安田しん二 20世紀ディスコグラフィー

私が20世紀に参加したアルバムの紹介です。



濱田金吾 他『アーシアン』

安田信二:作曲、編曲、コーラス
1988年7月24日発売

 私にとって初めてのCD・レコードでした。収録曲の「シークレット・ブルー」という作品は、私が作曲家として初めて作曲依頼された曲で、しかも詞先(詞が先に出来上がっていて、それに曲を付けると言う方法)で書かれたナンバーです。私の場合、詞先は現在でもこの曲以外には無く、現在までそのほとんどが曲先、又は詞曲同時に書くと言う方法で書いております。
 他にも数曲提供してますが、それらは、当時私が在籍活動していたオービッツと言うバンド・ユニットでのレパートリーが元になってます。
 まだ駆け出しだった私は、スタジオへ何度も遊び行き、得意芸(?)を披露。それがプロデューサーに気に入られ(笑)、アルバムのレコーディング途中から、コーラスでも参加もする様になりました。


中里あき子『mu』

安田信二:コーラス
1988年10月1日発売

 コーラスで数曲参加しました。コーラスは、MILK(宮島律子&宮島理絵)と言う姉妹のコーラス・グループ(現在は、作曲家としても活躍してます)の人達と一緒にかんばってます。
 当時、昼の1時にスタジオに入り、待ち時間とかもあったので、終ったのは翌日の夕方4時でした。帰り、スタジオから車を運転して帰ってきたのですが、途中からの記憶が無くなってます。あ〜、危なぁ!


森高千里『見て』

安田信二:作曲、編曲、コーラス
1988年11月17日発売

 オリコン初登場4位だったか5位だったか、記憶は定かではありませんが、とにかく私が参加したアルバムでは初のヒット・アルバムと呼べる作品です。曲は2曲提供しました。プロデューサーのS氏と知り合ったのもこのプロジェクトで、師匠(と思ってる)からは色々な影響を受け、多くを学びました。「アローン」という曲は、デモ・テープのままのシーケンス・データをそのままレコーディングしました。したがって、余計な音は何も入ってないのです。ドラムス、シンセ・ベース、シンセ・パッド、シンセのベル、それにコーラスのみと言う、正真正銘の超シンプルな創りです。ですから。アレンジも私がやった事になります。


真田広之『Summer Dream』

安田信二:作曲、コーラス
1988年11月21日発売

 真田さんと言えば、俳優としてのイメージが強いですが、この頃はかなり精力的に音楽活動もしておりました。ナント、録音はロサンゼルスで行われ、ジョン・キーン(ドラムス)、チャールス“イカルス”ジョンソン(ギター)、ジョージ・ホーキンス(ベース)、マイケル・パウロ(サックス)、ジェフ・バクスター(ギター)と言った、アメリカ西海岸の一流ミュージシャン達が参加しての好アルバムになってます。私も西海岸AOR調の曲を提供しましたが、自分の曲以外にもコーラス等で参加しております。真田さんは、テレビとかで観るイメージ通りのナイス・ガイでした。一緒にコーラスを演ったりもしましたが、とても楽しかったです。


森高千里『森高ランド』

安田信二:作曲
1989年??月??日発売

 森高千里のベスト・セラー・アルバムです。このアルバムは斎藤英夫さんが自宅で歌以外の全てのパートを録音した、当時としては画期的なものです。勿論当時はプロ・ツールスもA−DATなどの廉価デジタル・レコーダーもない時代でしたので(アカイのA−DAMという12トラックのものはありましたが……)、凄いなぁと関心しました(SMPTE信号の入る、2トラックDATを使ってました。あとアカイのアナログ・カセット・マルチとかも使ってた様です)。私もこれには刺激され、後にヤマハのDMR−8と言うデジタル・レコーダーを購入する切掛けの1つになったのであります。


中里あき子『ア・パート・オブ・デイズ』

安田信二:作曲
1989年3月21日発売

 前回の中里さんのアルバムでは、私はコーラスのみの参加でしたが、このアルバムでは楽曲を提供してます。そのかわりコーラスなど、スタジオ・ワークには関わらなかったですが……。
 ホール&オーツに影響を受けて曲を書いたつもりでした。芳野藤丸さんのギターがとても良い感じで入っていて、嬉しかったです。


少年隊『Again』

安田信二:作曲
1989年9月21日発売

 このアルバムは、ほとんど一人の作家の方が曲を書いてましたが、何故か私の曲がポツンと1曲入ってました。「Baby Baby Baby」という曲なのですが、この曲は後にCDデビュー前のSMAPが14ヶ月ほど持ち歌として歌ってくれてました。サビの部分の歌詞は実はクレジットはありませんが、私がデモ・テープで歌ってたままのモノが使われてます。このサビのメロディーと歌詞が一緒に出来上がって、その後にその他のメロディーを付けました。私のデモ・テープで日本語の歌詞が付いてたのは当時としては珍しい事です。他の部分の歌詞は、作詞家の久和カノンくんがとても素晴らしい歌詞を書いてくれました。


本城未沙子『VISUALIZE 2』

Fanky Yasuda:コーラス
1990年2月5日発売

 ヘヴィ・メタル界の女王的な存在の本城未沙子のソロ・アルバムです。何曲かコーラスをやりました。たしか、文京区音羽のキングのスタジオで演ったはずです。スタジオに行くのに渋滞していて3時間も掛けて行った想い出があります。本城さんは、ヘヴィメタのイメージと反して(笑)、とても気さくな良い人でした。たしか、この数年前にも何処かのスタジオで、彼女のデモ・テープのコーラスを私がやったはずです。その時の印象が良かったのか、本人からの御指名があった様です。しかし、はりきって演ったはずなのに、CDが出来てきてクレジットを見ると、私の名は「ファンキー・ヤスダ」と言う、ディレクターが勝手に考えたカッコ良い名前に……(^^ゞ。因みにギターはB’zの松本氏、ドラムはアオジュンさんこと、青山純さんでした。


少年隊『MASK』

安田信二:作曲
1990年6月30日発売

 私の曲がのっけからメドレーで出て来ます。これも少年隊のミュージカルで使われたと思われますが、私も観てみたかったです。
 実は、『MASK』の後の『Shock』というミュージカルには招待されて行きました。実を言うと、ミュージカルはその時初めて観たのですが、とてもワクワクした気分になり、気が付けば私もいちファンと化していました。


中野理絵『ボーダーレス』

安田信二:作曲、編曲、サウンド・プロデュース、演奏、シンセ、コーラス
1990年9月1日発売

 私が大半の曲を書き下ろし、初めてサウンド・プロデューサーとしてクレジットされたアルバムです。ディレクターもエンジニアも同世代の若者同士で、中野理絵ちゃんも性格が良く、とっても可愛らしい子でしたので、有意義に仕事が出来ました。この頃は、私もまだローランドのMC−500というシーケンサーを使っていて、アレンジと言っても大した事は出来ませんでしたが、勢いだけはあった感じがします。良き思い出の1枚です。


森高千里『古今東西』

安田信二:作曲
1990年10月17日発売

 私が関係した作品では初のオリコン1位作品です。森高千里もスターの貫録が出て来て、ノリに乗ってるって感じでした。
 この森高プロジェクトからは多くを学ばせて貰い、今でも感謝しております。


ハーフトーンのミュージシャン達『COVERS PLAY』

安田信二:唄、コーラス
1990年?月?日(非売品)

 ミュージシャンのマネージメント・オフィスとしては業界大手のハーフトーンが創設何周年かの記念に、プロモーションも兼ねて創ったアルバムです。したがって、ハーフトーンのミュージシャンばかりで創られてるはずなのですが、何故かハーフトーンとはエンもユカリも無い私が、参加してるのです。これは未だに自分でも謎です。
 私はグラス・ルーツの「Two Divided By Love」と言う曲でリード・ヴォーカルを恥ずかしいカタカナ英語で歌ってますが、この時ののどの調子はすこぶる良かったので、地声でDとかD#辺りまで頑張ってみました。


久松史奈『FRIENDS』

安田信二:作曲、コーラス
1991年?月?日発売

 久松史奈という子はとてもパワフルで、太陽の様に明るい子でした。私は2曲提供してます。


森川美穂『POP THE TOP』

安田信二:作曲
1991年3月6日発売

 打ち込みを駆使して創られたアルバムです。私の曲は、松本晃彦氏に見事にアレンジされてて、とても気持ちのいいモノになっております。ギターは私のアマチュアの頃からの友達、是永巧一君(元レベッカ、ベイビーズ・ブレス)です。
 私の曲は、よく「歌うのが難しい」と言われてしまう事が多いのですが、この曲で森川さんは、頑張って何度か歌入れを自らやり直して、納得行くまで演ったって聞きました。いやぁ、プロだなぁ。


かとうれいこ『お熱いのがお好き

安田信二:作曲、編曲、シンセ、コーラス
1991年7月21日発売

 この頃には私も、マッキントッシュ・アップル・コンピューターのSE−30と言うのを導入し、アレンジも段々凝ったモノが出来るようになっていきました(因みに、ソフトはパフォーマー)。たしかこのレコーディングのほんの数日前にコンピューターを買ったのですが、直ぐに仕事に持って行きました(けっこう勇気有るでしょ?)。案の定、レコーディング中にコンピューターの使い方が分からなくなる事が幾度とあり、その度にスタジオから友達のマニピュレーターに電話して聞いてました。後でその友達に、「お前、あん時電話口で情けない声出してたぞ」って言われちゃいました。


かとうれいこ『SPECIAL!』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、コーラス
1991年11月21日発売

 実はタレントとしてよりも、本人はもっと歌を歌いたかったんだろうと、私はそう思ってるのです。歌も上手いんですよね。当時はタレントとしては超売れっ子で、相当過密なスケジュールだったと思うのですが、それでもレコーディングには一生懸命に取り組んでくれました。


久松史奈『CHERRY BOMB』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、コーラス
1991年11月21日発売

 久松プロジェクトで、自分の曲で初めてアレンジも任されたのがこの作品です。彼女自身がヤマハのアーティストだったのもあって、渋谷にあったヤマハ・エピキュラス・スタジオでレコーディングしたのですが、レコーディングが終るとディレクターやエンジニア達と必ず飲みに出掛けました(勿論、本人も来ましたが、彼女は未成年でしたので、ジュースかウーロン茶で)。プロデューサーのY氏やエンジニアの村上輝男氏には随分可愛がってもらいました。ムーさん(村上さんの愛称)はTOTOのエンジニアも務めたほどの人で、見た目は実際とは反対に一見怖そうに見えます。ヤマハのアシスタント・エンジニアの間では、「村上さんは安田さんには特に優しい!」と評判になってました。何故でしょうか?お互いにノーマルな男同士なのに……。


RHINOCEROS『EAT THE BEAT』

安田信二:コーラス
1992年6月17日発売

 元爆風スランプの江川ほーじん君が作ったファンク・バンドのセカンド・アルバムです。このバンドには随分熱心に誘われたのですが、この頃私は、既にファンク・ミュージックへの興味が無くなってしまっていて、新しい方向性を見つけようとし始めた頃でした。あと数年早くほーじんに出会っていたら、きっと最強のファンク・バンド結成に向けて燃えてた事でしょう。それにしても、ほーじんのベースはカッコいいなぁ。


田村英里子『少女でいられたら』

安田信二:作曲
1992年6月24日発売

 当時、私がサン・ミュージック系のアイドルの曲を書いたのを知った友人は、とても驚いたようでした。元々はそのつもりで書いた曲ではなかったのですが、作詞家の友達がここに持ち込んでくれて、そのようなはこびとなったのです。しかし不思議なもんで、そんな私の書いた曲でも、やはりアレンジされて出来上がったサウンドは、しっかりサン・ミュージック・サウンド(勝手に命名)になるところは驚きです。


To Be Continued『How zit ?』

安田信二:コーラス
1992年7月1日発売

 このユニットのアレンジ担当の佐藤鷹くん(ちょっとAVっぽい名前だけど、関係ありません、念の為)は、コーラスのパートを組む時、例えば私などは、歌っていってノリと感覚で積んで行ってしまうのですが、彼はキーボードの和音を積む様にテンションをぶつけまくって、複雑に積んでいきます(例えば、半音や全音違いの音が出てくるのは当たり前。和音には含まれていないテンションの音をコーラスのみで出す、何て事も平気で出て来ます)。出来上がりをカッコよくする為には、リズムも音程も、かなり正確にやらないときまらないので歌う方はかなり大変でした。1ビット程のずれも許されないのでした。


CORVETTES『G FACTORY』

安田信二:作曲
1991年7月1日発売

 ある音楽出版社の人に預けておいた曲が、ある日突然、「レコーディングしましたよ」と言って出来てきたのがこの曲です。この頃はまだ彼らとは面識はありませんでしたが、この後彼らをサウンド・プロデュースする事になるとは、この時点では全く想像しておりませんでした。


久松史奈『Auction』

安田信二:作曲、編曲、コーラス、Rec.
1991年7月1日発売

 このレコーディング前日、渋谷で飲んでて帰れなくなった私は、朝方エピキュラスに来て、ロビーのソファーの上で寝てたところ、アシスタント・エンジニアがやって来て、「やっぱり安田さんだったんですかぁ!事務の女の子達が、“ホームレスがいる!”って騒いでましたよ。今警察に通報しようとしてたんですよぉ」と教えてくれました。
 ミックス・ダウンは何故かオーストラリアでやったのらしいですが(久松プロジェクトはアレンジャーをミックス・ダウンに絶対に呼ばない)、プロデューサーは、そのオーストラリア人のエンジニアをあまり気に入らなかったみたいでした。しかしそのオーストラリア人のエンジニア、私の曲をとても気に入ってたんですって。いい奴じゃないですかぁ。


SMAP『003』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、Rec.
1993年1月1日発売

 SMAPに最初に書いた曲はこのアルバムに入ってますが、実を言いますと彼らはそれ以前に私の曲をレパートリーにしてた事があります。それは少年隊の「Baby Baby Baby」で、彼らがCDデビューする前の1年ちょっとの期間、その歌を持ち歌として歌ってたのです。
 現在では日本のトップ・スターのSMAPですが、この頃のCDジャケットを見ると、とても初々しいです。


久松史奈『BIRTH』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、Rec.
1993年2月24日発売

 このアルバムでは私のシンセ・ソロが聴けますよ。


CORVETTES『8/5 PRiDE』

安田信二:作曲、編曲、サウンド・プロデュース、シンセ、Rec.
1993年2月24日発売

 この頃は多忙を極めてました。作曲の仕事を辞めてバンドをやりたいなんて思ったり、“自分自身でエンジニアリングをしてレコーディングしたい”などと思い始めたのもこの頃で(まだまだデジタル指向でしたが……)、実際にヤマハのDMR−8と言うデジタル・レコーダーを買って、作業のほとんどを自宅でやりました。


浅香唯『CONTRAST』

安田信二:作曲、編曲、サウンド・プロデュース、シンセ、演奏、コーラス、Rec.
1993年2月24日発売

 浅香唯ちゃんのこのアルバムを作るのにあたって、最初私が参加する予定は無かったのですが、知らず知らずのウチに6曲ほど手掛ける事になってました。しかし、やり始めると凄く楽しくなってしまい、浅香唯ちゃんも凄〜〜くいい人だったので、とても気持ち良くレコーディング出来ました。シングルになった「ひとり」という曲は、今でも私の書いた曲の中では、ベスト・ワークの一つに入る曲です。シンセ・ソロも良い出来だったと思います。


浅香唯『ANNIVERSARY 2824』

安田信二:作曲、編曲、サウンド・プロデュース、ミュージカル・ディレクション、演奏、コーラス
1993年5月1日発売

 ライヴ・レコーディングなんて初めて。子どもの頃は、アーティストになってライヴ盤を出すのが一つの夢だったのですが……。
 このアルバムは、浅香唯ちゃんが「当分この先充電する」と言うので、その前にライヴ・アルバムをと言う事で持ち上がった企画です。この時のバック・バンドのメンバーは、今までのバンドのメンバーの中からベストな人を彼女が選んだって言う話でした。因みに、私には前アルバムの仕事が気に入られてこの話が来たみたいです。
 このアルバムのタイトルの“2824”ですが、実はライヴを演った当日が、彼女がデビューしてから2824日目だと言う事で付いたのだそうです。
 それから、私にとっても“運命的?出会い”が!なんとこのプロジェクトの時に、ベーシストとして呼ばれて来た男がよすおさんだったのでした(偉そうにベースを弾いてたなぁ)。


CORVETTES『C イズム』

安田信二:作曲、編曲、サウンド・プロデュース、シンセ、Rec.
1993年6月23日発売

 コルベッツはヴォーカル、ギター、キーボード、ベース、ドラムスと言う5人編成でした。ヴォーカル以外は誰かのバック・バンドをやったりしてる人達でした。最初、レコーディングには少し不慣れでしたが、でも一生懸命いろんな事を吸収しようと頑張ってた様です。そして、メキメキとレコーディングでプレイする為の技術を身に付けていきました。


黒沢律子『DISH』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、Rec.
1993年6月23日発売

 このアルバムでは私の曲だけが雰囲気が違ってます。ディレクターだったS氏に「いいの?」と聞くと、「いいの、いいの」と言ってくれました。
 彼女が歌入れをする前に、どうやらS氏がレッスンをしたみたいで、初めて彼女の歌を聴いた時よりも数段良くなってました。


久松史奈『PREASURE』

安田信二:作曲
1993年10月21日発売

 このアルバムには3連のバラード、「SMILE」と言う曲が入ってます。アレンジは私ではありませんが、ほぼデモ・テープの印象をそのまま再現して貰い、とても気に入ってます。彼女は、デビューした頃も歌唱力は有りましたが、更にこの頃になると歌唱力はぐ〜〜んとアップして、レコーディングでもほとんどテイク1〜3くらいであげていた様です。


久松史奈『MAX』

安田信二:作曲、編曲、シンセ、コーラス、Rec.
1994年2月23日発売

 久松のベスト・セラー・アルバムです。ミックスはフランク・ザッパのエンジニアも務めたジョー・チカレリ氏が担当してます。


合谷羊生『Breath You』

安田信二:作曲、コーラス
1995年2月21日発売

 このアルバムの私の曲の為に、私にコーラスを演ってくれとディレクターが言うのでスタジオに行くと、なんとアレンジが友達の是永功一君で、まだ彼がリズム・トラックを録ってる最中でした。コントロール・ルームにミュージシャンが戻ってくると、全員が物凄いベヴィー・スモーカーで、嫌煙家の私は耐えられなくなりました。コーラスが始まるまでの待ち時間、私は1人でスタジオの近くの寿司屋に行きました。結局「今日はコーラスは録れない」とディレクターが言うので、早めの解散になったのですが、自宅に帰る途中、さっき食べたちょっと怪しい味の甘エビで食中毒になってしまい、大変な騒ぎになってしまったのでした。


himawari『太陽の市場から』

安田信二:編曲、サウンド・プロデュース、演奏、コーラス、Mix
1995年3月24日発売

 私が今の“アナログマン”になった最初のアルバムです。この頃は、それまで打ち込みやデジタルの力を借りて演ってた事を全てアナログで挑戦しようと必死でした。残念ながら、当時の私のアナログに対しての知識と技術では追いつかないとこだらけでした。しかし、彼らの詞曲は素晴らしく、私もアレンジ面ではかなり貢献できたと思っております。もし、現在このアルバムを創れたらとの思いもありますが、逆に今私にあるアナログの技術や知識も、このアルバムを創ったからこそあるのだと思っております。


Mink『Mink』

安田信二:コーラス
1995年6月21日発売

 私の友人で、昔一緒にバンドを組んでいた事のある、古川貴司くんがアレンジを担当したアルバムです。
 古川くんは当時からLAに住んでましたが、私はこの仕事の直後にLAに遊びに行き、古川君と一緒に楽器を買いに行ったり、メキシコまでドライブしたりとか、楽しい思い出が出来ました。
 


SMAP『007』

安田信二:作曲
1995年7月7日発売

 海外の有名ミュージシャンを集めて創られたアルバムです。人から聞いたところによると、このアルバムの評価はとても高く、SMAPが音楽的にも上昇を始めたアルバムと言われてる様です。
 SMAPのディレクターの鎌田さんはとても優秀な方で、彼の音楽的な趣向も随分と出てるのかもしれません。


藤生ゆかり『ROSE』

安田信二:編曲、サウンド・プロデュース、演奏、コーラス
1996年3月21日発売

 このアルバムは私のアナログ・マンとして第2弾のアルバムです。まだまだ私も発展途上にあったせいで、音創りには苦労しました。レコーディング・メンバーは、私が当時組んでいたバンドの人達を使ったのですが、何故か数人のメンバーが言う事を聞いてくれず、とても大変でした。これを切掛けにそのバンドは分裂崩壊し、ミラクルシャドウ結成へと繋がって行ったのです。
 藤生ゆかり本人はとても才能と勢いのある人物で、彼女は今、ロンドンに単身で渡って活躍してます。


ミラクルシャドウ『奇跡の影』

安田信二:プロデュース、作曲
ミラクルタロウ:唄、演奏、作詞
ミラクルシャドウ:編曲
1997年11月28日発売

 私がプロとして活動を始めて、10年目にしてやっと自分のアルバムを創る事ができました。それがこのアルバムです。合計3度録り直しし、とても厳しい状況で創ったアルバムですが、良い出来にあがりました。ただ残念なことに、当時のメーカーがCD発売前に、既にCD業務撤退を決めていたため、一応発売はされましたが、まともに日の目を見る事が出来ずに、不運のアルバムになってしまいました。


SMAP『BIRDMAN SMAP 013』

安田信二:作詞、作曲
1999年7月17日発売

 ミラクルシャドウの「朝日を見に行こうよ」をSMAPがカヴァーする形で発売しましたが、その後このアルバムでは、その曲のシングル・ヴァージョンとはアレンジャーを代え、ガラっと違った雰囲気で収録しました。


SMAP『SMAP VEST』

安田信二:作詞、作曲
2001年3月23日発売

 爆発的に売れたアルバムです。私の書いた曲がこの中に収録されてる事に感謝しております。勿論、「朝日を見に行こうよ」は、シングル・ヴァージョンで収録されてます。


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