蛍 〜ガラスの器 番外編〜

 

なじみの老僧が亡くなってから一月半余りが経った。

その日は月の綺麗な宵だった。細い月の光が天窓を通して、庵の中まで差し込んで

いた…

 

泰継は自然木を使って自分でしつらえた棚の上に手を伸ばし、紫色の布に包まれた

それを手に取った。

「なぜ永泉は今際の際にあのような世迷いごとを口にしたのか…」

泰継は自分の手の中のそれをジッと見た。

 

老僧は言った。

「いつか泰明殿にお会いすることがありましたら、これを渡してほしいのです。」

「だが、泰明は…」

「お願いいたします!」

老僧の強い意志をその言の葉から感じ取った泰継は老僧の願いのまま、その日、

老僧がこの世から旅立った日、この笛を彼の手から受け取って来たのである…

 

――泰明は神子と一緒に神子の世界へ旅立ったと聞く。

  泰明に会うことなどあり得るはずがないものを…

 

再びそれを棚に戻そうとした時、泰継の目の前を小さな光がふっと横切った。

 

「何だ?」

 

――蛍か? だが、この北山に蛍などいるはずがないのだが…

 

泰継はその光の方に目をやった。

すると、その光はまるで泰継を導くかのようにゆっくりと部屋の中を旋回すると、

庵の外へと出て行った。

泰継は光に導かれるまま、庵を出て、その後を追った。

光は北山の奥へ奥へと向かっていた。

 

奥へ進むにつれ、あたりは徐々に霧につつまれて行った。

 

――どこまで行くのだろうか?

 

後を追いながら、泰継はそう思った。

 

やがて、少し開けたところに出るとその光は止まった。

 

――あそこか…

 

そちらに向かって歩を進めようとした泰継の耳に一つの声が響いて来た。

 

「あなたは人間だよ!」

 

――女人の声?

 

その声を聞いた途端、泰継の足はまるで呪でもかけられたかのように一歩も

動かなくなった。

 

――どうしたというのだ、いったい!?

 

「私は知ってる。あなたが誰よりもやさしいことを。私のことを大切に思ってくれ

 てることも。あなたは人間なんだよ!」

「神子…だが、私は神子の道具なのだから…」

今度は低い男の声が聞こえて来た。

「泰明さんは道具なんかじゃないよ! そんなこと思ったこと一度もない!!」

 

――やすあき… 泰明だと!?

 

泰継は声のする方へ目をやった。遠くにぼんやりと二人の人物の姿が見える。

泰継は男の方をジッと見つめた。

 

――あれが、泰明だというのか!?

 

この時代に絶対いるはずのない人物の名が突然耳に飛び込んで来て、泰継は正直、

とまどった。あの二人からはあやかしの気配はまったく感じられない。それにここは

聖域の北山だ。しかも奥地となると完全なる聖域。こんなところまで入り込むことの

できるあやかしなどいるはずがない。すると、これはいったい…

 

――あれは…本当に泰明なのか? では、一緒にいる女人は…

 

「神子…何を泣いている? おまえが泣く必要などない。」

女人は顔を上げて泰明らしき人物を見た。

「泣いているのは泰明さんだよ。」

「私が?」

「この温かいものが…涙…なのか? 私は泣いているのか?」

「泰明さんが私と同じ人間だっていう証拠だよ。」

「神子と同じ…」

「泰明さんが好き。他の誰よりも…私、泰明さんが好き!」

それを聞いた途端、男はその女人をやさしく包み込んだ。

「この気持ちが何という名なのかわからぬが、温かなものがこの胸にこみ上げて

 くる。ああ、神子…おまえといると、私は…」

女人はそれを聞くとこぼれるような笑みを見せた。

「今はそれだけで十分だよ。もうしばらくこのままでいて…」

「ああ」

そう言った男の顔にもやわらかな笑みが浮かんだ…

 

二人の様子を見ていた泰継の胸に突然何とも言えない、今までに感じたことのない

ある感情が生まれた。泰継はグッと拳を握りしめた。するとその中にあたるものが

あった。泰継はハッとして、手の中の物を見た。

 

――笛?

 

泰継の手の中にはかの老僧から託された笛がしっかりと握られていた。

どうやら庵を出る時、そのままこの笛を持って来てしまったらしい。

 

――これを泰明に渡さねば…

 

泰継は漠然とそう思った。そして、身体を動かそうとした。だが、やはりびくとも

身体は動かない。金縛り…だが、いつもの自分なら金縛りを解くことなどたやすい

はずだ。それが、なぜ今日に限って解くことができないのか…

 

泰継は低い声で呪いを唱え始めた。

 

目の前の男女は先ほどからずっと抱きあったままである。

その二人から漂って来るやさしく温かい気、そして二人から直に伝わって来る熱い

何か…

泰継は何だか居心地の悪さを感じて、必死に呪いを唱え続けた…

 

ピシッ! 何かに亀裂が生じたような音が生じ、次の瞬間、泰継の身体は急に自由

になった。

 

「やすあ…」

笛を片手にそう言いかけた泰継の目の前にはもう先ほどの女人の姿も泰明らしき男

の姿もなかった。泰継は先ほどまで二人がいたところに急いで駆けて行った。

だが、そこにはただいつもの空間が広がっているだけであった…

 

泰継は呆然とその場に立ち尽くした。

 

――幻だった…というのか…あれだけ鮮明なものが…なぜ私に見えたのだ。

 

そんな泰継のもとに先ほどの光が近づいて来た。そして、泰継が手にしている笛に

止まった。よく見るとそれは一匹の蛍だった。

 

――やはり蛍?

 

その蛍は再び笛から離れ、泰継の周りをゆっくりと回った。

泰継はその蛍からよく見知った気を感じ取った。

 

――これは…永泉!?

 

蛍は嬉しそうに泰継の頭の上を旋回すると、やがて上空へと飛び去って行った…

 

――永泉…あの幻はおまえが見せたものなのか?

 

泰継はハッとあることに気がついた。

 

――そう言えば、今日はおまえが亡くなってからちょうど四十九日目だ。

  仏教では四十九日間はその魂はこの世に留まっていると説く。

  最後に私にあれを見せに来たのか?

 

泰継は蛍の飛び去った上空を見つめた。

もうそこには先ほどの蛍の姿はなかった…

 

――あれは、泰明と龍神の神子…おそらくそうに違いない。

  なぜ永泉はあの二人の姿を私に見せたのか…

 

――あれが、泰明…

 

――永泉の言ったように本当に私が泰明に会える日など来るのだろうか?

 

 

この時の泰継はまだ自分の中に芽生えた新しい感情には全く気がついていなかった…

泰継がその己の感情に気づくのは何十年も先のことである。

 

澄んだ月の光は変わらず木々の合間から地上に降り注いでいた。

そして、泰継は笛を握りしめたままいつまでもその場に一人立ち尽くしていた…

 

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

 

 

[あとがき]

久々の新作であります。一応「ガラスの器」の第9話の

番外編なのですが、幻想的な話にしようと思ったら、ち

いとわけわからない話になっちゃいました。(汗)

でも、四十九日間魂が滞在するというのはどうやら本当

のことのようです。うちの父が亡くなった時、それまで

いつも父の部屋で寝ていたうちの犬がその日から父の部

屋には一歩も近づかなくなったのです。無理に押し込も

うとしても入り口で踏ん張って、絶対に入らなかったの

ですからね。それが、四十九日を越すとその翌日から、

何もなかったかのような顔をしてまた入るようになった

のです。本当に不思議ですよね〜

このお話を読んで「何で泰継さんの話なのに永泉さんが

出てくるの〜?」と思った人は『ガラスの器』の6話か

ら9話をぜひぜひ読んでみてくださいね〜

(ちょっぴりCM♪(^。^))

この作品は10000HIT御礼として2002年7月

日までフリーとして配布しておりました。お持ち帰り

くださった神子様方、ありがとうございます。

 

 

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