「今日は先に帰っていいから。」
昼休み偶然エントランスで蓮を見つけて駆け寄って行った香穂子に蓮が言った。
「えっ?」
香穂子は聞き返した。
「今日からしばらく発表会の練習をしなくてはならなくなったので。毎日というわけではないから、練習がない日は一緒に帰れる。」
「ああ、そうか。そうだよね。」
香穂子は少し安心したように頷いた。
「あっ、じゃあ私も練習聞いてていい?」
「それは…」
蓮は少し口ごもった。
「ほかの人にも聞いてみないといけないので…」
歯切れ悪くそう言った。
「あっ、そうなの。ほかの人も一緒なんだ。じゃ、悪いね。うん、わかった。先に帰るね。」
「すまない。」
「ううん。じゃ、また明日。」
「明日の朝、迎えに行くから。」
「うん♪ じゃ」
香穂子はそう言うと手を振りながら普通科校舎へと戻って行った。
* * *
ホームルームが終わって一旦は家に帰ろうと鞄を手にして教室を出た香穂子だったが、そこでふと思った。
――そうだ。練習と言っても六時には練習室閉まるもんね。それまでどこかで時間を
つぶしていればいいじゃない。そうだ。そうしよう! 待っていて、蓮くんを
驚かしてあげようっと♪
練習室で待つことが出来れば一番いいのだが、練習室は原則的に音楽科の生徒でないと借りることが出来ない。コンクール期間中は特別に香穂子も自由に使わせてもらえたが、それも異例中の異例で、コンクールが終わった今、コンクールの準優勝者である香穂子とて例外ではなかった。
香穂子はその足で図書室へと向かった…
* * *
六時ちょっと前に香穂子は図書室を出て、練習室へ向かった。
――ここで待ってる分にはいいよね。
練習室棟の前で香穂子は鞄を抱えて、嬉しそうに蓮を待った。
やがて、六時のチャイムが鳴ると蓮が扉を開けて出て来た。
「れん…」
呼び掛けようとした香穂子の声が途中で止まった。
蓮の後からヴァイオリンケースを抱えて出て来たのは一人の女生徒…
蓮の言葉からすると一緒に発表会に参加する同じ音楽科の生徒だとは思うのだけど、やはり二人っきりで練習していたのかと思うと心穏やかではなかった。
「ピアノの子、来なかったわね。今日、お休みだったのかしら?」
「それなら何か連絡をくれてもいいのに。だが、その分細かい合わせの部分がはかどった。」
「まあ、そうだけどね。」
そんなことを話しながら歩いていた蓮の目に香穂子が映った。
「香穂子?」
「友達? あっ、じゃあ私、もう帰るから。じゃあ、また明日。」
「ああ。」
そう言うと、その女生徒は香穂子にペコッと頭を下げ、別方向に歩いて行った。
「先に帰っていいと言ったのに。」
「あっ、ごめんなさい。ちょうど調べ物があったので… そしたら、六時近くになっちゃって。もしかしたら、一緒に帰れるかな〜なんて…」
「謝らなくていい。別に怒っているわけではないから。ただ君の時間を無駄に使わせてしまったのではないか、それだけが気になって。」
「そんなことないよ。」
――蓮くんを待っている時間が無駄なわけないじゃない!
「じゃあ、帰ろうか。」
蓮は先に立って歩き出した。香穂子が待っていてくれて内心とても嬉しかった。会えないと思っていた時に好きな女の子の顔を見ることが出来るのはやはり嬉しい。
だが、それを言葉には出さなかったし、香穂子の方が後ろを歩いていたので、ほんのり赤らんだ蓮の表情を香穂子が見ることもなかった…
「あの人が今度の発表会で一緒に演奏する人?」
「そうだ。」
蓮は短く答えた。
「彼女もすでに推薦で付属大学へ進学することが決まっている。学内選考と関係ない者同士で合奏することになったんだ。」
「そうなんだ。」
蓮はさらに続けた。
「彼女はちょうどコンクールが開催されたころ、交換留学でドイツに行っていたので、コンクールには参加しなかったんだ。もし、彼女があの時ここにいればきっと選ばれていただろう。そうしたらきっと彼女とも優勝を争うことになったと思う。」
「そんなに上手い人なの?」
「ああ、かなりの腕だ。コンクールでの演奏を聴けなかったのが残念だったな。」
香穂子の胸がズキンと痛んだ。
蓮はお世辞が嫌いなので人のことを褒めるということはめったにない。その蓮がこれだけ言うのだ。彼女は蓮が言うとおり素晴らしいヴァイオリニストなのだろう。
「香穂子?」
急に黙ってしまった香穂子に蓮が声を掛けた。
「ううん、何でもない。」
「もし、君が彼女の演奏を聴きたいと思うのなら、やはり彼女に君が俺たちの練習に同席してもいいかどうか、聞いてみようか?」
蓮は香穂子が黙ってしまったのは彼女の演奏が気になってのことだと思い、そう言った。
「ううん、いいの。練習の邪魔しても悪いし…」
「そうか?」
「うん。」
「君がそう言うなら。」
香穂子はその後、蓮と何を話していたかほとんど覚えてない。気がついたらもう自分の家の前まで来ていた。
「じゃあ、また。明日の朝、迎えに来る。」
「うん。じゃあ、また明日…」
そう言うと香穂子は自分の家に入って行った…
《つづく》