「占い師はすべてを語らない」  第1回


 五月十六日、午後十二時二十分、小さな喫茶店で、人生の行き先が変わろうとしている青年がいた。いや、変えようとしていたという表現の方が正しいだろうか。

 テーブルが三つにカウンターだけの小さな喫茶店だったが、それでものこの喫茶店は慢性的に、そのわずかな席さえも持て余している。

 この四年間、平日の午後十二時十五分からの三十分間は、一つのテーブル席に同じ顔がある。彼以外の顔がこの店にあることの方が珍しい。

 紺色の何の特徴もないスーツに、派手でも地味でもないネクタイ、黒い皮靴、彼はいつもこの姿だ。季節に合ったネクタイだとか、ブランドの靴がいいとか、そういうこだわりはないのだ。

 彼は清涼飲料水を作っている会社に勤めている。それなりに世間に知られた会社だ。

 会社に入った時、彼は会計課へ配属された。当初、彼の希望は企画課だったが、与えられた職場で頑張れば希望の部署へすぐに異動できると聞いていたので、さほど気を落とすことはなかった。もちろん多少は残念に感じたが、会計課で認められれば企画課に移れると信じていた。

 毎日の仕事を真面目に、そして正確にこなしていった。遅刻もしなかった。それどころか、誰より早く職場へ来てお湯を沸かし、ポットに入れたりもした。お茶もコーヒーも誰より手際よく、そして、美味しくいれた。

 上司もそんな彼を見て、

「感心だね。今時の若い社員には珍しいタイプだ。君ような人材は我が社の宝だ」

 と言った。彼はその言葉を胸に仕事に励んだ。

 しかし、なかなか異動の話はこなかった。彼の環境は一年経っても、二年経っても、三年経っても、何も変わらなかった。企画課に移れるどころか、会計課内の机の位置さえ変わることはなかった。

 何の変化もなく、五年が過ぎた。今でも遅刻することはない。けれども、やかんに火をかけることもない。ふと、彼は考える。「今は誰が湯を沸かしているのだろう?」と。

 とにかく彼はこの五年間で、仕事への意欲を少しずつだが、確実に削ってきたのだ。なぜ企画課へ行きたかったのかということも、今でははっきり思い出せない。いや、正確には最初からたいした理由などなかったのかもしれない。ただ、「カッコいい、やりがいがありそう」と思えただけだった。

 「やりがい…」まるでテレビのクイズ番組に出てくるキーワードのように彼は心の中で呟く。しかし、彼はそのクイズ問題には答えることができない、そんな感じだ。

 仕事を離れて、その答えを探してみる。

 趣味は? 挑戦していることは?

 答えられない回答者にヒントを与えるように、彼は自分の部屋を思い出してみる。

 一人暮らしのアパートの部屋には、テレビがあり、オーディオがあり、何冊かの雑誌が転がっていて、室内の物干し台にぶらさがったままの洋服が並んでいる。たぶん、この部屋を見ただけでは、彼のことをほとんど何もイメージできないだろう。

 やはり、答えは出てこない。

 幸運なことに恋人はいる。一年ほど前に職場の後輩がもってきたコンパで知り合った。三つ年下で、フリーターだ。今はファミレスのウェイトレスをしている。決して美人ではないし、頭の回転も早くない。けれど、彼は、彼女の笑った時の口の形が好きだったし、何より穏やかで、誠実な性格が好きだった。
                                                 つづく