もう一年となろうか。薄紅色の花びらの如く、あれが舞い降りてきたのは……。あれは、春に咲く花のような娘だ。可憐で、朗らかで、虚ろな洞のような私の心に「感情」があることを教えてくれた……。 しかし皮肉にも、あれが私に与えてくれた感情が、「寂しさ」という救いがたい心の闇に、私を誘う。そう、今、私の目の前に神子はいない。私の掌にも、腕の中にも、ぬくもりだけは残っているというのに。ましてや、夢の中では、満面の笑顔で私の名を呼びかけさえする。夢の中の神子に触れようと手を伸ばすも、やはり私を包み込んでいるのは、夜の闇だけだ。その度に私は神子の名を呼ぶ。名など呼んでも、目の前に現れるわけでもないのだが……。 先日のことだ。突然、お師匠に呼び出されたのは。 「実は、帝の催す大規模な宴が行われるらしいのだが、どうも、梅の季節なだけに、道真公の崇りを恐れているようなのだ。まあ、帝と道真公には、何も因縁はないのだが、念のため、ということで、陰陽寮にも極秘にお声がかかったのだよ」 「……」 「賢明なお前のことだ、泰明。この先は言わなくても分かるであろう。なるべく早く出発せよ。新婚でお楽しみのところを申し訳ないがな。クックックッ」 「……」 要するに「大宰府へ向かい、道真公の御霊をお慰めしろ」ということなのだな。他の者を遣ればいいものを……。こちらはこちらで、未だ京に慣れぬ神子を、ひとり置いていくのも心許ないというのに……。 屋敷へ戻り、旅の支度をしていたところ、神子が私を訪ねてやって来た。案の定、瞳が不安を物語っている。 「泰明さん、どこかへ行ってしまうんですか? あのぅ、私、ひとりだと、すっごく不安なんですけど……」 やはりそう言うと思った。かといって、お師匠直々の命令に背くことは不可能であり、また、理由が理由なだけに、本当のことを話すことはできぬ……。困ったものだ。 「問題ない。私の式を置いていくから、何か所要があれば、式に任せればよい」 首をかしげながら、困った顔で神子が言う。 「い、いや……。そういう問題じゃないと思うんですけど……」 「ならば永泉を呼ぶか? あれなら安心してお前を任せられる」 「だから、そうじゃなくて……、その……」 私の言うことは間違っているのだろうか? 非常に合理的な判断だと我ながら思うのだが。 「私の式と永泉、両方をお前の側に置いて行く。永泉ならば、退屈しても、得意の楽の音でお前を慰めてくれよう」 神子は不満そうな表情で私を見ていたが、ついに感情的な言葉を私に投げかけた。 「そうじゃなくって、泰明さんと離れるのが寂しいんです! もう、何にも分かってないんだから!!」 よく、解からぬ。 離れる、と言ってもたかが数日間のことだ。ましてや、神子が日々の暮らしに困らぬよう、それなりの準備はしていくと言っているのに。確かに、私にも多少の寂しさは感じられる。だが、それに関しては、何の不都合も生じないと思うのだが……。 「神子、お前は、毎日私と共に居なければならぬのか?」 「……そ、そうじゃないけど、やっぱり、顔が見られないのは寂しいじゃないですか……」 「顔が見られない? 私には見えるぞ。目を瞑れば、お前の顔が思い浮かぶ」 「もうっ! 本当に泰明さんって鈍感なんですね! もういいです! 旅の道中、どうぞご自愛お忘れなきよう!!」 ずたずた、と表現するのが相応しい足音を立てて、神子は屋敷を後にした。私は神子を怒らせてしまったのか? いや、どうせいつものことだ。問題ない。私は、神子の世話をする式を呼び出し、また、永泉に文を遣わせ、翌日には大宰府へと向かった。 やはり、と言うべきか。大宰府は取り立てて怪異もなく、平穏そのものだった。しかし、万が一にも何かがあっては困る。念のため、道真公の御霊が大宰府から抜け出せないようにと結界を張り、私は道真公ゆかりの梅の木の前で、時を過ごしていた。 ところが、である。私が結界を張ってから3日目の夜、道真公が目の前に現れたのだ。私は急いで呪符を手にし、道真公に対峙した。 「まあ、そんなに怖い顔をしなくてもよいではないか。今宵は月も美しい。ひとつ、話し相手にでもなってくれないか」 思いもよらない道真公の言葉に、私は唖然とし、呪符を持った手を下ろした。 「ほほぅ。お主は噂に聞こえる希代の陰陽師、安倍晴明の弟子であるな。名は何と申す?」 私は訝しげに道真公を見た。滅多なことで、人は名を明かしてはならぬ。ここはひとつ、偽名を用いることにした。 「私の名か? 私は加茂泰継と申す。ここへは、そなたをしばし封印するために来た。申し訳ないが、しばしの間、おとなしくしていて欲しい」 道真公は私の答えに高笑いをし、梅の木の前に座るよう勧めた。 「私とて、お主が懸念するような悪戯など、そう滅多にするものではないよ。まあ、京の話でも聞かせてはくれまいか?」 私は差障りのない程度に、京の話をしてやった。もっとも、政など私には興味のないこと。道真公の望むような話など、したくもなかった。ただ、鬼の一族の話だけはした。道真公も一枚噛んでいるかも知れぬ。もはやあの一族は殲滅したとはいえ、今もどこかで何かを企てているかも知れぬ。 「『鬼の一族』『アクラム』……。随分と面白い話だが、残念ながら私には関わりのないことよ。恐らく、己の政治力を誇示したい愚かな輩が、私の名を利用したのかも知れないが。まったく、いい加減にして欲しいものよ。たかがある一族の権力のために、未だもって私が悪名高く言われるのは、好ましいことではないからな」 「確かに」 「生まれ出ずるもの全て、いつかは滅びる日が来る。そんな自然の理も分からぬとは、悲しいことではないか? 加茂殿」 「もっとも」 私たちは黙ったまま、月夜に香る梅花を眺めていた。まだ春寒の候、夜の空はくもりなく透き通り、星々もなおいっそう美しく輝いていた。 「『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』」 「……よく知っているな、加茂殿。それは私の歌だ。ああ、あの頃の懐かしいことよ……」 道真公は天空に顔を向け、目を瞑り、寂しそうな表情をしていた。 「素晴らしい歌だ。知らない者はない。それに……」 そう、私はこの歌に、京に置いてきた神子のことを重ねたのだ。あれは少し、いや、相当、か弱い心を持っている。大丈夫だろうか。寂しくはしていないだろうか。式と永泉は、きちんとあれの面倒を見てやっているのだろうか……。ああ、一日も早く、京に戻りたい。京に戻り、神子をこの腕で抱きしめたい。目を瞑れば、確かに神子の顔を見ることはできる。だが、実体は、ない。触れぬこともできない。名を呼んでも、目の前に現れることはない。だけど心は、神子の名を叫んでいる。 ……寂しい? この感情も、神子が私に与えたものなのか? ああ、頬に涙が伝わる……。 「どうした? 加茂殿も、京に何か未練を残してきたのか?」 「……問題、ない……」 「嘘をつくでない。お前の目からは、止まることを知らぬといわんばかりに、涙が流れているぞ」 「……」 「想い人、か?」 私は素直に頷いた。なんの衒いもなく頷いた。「想い人」。大切な、大切な、私の神子。たとえ任務とはいえ、もう少し、優しい態度をとってやればよかったのに……。私の不在を、どれほど心許なく感じていることだろうか……。 「神子も、今頃、こうして庭の梅を見ているのだろうか……」 「神子!? 何と! お主の懸想人は、かの『龍神の神子』なのか!?」 「……そうだ」 「すると、加茂殿……、いいや、安倍殿。お主はかの『八葉』なのだな?」 「…………そうだ」 再び道真公の高笑いが響いた。全てが明らかになってしまったではないか。恥ずかしさのあまり、道真公をまともに見ることすら出来ぬ。おまけに、何故か顔まで熱をもっている気がする。 「最初から分かっていたよ。お主には、ただならぬ気を感じていたからな。それに、私を封印するなど、力ない陰陽師では不可能であろう。そうであろう? 安倍泰明殿」 まだまだ修行が足りぬようだ。いや、道真公の霊力が、いかに強いものか思い知らされたと言うべきか……。 「私の霊力を認めるより、お主の龍神の神子を思う気持ちがいかに強いか、改めて認めるべきであろうよ。ああ、それにしてもこんなに楽しい夜は久しぶりだよ、泰明殿。ハハハハハハ」 もはや言葉も出ない。私はただただ、梅の咲く枝を手に取り、顔を隠すことしか出来なかった。 「泰明殿、お主はまだ若い。そして、誰もがうらやむ恋をしている。私にとっては、うらやましいことであるよ……。龍神の神子のためにも、早くここを去った方がよいのではないか?」 「しかし、あと五日は、あなたのことを封じておかねば……」 その言葉に、道真公はうっすらと笑みを浮かべてこう答えた。 「お主の若さに免じて、今回はここでおとなしくしているよ。まあもっとも、何をするでもなかったのだがな」 「道真公……」 「それより早く京に戻れ。お主の大切な女人が、涙を浮かべてお主の帰りを待っているのが、私にははっきりと見えることよ」 「…………」 「早く、早く戻ってやれ。そしていつか、二人でここに来るがいい。その時にもまた、お主の愉快な姿でも見せてもらうよ」 「み、道真公!」 「冗談だ。さあ、お前の力なら、一瞬にして京に戻れるだろう。さらばだ、泰明殿。また会える日を楽しみにしているぞ」 満面の笑顔を浮かべた道真公は、本当に幸せそうに思われた。 「お心遣い、感謝する。それでは、いずれの日にか……」 こうして私は、任務を終えて、京に戻ることができたのである。 京に戻ると、何はともあれ、屋敷へと急いだ。 が、屋敷には人の気配がない! 一体、神子は何処へ行ったというのだ? 私の残していった式はどうしたというのだ? 永泉は? ああ、頭の中が混乱する……。早く、早く神子を見つけなければ……。 私はあちらこちらを走り回った。心当たりのある者たちの所をしらみつぶしに回った。しかし、誰も知らぬという。何ということだ。私の配慮が足らぬばかりに、神子を見失ってしまうとは……。 嫌だ。 もう、離したくは、ない。 神子は、私だけの、ものだ。 「おかえりなさい、泰明さん」 混乱状態の私の肩を叩く者があった。振り返ると、そこには神子が笑っている。ああ、私は、この笑顔を、遠く大宰府にて望んでいたのだ……。 「神子、一体、何処へ行っていたのだ? 心配したではないか」 ますます、嬉しそうに笑う神子。解からぬ。 「泰明さんの式神は、身の回りのお世話をしてくれるけれど、ちっともお話してくれなかったんです。それに、永泉さんは、お兄様の宴の準備で、私のお世話どころじゃなかったんですよ。そんなわけで、藤姫のお屋敷でお世話になっていたんです。本当に、泰明さんってうっかり者ですよね」 そ、そうか! 私の判断が誤っていたのか。それは神子には申し訳ないことをした……。何としたことか……。私は、大切なものを、自らの不手際で見失うところだったのだ。 「寂しい思いをさせた。すまぬ……」 思わず私は神子を抱きしめた。そうだ、この温もり、この柔らかさ、この感触……。私が、大宰府で恋しいと思っていたものこそこれなのだ。私は、どうやら、神子がいなくてはもはや生きていけぬのかも知れない。私の、大切な、神子……。 「泰明さん、梅の香りがする……。いい匂い……」 「……」 「もうすぐ、春が来るんですね……」 「ああ。今年の春は、お前と二人で迎えたい」 「そうですね。梅だけじゃなくて、桃の花や桜の花。たくさんの花に囲まれて、泰明さんと一緒にいたいな」 「神子……」 「もう、ひとりにしないで下さいね」 「……。分かった、二度と私の手から、離さずにいる」 「ずっとですよ」 「ずっとだ……」 ふと、気がつくと、私の庭の梅の木が満開になっていた。紅や白の、美しい花。私にはすぐに分かった。道真公の仕業だと。 私とは比較にならぬほど、京が恋しかったであろうに……。心憎い方だ、道真公という方は……。 「今まで気付かなかった。お前は、梅花よりも数段と美しいのだな……」 「やすあき、さん……?」 「お前が私に与えてくれた感情が、私をより豊かにしてくれたようだ。感謝する、神子」 西からの風に乗って、梅の花びらがはらりと舞う。 重ね合う唇に、私は、思いを込める……。 二度とお前を離さない。 生涯、お前と二人、春を迎えると、心に誓ったのだから……。
終
みりーな様『ヲトメ★キッス』 http://mirina.2.pro.tok2.com/index.html
[涙のひと言]
みりーな様のサイトで“4000番”を踏んで頂戴いた
しました。
人の感情に疎く、あかねちゃんの気持ちがちっともわか
っていなかった泰明さん…お仕事であかねちゃんと離れ
てみて初めてそばに愛する人がいない寂しさに気づいた
ようです。これからはあかねちゃんも寂しい思いをしな
くてすみそうですねv
そして、道真公!とってもいい味を出してます! 泰明
さんよりも二枚も三枚も上手のよう(笑)
梅の演出も心にくいばかりですわvv
みりーな様、素敵なお話をありがとうございました!
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