昔むかしある所に、心根のやさしい一人の青年が居りました。 ある日、彼は罠にかかっていた一羽の鶴を助けて逃がしてやりました。 これは、とある京の都に伝わる昔話です―― 遙かな鶴の恩返し 【橘友雅バージョン】 その後、数日して鶴を助けてあげた青年が、長い髪をなびかせながら家に戻りますと、年かさの女房が一人足早に近寄ってまいりました。その顔はどことなく怒っているようにも見えました。 「友雅様!」 「どうしたのだね?そんな顔をして」 友雅と呼ばれた男は、にっこりと艶やかな笑みを浮かべて立ち止まりました。 一瞬、その笑顔に見とれてしまった女房でしたが、はっと自分の用向きを思い出し、なるべく友雅の傍に近寄るとそっと耳打ちをいたしました。 「美しい姫君がお部屋でお待ちでございます」 「ほう。で、いったいどこの姫君なのかな?」 「それが、全く解らないのです。いつの間にか友雅様のお部屋にいらっしゃって、お帰りをお待ちするとの事で……」 女房の口調とその表情から『昨夜どなたかをお連れになってそのまま置いておかれたのでは?』と疑っている風なのがありありと解りました。 通い婚のこの時代、自宅に姫君を連れこんでしかもそのまま放っておいたなどという事が世間に知れたら困ります!何とかしてください! 女房の目はそう訴えていたのでした。 さて、そんな姫君にはとんと覚えが無い友雅ではありましたが、とにかくその姫に会ってみる事にいたしました。本当に美しい姫なら良し、そうでない姫なら……まあそれも良いか、と、そんな風に思われたのでしょう。 「友雅さん、お待ちしてました」 ぺこりと頭を下げるその姫は、たいそう可愛らしい姫君でした。 「ほう……これは……。いや、君はいったいどこの姫君かな?」 「私は……友雅さんに一目惚れしたものです。どうぞ私を傍に置いてください」 やけに短くは有るけれども、さらさらと美しい髪を床の上につけて懇願されては断れません。 いえ、断れないと言うよりは、その娘の清らかな美しさに一瞬にして惹かれてしまったといったほうが正確かもしれません。 「それでは…私の妻になるかい?」 友雅は優しく微笑みました。 「君の名はなんというの?」 「あかね、と言います」 【安倍泰明バージョン】 鶴を逃がしてやってから数日が過ぎました。その青年、京きっての若手陰陽師、安倍泰明が遠方での怨霊退治から師匠の邸に戻ると、普段は式に出迎えをさせ自らは顔も見せない彼の師匠安倍晴明が、にやにやと門のところまで出て来ておりました。 「ただいま戻りました」 「ほう……首尾は良かったようだな。ご苦労」 「では、私は自室に戻ります」 お師匠様の意味ありげな笑顔に、いぶかしげな視線を注ぎながらも泰明がそう答えると、晴明は 「泰明……。私は、安心したぞ。ひじょーに安心した」 と、言い残してくるりと室内に戻って行ってしまいました。 (……?いったい何の事だ?) さては、師匠。式ばかりに取り囲まれて暮らしているうちに、何処かおかしくなったのでは…。などと考えながら泰明は東の対に有る自分の部屋へと向かいました。 すると、部屋の入り口に見た事の無い女性が頭を下げて出迎えていたのです。 泰明は咄嗟に懐に手を差しこみ、その指に呪符をはさみました。 「何者だ。お前、人間ではないな!」 さすがは一流陰陽師、一瞬にしてその正体を見破ったのです。 「待ってください!調伏はしないで。私は先日助けられた鶴の化身です。半分は人間ですが、半分は鶴。泰明さんに助けられた瞬間に好きになってしまいました。どうぞ、ここへ置いてください」 泰明は胸の呪符を手放しました。 「そうか。あの時の。なるほど鶴と人との気が交じり合っている。ここに居たいと言うのなら好きにするが良い」 私の式として使ってやることにしよう……部屋の中へと歩きながら、そう泰明が付け加えようとした時、鶴は羽を、いえ、着物の袖をパタパタとさせながら 「嬉しい!泰明さんのお嫁さんにしてもらえるんですね!」 と、大喜びいたしました。 それを聞いて慌てた泰明は「そんなつもりは無い」と断ろうとしたのですが、彼女の嬉しそうな様子にぐっとその言葉を飲み込んでしまいました。 (人型をしてはいるが人間ではない……私と同じか) これも何かの縁。と、泰明はその少女を自分の妻にすることにいたしました。 もっとも、彼女の清らかな気に心を奪われたせいだ、ということには自分でもまだ気が付いてはおりませんでしたが。 (そうか!さっきの師匠のあの顔は!) そう思い当たって、一瞬怒気を発した泰明でしたが、少女の方を振り向くと静かにこう尋ねました。 「お前の名は」 「あかね、と言います」 * 「ほう、あかね殿、というのだね。可愛らしい名だ」 「ありがとうございます」 「しかし……君は解っているのかな?私の妻になるという事がどういうことか…」 そう言うと友雅はあかねの肩に手を置きました。そして、そのままあかねの軽い身体をふわりと引き寄せ口付けました。あかねはうっとりとされるがままになっています。 「何故だろう…君の唇はとても甘く感じられるよ」 そう言って微笑むと、友雅は未だ天空高くに有る太陽を気にも留めずに、あかねを部屋の奥へと連れていくのでした。 * 「あかね、というのか。解った」 泰明は肯くと部屋の奥へと歩いていきました。 「私は昨夜一晩中、怨霊退治をしていた。少し休む」 そう言うとあかねに見守られながら気持ち良さそうに眠り込んでしまいました。 夕方頃、泰明が目を覚ますと傍らであかねがにっこりと微笑んでおりました。 「泰明さん、食事が出来てますよ」 式のように命じられてから作るのではなく、自分の目が覚める頃を見計らって食事を用意していてくれたのか――泰明はなんだか嬉しくなってしまいました。 「では、いただこう」 二人で食べる食事はまた格別に美味しいのだと、この時泰明はようやく気が付いたのでした。 * 「友雅さん、私にこの塗篭を使わせてくれませんか?」 二人が仲良く暮らし始めて暫くした頃、あかねがこんな事を言い出しました。 「ああ、構わないが、いったい何に使うのだい?」 「ここで機を織りたいんです。私が機を織っている7日7晩の間、決して覗かないで下さいね」 「7日間もかい。なんともまあ寂しいことだ……しかし、君の頼みなら我慢しよう」 「ありがとうございます」 そう言うとあかねは塗篭の中へ入ってしまいました。 友雅はあかねに会えない寂しさに胸が痛くなるほどでしたが、あと4日あと3日…と、指折り数えながら健気に一人寝の日々を過ごしておりました。 そして7日目。 「お待たせしました」 からりと扉が開いてあかねが出てきました。その顔は少し疲れています。そして手には美しい布を持っておりました。 「どうかこれを売ってください。高く売れるはずです」 「あかね!顔色が悪いじゃないか。布のことは気にせずに少し休みなさい」 友雅の家はそれなりに裕福な貴族です。特にお金に困ってはいませんでしたので、その布は売らずにとっておく事にいたしました。 (これで、着物を仕立てさせてあかね殿に着せたらさぞかし似合うことだろうね) 友雅はぐっすりと眠るあかねの顔を見つめながら楽しそうにニコニコとしておりました。 * 平穏に暮らしていたある日。 泰明が陰陽寮から戻ってくると、あかねがこんな事を言い出しました。 「今日から7日7晩、私はこの部屋に閉じこもって機を織りたいんです。どうかその間、決して覗かないで下さいね」 泰明は7晩もあかねを腕に抱いて眠ることは出来ないのか、と、悲しくなりましたが、あかねの頼みならば仕方がありません。 「解った……それがお前の理なら」 その日からあかねは本当にいっさい部屋から出てこなくなりました。中からは機織の音だけが聞こえてきます。 一度、式を送って様子を探らせようかとも考えましたが、それも約束に反すること…と、じっと我慢することにいたしました。 泰明は毎晩あかねの居る部屋の前で寂しそうに中から聞こえるコトンコトンという音だけを聞いて過ごすのでした。 「これが……寂しいという感情か」 いつのまにか泰明の心にはあかねが、殊にその人間の部分のあかねが、深く入りこんでいたのです。 「泰明さん、出来あがりました」 ようやくあかねが顔を出したのは丁度7日目の晩のことでした。手には見たことも無いほど美しい布を持っておりました。 しかし、泰明にはその布を見た瞬間に、それがいったい何で出来ているのかが解ってしまいました。 あかねは鶴である自分の羽と自分の気を織りこんで布を織っていたのです。 「あかね!このような布を作ることは許さぬ。これでは、これではお前の身体が参ってしまう」 「でも……私は泰明さんに恩返しを」 「恩返しなどいらぬ。この布はお前の化身。ありがたく頂いておくが、これで最後だ。良いな」 「気に入らなかったですか……?」 「いや……。素晴らしい布だ。色も肌触りも素晴らしいが、何より発しているこの気が美しい」 「良かった」 あかねは少しやつれた顔で嬉しそうに微笑みました。 * さて、横になって休んでいたあかねは、夕刻頃にむくりと置きあがると 「友雅さん、また機を織りたいんです。覗かないでくださいね」 と、再び塗篭に向かいました。 「あ、あかね。もう良いよ。もう十分だから」 「…でも……」 「今度は私に君のその肌を織る仕事を与えて欲しいね。この織機はさぞかし素晴らしい音を立ててくれるのだろうね」 そう言って、友雅はあかねの背中に腕を伸ばしましたが、あかねはその腕をするりと抜けると、塗篭に入って戸を閉めてしまいました。 「お願いします。友雅さん、もう一度だけ」 中からあかねの声だけが聞こえてきました。 「ふーっ解ったよ。好きにしたまえ」 友雅は大きなため息をつきました。 「やれやれ。あかねは普段はとても素直で可愛らしいのに……時折、あのようにまるで何かにとりつかれたようになってしまうことがある。いったいどうしたというのだろうねえ」 3日、4日と日が過ぎていきました。中からは相変わらず機織の音が聞こえておりましたが、じっとその音を聞いていた友雅は、時折その音が止むのに気が付きました。 かさこそと何やら衣擦れのような音も聞こえます。 初めは、織っている布の音だろうと気にも留めませんでしたが、どうも中から複数の人の会話までもが聞こえてくるような気がして、さすがの友雅の脳裏にも何やら不穏な考えが浮かんできてしまいました。 いったい真っ暗な塗篭の中で機など織れるものだろうか。 あかね殿は実は何か違うことをしているのでは。 中に居るのは本当にあかね殿ひとり…か? あの衣擦れは……。いや、まさか、そんな。 しかし……。 色々な考えが頭を駆け巡ります。その時、塗篭の中からカタンと言う音と共にあかねの「あ…っ」という悩ましげにも聞こえるようなそうで無いような声が聞こえてきました。 「やはり、何者かがここに来ているのか」 はやる心をぐっと堪えようとしたその時、誰かに向けたあかねの切なげな声が響いてきたのです。 「ダメ……お願い……もう、やめて……っ」 「あかねっ」 友雅は慌てて塗篭の戸を思いっきり開きました。 そこにはなんと鶴の姿をしたあかねが呆然と立っておりました。 そう。先ほどの声は、憑かれたように自分の羽を抜きつづける鶴に対して、人間のあかねが発した声だったのです。 「友雅さん…見ないって約束したのに」 あかねが悲しそうに言いました。 「私はあなたに助けて頂いた鶴だったのです。でも、こうなった以上、もうここには居られません」 「すまない、許して欲しい。君を想うあまりのことだ」 * さて、泰明が怨霊退治に出かけた隙を見て、あかねは再び小部屋に閉じこもり自分の羽を使って機を織り始めていました。 その顔色はいよいよ蒼くなっていましたが、あかねは 「私の布を泰明さんはとても気に入ってくれた。もう少し。もう少しだけ……」 と、機を織りつづけておりました。そこに帰って来た泰明は、状況を見て取るなり 「あかねっあれほど止めるように言ったではないか!開けるぞ」 と、扉に手をかけました。 「待って!まだ開けないで。あと3日だから!お願いです」 必死な声でそう言われてしまい、泰明は眉を顰めながらもこの場はぐっと我慢することにいたしました。 とは言うものの、扉の向こうで日に日に弱々しくなって行くあかねの気が解るだけに、泰明は次第に居ても立っても居られなくなってきました。 とうとう、残り丸1日…という所で、あかねの気が今にも消えてしまうのではないか…と心配した泰明は 「ええいっ理を守ることの大切さは承知しているが、それも全てお前の命有ってこそだ!破っ」 と、両手で胸の前に三角を形作ると、術で扉を破ってしまいました。 「泰明さん……まさかあなたが約束を破るなんて……もうこれ以上ここに居るわけにはいきません。お別れです」 * 青年が見守る中、鶴は寂しそうな顔で、大きく羽を広げて二三度羽ばたくと、バサバサッと飛び立っていきました。その白い姿は見る見るうちに青空に吸い込まれていってしまいました。 青年は雪のように舞い散る羽の中に呆然と立ち尽くしておりました。 ため息をひとつついて天から目を落とし、ふと自分の足元を見ると。 「……あかね…?」 そう。確かに鶴は天高く飛び去っていったはずなのに、彼の足元には、ぐったりと横たわったあかねが居たのです。 「いったい、どうして?」 驚き戸惑う青年に向かって、あかねはにっこりと微笑んで見せました。 「実は……一月ほど前の夜中、突然大きな鶴が眠っている私の中に入り込んで来たんです。身体を貸して欲しいって言って」 「まさかそれは……」 「私、鶴にとり付かれてたみたいです」 ニコニコと可愛らしい笑みを浮かべるあかねに、青年はしばしの間、どう反応して良いものか困ってしまいました。 そこで微笑んでいるのは、姿形ばかりではなく、その心根もまさしく彼の『あかね』です。いえ、とり憑かれていたものが居なくなった分だけ、より彼の好きなあかねになっておりました……しかし……。 「それでは…あかねが私の妻になったのは鶴の意思であって、あかねの意思ではなかった……」 寂しそうに呟く青年に、あかねはちょっぴり頬を染めながらしがみつきました。 「ううん。ホント言うと、私、ずっと前からあなたのことが好きだったんです、だから話を聞いて喜んで私の身体を貸す事にしました。……だって……」 あかねの頬が益々真っ赤に染まっていきます。 「私、鶴に感謝してるんです!私だけだったらきっとここに来る勇気は無かったと思うから」 「あかね!」 青年は鶴の残していってくれた宝物をしっかりと抱きしめました。 「私も鶴に感謝しなくては。こんなに素晴らしい『恩返し』をしてくれたことに」 橙色に輝く夕日の中、二つの影はゆっくりとひとつに重なるのでした。 その後、青年は鶴の残した布を仕立てさせてあかねの花嫁衣裳にいたしました。 それを身につけて、改めて青年の花嫁となったあかねは部屋に閉じこもって機を織ることもなくなり、二人は昼も夜も、仲睦まじく暮らしたということです。
by 安樹様 「月の光」 http://homepage2.nifty.com
≪安樹様コメント≫
最近、とある事情から昔話ばかりを読んでいた私の頭の中を書き出したらこうなりました(笑)。
泰明さんだけ、友雅さんだけのお話にしても良かったんじゃないかとも思いましたが、
私このふたりの対照的な反応が好きで(笑)。よりはっきりと楽しめる?形にしてみました〜^^;;;
[涙のひと言]
安樹様のサイトで20万HIT記念のフリー創作として配布していたものを頂戴してまいりました。
おなじみの「鶴の恩返し」ですがそれはそれよひょうならぬ友雅さん
と泰明さんがお相手となると話も大分変わってまいりますね(笑)
友雅さんはとっても友雅さんらしく、泰明さんはとっても泰明さんらしくてその対比がまたとても面白いですv 昔話では最後は鶴が飛んで
行ってしまって悲恋で終わりますが、やっぱりこういうハッピーエン
ドの方がよいですね♪
安樹様、20万HITおめでとうございます!!
そして、一粒で二度おいしいとっても素敵なお話を本当にありがとう
ございました。
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