「占い師はすべてを語らない」  第3回


 その日の午後三時、彼は課長に時間をとってもらい、仕事を辞めたいということを伝えた。

 大きな会議室に二人きりで向かい合って、話をした。

 上司は当然、驚いた。そして、まだこれから先も人事異動があり、仕事の内容も変わってくるから…というようなことを言った。

 他の課への異動を彼が希望していることを直属の上司が覚えていることに、彼はほんの少しだけ安心した。その安心がどのようなことを意味するのか、説明することはできないけれど。

 上司との話し合いが終わり部屋を出る頃には、なぜかあの手相占いをした老婆の言葉を信じていた。しかし、もちろん、上司には言わなかった。

「ある占い師に生き方を変えなければ四日後に殺されると言われまして…仕方なく。ええ、そうです。駅の近くで見てもらったんです。…いえいえ、新興宗教とかそういう類ではなくて…。それだけじゃないんです。喫茶店にあった占いの…」

 言えるはずがない。

 話し合いが終わると、彼はそのまま会社を出ることにした。早退、ということにしてもらった。

 明日以降も有給休暇という形になった。ほとんど手をつけていなかったから、今月の残りの十四日間は、すべていわゆる年休消化だ。

 会社というシステムは、辞めたいと思ったからといって、「それでは、さようなら」と送り出すほど、シンプルではない。

 会社に出ると、やわらかい五月の風が彼を包み、そして、消えていった。平日の午後三時に会社の外へ出ることが、こんなにも簡単で、気持ちの良いものとは、知らなかった。

「やりたいことがあるんです」、上司に言った言葉を口の中で繰り返す。

「やりたいことが…」

 言葉を何度か繰り返しているうちに着いたのは、床屋だった。一度も来たことのない床屋だ。

 一時間後、床屋から出た時、彼は坊主だった。それも、青い五厘刈りだ。

 「これからが肝心なのだ」と彼は思う。

 髪を切るのは誰にもできる。ただのスタイルだ。

 床屋を出た彼は近くにあった公園に入った。そして、ベンチに座り、携帯電話で恋人に電話をした。

 まだバイトへ行くには早い時間だから、つかまるはずだ。

 電話が三回コールした後に、彼女は電話に出た。

「あれ、どうしたの? こんな時間に。お仕事中じゃないの?」

 彼女は珍しく早口で聞いてきた。

「うん。仕事、辞めたんだ」

「えっ? ほんと?」

「ほんとっ」

「そう…、…そっか、へへ、じゃ、わたしと同じプータローだね」

 そう言って彼女は本当に楽しそうに笑った。電話の向こうで笑っているきれいな形の口が見えるようだ。

 細かいことをいろいろ聞かれなかったのが、ありがたかった。

『占いで四日後に殺されるって言われたからさ。働いているのがバカバカしくなって…』

 …本当にバカバカしい。言えるわけがない。

 こんなことを周りの誰かが言ったら、頭がおかしいんじゃいかと、おそらく自分でも思うだろう。

「一度、実家に帰ろうと思うんだ」

彼女の笑い声が、ぴたりと止んだ。きっと口の形も、笑い声といっしょに崩れてしまっただろう。

「…帰っちゃうの?」

「あぁ、でも、そんな大袈裟なものじゃないんだ。一つ思い出したことがあってさ。気になってさ。すぐに帰ってくると思う」

 彼女は落ち着いたのか、息をふぅーと吐き出した。

「わたしもいっしょに行こうかな。どうせ暇だし」

 彼女は言葉に無いか微妙に探るような気配を一瞬だけ見せて、すぐに消した。ちょうど五月の風ようだった。

「バイトがあるだろ。一人辞めたから、忙しいって言ってたじゃないか」

 バイトとはいえ、忙しい職場を放り投げることのできないのは彼が一番わかっていた。

「地元で悪いことしちゃだめだよ」

電話の最後に彼女はそう言った。

「大丈夫だよ」

 電話を切った後で、彼は電話に答えた。

                                            つづく