薫風青風

 

初夏の薫風が御簾を揺らす。
庭に咲く菖蒲の花が陽の光に泣いていた。
あの花には雨が似合う。
陽に輝く姿がいかに美しかろうと。

「何を考えてらっしゃるの?」
女は膝に抱いた男の上に覆い被さるように身を折り曲げ、囁いた。
「今は貴女の事を」
返る美声に女の口元が笑む。
「嘘ばっかり」
「心外だな。信じていないのかい?」
「少将様が女の事など、本気で考える訳はありませんもの」
「さぁ、それはどうだろうか?」
優しい女の声に答えながら友雅の目は庭の菖蒲を見ていた。
あの花に重なる少女がある。
どんな困難からも目を逸らさない。
自身が傷つく事すら厭わない。
少年のような眼差しで遙か未来を見つめ、けれどもあの人は春の微風のように微笑うのだ。
龍神の神子。
彼女の目指すものを見たいと望む自分と、
少女をこの腕に絡め取ってしまいたいと欲する己がいる。
強い日差しに灼かれ続けるあの人は、もっと優しい場所が相応しいはずなのだ。
挑み続けるその姿が、いかに美しいものであろうと。
閉じた瞼の裏に焼き付いて離れない一人の少女。
救世の乙女を、自分は只の女にしようとしている。
ふと思い浮かぶのは、あの日斎の姫を求めた友の横顔。
己の何を犠牲にしても彼はあの姫を求めたのだ。
自分も同じように囚われている。
龍神に選ばれたこの世で最も清らかな人。
この京を救うべく現れた彼女を、自分のものにしようというのか?
支払われる代価はこの身一つだというのに。
少女に見つめられるたびに、そして見つめ返すたびに柔らかな鎖に縛られていくような、そんな危うい感覚がいつも友雅を捕らえていた。

神子殿。
どうか、そんな瞳で見ないでくれまいか。
そんな美しい瞳で。
男という生き物がどれ程卑怯なものなのか、君はまだ知らない。
今もこうして、逃げる場所を手放さない私のことを。

女の柔らかな膝に抱かれたまま友雅は何時しか微睡みに落ちようとしていた。
茫洋と沈む意識の中で何故か繰り返す波の声を聴いたような気がした。
それともこれは自分の胸の音なのか?
彼女への寄せては返す想いがこの耳にさえ聞こえているのか?
しかし、波の音に混じって微かに潮の香りが届いた時、友雅はゆっくりと閉じた瞼を開けた。



眩い光に目を眇め、眸に映るのは一面の青。
天地が一気に消失したかのような圧倒的な青に友雅は驚嘆した。
やがてその青が海の色だと気付いた時、自分は船の上にいるのだと彼は知った。
「これは、これは。綿津見の神がお越しになるとは、この船も捨てたものじゃない」
突然かけられた声に首を廻らすと一人の男が船の舳先に立っている。
だが、強すぎる逆光が男の顔を隠していた。
「私は綿津見の神ではないよ」
答えながら掌で光を遮ってもその男の顔は見えない。
「どうやら迷い込んでしまったらしい。これは君の船なのか?」
「そう。これは私の船。―――海賊船へようこそ」
「海賊船?君は海賊なのか?」
「今はね」
楽しそうに男は笑った。
とても海賊などと言う下卑た者とは思えない。
その口調からも態度からも彼にはある種の王者に相応しい風格さえあったのだ。
それでも己を『海賊』と言い、それを楽しんですらいる男はまるで海を渡る自由な風そのものに友雅の目には映った。
自由。
今の己とはかけ離れたもの。
この手に愛しい少女を抱く自由すら、今の自分にはない。
「成る程。君を捕まえるのは難しそうだ。尤も、君を縛るしがらみなどこの世には存在しないのだろうがね」
だが、この友雅の言葉に又しても男は笑った。
それは楽しそうに。
「何者にも縛られる事のない者が、本当にこの世に存在すると君は言うのかい?この海を見るがいい。美しい白波の下では今、この瞬間も生死をかけた死闘が繰り広げられている。自由を謳う鳥達すらもこの自然の掟からは逃れられはしない」
「この世に自由など有り得ないと、君は言うのかね?」
この友雅の問いかけにも男は笑みを崩さなかった。
その確固たる声が言う。
「しがらみは確かに存在する。この世のあらゆるものの上に。だが自由があるとすれば、それは『何か』を求める心の中にこそあるもの」
「何かを求める?」
今この男は、あらゆるものは束縛されながら全てのものに自由は存在すると言ったのだ。
その大いなる矛盾。
だが、その中にこそ真実はあるというのか?
求める心の中に。
求めるものと言われて浮かぶのはただ一人の面影。
『友雅さん!』
微笑む彼女の、自分を見つめる清らかな瞳の中に映し出されるもの。
その愛おしい声音に、あっけなく籠絡されるこの心。
彼女に触れたいと望む、この指もくちびるも。
余りにもあからさまな己の本心に暫し愕然とする。
彼女を求めるこの心は誰に束縛されるものでもない。
縛ろうとしていたのは自分自身か。
不意に黙り込んだ友雅に海賊が問う。
「それは時に『情熱』と言う言葉で呼ばれるのかもしれない。君には、求めるものはないのかい?」
恐らく自分はこれまで、何も求めた事など無かったのだ。
美しい花を愛でるように女を愛し、移ろう四季をただ漫然と生きてきた。
今までは。
そう。彼女に会うまでは。
「………『情熱』と呼べる花なら只一輪、この胸にある」
「では行きたまえ。その花は、君の事を待っているのではないのかな?」
背中を押す海賊の言葉に友雅は笑った。
彼を知るものが見れば確実に驚嘆するであろう、晴れ晴れとした笑顔で。
「君は不思議な男だな」
「そうかい?」
「そういえばまだ名乗ってはいなかったな。私は、橘友雅」
海を背に立つ男にかけられる声。だが名を名乗った途端、海賊が息を呑む気配がした。
一瞬訝しんだものの、あえて気付かぬふりで友雅は問う。
「ところで、君の求めるものとはなんだい?」
そして現れた時と同様、不意に立ち消える姿。
只一言を残して、薫風は海賊の前から消えた。
「…求めるもの、か」
今は己を楽しませてくれるものにしか興味はなかった。
これから先向かう場所に、果たしてそれはあるのだろうかと海賊は思った。
「頭!」
自分を呼ぶ声にも振り返らず、海賊は遥か先を見つめる。
「なんだか雲行きが怪しい!嵐が来ますぜ!……ところで、誰と話してたんで?」
無骨な大男の問いに雅やかな海賊の頭目は答える。
「さぁ、遠い未来の影なのか、それとも遥か過去の私なのか」
「過去のお頭ですかい??でも、そんな事が…」
「この海の上では何が起こっても不思議ではないよ」
だが、そんな事はどうでもいい事だと海賊は笑った。
あの男が一瞬見せた狂おしい程の瞳の色は彼の熱のあつさを伝えた。その情熱の温度を。
それを追いかけようとする彼の姿は海賊にとって好ましいものだった。
悪くない。
あんな風に、無我夢中になれるものがあるのは。
不思議そうに自分を見ている大男に、己の思考を微塵も読みとらせない笑顔で海賊は言う。
「嵐が来る前に陸へは着くだろう。だが、本当に怖ろしい嵐は今から向かう場所にあるのかもしれないよ」
「京では院と帝が対立してるってアレですかい?」
「それだけであればいいのだがね」
あの懐かしい緑の陸に今、不穏な空気が渦巻いてる。人と人の対立はその一端に過ぎないと彼は確信してた。
「何にしても、楽しませてくれそうだ」
物騒な光を宿した瞳が優雅に微笑む。
あの嵐の先にあるものに、この胸を熱くするものがあるのだろうか、と。




初夏の風が御簾を揺らす。
甘やかな香りが自分のすぐ側にあった。
どうやら少し眠っていたらしい。
目を開けたとき、良く見知った女が上から覗き込むように微笑んでいた。
「どちらへ行ってらしたの?」
何処へと問われてあの圧倒的な青と不思議な海賊を思い出す。
「さぁ、遥かな未来か、遠い過去か。ところで……」
女の問いかけに身を起こし、友雅は華やかな笑みのままで言った。
「私がこちらへお訪ねするのは、これが最後になりそうだ」
「少将様?」
不思議なものでも見るような目つきで女は友雅を見た。
自分の知る左近衛府少将とはその雰囲気がまるで違う。
眠っている間に別人が入れ替わったのではないのかと思う程にその瞳は熱かった。
それは決して、自分を見る為の瞳ではないと賢明な女は悟った。
「さようなら」
華やかな笑みのまま告げられる別れ。
いつかこんな日が来る事は分かっていた。
この方は狡い方。
こんな風に微笑まれたら、女は何も言えなくなると知っている。
「少将様も、お元気で」
優しい笑顔のまま、女は言った。彼にあんな瞳をさせるのは、誰だろうかと考えながら。



少女は土御門家の館の庭で一人、菖蒲の花を眺めていた。
あの花は彼に似てる。
優雅な立ち姿も。
陽の光に輝く時が、ほんの一瞬だと知っている所も。
流れる雲が陽を隠し花に影が差してもなお、あかねはそれを眺めていた。
その刹那だけ楽しければいいのだと彼は言う。
楽しそうに、笑いながら。
何かを追いかけることさえしない。
決して本気になどならない。
心の中に『空』を飼い、ただ通り過ぎてゆくものに執着しないのだ。あの人は。
自分もその一人なのかと少女は思った。
彼にとっては只、通り過ぎてゆくだけの人間なのかと。
子供なのがいけないのだろうか?
私が、京の人間じゃないからダメなんだろうか?
だったらすぐに大人になるから、
元の世界になんか戻らなくてもいいから、
だから………。
祈るように目を伏せた時、同時に華やかな香りがした。
あの人だと思った瞬間に、後ろから抱きすくめられた。
「何を見ていたのかな?」
途端に早鐘を打つ心臓。
気恥ずかしさに身じろぎして逃れようとする少女の身体を、男の腕は離さなかった。
「友雅さんっ離して下さい!」
「嫌だ」
少女の鼓動と体温を腕に感じながら、その耳元に囁く。
「少しだけ、君の時間を貰えまいか」
耳朶にかかる吐息。
その切なげな声。
確実に上がる体温を自覚しながらあかねは首を廻らせ自分を抱きしめる男を見た。
その熱い瞳を。
昨日とはまるで違う、怖くなる程の瞳の色を。
少女の唇が微かに動く。

風薫る午後。
雲に隠れる陽の下で、菖蒲は雨を待っていた。

 

越後屋まじん様『Heaven’s Gate』

http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/2117/?

 

[涙のひと言]

まじん様のサイトの10000HITのお祝いに駆けつけた人のみに限

定フリーとして配布された超貴重なお宝作品です。

あかねへの思いを自覚しながらも今いち踏み切ることので

きない友雅、そんな友雅の背中を押してくれたのは夢の中

で出会った一人の海賊だった… これが誰なのかはもう皆

さんにはもうおわかりですね。遙か1と遙か2の世界を独

特のタッチで見事に融合させた素晴らしい一品です。

まじん様、素敵なお話をどうもありがとうございました。

 

 

越後屋まじん様のサイトへは『リンクのお部屋』からどうぞ

 

 

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