1960年代の終りから、1970年代初頭までのブリティッシュ・ロック全盛のさなか、1969年にアメリカから出現した3人組ハード・ロック・バンド、これぞアメリカン・ハード・ロックの代名詞でもあります、グランド・ファンク・レイルロードのベスト・アルバムです。
彼等の出身地であるミシガン州と、カナダを結ぶ鉄道、GRAND TRUNK RAILROADから名前をもじってバンド名を付けたグランド・ファンク・レイルロードは、1969年5月、12万人の聴衆を集めた『アトランタ・ポップ・フェスティバル』のステージでデビューしました。そして、シングル「タイム・マシーン」、アルバム、『グランド・ファンク・レイルロード登場』でレコード・デビューを飾りました。メンバーは、マーク・ファーナー(ギター&ヴォーカル)、ドン・ブリュワー(ドラムス&ヴォーカル)、そして、メル・サッチャー(ベース)の3人組です。
1972年、グランド・ファンク・レイルロードは、ゲストのキーボードにクレイグ・フロストを迎え、アルバム、『不死鳥』をリリースしました。この頃のバンド名は、アルバム背表紙にはグランド・ファンク・レイルロードと、アルバム・ジャケットとプロデュースのクレジットにはグランド・ファンクが使われてました。翌年の1973年にはクレイグ・フロストを正式メンバーに迎えて、バンド名も完全にグランド・ファンクとし(日本盤のライナー・ノーツには、まだ“レイルロード”が付いてました)、トッド・ラングレンをプロデューサーにたてたアルバム、『アメリカン・バンド』からのシングル・カット、「アメリカン・バンド」が全米1位の大ヒットとなり、翌1974年にもトッド・ラングレンのプロデュースでリリースしたアルバム、『輝くグランド・ファンク』からのシングル・カット、「ロコ・モーション」が全米1位を獲得しました。
このアルバムの収録曲は、1〜3曲目が『グランド・ファンク・レイルロード登場』(1969年)から、4曲目がセカンド・アルバムの『グランド・ファンク』(1970年)から(その後同年に2枚組の『ライヴ・アルバム』もリリース)、5、6曲目が『クローサー・トゥ・ホーム』(1970年)から、7、8曲目が『サバイバル』(1971年)から、9曲目が『戦争はやめよう』(1971年)から、10曲目が『不死鳥』から、11、12曲目が『アメリカン・バンド』から、13、14曲目がマッチョなレコード・ジャケットが印象的な、『ハード・ロック野郎』(1975年。同年、2度目のライヴ・アルバム、『グランド・ファンク・ツアー’75』をリリース。これは名盤です!!!)から、15、16曲目は1974年にリリースの『輝くグランド・ファンク』から、17、18曲目が『驚異の暴走列車』(1976年)からとなっております。
『ハード・ロック野郎』と『驚異の暴走列車』のプロデュースはキッス、ラズベリースやスリー・ドッグ・ナイトのプロデューサーのジミー・イエナーで、このあたりからバンドはかなりポップなモノを意識していった感じです。
そして、1976年には実質上最後のアルバムとなった(レコーディングは、『驚異の暴走列車』よりも前?)、『熱い激突』をフランク・ザッパのプロデュースでリリースしております。このアルバムの音は、私に言わせるとコンプレッサーがかなり極端に掛けられていて、中音がなかり強めです。この後バンドは一度解散し、1981年にライヴ・アルバムで再結成されています。
グランド・ファンクと言えば、ツイン・ヴォーカルのバンドと言う印象はそれほど一般的には定着してない様ですが、私の印象は、マーク・ファーナーのハイ・トーンのヴォーカルとドン・ブリュワーのパワフルで太いヴォーカルが印象的です。それと、以外と過小評価されてると思うのが、ドラマーとしてのドン・ブリュワーの評価です。彼のプレイはもっともっと評価されて良いと思います。パワー(当時のハード・ロック・ドラマーとしては小さめの22インチのバス・ドラムを使ってたので、パワフルな印象が薄いですが、実は物凄くパワフルです!)、テクニックもそうですが、あのキレの良いタイトなリズム感、そしてハード・ロッカーとしての飛び抜けたセンスがドラミングに表れていて素晴らしいです。
グランド・ファンクは伝説となった“雷雨の後楽園球場でのライヴ”が有名ですが、やはりライヴでもっとも輝くバンドである事は間違いないと思います。ですが、こうやって落ち着いてスタジオ録音のアルバムを聴いてみても、その演奏と楽曲のカッコ良さとは充分に伝わって来ます。