フリーは当時平均年齢20歳にも満たない4人の若者が結成した伝説のバンドです。この『フリー』は、彼らにとって通算2枚目のアルバムで、録音は1969年に行われました。
のっけから渋い!渋すぎます!ファーストの『トンズ・オブ・ソブス』は更にブルース色が強いアルバムでしたが、この『フリー』もかなりブルース色は強いです。この若さでこの渋さ、もうビックリするしかありません。日本のこのトシゴロの若者が演ってる音楽と比べてみたいもんですが、ここでフリーの事を少し説明しておきます。
私の世代はフリーについて、「バッド・カンパニーの前身」と言う認識がとても強いのですが、フリー自体も凄く人気のあったスター・バンドでした。メンバーはポール・ロジャース(リード・ヴォーカル、当時18歳)、サイモン・カーク(ドラムス、当時19歳)の後のバッド・カンパニー勢と、若干15歳でジョン・メイオールのブルース・ブレーカーズに在籍してたアンディー・フレーザー(ベース、当時16歳)、それにチョーキングの鬼、泣きのギターの代名詞のポール・コゾフ(ギター、当時18歳)の4人編成で、1968年にアルバム、『トンズ・オブ・ソブス』でデビューします。その後本アルバム、『フリー』(1969年)、『ファイアー・アンド・ウォーター』(1970年)、『ハイウェイ』(1971年)、『フリー・ライヴ!』(1971年)を発表し、日本にも1971年に来日し、4月30日と5月1日の2回の公演を果たします。しかし、その頃のフリーはすでに最悪の状態で、もうすでに解散が決っていたのでした。そして、ポール・ロジャースはピースを、アンディーはトビーを、コゾフとサイモンは日本人ベーシストの山内テツ、アメリカ人キーボーディストのラビット(ラビット関根じゃないよ!)ことジョン・バンドリックとの4人で、コゾフ・カーク・テツ・ラビット(同名のアルバムもなかなか良いアルバムです)を結成しますがどれも長続きせず、結局、またオリジナルの4人が集まってアルバム、『フリー・アット・ラスト』(1972年)を発表します。しかし、やはり4人の確執はかなり深刻なもので、アンディーはクリス・スペディング(ギター)と共にシャークス(安岡力也のバンドではありません)を結成し、コゾフもトラフィックのジム・キャパルディ(ヴォーカル)、ジェス・ローデン(ギター、ヴォーカル)、スプーキー・トゥースのマイク・ケリー(ドラムス)らとニュー・プロジェクトを組みバンドを離れて行きました。そして一方、ポール・ロジャースとサイモン・カークは、山内テツとラビットの4人でフリーを建て直し、1972年に再び日本にやって来ます。この時のギターはポール・ロジャースがヴォーカルと兼任し、E.L.&P.の7月22日の後楽園と24日の甲子園公演のオープニング・アクトを務めました。日本からハンガリーをツアーして帰って来た彼らは、その翌月、遂にポール・コゾフとも合流し、イギリス・ツアーを行います。そして、翌1973年にアルバム、『ハート・ブレーカー』を発表します。が、このアルバムのレコーディングの途中でポール・コゾフは体調悪化を理由にレコーディングをリタイアし、そのままバンドを去ってしまいます。バンドは新しいギターに元オシビサのウェンデル・リチャードソンを迎え全米ツアーをしますが、1973年の春を待たずしてそのまま解散してしまいました。
解散したフリーのその後ですが、アンディ・フレーザーはアンディ・フレーザー・バンドなるものをつくりますがあまりパッとせず、山内テツ、サイモン・カーク、ポール・コゾフ、ラビットもバンドを組んでアルバム、『コゾフ・カーク・テツ・ラビット』を制作しますがこちらもパッとしませんでした。山内テツはその後、ロッド・スチュアートのフェイセスにロニー・レーンの後釜として加入しました。ポール・コゾフは1973年、『バック・ストリート・クロウラー』というソロ・アルバムを発表し、翌年には自分のバンド、バック・ストリート・クロウラーを結成し、『バンド・プレイズ・オン』(1975年)と『2番街の悲劇』(1976年)の2枚のアルバムを発表しますが、1976年3月19日、ツアー移動中のニューヨーク行きの飛行機の中で、ドラッグの常用と病からくる心臓発作で亡くなってしまいました。ポール・ロジャースはスリー・ピース・バンドのピースを結成し全英ツアーに出ます。このピースも短命に終りますが、この時、モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと知り合い意気投合します。そして、御存知バッド・カンパニーをミック・ラルフス、サイモン・カーク、元キング・クリムゾンのボズ・バレル等と結成します。