くしたヤークトティーガー重駆逐戦車は、放棄爆破され乗員は、他の戦車上へ収容された。
(放棄のルールは有りません。弾切れのうえ低速で主力から遅れたところを敵部隊の蹂躙攻撃で撃破されました)
あと少しで米軍占領地境界線へ辿り着こうとしていた我々に最後の、そして最強の敵部隊が立ち塞がった。 最後の敵部隊の中核となっているのは多数のJS2重戦車とT34/85戦車を従えた我々が始めて見る禍々しい美しさを感じる重戦車である。
しかし、我々の目指す自由な世界は、敵戦車の作る鋼鉄の城壁の背後に有るのだ。
我々のパンター戦車とラング駆逐戦車は、残された弾薬を使い切るつもりで75mm砲を撃ちまくり、前衛のT34/85戦車を蹴散らし、後続のJS2重戦車すら手の届くような距離の接近戦で次々と撃破した・・・戦友のために最後の義務を果たすべく死兵となる覚悟を決めた我々の戦意を前に敵軍は圧倒され精彩を欠く戦いに始終した・・・。 しかし75mm砲では、戦車の最終進化形態、ソ連戦車の頂点と言えるJS3重戦車の装甲は打ち破れない。
その中でティーガーUと同じ88mm砲を装備する少数のヤークトパンターだけが的確な攻撃を行い数両のJS3重戦車を討ち取っていたがやがて数の差に押され、押し包まれるように撃破された。 (パンターの攻撃力は11、JS3の防御力は6・・・つまり撃破の可能性は、平地でも1/6以下の難しさです) この鋼鉄の城壁は抜けないのだろうか、私の戦車までがJS3重戦車の巨砲の前に玉砕しようとしたとき、後方から連続した砲声が轟き渡り目前のJS3重戦車数両が次々と撃破されたバンパー中佐が率いるティーガーU重戦車隊が救援に駆け付けたのだ。 バンパー中佐が率いるティーガーU重戦車隊の活躍で瞬く間にJS3重戦車を含む20両近い敵戦車が撃破された。
新たな敵増援到着前に最後の突破を決意したバンパー中佐は、ティーガーU重戦車に突撃を命じた。ティーガーU重戦車は、新参のSS重戦車大隊所属車両までが躊躇無くバンパー中佐の指揮下に突撃を敢行した・・・戦友のために・・・その突撃が生還の難しいものであるにも関わらず・・・。 バンパー中佐のティーガーU重戦車が最後に立ち塞がるJSV戦車の群へ突入する。 そうだ、相打ちでも良い、あの化け物戦車さえ倒せば戦友達に自由への道が開けるのだ。
「ジェーノ大尉最後の命令だ 俺が援護する 突破してヤンキーに降伏しろ!お前達は充分に義務を尽くした 古いドイツの為に死ぬべきではない 新しいドイツの為に生きろジーク・ハイル!」
エピローグ.1999年1月1日 バンパー中佐が命懸けで切り開いた脱出路を通って私は戦友達を指揮しエルベ河を望むデッサウ市の東方で米軍へ投降した。
米軍占領地へ辿り着いたバンパー戦闘団の残存戦力は、戦車突撃砲15両余、整備兵まで含めた兵員は、負傷兵を加えても500名足らずまで減少していた・・・戦友と市民を救うために我々の戦闘団は渾身の戦いの末、その義務を果たし得たのだ・・・。 そして我々戦闘団の兵士は、我々の作った脱出路を使って西側へ脱出できた多くの戦友達に見守られながら装備を放棄封印し服装を正し見事な隊列を組み行進し米軍へ投降した。 また、降伏しても許される筈のない武装親衛隊やブランデンブルグ部隊の生き残り達は私服に着替え、偽名の国防軍除隊証明書を受け取り難民に混じって去って行った、故郷へ還る為に・・・彼らにはこの後、数十年に及ぶ隠遁と逃亡の生活が待っていたが、それは別の物語である。 これで我々の戦争が全てが終わったと思ったとき、最後の運命が我々を突き飛ばした。
こうして新たな生き残るための戦いが開始されたのだ・・・。 しかし私にとっては、それが完全な不幸とは言えなかった。何故なら、私を尋問したソ連軍士官からバンパー中佐の最後の様子を聞く事ができたからだ。 バンパー大佐のティーガーU重戦車は、続けざまに数両のJS3重戦車を撃破し突破口をこじ開けた後、後方へ残され孤立した戦友救出の為にたった1両で戦場へ引き返し、最後にはJS2重戦車に包囲され122ミリ砲の集中砲撃を浴び乗車を撃破され戦死したという・・・そして遺体は他のクルーのそれと共に、生き残りその場で捕虜となった戦友の手で撃破された戦車の傍らへ埋葬されたと。 私の所属が武装親衛隊ではなく、国防軍だった事が命を救ったのだろう・・・数年の収容所生活を辛うじて生き延びた私は、戦友達と分割された祖国の西側へ帰り着いた。 そして私は、苛烈な収容所生活により戦時中以上に燃え上がった共産主義への憎しみと、バンパー大佐の遺言を胸に、新しい自由の祖国のために軍人として、退役後は政治家として働き続けた。 それは、バンパー大佐の遺体が眠る東ドイツの地を自由な祖国へ取り返すための戦いの日々でも有った・・・。 その活躍が実り、私は祖国の統一とソ連の崩壊を目撃する幸運に恵まれた・・・。
バンパー大佐。私の人生は、貴方の遺言を満たすに値したのでしょうか・・・。
・・・・・・・・・fin・・・・・・・・
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