雪 花

 

§








掲げられた御簾の合間から、ただ静かに夜空を見上げる。


宙に浮かぶのは、見事な金色の望月。
それは取り巻く星々の冴えた輝きも霞むほど明るく、しかしどこか暖かい柔らかな光を放つ。
遙かな高みから辺りを照らす眩い光に、地を覆う純白の雪までもが淡く色づいているように見える。






…――― そして闇夜を縫うように、ちらちらと真白な雪が舞い降りる…。







 まるで全身に月光を浴びているかのような心地で佇みながら、あかねは美しく輝く月をじっと見つめていた。







 …眠れない。


 切ないような嬉しいような幾つもの不思議な感情で胸がいっぱいで、心が騒ぐ。
 室内には今は晴明の姿は無く、薄暗く、しんと静まりかえった部屋は穏やかな空気を湛えている。
 けれど、こうしてその中に独りでいてもいっこうに心の中は落ち着かず、ふとした瞬間に何故か、胸がじんとするような感覚を覚える。







 ――― 色々なことを一度に聞いたせいで、少し気分が昂ぶっているのかもしれない…。







 胸元にそっと手を添え、そんなことを思いながら小さく吐息を洩らしたあかねは、ふっと部屋の中にまで差し込んでくる手元を照らす明るい光に視線を落とした。





 それは黄金にも白にも、時に琥珀色にも見える…柔らかな光。





 その清かな月光に誘われるように、あかねは翡翠の瞳をもう一度外へと戻すと、ゆっくりと立ち上がり、濡れ縁へ歩み寄る。




 こうして外へ出てみると、先ほどまでは辺りが何かに覆われているかのように少しも感じなかった夜の冷気が、今は鋭く全身に染み込んでくるのが判る。
 肌を刺すかのような凍えた夜気に反射的に躰が強ばり、思わず肩に震えが走ったが、それでもあかねはそこから動く気になれないでいた。




 そうして、ただ漆黒の景色の中、ふんわりと積もった純白の雪と月影の美しさに魅入られる…。










――― 夜の闇がどんなに暗いのかという事を、京に来て初めて知った。
そして月の光がこんなに明るく美しいのだという事も。


夜の闇も月も、確かにあちらの世界でも眼にしていたはずなのに、京で見るそれはひどく新鮮だった。


 その一方で、いま一面に広がっている雪の降り積もる庭は、記憶の中に漂う漠然とした景色に何処か似ていて、かつて見た事があるかのような、懐かしさにも似た切ない微かな感慨を覚えさせる。










――― 違うようでいて同じ。
けれどやはり同じようでいて違う、二つの世界。










…――― いま、これほどに強くそんな事を感じるのは、何故なのだろう…。










§










 その頃、泰明はあかねの住まう西の対へ向かって左大臣邸の渡殿を歩いていた。


 …神泉苑で鬼との最後の決戦を迎えたのは、水無月の十日。それからもう半年以上が経っている。
 あの後、残って欲しいという泰明の言葉を受けて京に留まったあかねは、彼女を姉のようにも慕う藤姫とその父である左大臣の申し出と帝の意向もあり、左大臣家の養女という身分でこの左大臣邸に住まっていた。
 そこへ忙しい時間の合間を縫って泰明が訪れる、という日々がこれまで続いている。

 だが、年の暮れの追儺の祓えからこちら、大内裏での年初めの儀式が続いた上に、師である晴明の命であちこちの上流貴族の宴などにまで供をする羽目に陥り、暫くの間、まともにあかねと顔を合わせていなかった。





“最後に直に言葉を交わしたのが何時だったか…。”






 ふと、そんなことを考える。



 還るなと…傍にいて欲しいと言って、自分こそが彼女を引き止めたというのに。



 …チリ、と針で刺されるような、微かな痛みが胸に走る。
 その痛みに眉根を寄せ、一瞬考えに浸りかけた泰明は、ややあって心に浮かんだその思考と共に湧き起こった重苦しい感情を意識から追い払うように、軽く頭を振った。




 今は、そんな事を考える必要はない。
 もうすぐ彼女に逢えるのだから ―――…。




 だが、そう思ってはみても、一度自覚した胸の痛みはそう簡単には彼の意識を解放してはくれなかった。
 それが、久しぶりに姿を見られるという逸る思いと相まって彼の心を騒がせ、知らず歩調が足早になる。



 ――― ふと、そこへ探している気配が泰明の感覚に触れてきた。
 同時に月の光に透ける琥珀の双眸が、僅かに細められる。


 その時感じたものは、胸騒ぎ、と言ってもいいかも知れない。

 辺りの空気に微かに滲む、頼りなげな気配。
 泰明がよく知るその気配が醸し出す、ほんの僅かな気の揺らぎが、余計に彼の心を落ち着かなくさせる。




 …たとえ些細な事であっても、それが彼女の事となると、自分はどうもひどく敏感になるらしい。




 そんな事を思いつつ、早足で寝殿から繋がる吹き抜けの渡殿を越えた泰明は、西の対へと足を踏み入れたところで、琥珀の双眸に目指す少女の華奢な影を捉えた。


 しかしその姿を目にした瞬間…泰明は言葉を無くし、その場に縫い止められたようにぴたりと立ち止まったまま、動けなくなる。








 ――― あかねは月を仰ぐようにして、濡れ縁に独り、佇んでいた。








 溢れるような月光の下、琥珀色の瞳に映るのは、すらりとした華奢な躰に雪白の衣装を纏って佇む、少女の姿。



 萌え出づる若葉の緑を秘めた深く澄んだ、輝く瞳。
 咲き初むる淡い花色を映したかのような、微かな風にさらさらと靡きつつ夜空に舞う艶やかな髪。

 それは、全てを止め、沈黙する静寂の冬の中に在って、その存在自体が生を紡いで具現するかのような、眩い少女。







 梅襲ねの装いの、真白の表着の裾から覗く襲ねの深みのある蘇芳と彼女自身の持つ色だけが、深い闇に閉ざされた一面の銀世界の中で、鮮やかな彩りとなって雪明かりに淡く浮かび上がる。

 その全身には静かに月光が降り注ぎ、かつて“神子”と呼ばれたその名に相応しく、闇の中に凛と立つ彼女を包み込む白銀の神気が、燐光のように朧に辺りの空気を染め変えてゆく。





 …だが、近づき難いほどの毅い立ち姿とは裏腹に、その視線は遙か彼方を見透かすかのように愁いを帯びて、遠かった。









…――― そのせいなのだろうか。
少女の姿は、まるでこの世のものならぬ幻のように、清浄で美しく。
そして何処か…儚い。










 胸に滑り落ちた感慨に、泰明は不意に心臓を冷たい手できつく掴まれたような痛みを覚える。
 その両の瞳は、目の前のひとの姿から離すことが出来ないままに、ただ…立ち尽くす。








 “異形”、“異端”、“異質”…ひとならぬものを表す言葉は幾らでもある。

 そして目の前にいる少女も、確かにこの「京」という世界にあっては、明らかに「異質」だった。



 この世界に属さないその出自。
 その身に秘める世界を救うほどの力。
 穢れを寄せ付けぬ清廉な魂。

 そのどれもが、この京に住まう他の者に持ちうるものではない。
 全ては彼女が神に愛されし者であるが故。



 だが、その存在はこれまでに見たどんな「ひと」よりもひとらしく…美しく、優しい。
 尊く、毅く…そして温かな心をその胎に抱く者。








――― そして、自分は。
そんな清い存在に焦がれ、手を伸ばし、確かにこの腕にかき抱いたと思った。





…だが。







 その全ては、一瞬の幻だったのだろうか…?










 ――― そんな訳の分からない感情に強い焦燥のようなものを覚え、鼓動が次第に激しく脈打ち始めた、その時。

 向けられている真摯な視線に気がついたのか、少女はふわりと振り返った。





「…泰明さん?」





 そうして目に留まった姿に零れんばかりの微笑みを浮かべると、濡れ縁を急ぎ足で歩み寄ってくる。
 桜色の唇から零れる彼の名を呼ぶ声は優しく心に響き、真っ直ぐに見つめてくる瞳は喜びを映してきらきらと輝いている。

 それらに宿る強さと輝きが仄かな安堵を覚えさせはしたが、先に内心に生じた不安は、まだ埋み火のように彼の中に燻り、泰明はそれに追い立てられるかのように、自身もまた、その心の赴くままに大股で少女へと近づく。


 ――― そして、手を伸ばせばすぐにでも触れられる位置まで、互いの気配が近づいた。
 目の前では、翡翠の双眸が真っ直ぐに自分を見上げている。

 泰明は、知らず彼女の方へと腕を伸ばしかけた。





 …それは、確かに今、此処に彼女がいるのだという事を。
 この目で見るだけでなく、触れて確かめたかったからなのかもしれない。




 だが、途中で彼は躊躇ったように上げかけたその手を止めた。
 そのまま、微かに震えた手を固く握りしめる。



「…このような刻限に外へ出て、何をしている」



 代わりに口を突いて出た言葉は、内心の動揺を抑えようとした為か常以上に低く抑揚のない声で響いた。

 その口調が咎めているように聞こえたのか、あかねは一瞬、返す言葉に詰まる。
 愛らしいちいさな顔から微笑みが消え、次第に困ったような顔へと変わってゆき。



 そして何処か決まり悪げな様子で、あかねは視線を泳がせた。



 いつも不用意に姿を見せるなと言われているのに、陽が落ちてからもうゆうに一刻以上は経とうかという時分に、濡れ縁などでぼんやりと月を見ながら立っていたのはまずかったかもしれない、と今更ながら彼女は思う。
 それに加えて泰明の態度も、ただ彼女の行動が軽率だと腹を立てている、というのとは違うように感じられ、何となく戸惑ってしまう。




「あの、…ごめんなさい…」





 暫くの沈黙の後、小さな声であかねがそう言った。

 心なしか萎れた風情で俯いている少女の様子に、言いたい事は他にあった筈なのに、それを上手く口に出来ない自分自身の至らなさが思いやられる。
 泰明はそんな己に内心で苛立ちすら覚えながら、ぐっと唇を噛みしめるようにして、自分の胎の靄のような不確かな感情を抑え込んだ。


「…すまない」
「えっ?」


 僅かに沈んで響いた声に、あかねが俯いていた顔を勢いよく上げる。

 問いかけるように大きな瞳を瞬かせている彼女に、泰明はいや、と頭を振ると、ともかく室内へ戻そうとその肩に触れ ――― ふっと眉を顰めた。

 そして柳眉を寄せたまま、彼は不意に少女の小さな手を取り上げる。


「や、泰明さん??」


 あかねが突然の彼の行動に慌てたように、少し顔を赤くして声を上げるが泰明は頓着しない。




 …冷たい。




 少女の冷たく冷え切った指先に、泰明は小さく一つ吐息を零す。








…これほど手が冷たく凍りつくほどの間、
彼女は、何を見つめていたというのだろうか。


――― 或いは…「何処」を。









 心を過ぎったその想いと共に、つい今し方、目にしたばかりの、月を仰いでいたあかねの淋しげな遠い瞳が鮮明に脳裏に甦り、泰明は胸の詰まるような息苦しさを覚える。





「…心細いのか」





 気がつくと、そんな言葉が唇から洩れていた。
 その声に、微かにあかねの肩が震え、翡翠の瞳が大きく瞠られるのが視界の端に映る。

 泰明の少女の手を握る指先に、知らず知らずのうちに力が籠もった。







 …――― それまでの全てと切り離す事になると知りつつ、傍にいて欲しいと望んだのは自分。
 それに応えてくれたあかね。

 こうして同じ世界にいても、彼女を求める気持ちは日に日に強くなる。
 もしも今、自分の前からその姿が消えてしまったら、と思うだけで、湧き起こる心が黒く押し潰されそうな喪失感に、眩暈がするようだった。

 だが、彼女が喪ったものを思うと、何処かで求める事への躊躇いが頭を擡げる。







 ――― 自分は、一体彼女の為に何が出来るのだろう…。







「お前が…消えていきそうに見えた」







 ぽつり、と零れ落ちたのは、ただそんな一言だけ。

 ゆるゆると視線を上げた泰明の琥珀の瞳と、彼を見上げたまま大きく見開かれているあかねの翡翠の瞳が宙で合わされる。



 内心の想いを言葉に出来ないままに、伏し目がちにあかねの顔へ視線を落とす泰明の顔は、傍目には普段とさして変わらないように見えたかもしれない。
 それでも、向けられる澄んだその瞳の深みには、不安げな、頼りなくすら見える揺らぎが宿り、言葉や表情の奥に隠された彼の不安と苦渋を、あかねの心にはっきりと響かせる。








 ………残った事を後悔しているのではないか。
 還りたいのではないか、と。








 …すぐには何も言えないまま、あかねは瞬きもせず、じっと彼を見つめる。
 自分自身でも気がつかない内に心の奥に秘めていた思いの欠片を、今、初めて彼の手によって目にしたかのような、純粋な驚きと…痛み。


 そんな彼女と視線を合わせていることに耐えられなくなったかのように、泰明は不意にあかねの瞳を避けるかのように視線を逸らした。
 そしてその瞳は彼女の手を掴んだままの自分の手へと移り。



 するり、と少女の手を包んでいた温かさが離れてゆく…。








 ――― それを認めた瞬間、あかねは思わず泰明へ、ふわりとその細い両腕を投げかけていた。








「あかね?」

 いつもなら軽く手に触れただけでも顔を赤らめるあかねが、自分から抱きついてきたことに戸惑いながらも、泰明は反射的にその華奢な躰を受け止める。






「…そんな顔、しないで下さい…」






 細い声が泰明の耳朶を打つ。




 自分が、そうしたかったのだから。ここに、彼の傍にいたかったのだから。
 後悔なんてしてはいないのだと。




 そう伝えたかった。
 けれど、何故か声が震えるのを止められない。
 だからあかねはそれ以上、何も言わなかった。いま口にすれば、逆に自分の想いが伝わらないまま、ただの気休めの言葉へと墜ちてしまうような、そんな気がして。




 言葉の代わりに、あかねはただ、自分の腕を彼の広い背中へ精一杯回して、抱きしめる。




 …と、不意に優しい指先がそっと髪を梳いてゆくのを感じた。
 躊躇いがちに何度も繰り返される緩やかな手つきが、次第に波立っていた心を落ち着かせてゆく。




 そうして触れてくる手はとても温かく、あかねはゆっくりと目を閉じる。

 きっといま、彼はどうしていいか判らずに、その綺麗な顔に困惑したような表情を浮かべているに違いない。
 そうは思いながらも、もう暫くその心地よさに心を預けていたい気持ちになる。





“何だか、弱気になってるな、私…”






 あかねは心の中でこっそりと溜息をつく。




 …少し、淋しかったのかもしれない。









―――“貴女がいて下さるから、あの子は今、幸せなのだと思います…”










 蒼く透ける不思議な色合いの瞳を細めながら、深い声音でそう自分に告げたそのひとは、決してその口からはそれ以上の事は言いはしなかったけれど。
 それでもあの時、そのひとの穏やかな顔には、確かに“親”としての思いと優しさが、滲み出ていた。


 だからかもしれない。
 そのひとの醸し出す温かさに、何処かでもう会うことのない、そのひとと同じ愛情を自分に注いでくれた人達の面影を、ふと重ねてしまったのかもしれない。








――― 今、こうして此処にいる自分は幸せ。
誰よりも大好きな、何よりも大切で無くしたくないひとの存在を感じられる場所にいて、
同じ時を過ごしていられるのだから。




でも、遠く離れたあの世界にいた時も、確かに ――― 幸せだった。
たくさんの愛情と、優しさと、温もりを溢れるほどに注いでもらって。





――― だから、いまの自分が在るのだと、解る。





 哀しくはなかった。もう会えないのだと解っていても。
全てを知っていて、それでも、と選んだのは自分だから。


けれど、もとの世界へ還るよりも、と選んだひととはなかなか逢えず、いつも一緒にいられる訳ではない。

それは仕方のない事なのだと頭では解っていても、心は簡単にはついてきてはくれない。



逢いたくて。
その姿を見て、声を聞きたくて。



そんな気持ちが募って、いま、自分が独りでいることを実感してしまうと、
この世界での自分の足場がひどく不確かで頼りないもののように思えて、
自分でもどうしようもなくなってしまう事もある。


けれどそんな時、気晴らしの話し相手になってくれる人達はいても、
無条件に甘えさせてくれた存在は、ここにはいない。








 …それがきっと少し…淋しくて。










「…―――っ…」


 次第に喉が熱くなり始め、あかねは小さく息を詰まらせる。
 その時、不意に彼女の躰を抱きとめていたしなやかな腕に力が籠もった。

 強く ――― だがその全身を包み込むように。







「何か…思っている事があるのなら、言ってくれないか。私には、お前の心の全てを知ることは叶わない。だから…」







 優しいのに、何処か苦しげにも聞こえる声がそっとあかねの上に降りてくる。





 あかねの沈んだ顔は胸に痛い。
 心に突き刺さるかのようだ。

 それなのに、彼女がそんな表情を浮かべる理由は判っていても、どうすればよいのか自分には判らない。
 彼女を手離すことは、もう出来ないから。
 他にどうすればいいのかなど判らない。

 そして、あかねにこんな顔をさせているのは、きっと自分のそんな身勝手な想い。


 …それでも。


 その全てを、護りたいのに。





 あかねは泰明の首筋へ細い腕を回したまま、きつく抱きしめてくる彼の肩に深く顔を埋める。
 その肩が、微かに震えている。





 …何故か、彼が泣いているような気がした。




 自分が今抱いている淋しさも、ほんの少し、あちらのことを思いだしてしまったが故の人恋しさも、この人はきっと解っている。
 ひとの感情や心の機微など解らない、などといつか言っていたけれど、自分の些細な感情の動きも、気を捉えて感じてしまうひとだから。




 …そうでなければ、あんなにも淋しげで苦しげな瞳で自分を見ていた筈がない。




 けれど、そうして自分の気持ちを思い遣ってくれることは嬉しかったけれど、同時にひどく切なかった。


 その、彼自身すら気付いていない優しさが。
 その心と、自分を抱きしめてくれる、胸に染み入るような温かさを感じるだけで、瞳が熱くなるほど安心してしまう自分自身が。








もうとっくに、自分の幸せは全て彼へ繋がってしまっている…。










 あかねはそっと泰明の首筋に回していた腕を緩めると、その瞳をじっと覗き込んだ。




 見返す瞳は、ただ、自分だけを映していて…。
 あかねは、唐突に甘えてみたい気分に駆られた。




「…じゃあ、一つだけ、我が儘言ってもいいですか?」




 我が儘、という言葉に驚いたように泰明が瞳を瞬かせる。
 あかねがそんなことを言うのは、初めてのことだったから。

 だが泰明は、穏やかに先を促した。




「何だ?」




 すると、あかねは少し恥ずかしげな微笑みを浮かべた。





「ずっと、一緒に…傍にいて下さい。そうしたらきっと、淋しくないから」








 他には何もいらない。
 他の誰も代わることは出来ない。
 ただ、傍にいてくれるだけで、淋しさも哀しみも癒されるようなひとは、他にはいない。

 だから。


 いつだって、自分だけを見ていて欲しい。心を向けていて欲しい。
 それだけで、きっとどんなことがあっても微笑んで…幸せでいられる。



 本当は、ひとの気持ちは自由であるべきものだから。
 こんな事を願うのはきっと我が儘なのだろうと思う。…けれど。












 …泰明は一瞬、大きく瞳を見開いた。
 そのまま何も言うことが出来ずに、思わず強くあかねの華奢な細い躰を抱きしめる。


 艶やかな朱鷺色の髪が舞い、自分のそれよりも仄かに甘く感じられる菊花香の薫りが、ふわりと漂った。
 微かに頬を撫でる息吹を感じる。
 腕の中の優しい温もりを纏った柔らかな重みが、ゆっくりと、いま告げられたあかねの言葉を、その想いを、確かな実感として泰明の胸に齎してゆく。




 …その全てが優しく、温かく、そして…愛おしい。




 その想いに、不安に固く縛り付けられていた心が、熱を帯びたように熱くなり、ゆっくりと解けていく。


 …ややあって、苦笑とも溜息ともつかない柔らかな気配が落ちるのを、あかねは感じた。




「それは、我が儘にはならないな」




 その言葉に身動ぎして彼を見上げる少女の艶やかな髪に、泰明は微笑みを湛えてそっと頬を寄せる。




「私も、このままお前を離したくない…」




 耳元で吐息のように低く囁かれた言葉に、あかねは思わず朱に頬を染めた。

 真っ直ぐに見つめてくる琥珀色の双眸は、月光に透けて金色に輝き、熱を帯びた甘さを湛えている。
 その眼差しを見ているだけで、音が聞こえてしまうのではないかと思うほど、鼓動がどきどきと早鐘を打ち始める。



 時に見惚れるほど怜悧で美しく、時に幼子のように無垢な、真っ直ぐなひと。
 …そしてその瞳に浮かぶのは、どんな時も純粋な、想いの光。

 今までに見たどんなものよりも綺麗で、心が囚われる。












 ――― だからこそ、惹かれた。











 あかねは心の中に満ちる温かく、締めつけられるような切ない想いで胸がいっぱいになるのを感じた。
 その想いが、眦から透明な雫となって溢れ出す。
 それは小さく煌めく珠を紡ぎ、月光を弾きながら静やかな空気の中へ溶け込むように消えてゆく。


 仄かな微笑を湛えて自分を見つめる、微かに潤んだ翡翠の大きな瞳の美しさに、泰明の鼓動が大きく高鳴った。
 そして結ばれた視線に惹かれるように、長くしなやかな指先が少女の優しい輪郭を描く頬へ、そっと触れてくる。


 恥じらうように瞳を伏せたあかねの桜色の唇に、ゆっくりと唇が重ねられる。








――― 想いは消えることなく降り積もり、
それが迷いも淋しさも苦しみも哀しみも、何もかも全てを優しく包み込み、
温かく溶かして透明な心へと還してゆく。



それはまるで、今、天から舞い降りる真っ白な雪のように。
全てをなにものにも染まらない、たった一つの純粋な愛しさへと変えてゆく。





…そしてその雪が白く冷たく凍ることは、決して無いのだ。
その瞳に、そして心に互いを映している限り ―――。










「必ず、迎えに来る。…すぐだ」
「うん。待ってます…」


 他の誰にも向けられたことのない、柔らかな甘さを含んだ微笑を零し、瞳を和ませた泰明に、あかねが輝く翡翠の瞳で、花が綻ぶような微笑みを返す。


 そして細く白い指が泰明の指に触れ、どちらからともなく、温もりを辿るようにしっかりと絡められる。






 その指先から、互いの体温が伝わる。
 二人が胎に抱く、同じ…想いと共に。










…――――― 淡い雪明かりに照らされながら、もう一度優しく、二人の影が重なった。












FIN.

 

陸深 雪様<Copyright(c) Yuki Kugami. 2002>
月晶華:http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/3188/

[涙のひと言]

陸深様が“2002年 New Year企画”として

特別配布しておりました3部作の中の2作目の作品で

す。

泰明とあかねがお互いのことを大切に思っているがゆ

えのやさしさと切なさ…そんなふたりの心の動きが

陸深様らしい美しい言葉の旋律を通して、とてもよく

伝わってきます。ふたりには本当に幸せになって欲し

い…今さらながらそう思わせる作品です。

陸深様素敵な作品をありがとうございました。

 

陸深 雪様のサイトへは『リンクのお部屋』からどうぞ

 

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