Miracle Shadow について

ミラクルシャドウとは?

 ミラクルシャドウはキャッチーでポップなメロディーと、懐かしく、温かい“手作りサウンド”をモットーに、1996年、安田しん二(リーダー、ヴォーカル、ドラムス)、吉岡よすお(ベース)、それとちょっとイノシシ顔のギタリスト、村上ムッチという、とってもオチャメなおじさん3人で結成。その後、その3人に津久井くん(ヴォーカル、ギター)という人が加わる。しかし、途中で津久井くんが音信不通になり、ムッチも脱退。実質上、安田とよすおの2人になったミラクルシャドウは、1999年11月29日、若干23歳のギター&ヴォーカルのチンパン(人間です)をメンバーにするが、彼もほんの数ヶ月でバンド脱退。
 インディー・レーベルで、アルバム1枚、シングル3枚を出すが、お店ではほとんど見かけることがないまま廃盤になり、バンド名を変更する事により事実上“幻のバンド”となってしまう。


ミラクルシャドウの波乱万丈伝

 1996年3月 神奈川県寒川町のホルモン焼き屋で、安田、よすお、ムッチの3人でバンドを結成の会合をもち、その帰りにムッチが飲酒運転の検問に引っ掛かり、幸先の良くないスタートをきる。が、しかし、これは逆に縁起が良いと無理矢理に思い込み、「自分達はなんて前向きなバンドなんだ」とオメデタク解釈する。

 1996年4月 安田の仕事場にてデモ・テープの制作を開始する。

 1996年7月 デモ・テープがKSSというビデオ・ソフトの会社に流れ、「今度、うちでレコード会社を始めるのだけど、“イチ押しバンド”と言う事で来ませんか?」と誘われ、その “イチ押し”という甘い言葉でまんまと釣られてしまい、3年契約を結ぶ。

 1996年9月 ロサンゼルスから、自称、「超一流の日本人エンジニア」X氏を呼び寄せて、KSSのスタジオを2ヶ月間ロック・アウトし、安田のプロデュースでレコーディングに入る。1996年12月前半、一応録音は終了するが、X氏の社会人としての度重なるルール違反と、録れた音の悪さに疑問を持ち、ミックス・ダウン直前にX氏を解雇し、自分達でミックスをやる事になる。後で判ったのだが、X氏はまだ向こうではアシスタント・エンジニだったのだ!

 1996年12月後半 ミックスダウンの場所を山梨のSHEPスタジオに移し、作業開始。一応完成させる。この時、まだろくに面識もないのに、実績あるベテラン・エンジニアの青野光政氏(通称:青ちゃん)が「面白そうな事やってるねぇ〜」と言って事を嗅ぎつけ、捨てられた子犬の様に山梨までついて来てしまう。

 1997年1月 デビュー・シングルのカップリング曲、シカゴの「クエスチョンズ 67& 68」のレコーディングを、KSSのスタジオで青ちゃん(いつの間にか、ちゃっかしミラクルシャドウのエンジニアになってる)をエンジニアに迎え、およそ3日間でレコーディングする。この時、セカンド・ヴォーカルを元class津久井克行に依頼する。

 1997年2月 意気投合した津久井氏をサポート・メンバーにして、TBSホールでのイベントに出演。この時はアンプラグドで、しかもオリジナル曲を1曲も演奏せず、モータウンのカヴァー・ナンバーばかりを演って、KSSやその関係者達から大ひんしゅくをかう。この時、安田はドラムを叩かずギターを弾いていた。その1週間後、同じイベントに、今度はやはりアンプラグドでオリジナル曲を演奏して評価を上げる(カヴァー曲を演る事の何が悪いと言うのだろう?)。

 1997年3月21日 KSSとTBSラジオのイベント、『D−CHANCE!』(ラジオ版のイカ天を目指し企画された、アマチュアバンドの登竜門的番組)にゲストと言う事で出させてもらうが、蓋を開けてみると見事にアマチュアバンド達の前座(まぁ〜っ、しょーがないっかぁ〜)だった(笑)。メンバーはミラクルシャドウの3人と、津久井氏、キーボードのヒトヨシノビタ氏(グッチ裕三とグッチーズ)、二胡の賈芳鵬氏(ジャー・パンファンと読みます)の計6人。

 1997年4月 津久井氏にバンドに入らないか?と呼びかけるが、「一度、ソロ活動をやってみたい」と言う事で断られる。そこで、3人で大声を出して泣いてみせるが、それでもやっぱり断られる。

 1997年5月 デビュー延期が決まる。しかしその事を良い事に、アルバムのレコーディングの演り直しを安田が勝手に決意する。最初、よすおとムッチは渋い顔をするが、「上手くいったらマスタリングの時に、みんなでロンドンのABBEY ROADに行こう!そして、BEATLESにも会おう!!(おいおい、とっくに解散してるじゃねーか。それにもう、ジョン・レノンは死んでるぞ!)」と言う、安田の何の根拠もない説得にまんまとハメラレ、レコーディングの演り直しを始める。この時、すでにレコーディングの予算は使い尽くしてしまってたので(レコーディング予算の半分以上は、既にX氏に持って行かれてしまってた)、青ちゃんに中古のFOSTEXのE−16というアナログ・レコーダーを、「女の子をひとり紹介する」と言う条件で、無償で貸して貰う。勿論スタジオを借りる費用などはないので、KSSの空いてる部屋(戸越にある第2会議室)を貸して貰い、そこでレコーディングする。

 1997年8月8日 戸越にあるKSSの第2会議室でレコーディングをするが、その途中で、エレキ・ギターの録音時にビルのエレべーターのノイズ(18kヘルツ〜21kヘルツあたり)が入る事が判り、しょうがないので伊豆にある山荘に場所を移す事にする。

 1997年8月前半 伊豆の山奥でレコーディングを再開するが、今度は部屋の中にカマドウマが大量発生し、困り果てる。しかしこの時ムッチは、50匹を越えるカマドウマの大群を完全虫(無視)して、平気な顔(勿論イノシシ顔)でギターを弾く。

 1997年8月中半 カマドウマを全部退治するが、今度は野ネズミが部屋の中を徘徊し、ムッチの足の親指を噛る。この時、安田がティッシュの空き箱にチーズを入れ、即席にネズミ取りを制作する。翌日、見事に野ネズミを捕らえる。前日、ムッチを噛ったネズミさんは、ちょっと元気が無かった…(お腹、こわしちゃったかなぁ?)。よすおとムッチはそれから約10日間、安田の自慢話を毎日聴かされる。因みにねずみさんは、山に逃がしてやった(ムッチは「食べちゃおうぜ!」と言ったが、よすおと安田が猛反対した)。

 1997年8月後半 安田がようやく野ネズミの事を忘れてくれ、レコーディングの熱も最高潮に達する。その頃、伊豆に青ちゃんが、まるで捨てた飼い猫が戻って来てしまったかの様に現れる。優しい性格の彼は、心配になって忙しい中を伊豆迄来たのだが、さんざんレコーディングを手伝わされ、最後には自分の命の次に大切なマイクロフォンを、「かわいい子を紹介するよ」と安田に言われ、無償で置いてゆくのであった。安田が後で言うには、「青ちゃんは、よっぽどかわいい子が好きなんだなぁ」と言っていた(約束は未だに果たされていない…)。

 1997年8月29日 ミラクルシャドウ『こじれたふたりクエスチョンズ67&68』で念願のデビュー。ただし、「こじれたふたり」はX氏の録音したヴァージョンのままである。勿論、アルバム・ヴァージョンの方は録り直しをしてる。

 1997年9月4日午前9時 アルバム、2nd、3rdシングル、全てのレコーディングとミックス・ダウンが終わる。

 1997年9月6日 アルバム用の曲順を決め、テープ編集をする。この作業は普通マスタリングの時にするものだが、言葉の問題や、最後のツメ(マスタリング)の時間に少しでも余裕を持たせる為、日本にいるうちにやってしまう事にした。

 1997年9月8日 ミラクルシャドウのメンバー、アエロフロート機に乗って、自費でモスクワ経由でロンドンに向かう。この時も、何故か青ちゃんが背後霊のごとくついてくる。本人曰く、「引率者」なんだそうだ。

 それから約15時間(家からの道のりと、成田での待ち時間を入れると、ざっと20時間は掛かってる)の長旅の末、やっとロンドンに到着する。この時ムッチは、ロンドンのヒースロー空港のイミグレーション(入国管理)で、入国管理官にイギリス入国の目的を聞かれると、本当に「Meet The Beatles!(ビートルズに会いに来た!)」と言ってしまい(やっぱり連れて来なけりゃ良かった…。因みに、危うく動物検疫に回されるところだった)、一方“引率者”の青ちゃんは、“How many days?(何日滞在しますか?)”と聞かれると、ニッコリと笑って「アイ・アム・ジャッパニーズでっすぅ」と答えてしまう。

 1997年9月9日 オックスフォードにあるSSL(有名なコンソールのメーカー)の工場とジョージ・マーティンのスタジオ、AIRの見学をする。そして、本当にジョージ・マーティンに会ってしまう。この時、興奮したよすおとムッチは、「ジョージ・マーティンのロールス・ロイスの前で写真を撮ろう!」と言いだすが、安田はリーダーらしく、「みっともないからおやめなさい!」と言う。が、しかし、写真を見るとちゃんと嬉しそうな顔をして、しっかりと3人のど真ん中に写っていた。

 1997年9月10日 いよいよABBEY ROADにて、クリス・ブレアオアシスブラーなどのマスタリングも手掛け、ビートルズのレコーディング・セッションにも参加した事のある、イギリスのトップ・マスタリング・エンジニア)によるマスタリングが始まる。この時、青ちゃんは変な擬音と誰から観ても怪しい身振り手振りだけで、しっかりとこちらの意志を伝える(この調子だったら、青ちゃんは火星人とも会話が出来てしまうのではないかと思わせる)。青ちゃんの活躍を見て、“音楽は世界の共通語、音楽に国境はない”というのは本当だったんだなぁ〜と、皆で妙に関心する。

 この日、ミラクルシャドウのメンバーと青ちゃんが下の食堂に降りて行くと、そこにはなんと!あの、ジミー・ペイジロバート・プラントがいた。しかし、ジミー・ペイジは、そこに日本人が居るのを不思議に思ったのか、ミラクルシャドウのメンバーにガンをとばし、特にムッチを見て、「ダレダッ!!スタジオニ、イノシシヲツレテクルヤツハッ!!!!」とでも言いたそうな顔をしていた(この頃のムッチは、酒の飲み過ぎでむくれあがり、よく「イボイノシシに似てる」と言われてた)。そして、ロバート・プラントは「どぉや!わての顔、ごっつう〜大きいやろぉ!(何で、関西弁なんだぁ!?)」とでも言いたそうな気がした。よすおは安田に「やっぱりホンモノだったね」と言うが、逆に「ここに偽物がいてどうするんだ!?」と怒られる。

 そして同日、8時間の格闘の末、アルバムの音は予想を越える仕上がりとなり、クリス・ブレアに、「ここ最近した仕事の中で、最も楽しかった。特に、音楽が素晴らしい。アジアに、こんなエクセレントな作品を創る人達がいるのを知って、ビックリした。(勿論、全部英語で言った)」と言わしめる。これはホントです(何故か敬語になってしまった)。但し証拠は無い。

 1997年9月12日 ロンドンより無事帰国。機上で安田とよすおは、“しゃべるイノシシ”は税関でワシントン条約に引っ掛からないかどうかと、それと、もしかしてムッチがエロ本やエロビデオの類いを隠し持っていないだろうかと心配する、……が見事パスし、皆家に帰る。ムッチも飼い主の元へちゃんと帰る。

 1997年9月26日 2ndシングル、『元気を出しなさい時の流れに身をまかせ』を発売。

 1997年10月24日 3rdシングル、『朝日を見に行こうよホーカス・ポーカス』を発売。この曲は小川雅己氏(当時、KSS)の努力の末、見事、K−MIX(静岡)、ミューFM(鹿児島)、FM愛媛、FM仙台、ラジオ大阪、FMとやまなどのFM局でパワー・プレイやテーマ・ソングなどになる。

 1997年11月28日 念願のアルバム『奇跡の影』を発売!その後、日本全国、津々浦々、北は盛岡(何で、北海道じゃないんだ?)から、南は鹿児島(沖縄は?)まで、FM局を中心としたプロモーションに廻る。その時のメンバーは、小川氏、安田、よすおの3人に、しゃべって、しかも酒を呑むイノシシ(自称人間。「俺はムッチだ!」と言ってる)を連れて行く。

 1998年1〜4月 プロモーションの一環で、関東近郊、静岡県の有線放送を廻る。

 1998年4月 K−MIXとFM石川でミラクルシャドウの番組、『奇跡の軽音楽』が始まる。しかし、FM石川の方は半年で打ち切りになる。ひょっとしてつまらなかったのかもしれない。

 1998年7月 KSSとの契約を切られてしまう。同時に3枚のシングルとアルバムも廃盤になる。KSSが言うには「こんなおじさん、始めっから売れるわけない」、……ごもっともです。そして、3人は男らしくKSSを去って行く。

 1998年11月 伊豆の某場所に、安田しん二のオール・アナログのプライベート・スタジオ、『FAB ROCKS REC. HOUSE』を造る。

 1998年12月 『奇跡の影』を聴いた、某メジャー・レコード・メーカーに再デビューの話を持ちかけられる。

 1999年1月27日 某大物グループがミラクルシャドウのナンバー、「朝日を見に行こうよ」をカヴァーし発売する。

 1999年4月 津久井克行を新メンバーに迎える。ミラクルシャドウのラジオ番組、FM K−MIXの『ミラクルシャドウの奇跡の軽音楽』が無事1周年を迎える。

 1999年6月 新曲のデモ・テープを5曲レコーディングする。

 1999年8月 『クロコダイル』でのワンマン・ライブが9月22日に決定し、準備に入る。

 1999年9月22日 『クロコダイル』でのワンマン・ライブが観客動員1万人(注:ミラクルシャドウ調べ)を越え、大盛況のうち無事終える。

 1999年10月 ライヴを終えて暫く充電。しかしその間、津久井くんは音信不通でフェード・アウト、オリジナル・メンバーのムッチも脱退。バンドは2人になる。

 1999年11月29日〜12月3日 安田しん二、吉岡よすお、それに『奇跡の軽音楽』のディレクターの櫻井氏と、ミラクルシャドウの弟分のチンパンの4人で、ロサンゼルスへ研修旅行に出かける。この時、チンパンをミラクルシャドウの正式メンバーに迎える事と正式決定する。

 2000年2月16日 よすおとチンパン(共にギター&ヴォーカル担当)、それにパーカッションの西川貴洋のアコースティック・ユニット、“くず”が恵比寿のライヴ・ハウス、『ギルティー』でライヴを演る。大好評を得て、調子に乗ってもうちょっとだけ“くず”を存続させる事にする。

 2000年4月 『奇跡の軽音楽』の放送が3年目に突入!DJも、安田とよすお又はチンパンのどちらかが交互に出演すると言う、2人制でちょっとだけリニューアルする。

 2000年4月 伊豆のスタジオのミキサー卓に、サウンドクラフト社のゴースト・シリーズ(32ch)を導入。

 2000年5月7日 FM K−MIXの『奇跡の軽音楽』の放送で、よすお&チンパンの“くず”と、安田の新アコースティック・ユニットがジョイント形式でスタジオ・アコースティック・ライヴをする。

 2000年5月29日〜 いよいよ、レコーディングに突入するも、突如チンパンが脱退(7月末)。どうやら「チンパン」と呼ばれるのが嫌だった様だ。再び2人組となる。

 2001年5月 バンド名を“トゥ・ラヴ・サムバディ”に変更して、新たにスタートを切る。

 2002年5月 残念ながらバンド解散。しかし………、


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