「占い師はすべてを語らない」  第4回


 

 翌日、彼は六時三十五分発の新幹線に乗り、東京を出た。新幹線を降りて、在来線に乗り、そして私鉄に乗り換えた。

 実家から一番近い私鉄の駅に降りた時は、もう昼を過ぎていた。

 携帯電話で実家に電話をしてみる。

 五回コールした後で、帰ることを連絡していなかったことを後悔した。

 もし家に誰もいなかったときのことを考えはじめた頃、向こう側で受話器が持ち上がった。

 「もーしーもーし」

 母親の懐かしい声だ。

 迎えに来た母親の軽四トラックの中では、約二年ぶりだというのに何を話したらいいのかわからなかった。それとも、二年ぶりだからだろうか。

 不思議なことに平日の昼間に帰ってきた息子に対して、母親は、実家に帰ってきた理由も、仕事のことも尋ねはしなかった。

 家に着くと、母親がよく冷えた麦茶を出してくれた。麦茶の注がれたコップは、まぎれもなく彼の使っていたそれだった。

 なつかしい味だった。

 自分が昨日まで勤めていた会社の作っていた缶入りの麦茶もこれと同じ味だったら、もっと売れるだろうにと、ふと考えた。

 しかし、すぐにそんな考えを遠くにやって、出かけるために立ち上がった。

 「母ちゃん、自転車借りるよ」

 田んぼと田んぼに挟まれるようにして、その建物はあった。

 昔のままだ。

 彼は心の中で呟き、自転車を降りて建物を見上げた。

 赤い煉瓦で作られた洋館風のこの建物は、彼が小学四年生のときにできたものだ。大きさはそれほど大きいわけではない。この辺りで昔からある民家に比べれば、この建物の方が一回り小さいくらいだ。

 当時は、建物のできる前から彼の仲間内ではずいぶん話の種になった。

 外国人が住むのだと誰かが言い出して、誰もその話を信じて疑わなかった。

 しかし、一ヶ月後に完成した建物には、「おいしいパン屋さん」という看板が付けられてずいぶん驚いたが、外国人のやるパン屋ができるのだという新しい噂が流されて、やはり信じていた。

 店には、気難しいふさふさの白い髭を生やしたおじいさん(といっても彼は安田五郎という名前のれっきとした日本人なのだが)と、そのおじいさんの気難しさを引いてもお釣りが返ってくるくらいの笑顔を持ったおばあさんがいた。

 そして、何より、この店頭に並ぶパンは美味しかった。クロワッサンも食パンもクリームパンも、カレーパンだって美味しかった。「おいしいパン屋さん」という店の名前を誰もからかったりすることがなかったのが、その証拠だろう。

 彼もここのパンを愛した一人だった。いや、誰よりもここのファンだったと自分では思っている。東京に出てからも、ここのパン屋に負けない味を探していろんな店を回ったが、結局未だに見つけられずにいる。

 彼がこの町を出た九年間、この場所にパン屋はあり続けたのだ。そのことにひとまず安心して、そして、感謝した。

 パン屋の扉の前まで行くと、ここから先に行くには、ほんの少し勇気が必要だということに気が付いた。

 ここ何年かずっと、勇気とは関係の無い世界にいたことを実感する。

 集めた勇気が背中を押し、扉を開けさせた。

 パンの香りが、わっと彼に飛び込んだ。

 この香りさえも他の店には真似することはできない。九年前と同じこの香りを。

 扉に付いているベルが鳴り、店の奥からおじいさんが出てきた。

 この店に来る他のお客と同じように、彼もおじいさんとは話したことがなかった。

 おじいさんが姿を見せると、彼ははじかれたように、床に膝をついた。そして、床に叩きつけるように頭を深く下げた。

「私を、私をここで働かせてください。すぐにとは言いません。二年間、学校でパンの勉強をします。…二年後、ここで働かせてほしいんです」

 パン屋の主人は、少しだけ目を大きくして驚いた顔をしたが、何も言葉を口にしなかった。

「私はこのお店ができたとき、そして、このパンを初めて食べたとき、都会の人たちは毎日、こんなにおいしいパンを食べているのだと思いました。けれども、東京に出て、九年間、ここよりおいしいパンを食べたことがありません。ここのパンをよく思い出しました。おいしいコーヒーを飲んだとき、日曜日の何もない朝にも。正直、この年になっても、私には何になりたいかさえわかりませんでした。でも…だから、自分が一番好きなものを作る仕事をしようと思いました。ここのパンを…」

 彼は土下座の姿勢のまま、床に向かってぶつけるように言葉を続けた。

 店の主人は黙って聞いていたが、彼の話が終わると、彼の手をとってこう言った。

「おいしいパンを作るのに大切なことが二つある。一つは、早起きを楽しむこと。そして、もう一つは、パンを愛することだ。パン作りではなく、パンを。お前さんは、おいしいパン作りのコツの一つは、もうできているようだ」

 そこで一呼吸、間が空いた。

「二年間は、この店を閉めることはできないな」

 その言葉に、彼はやっと頭を上げた。

                                      つづく