追 憶

 

§








 ――― 「あの日」も、今宵のような美しい望月の晩だった ―――…。










 少女のよく知るひとに何処か似た空気を纏う細面の端正な面立ちの男は、掲げられた御簾の合間から覗く金色の月を眺めながら、不意にそう呟く。
 いまだ年若いようにも、壮年のようにも見えるその容貌の目元は涼しげで、だがその奥には深い叡智と積み重ねてきた確かな年月の流れが感じられる。


 一面、純白の雪化粧を施された、見目よく整えられた広々とした庭を見渡せる其処は、少女の住まう部屋の一角。
 くっきりとした真円の輪郭を夜空に描く月の光は、冴え冴えとしていながら決して冷たくはなく、辺りを包み込むかのように優しく降り注ぐ。


 蜜色の月光を浴びて天から舞い降りる雪の欠片がきらきらと光り、周囲の景色を深い闇の中に朧気に浮かび上がらせる…。




 ――― 時は睦月。まだ年が改まったばかりの頃。
 陽が落ちて、そろそろ半刻ほども経っただろうか。




 しんと静まりかえった空間から、空気が透明に澄んでいるのが判る。恐らく、吐く息も白く凍るほど、外は厳しく冷え込んでいる筈…だ。

 尤も、今はそよとも冷たい風が頬に触れることは無かったが。  




 ――― 目の前の円座に座しているひとは、星を読み、この世の理と不思議を操るひとだから。きっと某かの力を使っているのだろう。


 少し前、少女の元を訪れたそのひとは、少し月を眺めませんかと言って女房に御簾を巻き上げさせた後、何事か小さく呟くと、“貴女に風邪でも引かせてはあれが黙ってはいないでしょうから”と、何処か悪戯っぽく微笑んでいた…。






 幻想的にも見える静やかな雪の光景を畳の敷かれた部屋の中ほどから眺めながら、綺麗に背筋を伸ばして座す少女はそんなことを思いつつ、翡翠に輝く澄んだ瞳で、真っ直ぐに向かい合う人を見つめる。


 二人の影が落ちる室内は、部屋の片隅に据えられた燈台と雪明かりで仄かに照らされていた。
 其処へ時折、ぱち、と微かに傍らの火桶で炭の爆ぜる音が響く。…そして、緩やかに降り積もる雪の音。

 暫しの間、何を言うでもなく月に見入っていた男は、小さく吐息をつくと優雅な仕草で外へと向けていた首を返した。
 外から差し込む淡い光が、その半面を白く染め、濃い陰影を映し出す。




 …稀代の陰陽師と言われるその人の蒼く透ける双眸に浮かぶのは、痛みと切なさを伴ったような淡い感傷。




「貴女にだけは、話しておきたかったのですよ。そう、“あの日”のことを…」


 それは、大切なものをそっと包み込むかのような口調。




 そうしてそのひとは、僅かに瞳を伏せたその口元に柔らかな微笑を刻む。
 薄く形のよい唇が細く、だがよく透る声を紡いだ。








 ――― あれを目醒めさせたのは、貴女だから…と。








§








初めて、その存在の瞳を目にしたその時に、
己の胎に湧き起こったものが何だったのか ―――…。

 憐憫か、自身の持って生まれた業と犯した罪への恐れだったのか。



…それとも…。








§










 それは、もう二年以上もの昔。長月の十四日(とおかあまりよっか)。望月の夜。


 その日、自分は彼の北山の天狗と共に、己の内に凝る陰の気を妻の亡骸に移し、滞っていた自身の「時」を動かそうとしていた。


 …それが、亡き妻の遺言でもあった為。


 唯人には持ち得ない自身の力故か、或いは生来、この身に流れる片方の妖の血の持つ性故か、それとも根源の異なる二つの流れを宿している為か…。
 理由は判然とはしないが、魑魅魍魎と対峙し、己が陰陽の力を振るう度に、私の胎の陰陽の均衡は次第に偏り、少しずつ陰の気が澱のように溜まりつつあった。
 自らの生み出す陽の気だけでは、中和しきれないほどに。

 そうして生じたその歪みが己の中の時を止め、いつからか私の躰は歳を重ねなくなっていたのだ。
 その歪みを正す為には躰に溜まっている陰の気を抜き、陰陽の均衡を戻す事が必要だった。





 それ故に私は、北山の天狗の力を借り、自身の胎から取り出した陰の気を妻の亡骸に収め、封じようとしていたのだ。




 だが ――― その力はあまりにも大きすぎた。
 とても人一人の躰という器に収まりきるものではなかったのだ。

 このままその骸へ抜き出した陰の気を封じても、いつか必ず封は解け、その力は暴走する。
 偏った一極のみの力は、それだけでは存在し得ないが故に。








 …ふ、と小さな吐息が静かに語るそのひとの唇から洩れる。
 微笑と言うには苦しげな、あるか無きかの色をうっすらとその口の端に漂わせながら。








「そこでどうするべきか、私と天狗は考え、そして…一つの方法を思いついた」




  ――― そう、取り出した陰の気を練って核を創り、それを一つの生命と成してその気を自ら制御させてみよう、と。




 そもそも、この世のものは皆、自然の内に周囲から気を取り込み、それを基として自らの胎で陰陽の気を練り上げ、廻らせ、己の中でその均衡を取りながら生きている。

 もしも、その存在がいずれ自ら陽の気を練る術を知り、己の胎の陰陽の均衡を制御できるようになれば…力が暴走することもないだろう、と、そう考えた。








 ――― その時、自分達は、命有るものの持つ、物事を“学び”、そして“変化”し、“成長”するという、その特質に賭けたのだ。








 自分の力と妖たる天狗の力とで練り上げられた陰の気は、一つの魄へと形を変える。そしてその胎に命の核を宿す、人形(ひとがた)へと。
 純粋な陰の気のみから成るその不安定な躰に、自らの陽の気を籠めた珠と天狗の力を宿す羽から成る連珠で陽の気を補い、そして。








 一つの生命(いのち)を…創り上げる。








「…だがそれが、どれほど不遜で罪深い事か、私達は「その時」まで気づくことが出来なかった…」






 ぽつり、とそう呟くと、そのひとの蒼く透ける双眸が僅かに細められる。
 呼び醒まされた遠い記憶を見つめるかのように。 








§








 ――― いまも鮮明に覚えているのは、その存在が生まれ出でた、その瞬間。





 それは“恣意”によって生命を“創る”、その咎と重みを…己の浅はかさを真に突きつけられた瞬間。







 流れる翠緑の髪。
 伸びやかな躰。
 琥珀色の両の瞳。

 その姿はひとと寸分違わず ――― そして何処か自分に似た面影を宿している。







“これが、人の腹から生まれたのでは無いなどと、一体誰が信じるだろう…”








 不意に去来した思いに苦い感覚が湧き起こるのを自覚しながら、その存在の双眸を目にした時。




 …一瞬、息が止まった。








――― 限りなく純粋でありながら、何処か虚ろな、その瞳。



その瞳は深く澄み、そこに在る全てを映しながら ――― 何も映してはいなかった。
――― その内なるもの、内に宿るものは、何も。



其処に在ったのは空疎な虚(うろ)。
限りなく深く、気の遠くなるほどに純粋な、ただ、全てを受け入れるだけの。









 …だが、その瞳が私を捉えた瞬間、その奥に光が宿った。

 何故か視線を外すことが出来ずにいる自分の前で、まるで幼子のように無垢な眼差しで、生まれたばかりのその存在は私を見つめていた。
 感情と呼べるほどのものではない…だが、明らかにその兆しと判る、微かな光を灯して。


 私達の抱いている思惑など何も知らない、透明に澄んだ眼差し。
 何の疑いも無い素直な様子で、ひたすらに真っ直ぐな瞳を自分へと向けるその存在の姿に、瞬間、罪悪感よりも強く激しい何かか躰の深い処を走る。




 ――― この時出会ったその瞳に、私は自身の犯した事の重みと共に、目の前の存在には確かに「心」が…魂が宿っているのだと知った。




 だがそれはまだあまりにも、稚い。
 その身を形作る膨大な陰の気に呑まれ、消し去られかねないほどに。

 陽の気を籠めた連珠などでは補いきれないほどに、その胎に宿る陰の力は強かったのだ。







 ――― 陽は動にして能、陰は静にして受。


 陰の気を基とする為に、その存在は陰の性質を強く受けることになる。
 “いま在るがままに止め、受け入れる”、という。






 …このまま、全てを受け入れてしまっては壊れてしまうと思った。
 この目の前の…生命が。

 受け入れることしか知らない存在。まだ、確固たる「己」を持たない者。
 そんな存在が、雑多なものに…多くの感情や想念に晒されれば、自身を訴える術も知らぬまま、芽生えたばかりの心が喪われてしまうと。





 そうなれば自ら陽の気を生み出す事も、無論叶わなくなる。
 ひとが己の胎で気を練り上げる根本とするのは、その思い。「意思」、「感情」…そして「心」。

 それ故、たとえ陽の気を補って与えたとしても、心を無くせば、自ら陽の気を練ることが出来ない。そうして陰陽の均衡を取ることが出来ずにいれば、強く陰の気を帯びたそれは、この自然の理の内に存在する「生命」には成り得ないまま、「ひとに似て非なるもの」として、ただ現世を彷徨う事になる。





 …「ひと」と同じ魂をその胎に抱きながら。








§










 ――― 最早、呪を以てその胎の気の廻りを封じる他、路が無かった。
 この目の前の生命を護る為には。

 何故か、護らなければならない、とそう強く思った。
 己が「ひと」として在る為に、生まれた存在。
 自身とその源を同じくする、私であるようでいて、決してそうではない者。

 ――― その存在を。 





 或いはそれは贖罪の意識故であったのかもしれない。それでも…。










 …躰の胎を廻る気の流れを止めること、それが歪みを生み、その胎の、そしてその者の「時」を止める事になるだろうという事は解ってはいた。


 気の巡りは時の廻り。
 命あるものは皆、気を外から取り込み、それを練り、廻らせることで、周囲の自然の流れに自分の流れを添わせているのだから。
 気が廻らなければ、現世の流れから隔絶され、ただ己の内に留まる事になる。

 だがそれでも、まだ陽の気を生み出せず、連珠に籠めた気を以てしても陰の気との均衡が取り得ぬ以上、その胎の気の巡りを止めなければ、その躰は陰の気を取り込み続け、次第に身の胎の陰陽の均衡の偏りは酷くなり、いずれは存在し得なくなってしまう…。








§










…――― そして、その面に白い翳りが刻まれる。










 その呪の基となったのは、自らの妻の亡骸にいまなお残る、陽の気。
 その気を以て、彼の存在の陰の力を抑え、その胎の気の巡りを封じ込める。








来るべき時までその心を護り、その深くに眠る「己」を喪うことの無いように。
いつの日か、その面の呪の源である気を宿していた者が私にそれを与えたように、
その存在に温かい心を注ぐ者が現れるように。



…ただ「生み出され」、其処に在るのではなく…
己が自身の意思によって存在する意味を、それを齎す想いを、掴む日が来るように。










――― それ以上、私に為す術はなかった。

いつか目醒めた時、この存在は何を思うのだろうかと、心の奥底で微かな不安と期待を抱きながらも。



後はただ、その愛し子の時がいつか動くことを願って。
その未来が明るい安らぎに満ちたものとなることを願って。

祈りを込めて名付けることしか出来なかったのだ。










…――― やすらかであれ、明らかであれ ―――…












――― “泰明”、と。












§










 …――― 少女はゆっくりと細く、息を吐いた。


 その胸に宿るのは、疼くような微かな痛み。
 その痛みは切なく、苦しく…けれど微かに温かくもある。


「じゃあ…泰明さんは晴明様と奥様の“息子”、なんですね」



 やがてぽつりと洩らされた響きに驚いたように晴明は眉を顰める。



「あかね殿?」



 すると少女は翡翠の瞳を優しく輝かせながら、だって、と続ける。


「晴明様から陰の気を、奥様から陽の気をわけてもらって泰明さんは生まれてきたんでしょう?だから…」





 晴明はその言葉が胸に齎す漣にゆっくりと瞳を伏せる。


 尋常ならざる出生をよく承知していながら、決して“創られた”とは口にしない、少女。
 本来なら、どんな言葉をもって表そうとも事実は変えられぬと失笑したかもしれない。…だが。

 その気遣いがこれ程すんなりと心に染み入るのは、哀れみでも同情でもなく、ただ純粋に彼女がそう思っているからなのだろう。




 ――― この世に“生まれ”、いま、自らの意志を持って此処に“在る”ことこそが全てだ、と。




 …晴明は向かい合って座す少女の様子を静かに窺う。
 少女の瞳は、凛としていながら柔らかな、優しい空気を湛えて自分に向けられている。


 自分達の為した事は、本来ならば決して赦されるべき事ではない。それはこの自分自身が一番良く、承知している。

 だがこの少女は責めるでもなく、哀れむでもなく…語る者に心を添わせ、その者の抱く思いをありのままに素直に感じ取ろうとするのだ。

 そして、その者の心に響く言葉で語りかけてくる…。





「貴女がいて下さるから、あの子は今、幸せなのだと思いますよ…」





 口元を和ませ、その双眸を伏し目がちにして紡がれた深い響きの声に、あかねは瞳を瞬かせ ――― ややあって少し頬を赤らめた。

 そんな少女の可愛らしい様子に、晴明はくす、と小さく笑みを零す。




「たしかに、あの子は私から分かたれた存在と言えるかもしれません。だが、貴女と出会った事は泰明自身の持っていた星。そしてそれを廻らせたのは、貴女と…泰明の、“意思”」




 そうして、“彼”はもう、「己の路」を自らの手で定め、歩き出そうとしている ―――…。




 心の中でそう呟いて開かれた双眸が、じっとこちらに向けられている、翡翠の瞳を捉える。




 …緩やかに静寂の時が流れ…暫しの間の後、口にされなかった思いを悟ったかのように、あかねがふわり、と微笑んだ。

 少女の微笑みの気配に、その場の空気が柔らかく、暖かいものへと変わる。


 その微笑が誰に向けられたものだったのか…それを其処に宿る思いと共に感じ取りながら、晴明は穏やかな笑みを浮かべ。





 …ふっと何かに気づいたかのように、その端正な面を御簾の向こうへと向けた。





 不意に外へ転じられた晴明の様子に引かれるように、その視線の先を追ったあかねの視界に、音もなく夜空を舞う白い小鳥の姿が映る。

 それは過たず晴明の肩先へ全く重みを感じさせない仕草で降り立つと、軽く嘴の端を晴明の方へ寄せた。


「…そうか。来るか」


 満足そうな僅かな笑みと共にぽつ、と小さく言葉が洩れる。

 晴明は再び外へ視線を遣ると、暫し何かを探るかのようにじっと夜空を見上げた。
 それから、ゆっくりと一つ頷くと、あかねへその深い色の双眸を戻し、突然舞い降りた小鳥と自分をきょとんとした顔で見ている彼女へと躰ごと向き直る。



「…随分と長い間、付き合わせてしまいましたね」
「いえ…そんなこと。私こそ、大切なお話を聞かせて戴けて、嬉しかったです」



 居住まいを正しつつ、真っ直ぐにこちらを見上げてそう答えを返す少女に、晴明は瞳を細めて見せる。



 …ややあって、するりと立ち上がると、晴明は暇を告げ、辞儀と共にその場を辞する旨を伝えた。
 そんな彼を見送ろうとあかねも立ち上がって後を追い、二人で御簾際までやって来た時。




 ――― ぴたり、と、何か思いついたかのようにそのひとの足が止まった。
 そこに落ちるのは、何か思案しているかのような僅かな沈黙。






「また、お会いする事もあるでしょう。――― そう。…近い内に、また」






 楽しげにも見える謎めいた光を浮かべて、晴明はあかねにそう告げる。
 それは、まるで確信しているかのような不思議な響き…。




「………?」




 思わず首を傾げたあかねに、晴明は楽しげな表情のまま、それでは、と言い残し、優雅な物腰で去ってゆく。










心を占める言い表し難い幾つもの感慨と共に、
今し方の晴明の言葉を胸の中で反芻しながらあかねがその後ろ姿を見送る中で、
夜空から真っ白な雪が花弁のようにはらはらと、静かに降り続いていた…。












FIN.


 

陸深 雪様<Copyright(c) Yuki Kugami. 2002>
月晶華:http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/3188/

 

[涙のひと言]

陸深 雪様のサイトで“New Yearフリー創作”としてUP

されていたものをいただいてまいりました。

晴明様自身が泰明さんの出生について語る…今までありそ

うでなかったですね。晴明様が泰明さんを生み出したこと

で背負わなければならなくなった重苦しい自責の念、そし

て、泰明に対する生みの親としての愛情…それらすべてを

温かくやさしく包み込むあかねの慈愛。それらが見事に描

かれています。

陸深様素敵な作品をありがとうございました。

 

陸深 雪様のサイトへは『リンクのお部屋』からどうぞ

 

 

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