「占い師はすべてを語らない」  第2回


 「さえない」と、彼は思う。不幸せだというわけではない。大事に思うことのできる恋人もいる。仕事でも、周りの世代と同じくらいの給料は貰っているはずだ。

 恋人のいない人間はごまんといる。自分より待遇の悪い仕事だって、たくさんあるだろう。世間では就職難だと騒がれていて、就職先が見つからない人間が多くいることも知っている。

 しかし、そんなことは何の励ましにもならない。

「さ・え・な・い」

 指に挟まれた煙草の灰がテーブルに落ちる。

 彼はそれに目もくれず、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 喫茶店の小さな窓。その先には、駐車場と低いビルが見えるだけだ。

 店には、彼以外に客はいなかった。この時間のこの喫茶店には、いつも客はいない。そう、いつものことだ。赤信号が止まれを示すように、それは決まったことだった。

 この時間、この喫茶店にいるのは、口髭をたくわえた無口なマスターと彼だけだ。

 テーブルに落ちた煙草の灰を彼は手拭いでさっと拭いた。そして、コーヒーカップを手に取ると、口に運んだ。

 うまいコーヒーだ。

 二十件の喫茶店があったとしたら、この喫茶店よりうまいコーヒーを出せるのは一件あるかどうかだろう。

 ただ問題があるとしたら、この喫茶店にはそれを飲む客が絶対的に不足しているということだ。

 一日にいったい何人の客がこの店を訪れるのだろう?

 彼にはわからない。

 「さ・え・な・い」

 彼はまた心の中で呟く。その言葉が、喫茶店を示しているのか、自分を示しているのか、彼自身にもわからなくなった。

 彼がそこまで自分の生き方について考えるには理由があった。

 昨日のことだ。

 同じ課の一人が熊本の支社へ転勤が決まり、その送別会が開かれた。十二人いる会計課の中で出席したのは七人という、いささか寂しい送別会であった。

 彼も二次会まで付き合い、一人で駅に向かっているときのことだ。

 道の脇で、手相占いをやっているのを見つけた。初めて見かけたわけではない。少し仕事で帰りが遅くなったときでも、何度か目にしたことはあった。

 手相を見てもらうなど、今まで考えてみたこともなかった。しかし、なぜか昨日だけは導かれるように足を向けた。

 珍しくずいぶんの量のお酒を飲んでいたのも理由の一つだろう。また、栄転とは名ばかりの押しつけ人事を目にして、自分の「明日」を見てしまったのかもしれない。

 白髪のおかっぱをした、その老婆は言った。

 「生き方を変えなさい。生き方を変えなければ四日。…四日後、あなたは殺されます」

 別に良いことを言われるのを期待していたわけではなかったが、まさか死の宣告もされるとは思いもしなかった。それも、四日。

 こんな占いを笑い飛ばすことのできる人間がいったいどれだけいるだろう…。

 回想から抜け出して、腕時計を見ると十二時五十分だった。もう会社に戻らなくてはならない時間だ。

 彼は今日、この店に来てからずっと気になっていたものに目を向けた。

 机上に置いてある、自分の星座に矢印をセットして百円玉を入れると占いの紙が出てくる置物だ。簡易式占い自動販売機とでも呼べばいいのだろうか。とにかく十年前には喫茶店や安いレストランなどでよく目にした、あれだ。

 ガチャという思ったより重たい音がして、置物は百円玉を飲み込んだ。

 そして、小さく丸められた紙がテーブルに音もなく落ちた。

 彼はその紙の玉を拾い、開けてみる。

 ほんの少し心臓が激しくなったのが、自分でもわかった。

 紙を見た彼は、こう呟いた。

「冗談だろ」

                                      つづく