歌  声

 

花梨は今日も幸鷹の屋敷に来ていた。

一応MDを聞くという名目なのだが、いつも夕刻までとりとめない話をつらつら

としては帰って行く。少し前の幸鷹なら無駄な時間を…と思うところだが、今の

幸鷹はそんな何気ない時間が結構気に入っていた。

 

幸鷹は花梨が楽しそうにMDを聞いているのを微笑みながら見ていた。

その時、ふと花梨がMDに合わせて何気なく歌を口ずさんだ。

それを聞いた幸鷹は…

 

――この歌声は…

 

幸鷹の中にとうに忘れていたはずの記憶が突然甦って来た。

 

 

「幸鷹、それじゃあ、私たちは荷物を取ってくるから、ここで待っていてちょう

 だい。」

「はい。わかりました。お母さん。」

その日、幸鷹は空港にいた。留学先のドイツから今日、久々に帰国したところである。

空港は人であふれかえっていた。周りから聞こえて来る話し声は全て日本語…

そんな当たり前のことが、かえって幸鷹には違和感をもって感じられた。

 

幸鷹は窓に近づいて外を見た。そこから見える景色をぼんやり見ていた幸鷹の耳に

ある歌声が聞こえてきた。

 

――歌?

 

空港のロビーという公共の場所なのに、いったい誰が歌っているんだろう。

いつもの幸鷹ならその非常識さにまゆをしかめるところなのだが、今日はなぜだか

そういう気分にはならなかった。

元気と明るさに満ち溢れた強い生命力を感じる声。幸鷹はその声の方を見た。

歌っていたのは…小学生ぐらいの女の子。

確かこれはラブ・ソングのはず…こんな小さな女の子が…それにこの元気一杯の

歌い方…

そのちぐはぐさが妙に可愛らしく思えて幸鷹から思わず小さな笑い声が漏れた。

 

 

――このように笑ったのは久しぶりだ。

 

幸鷹はそう思った。このように自然な笑いが自分から出たのは本当に久しぶりの

ような気がする。回りに合わせて笑うことはあるが、自然に笑いが漏れるのなど

何年ぶりか。

 

その時、その女の子の横にいたもうひとりの女の子が幸鷹に気がついて、その子

に言った。

「花梨、恥ずかしいよ。ほら、笑われてるじゃない。」

「いいって、いいって。だってこの歌好きなんだもん♪」

花梨と呼ばれたその女の子はそう言うとまた大きな声で歌い始めた。

 

幸鷹はまた窓の方に目を向けた。

 

思い返して見れば、私にはあのような子どもらしい時間というものはなかったよう

に思う。両親とも国立大学の大学教授。ふたりとも忙しく、ほとんど家にいること

はなかった。

たまに顔を合わすと

「幸鷹、この前のテストの結果はどうだった?」

両親の口から最初に出るのはいつもその言葉…

幸鷹がふたりの関心を引くには常に勉強が出来て、優秀でいることしかなかった。

学校の成績がいいと両親はとても喜び、人が来るといつも誇らしそうにそれを話し

ていたから。

そしてふたりは幸鷹がいつも完璧でいることを求めた。幸鷹もそれに応えようと

して…。

物心がついた頃にはすでに眼鏡をかけていたように思う。

少し時間があいた時は本を読んで過ごしていた。たまに外で他の子どもたちが遊ぶ

声が聞こえるとそちらにチラッと目を向けることはあったが、すぐにまた本に目を

戻した。

そして、幸鷹自身は他の子どもたちのように外で遊んだりすることはほとんど

なかった。

友達も親が認めた数人の者たちだけで、さしさわりのないつきあいしかしたことは

ないように思う。

 

目覚しいスピードでどんどん学問を修めて行く幸鷹に両親はもっと高度な学問を

身につけさせようとした。

日本では飛び級制度がないので、留学して15で大学院に進んで…。

物理学はたいへん興味深く嫌いではなかった。いろいろな物事を知るのはとても

面白い。

それに学友たちも研究に関しては幸鷹を対等に扱ってくれる。

だが、15の幸鷹に友達としてつきあってくれるものはやはり誰もいなかった。

興味本位で寄ってくるものはいたが…

 

ひとりの時間にはいつも考えてしまう。

私を私として見てくれる人が果たしているのだろうか。

あの父親の息子、あの母親の息子、年若い物理学者、神童…

みんなが見ているのは私の両親や表面上の私だけ。

私自身を…本当の私を必要としてくれる者は誰もいないのではないだろうか。

 

――あの子のように生きられたら。もし、自分の感情の通りに自分の意志で生きる

  ことができたら…。あのような生命力が私にあったら…。

 

かなり遠く離れたはずなのにまださっきの女の子の歌声が聞こえてくる。なぜか、

その声が無性に自分の心の中に流れ込んでくる。

なぜだろう…。あの子が自分には得られないものを持っているからなのだろう

か…。

 

その時、ふと歌声が途切れてチリンと小さな鈴の音が聞こえた。

 

「えっ!?」

幸鷹がその鈴の音に振り返ると、ひとりの黒髪の女の子が座って泣いていた。

髪の毛は長く、床に無造作に広がっていた。

なぜだか歴史の本で見たような時代めいた着物を着ている。

幸鷹はその女の子の方に歩み寄り、声をかけた。

「どうしたんですか? どうして泣いているのですか?」

その女の子がゆっくりと顔を上げて幸鷹を見た。

その瞬間、幸鷹はものすごい光に包まれた。

「うわぁーっ!」

 

チリン…その音に花梨が立ち止まり、振り返った。

「花梨?」

もうひとりの女の子が声を掛けた。

「さっきのお兄ちゃんが…ううん、何でもない。」

花梨は再びくるっと前を向くと友達の方に走って行った。

 

幸鷹の姿はすでに跡形もなく消えていた…

 

 

「幸鷹さん?」

気がつくと、花梨が心配そうに幸鷹の顔を覗き込んでいた。

花梨の顔があまりにもそばにあるものだから、

「わっ!?」

幸鷹は思わず驚いて声を上げた。頬が少し朱に染まっている。

「本当にどうしちゃったんですか?」

花梨がまた聞いてきた。

「いえ、たいしたことではないのですが…あなたと初めてお会いした時のことを

 思い出していたんです。」

「石原の里で会った時のことですか?」

「それより以前に私たちは出逢っていたのですよ。」

幸鷹が微笑みながらそう答えた。

「えーっ、いつですか?」

花梨が興味深げに聞いてきた。

「それは…いえ、また今度お話することにいたします。それより、神子殿。

 さきほどの歌をもう一度聞かせていただけますか?」

今度は花梨が真っ赤になった。

「えーっ!? 幸鷹さん、あ…あの鼻歌聞いてたんですか!?」

花梨は思わず先ほどMDに合わせて歌を口ずさんでいたことを思い出した。

「あ…あんなものお聞かせするほどじゃあ…」

「いいえ、私はあなたの歌がお聞きしたいのです。」

花梨はさらに顔を赤くしてボソッと言った。

「ホントに下手ですよ。」

幸鷹は微笑んでいる。

花梨は顔を赤くしたまま歌い始めた。

 

――そう、この歌で私は救われたのです。

  人のためにのみ生きていた私に本当の自分というものを教えてくださった

  あなた。

  完璧な私ではなく、迷いがあってもいいと言ってくれたあなた。

  そしてありのままの私を受け入れてくれたあなた。

  私がどれほどあなたに救われたことか。

  異次元に飛ばされたあの時、私は自分自身で過去の記憶を捨てたかったのかも

  しれない…

  きっと私はあなたに再び出逢うためにこの世界に来たのですね。

  神子殿、私と一緒に…いいえ、これはもう少し後で言うことにいたしま

  しょう。

  今はこの歌声をただ聞いていたい。

  心が満たされて行くこの歌を。

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

  

 

[あとがき]

一応『ポータブルMD』の続編です。キリ番333を

踏んでいただいたかかしさんに捧げるために書きまし

た。

この作品を置くとき京編に置こうかそれとも現代編に

置こうかすごく悩みましたが、最初と最後が京での話

なので、こちらの方に置かせていただきました。

『ポータブルMD』を書いた後、あの花梨が聞いてい

た曲はいったい何だったんだろうという好奇心から広

がった作品であります。プラスαとして、第4段階で

幸鷹が現代に帰りたくないような発言をしていたのに

は、それなりのわけがあるのではないかと…。

少しはその一端が表現できていましたでしょうか?

ニ日遅れの上、あまり誕生日らしい作品ではありませ

んが、幸鷹さんのBIRTHDAY創作として捧げます。

幸鷹さんお誕生日おめでとう!

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