京を包み込むようにして広がっていた桜の色彩は、今やすっかり藤や橘、石楠花のそれへと移り変わっている。
日差しも徐々に強さを増し、夏へ向けて時間が流れていることを感じさせられた。
「あかね・・・?」
物忌みの日、あかねから届けられた文により、部屋を訪れた天真はそう呼びかけた。
けれど、部屋の主であるあかねからの返答はなく、人の気配も感じられない。
「?」
首を傾げた天真は、懐から浅葱色の紙を取り出しもう一度読み返す。
そこには確かに今日のこの物忌みの日、傍にいてほしいという内容の言葉が綴られている。
よく見慣れたあかねの文字。
慣れない筆で書かれているその文字は、いつだったか、泰明からは「鳥の跡」鷹通からは「斬新」と称されたこともあったが、内容を読み違えるはずもない。
「ったく・・・どこ行ったんだ?」
呟いた天真は、その場に腰を下ろす。
タイミング悪く藤姫の姿も近くにはなく、また話を聞けるような女房の姿も見当たらない。
しばらく待つしかないだろう。天真は一つ息をついた。
視線を庭の方へと送ると、心地よい風が髪をさらさらと揺らす。吹き来る風に几帳がわずかにはためき、梅花の香がふんわりと薫った。
「!!」
ふと、天真は弾かれたように立ち上がった。
勢い良く視線を北の方へと走らせる。
間違いない。あかねの気を感じる。けれど、それは屋敷の中からではなかった。もっとずっと北の方。
そしてもう一つ、気の穢れ。怨霊の気配を感じる。
「あのバカ!」
天真は二つの気配の感じられる場所、船岡山へと急いだ。
船岡山山頂――
「わっ、ちょっと待って」
巨大な亀の怨霊の攻撃を、ぎりぎりで何とか交わしながら、あかねはその怨霊に向けて話し掛けた。
転びそうになるのを、手をついて堪え怨霊に向き直る。
「もうやめよう?ずっとこうやって京の人たちを襲い続けていたら、あなた自身がどんどん穢れちゃうんだよ?」
あかねの言葉が届かないのか、怨霊はその大きな足を振り下ろしてくる。右、左・・・また右と何度も繰り返す。
息をきらしながらも、あかねは怨霊に向けて説得を続けた。
けれど・・・
(なんだろう?さっきからずっと・・・気分が悪い)
物忌みの日、神子が様々なものの影響を受けやすくなるというのは本当のことらしい。
それは穢れに対しても同様で、形をとって体に張り付いているかのように、全身がどんどん重くなる。
怨霊から逃げ続ける自分を足止めするためとすら思えるほどだ。
(足も、腕も、全部・・・)
神子、我が神子――
突如、耳から入る音とは別に直接脳裏に響く声があかねを呼ぶ。
高いところから、あるいは深いところからなのか。どこから呼びかけているのかはわからない。
ただその存在が、確かにここに在ることを強く感じる。
(この声、知ってる。龍神様の声・・・)
我を呼べ。汝の望みの為に、汝の願いの為に――
汝を捧げよ。全てを叶えよう。
(私の願い・・・)
それは京を救うこと。そのために自分はこの世界に呼ばれたのだから。そのためにがんばってきたのだから。
この目で見てきた京の人々の苦しみ。それを少しでも取り除いていきたい。京の人々が笑顔で暮らせる場所を作れたらいいと思う。
そしてもう一つ――
いつの間にか大きくなっていた願い。
(天真くんと一緒にいたい)
突然龍神の神子と呼ばれることになっても、その役目を果たしてこられたのは彼の存在があったから。
最初からあった想いなのか、この世界の中で育った想いなのか。
それはわからないけれど、何よりも大切な想いだから――
現れたときと同様、唐突に龍神の気配は消え失せた。
そして、はっとした時にはもうすでに怨霊の足が目前に迫っていた。
「!!」
(天真くん!)
無意識に祈り、固く目を閉じたあかねの腕を誰かが強く引いた。同時に、目標を外した怨霊の足が地面を叩く音が響く。
目を開けると、そこには一番会いたかった人の後ろ姿。
ほっとして思わず泣きそうになりながらも、あかねは笑みを浮かべ、天真の衣の袖をぎゅっと握った。
まだ少し震えているあかねを安心させるように、天真があかねの手を強く握った。
「俺が何とかするから。封印しろよ」
天真の言葉にあかねはしっかりと頷きを返す。口元を引き結んで、怨霊に目線を合わせた。
「うなれ天空!」
青白い閃光が空を割り、昼の太陽よりも強い光は辺りを明るく照らし出す。
「あかね、今だ!」
「うん!」
あかねは怨霊から視線を逸らさぬまま、胸の前で手を組み合わせる。
未練、恨み・・・様々な思いから怨霊とならざるを得なかった存在たち。
彼らも苦しみ救いを求める京の存在の一部であるなら、自分の力で解放してあげたい。
全てを救えるとはかぎらない。どこまでできるかわからない。それでも、できうるかぎりのことをやっていきたい。
「お願い、私に力を貸して」
言葉と共に広げた手の中に、怨霊は光となって下りてくる。怨霊の存在が解放された瞬間だった。
「ありがとう」
手の中の光に向かって囁き、ほっと息をついた直後、天真がくるっとあかねを振り返る。
「物忌みだってのに、何考えてんだ!!」
あかねはその剣幕に思わず首をすくめながらも、すぐに言い返す。
「だって、船岡山で怨霊が暴れてるって聞いて、何とかしなくちゃって思ったんだもん!」
「だからって・・・あかね!?」
わずかによろけたあかねを天真が手を差し伸べて支えた。
天真に支えられた途端、ふっと体の重みが消えていくのを感じる。
「怨霊の穢れにあたったのか?」
「うん、そうみたい。それにちょっとだけ龍神様と話したから疲れたのかな・・・ごめんね天真くん」
よく見ればあまり顔色も良くない。それでも笑みを浮かべるあかねに天真は静かに答える。
「もういいって」
「うん。龍神の神子だから何とかしないとって、ちょっと先走ったみたい」
「確かに京も大事だけどな、俺は・・・」
天真は言葉を途切れさせた。そして視線を逸らし顔を朱に染めながら一気に言い切る。
「あー、だから!俺にはおまえの方が大事なんだよ!」
その言葉に、あかねは満面の笑みを浮かべた。笑顔のまま頷きを返す。
その笑顔に天真はわずかに目を細め、あかねを抱き寄せた。
「わっ!」
「物忌みの日の俺には、おまえを穢れから守る力があるんだろ。しばらく・・こうしてろよ」
ほっと微笑んだあかねはそのまま瞳を閉じた。
龍神の力――
それがいかに強大なものかを思い知らされる。
物忌みの日は、穢れや様々なものの影響を受けやすくなる日。
半ば意識を失うようにして、眠りに落ちたあかねは天真の腕の中で小さく呼吸をしている。
あかねが目の前で、意識を失いかけても、倒れないようにとその小さな体を支えることくらいしかできない。
その身に龍神の力を宿し、両の手に京の命運を握る少女。
大きすぎる存在、あかねを選んだ龍神。それに抗おうとするのは、愚かなことなのだろうか。
怨霊と闘うこの力も、龍神から与えられたものにすぎない。
それでも、最後まであかねを守るのは自分でありたい。他の誰にも、例え龍神といえどもあかねを渡したくなどない。
天真はそっと、あかねの手をとり、自分の頬にあてる。そのぬくもりを確かめる。
「・・・どこにも行くなよ」
わずかにためらった後、天真はあかねの額にそっと口付けた。かすめるように唇で触れる。
と、同時にあかねが目を開いた。
「・・・」
「・・・」
二人は無言でしばし見つめあった。お互い鏡を見るかのように同じように目を見開く。
次の瞬間、二人は同時に我に返る。
「わっ、て、天真くん、ごめん!」
「だー、謝るなっての!」
二人は顔を赤くしたまま目を合わせると、お互いの反応のおかしさに明るい笑みをこぼした。