|
私はなぜここにいるのだろう? 上も下もない、光もそして闇もない、そんな世界に私はいた。 紡がれる呪いの言の葉に導かれるようにして、私はここにやって来た。
私を目覚めさせようとしている者がいる? そう呼んでいる… 私は呼ばれてここに来たのだ。 混沌とした巨大な気が渦を巻きながら私の中に次々と流れ込んで来る… 嫉妬、羨望、焦り、そしてわずかばかりの欲望… そして、これは思慕? 会いたいと… もう一度会いたいと思っているのか? 誰に? ――泰明? それは私の名か? 私を呼び覚まそうとしているおまえは何者なのだ? 私の中に溢れている気と似て異なる者… 私を私たらしめようとしている者… 私? 私は誰だ? ――泰明 きっとそれが私の名なのだろう。 あの者が求めているのはその者なのだから… あの者の期待に応えなければ… 私を呼ぶあの者の… ああ、光が見える… あの方向へ行ってみよう… 「兄上、目を覚ましたぞ。」 「何? 成功したのだな。よかった。」 ゆっくりと瞼を開けると私を見ている二人の翁の姿が目に入った… 目…そうか。これが目というものか? 重い。 今までは重さを感じることなどなかった。 だが、体を動かすたびに感じるこの重さはいったい何なのだ? これが肉体を持つ…ということなのか? 肉体を? そうだ。 私は人形の中にいる。 これが私の体…私の… そして、私はその重い肉体に何とか命令を与えながら、上半身を起こした。 二人は驚いた目で私を見ている。 この者達が私を呼んだのか? ならば… 「私は泰明だ。」 私は初めて言葉というものを発した。 二人の翁はさらに驚いた顔をして、私のことをひたすら見つめている。 やがて、翁のうちの一人が私の側に来て、おそるおそる私の髪をなでた。 初めて人に触れられて、私の中に心地よさというものが広がって行った。 だが、それとともに別の何かを感じる。 これは否定? いや否定ではない。 否定でも肯定でもない不可解な感情が私の中に流れ込んで来る… 「おまえは泰継だ。」 その者が言った。 「では、泰明ではないのだな?」 私はそう言ったのだが、その者ももう一人の翁も肯定も否定もしなかった。 だが、一つだけわかったことがある。 その者たちが望んでいたのは“私”ではないと。 ――私はなぜここにいるのだろう? 彼らは私にその持っている知識や技術をすべて教えてくださった。 もちろん陰陽の術も… お二人は私の呑みこみが早いと喜んでもくださった。 私も彼らの期待に応えられるよう努力した。時には書を読み、時には人に聞き、どんどん知識を自ら高めて行った。 だが、お二人が真に見ているのは私ではない。 いつでも私の後ろには誰かがいる… ――泰明… やがて、その“泰明”が何者であるかも教えてくださった。 お二人の父上である安倍晴明という者が作った人ならざる者。 この世でただ一人の私と同じ存在。 この髪の色と左右違う瞳の色は泰明と同じだと聞いた。 それが、人ならぬ者の証であると… だが、“泰明”と呼ばれる者の力は私の比ではなかった。 陰陽師としての才にすぐれ、創造した晴明と同じだけの力を持ち、人と同じように眠り、人と同じように物を食す… 私が似ているのは外見だけだ。 私には泰明のような力はない。 三月の間眠りをとらず、また次の三月の間は眠り続ける… 人のように物を食すこともない。 私は、人形を取りながら、人の真似さえも出来ない不完全な存在なのだ。 それに… 泰明は八葉として龍神の神子に仕え、神子によって人となったと云う。 八葉…神子… 私とは無縁のものだ。 私が人となれる日など来るはずがない。 人… 私は人になりたいのか? いや、なれるはずはない。 望んではいけないのだ。 お二人の期待にも応えられず、人にもなれない私がどうしてここに存在するのだろうか? わからぬ… お二人は私にとてもよくしてくださるが、同時に落胆もなさっている。 どんなに努力をしても私は泰明にはなれないのだ。 そんな私が存在する理由など本当にあるのだろうか? わからぬ… やがて、天寿をまっとうして、お二人が相次いで亡くなった。 私を壊すこともなく、逝ってしまった… それどころか、その命の火が消える直前に、私を呼び、私の手を握り締め、 「許してくれ」 と目に涙を溜めながら、おっしゃった。 別々に次の世に旅立ったお二人がなぜ同じ行動をとり、同じ言の葉を口にしたのか未だ不可思議でならぬ。 私に何の許しを請う必要があるというのだ? 許しを請う必要があったのは私であるのに… お二人に壊していただけなかった私はただ存在して行くしかなかった。 やがて、壊れるその日まで… そう思っていた。 長い長い時をただ一人存在し続けて来た。 そう、あの日までは…
◆ ◆ ◆
「泰継さん」 「ん?」 「泰継さん」 その自分の名を呼ぶ心地よい声に私はゆっくりと目を開けた。 まぶしい太陽の光が天窓の隙間から射し込んでいる。 その光の中にいるのは… 「珍しいですね、泰継さんが私よりも遅くまで寝ているのは。」 その声の主は笑顔で言った。 「花梨?」 「おはようございます、泰継さん。ふふっ、今日は泰継さんよりも早起きしちゃいました♪」 花梨はにこにこしながら、自分の方を見ている。 まだ少々もやのかかったような頭で泰継は考えた。 このように目覚めた時にはっきりと覚醒しないこと自体泰継には珍しいことだった。 どうやら自分は今まで夢を見ていたらしい。 近ごろではついぞ頭に浮かぶこともなかった花梨と出会う前の自分の夢… なぜ今ごろ? そんなことを漠然と考えているうちにだんだんと思考がはっきりして来た。 そして… ――ん? 花梨は今、何と言った? 私より早起き…ということは… 「そんな時間なのか!?」 泰継は驚いて、ガバッと上半身を起こした。 花梨が起きる時間と言えば、いつも昼近くである。自分はそれほど長い間、眠っていたのだろうか? 「ひど〜い! まだ朝ですよ。私だって、たまには早起きすることもあります。」 花梨はちょっと頬を膨らませ、抗議するような目で、泰継を見た。 「すまない。」 泰継はそう言うと、視線を伏せた。 「わっ、わっ、そんな…そこまで謝ってくれなくてもいいんですよ! 私の日ごろが日ごろだし…」 花梨は慌ててそう言って、ペロッと舌を出した。 「それに泰継さんが眠っていてくれたおかげでいろいろ準備出来たし♪」 「準備?」 「あっ、あっ、何でもないです。それより、まだ今日、泰継さんに言ってない言葉があるんです。」 「何だ?」 ――朝の挨拶の言葉は先ほど聞いた。それ以外に何の言葉があるというのだ? 「泰継さん」 花梨は泰継の名を呼んだ。 「ん?」 そして、花梨は満面の笑顔でこう言った。 「お誕生日おめでとうございます!!」 ――誕生日? めでたい? 泰継は花梨の言った言葉が理解出来なかった。 花梨が心から自分を祝福してくれているのは、その“気”でわかる。 だが、自分が作られた日にいったいどういう意味があるのだろうか? わけがわからぬという顔をしている泰継に花梨がやさしく言った。 「あのね。私の世界では生まれて来た日をお祝いする習慣があるんです。」 「花梨の世界の習慣?」 「そう。だけど、本当は習慣なんてどうでもいいんです。ただ私がこの日を祝いたいとそう思っただけ。だって、この日に泰継さんが生まれて来てくれなかったら、私たち逢えなかったんですよ。生まれて来てくれて、ありがとう! そして、私を待っていてくれてありがとう!」 「花梨!」 泰継は思いっきり花梨を抱きしめた。 ――私がこの世に生まれて来たのは、おまえが私を必要としてくれたからなのだな。 私を望むものなどこの世には誰もいないと思っていた… だが、おまえが望んでくれたから、私はここにあるのだな。 「ありがとう…」 すべての思いを込めて、泰継は花梨にそう言った。 花梨は泰継のその言の葉に満面の笑みで答えた。 そして、二人は静かに唇を重ねた。永遠の誓いのように… しばしその甘い余韻にうっとりしていた花梨であったが、 「あっ、いけない!」 突然叫んだ。 「どうしたのだ?」 「ごちそう用意してあるんです。」 「ごちそう?」 「誕生日パーティー…お祝いの宴ですよ、泰継さんの!」 「そんなものは後でもよい。」 「え〜っ、冷めちゃいますよ。」 「今はもう少しこうしてここでおまえとともにいたいのだ。」 そう笑顔で言った泰継だったが、少し不安になって 「ダメだろうか?」 そうつけ足した。 そのすがるような瞳を見て、ちょっと顔を赤らめながら、花梨が言った。 「ダメじゃないです…」 「そうか。」 泰継はまた笑顔を浮かべた。 この日、泰継は自分が泰明でなくてよかったと初めて思った。 「泰明になりたい」そう強く願っていた己が心が雪が手の平の上で解けて行くように瞬く間に消え去って行った。 もし、自分が泰明だったならば、花梨と出会うことは永遠になかっただろう。 自分がほかの誰でもない“泰継”でよかったとそう心の底から思った。 ――私のすべてはおまえのためにある。 私のすべてを受け入れ、望んでくれたおまえ… 今まで何の意味も持たなかった日に特別な意味を与えてくれたおまえ… 私もこの日に感謝する。 そして、私をこの世に誕生させてくださったお二人に心から感謝の言葉を捧げよう。 「ありがとう」と…
|