安田しん二の軌跡

 本名、安田信二。年齢、生年月日不詳。山羊座のO型。4人兄弟の2番目として、東京都文京区の某病院で生まれ、そのおよそ4ヶ月後に神奈川県藤沢市に引っ越す。性格は、良くも悪くも“ザ・次男坊”そのままである。

幼稚園年少

 藤沢の某幼稚園に入園する。

 幼稚園で普通に皆と歌を歌う。家に帰って来てその歌を大声で歌うと、3つ上の兄に「うるせーっ!!おんち!やめろーっ!!」と怒鳴られる。

幼稚園年長

 夏の盆踊り(団地祭)の時に、ちびっ子のど自慢に出場。選曲はちょっと無理をして、「パーマン」を2番の歌詞で歌う、という大冒険をする。親、兄弟、近所の人々の期待を背負い、生まれて初めてのステージを踏む。しかし、あまりの人の多さにビックリしてしまい、出だしの一節を歌ったところで気が動転してしまい、マイクを食べてしまう。マイクはハウリングをおこし、本人の泣き声と“キ〜ン”というハウリング音が、夏の夜の団地じゅうに響きわたる。

 幼稚園に行く途中で、走ってるタクシーから落ちる。タクシーはそのまま500m先まで行ってしまうが、何とか気づいてもらう。

小学1年

 藤沢市立某小学校に入学。

 風呂場で初めて歌を創る。曲名は「アツイ、アツイ、ピーポッポーッ」。

小学2年

 学校の授業でハーモニカを習う。最初に吹けた曲は「かえるのたんじょうび」。

小学3年

 学校の授業で縦笛を習う。放課後、誰もいないはずの教室に忘れ物を取りに行くと、そこからは「♪ピ〜、ピッピッピ〜」と笛の音が聴こえてくる。教室のドアを恐る恐る開けてみると、クラスで1番かわいい女の子の笛を吹いている友達を発見。その友達、冷や汗をかきながら「お、お、お前も吹くか?」と聞いたので、しばらく考えて「お前のツバがついてるのなんかイヤだ!」と毅然と答える。

小学4年

 親に2段式のハーモニカを買ってもらう。

 兄が観た映画、『小さな恋のメロディ』のサントラを聴く。これが初めて聴いた洋楽で、最初は何となく聴いていたが、そのうちハマリ始め、密かに「将来はミュージシャンになりたい」と想うようになる。

小学5年

 京都市立某小学校に転校する。そして、仲の良かった竹野君と磯部君のふたりと、変身チーム、“ミラクルシャドウ”を作る。このチームは探検したり、お人形遊び(“サイボーグ1号”という男の子の人形)をしたり、帳面に先生の悪口やいろんな怪人の絵を描いたりする、言わば交換日記のようなものをしたりしてた。

 初めてビートルズを聴き、そんでもって“ガガガ〜〜ン”と衝撃を受ける(ホントなのだ!)。

小学6年

 また、藤沢の某小に戻る。クラスは前のクラスに編入される。あまりの嬉しさに一人で興奮してしまい、早速担任に叱られ、それ以降、席は先生の机の隣に。結局そのままの席で1年を通す(初志貫徹………って言うのかなぁ?)。しかし、音楽と体育の時間だけはそれから開放され、すっかり音楽好きに………ってホント?

 従兄弟にガット・ギターをもらう。初めてディープ・パープルやグランド・ファンクといったハード・ロックや、T−レックス、E.L. & P.などのロックを聴く。中学生になったら絶対にバンドをやると固く決意する。

中学1年

 藤沢市立某中学に入学。始めは剣道部に入部するが、どうしてもバンドがやりたくて(剣道部の練習試合では、女の子にも負けた)ブラス・バンド部に入る。剣道部の先輩はカンカンに怒って、ブラス・バンド部まで追いかけて来るが、ブラス・バンド部の3年生の先輩との交渉で、無事“無償トレード”が成立。晴れてブラス・バンド部の部員となる。自分のパートを決める時になると、ブラス・バンドにはエレキの類いが一つもない事に気付くがすでに遅し。が、なんとかキング・クリムゾンのイアン・マクドナルドの様にと、サックスを希望する。しかし、もうアルト・サックスは定員いっぱいで、「だったらテナーは?」となるが、持ってみると、当時身長が1m46cmしかなかった為、サックスが膝のあたりまできてしまい、部長の「ボクゥ、残念だね。ホルンになさい」と言う一言でホルンにされてしまう。ホルンとロックが結びつくかどうか、幼い頭で一生懸命に考え、ショックを受ける。そして更に追い打ちをかける様に、そのホルンが実はメロホンという、ホルンの廉価版の様な楽器であった事を知らされる。家に帰って、慰めてもらおうと兄にその事を言うと、慰めてくれるどころか、「や〜い、ロック・メロホニスト!」と言われ、思いっきりバカにされてしまう、泣きっ面に蜂な経験をする。

 友達から借りたフォーク・ギターで、あのねのねの「赤とんぼ」を弾けるようになる。たった、1日で弾けるようになった自分の才能にほれぼれし、「やっぱり自分はギタリストだ」と思う様になる。しかし、自分のフォーク・ギターを持っていなかったので、次々と人に追い越され、また元の“ロック・メロホニスト”に戻ってしまう。

中学2年

 やはりメロホンではなく、ロックな楽器を演りたくて色々考えた結果、ドラムならまだ誰もやっていないという事で、ドラムを始める事にする。とりあえず、お店屋さんでスティックを買って来る(4月13日)。

 学校(クラス)の『お楽しみ会』でバンド演奏をする。一応、学校ではロック禁止であったが、言い出したのが成績の良い子達だったのと、演る日が日曜日で、それもクラス内だけの催し物という事で、なんとかオーケーになる。曲目は、1.「ウォーク・ドント ラン」(ベンチャーズ)、2.「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」(R・ストーンズ)、3.「キャント・ゲット・イナフ」(バッド・カンパニー)、それからヴォーカルのみで4.「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(ディープ・パープル)の4曲であった。この時、クラスの皆と担任の先生に「安田の真面目な顔を初めて見た」と言われ、喜んでいいのか、悲しんだらいいのか解らなくなってしまう。

 或雨の日、道端で5千円を拾い、それをそのままネコババする。「よーし、これでドラムを買うぞー!!」と意気込んだが、5千円ではドラム・セットを買えるはずもなく、藤沢の山野楽器(ここでは、あのベーシスト、青○智仁氏もバイトしてた)に行ってハイハット・スタンドのみを購入。その後暫くの間、“カシャンカシャン”という、とっても淋しいハイハット・スタンドの音が部屋中にこだまし続けた。
 因みに、この時点で持ってた楽器は、縦笛1本、2段式ハーモニカ1台、スティック1式、ハイハット・スタンド1脚………。

中学3年

 夏休み(8月13日)に藤沢の労働会館というホールを借りて、ロック・コンサートを企画する。バンド名は“URANUS”で、ドラムとヴォーカルを担当する。メンバーは他に、ベースの陽くん、リード・ギターのすぐる、サイド・ギターの金井せんぱいの4人。この晴れの舞台の日に、家から会場へ向かう途中で興奮のあまり鼻血ブーッになってしまい、着てたタンク・トップ(兼、衣装でもあった)を血だらけにしてしまう。そんな意気込みでステージに立つと、きっと同級生の女の子達は皆、黄色い声援を送ってくれるに違いない、と思いきや、ステージに現れるなり、「あ〜っ!安田だ安田だぁ〜!」、「あいつ、真面目な顔してるよーっ!」、「ホントだ、ホントだ。わ〜はははははー!」と皆に笑われてしまうのであった。ライヴでの演奏曲目は、1.「ロック・ステディー」(バッド・カンパニー)、2.「剣を棄てろ」(ウィッシュボーン・アッシュ)、3.「キャント・ゲット・イナフ」(バッド・カンパニー)からドラム・ソロ、そして最後にまたまた4.「ロック・ステディー」(バッド・カンパニー)というナンバーであった。この時観てた高校生のお兄さんに、「君はきっと将来プロになれるよ」と声を掛けられ、すっかりその気になって(だいたい今考えてみると、どこの馬の骨か分からない高校生に、そんな事が分かるのだろうか?)、「ボクは将来プロになるんだ!」と誇大妄想を抱いてしまう。

高校1年

 神奈川県立某高校に入学する。

 ここで、幼なじみの米川ヨッチ(ギター)とバンド、“アマゾネス”を組む。4月から、毎月1回はコンサートを開き出演する。客は多い時には800人は集まった(ほ、ほ、本当なのだ!)。主に、レインボウ、クイーン、ブラック・サバス、スコーピオンズ、UFOなどのバンドのコピーを中心に演奏する。

高校2年

 今度は“ポセイドン”というバンドを作る。メンバーは、ヴォーカルに北村君(現、音楽誌「フールズ・メイト」の編集長。ちなみに今は違う名前になっている)、ギターに石野君(彼は天才ギタリストだったが、今は違う仕事をしてる)、キーボードに山本君(彼は当時東大生で、今は朝日新聞の記者をしている。ある時は、高校の1学年先輩の石黒浩己君が演ってくれた。彼は現在ヒーリング・ミュージックのピアニスト)、ベースに荒木陽太郎(彼とはもう長いつき合いだ。今も音楽家として活躍し、『SMAPxSMAP』の音楽スタッフでもある。よすおさんとも親友)、そしてドラムの安田しん二の5人。その後、北村君の影響で(彼のお兄さんは“YBO2”というバンドのヴォーカルでもあり、プログレッシヴ・ロックの評論家でもあった)ユーロ・ロックも聴くようになる。

高校3年

 大学受験をするかどうかを決めなくてはいけない時期であったが、どうしてもミュージシャンになりたかったので、親に「音響の専門学校に行きたいのだけど、今年は定員いっぱいなので1年浪人したい」と適当な事を言い、納得してもらう。

 そして結局、高校3年間で30回近く(ホントは20回くらい?)ステージを踏んだ事になる。

ジーンズ屋店員1年目(18歳)

 1年間という事で、ジーンズ屋の店員になる。その間もライヴ活動をするが、どのバンドも長続きしないで終わる。そして19歳になる頃、親に「本当は、ミュージシャンになりたいんだ!」と告白し、音楽の学校に行きたい事を告げる。

 初めて自分のステレオを買う。それを機会にロックからだんだんポップスも聴くようになり、ダイアナ・ロスのライヴ・アルバム、『めぐり逢い』を買って聴き衝撃を受け、ダイアナ・ロスにハマって行く。日焼けした女の子を見ると次々に好きになって行くのであった。これもダイアナ・ロスの影響だ。

音楽学校生1年(19歳)

 この年、晴れて某音楽学校に入学する(勿論無試験。金さえ払えば誰でも入れます)が、学費を稼ぐ為に都内の運送会社で運転助手のアルバイトをする。そして、学校の方へは次第に行かなくなり、見事中途退学する。

 友達が行ってた上智大学のクラブ(軽音)のバンドに誘われる。このバンドはいわゆるジャズ・ロック(フュージョンではないぞ!)のバンドで、ほとんどアドリブのアバンギャルドな音楽ばかり演っていた。メンバーは大ちゃんがギター、ベースに西島君(彼は現在、“メンズ5”というバンドをやってる)、キーボードのカワイ君とドラムの安田しん二であった。

 アルバイト中、走ってるトラックの荷台から落ちて意識を失い、救急車で病院に行く。そして、事故を起こした事により、バイトはクビになるが、その後無事退院し、運転免許を取る(実は現在、フォーク・リフトの免許も持ってる)。

トラック運転手1年目(20歳)

 今度は違う都内の運送会社の運転手になる。しかし、住み込みで働いてるおかげでドラムの練習をしなくなり、やってるバンドも全てうまくいかず、だんだんドラムを叩く情熱を失い始める。しかし、仕事中に聴くFEN放送で歌の練習をするようになる。この頃、もう1970年代のロックの類いの音楽はすっかり聴かなくなり。もっぱらアメリカン・トップ40ばかり聴いていた。そして、今度はソロ・ヴォーカルでもやろうと、デモ・テープを創る為に、ティアック33−8というMTR(マルチ・トラック・テープ・レコーダー)を買う。

トラック運転手2年目(21歳)

 藤沢に戻りもうドラムはやめる事にするが、何故か人にヘヴィメタ系のバンドに誘われてずるずるとやってしまい、暫くデモ・テープはお休みにする。

 この頃から、少しだが曲を書きはじめる。「アツイ、アツイ、ピーポッポーッ」よりは、少しはましな曲を書ける様になった。

トラック運転手3年目(22歳)

 その頃の音楽の好みは、TOTO、エアプレイ、デヴィッド・フォスターといった西海岸のアーチストで、やっぱりへヴィメタのバンドは性に合わずに脱退して、ドラムもきっぱりと辞め、念願のヴォーカリストになろうとする。そして、一度自分のソロ・プロジェクトを組みライヴをするが、散々な結果で落ち込む。

トラック運転手4年目(23歳)

 地元の仲間と“オービッツ”(ORBITS)というバンドを作りライヴをする。するとなかなか好評を得る。しかし、1ヶ月後にまたライヴをすると今度はうまくいかず、メンバーは「リーダーのせいだ」と言い始める。しかし、実はスカウトされた事を言うと、メンバーは手の平を返した様におとなしくなり、「俺達はどこまでも安田に付いて行く!!」とあたかもそれが当然の様に言い、バンドにとどまる。そして某プロダクションに所属し、デモ・テープを制作する。その時初めてプロのレコーディング・スタジオでレコーディングを体験する。

 トラックの運転手をやってたおかげで、120kg近くある電車のバッテリーの様な重いものも持てる様になる。しかし、それは音楽とは何のカンケーも無い。

セミプロ1年目(24歳)

 結局、自分以外のオービッツのメンバーは全員辞め、新メンバーでバンドを再スタートするが、プロダクションも辞めることになる。新しいメンバーは、ギターに浜野義光(元、世良公則バンド、etc.)、ベースに石川総彦(元、トム キャット、etc.)、シンセに古川貴司(元、KUWATA BANDのマニュピレーター、etc.彼は只今ロサンゼルスで活躍中)、ドラムに田中一光(元、B’z、etc.)に安田しん二の5人。そしてバンドはどんどんファンク色を強めていく。

プロ1年目(25歳)

 “オービッツ”は安田、浜野、古川の3人編成になる。この頃、アルバイトを辞め、自分でもビデオの曲を書いたり、スタジオでコーラスをやったりして、だんだん音楽で飯を食う様になっていく。しかしその後、残念にもオービッツは解散する。

 プリズムのドラマー木村万作、元スクエアのキーボード宮城順子、ベースの雨水英二らと同じバンド“ロング・エンド”でびびりながらステージに立つ。

 安田しん二はこの翌年から作曲家になり、そして現在に至ってる。


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