■月の在る空■小説・遙か・1

和 音

 


少しの肌寒さがを眠りの深淵から引き戻した。
御簾から透けて伺える外はまだ薄暗く、日が昇りきっていないのだと思う。
まだ慣れていない褥から身を起こすと、は御簾をくぐり廊下へ出た。

鬼との戦いの末、全てを捨てて、は世界で1番愛しい人を選び、京に残った。
愛すべき彼の人も、が自分を選んでくれた事を心から喜んでくれた。
そして、2人の糸が交わった。
幾日もしないうちに、彼の人、橘友雅は、半ば強引に土御門からを自邸へ連れ帰ると、そのまま彼女を北の方に迎えたのだった。
を知る多くの人がその事に抗議しようとしたが、ことさら幸せそうなを前に、その誰もが口をつぐんだ。

ずっと共に在りたいと願っていた人が自分の傍にいて、そして彼の人もまた、自分を求めてくれている。
その事が、何より嬉しくて、幸せだった。

…幸せだったから、ふとそれが夢ではないかと思う事がある。

この日も、いつもと違う空気の匂いに、は言い知れぬ不安を募らせた。
そして、彼の人の姿を求め、御簾をくぐったのだ。

外は、小雨が降っていた。
早朝かと思ったのは、薄い雲が空を覆っていたためと知る。

もう、お仕事に行っちゃったかな…

後ろ向きになる思考を何とかとどめ、は友雅の自室へと廊下を進んだ。
気持ち、早足になる。

そして、廊下の角を曲がったところで、匂い立つような伽羅の香りがの鼻を掠めた。
直後、求めて止まない彼の人が瞳に映り、視線が合う。

の足音に気付いていた友雅は、彼女の姿を確認すると目を細めて微笑んだ。
「おはよう、。」
いつもと変わらない、声。
それに幾分安堵して、も挨拶を返した。
「おはようございます、友雅さん。今日はまだお仕事に行かなくていいんですか?」
衣の上に狩衣を羽織り、何をするでもなく廊下に座した友雅は、とても参内するふうには見えない。
「ああ、今日は水難の相が出ているらしくてね。」
言うと、友雅は少し悪戯っぽく笑って外を見る。
それだけでは友雅の言わんとする事を悟り、頬を膨らませた。
つまり、雨が降っているから休む、と。
「もうっ!お仕事サボっちゃ駄目じゃないですか!」
「ふふ。真面目だね、は。」
「友雅さんが不真面目なんですー!!」
顔全体で抗議するに友雅はひとしきり笑うと、ことさらに甘い笑顔を向け、口を開いた。
「まあまあ、丁度紫陽花が見頃なのだし、たまには姫君と2人で花を愛でながらゆっくりするのもいいと思ってね。勿論君が嫌でなければ、だけれど…」
そう言って試すような目線を向ける友雅に、は思わず口をつぐんだ。
内心では、どこへも行かず自分の傍にいて欲しいと思っていたのだ。
見透かされた気がして、少し頬に血が上るのを感じる。
「嫌…じゃ、ないです…」
「では、今日1日を愛しい姫君に捧げるとしようか。」
頗る嬉しそうに笑いながら、友雅はを自分の隣に座らせた。

そうして、2人は暫く庭を眺めていた。
雨に濡れた紫陽花が、いっそう鮮やかに輝いて見える。
何よりも心地いい愛しい人の体温が隣にある。
その事が、紫陽花をより輝かせて見せているのかもしれない。
「雨の日は鬱陶しいだけのものかと思っていたが…こうして君といる事ができるのなら、そんなに悪いものでもないね。」
「そうですか…?私は、雨の日の土の匂いとか、結構好きなんだけどな…」
そう言われると、湿った土の匂いがそれまでより強く臭覚に訴え、まるで初めてその匂いに気付いたような感覚にとらわれる。

それまで闇に包まれていた部分に光があたる感覚。
以前、自分の内に眠っていた情熱に気づかせてくれたのも、彼女だった。
それまでの自分は、何にも執着できず、ただ怠惰な時間(とき)を紛らわせて生きていた。
執着できなかったのは、その全てを知っているつもりだったから。
わかりきった事に、興味など持てるはずがなかった。

けれど、は違った。

自分が知り得ない異世界から来た事はもちろん、彼女の純粋ゆえの言動は時として予測不能で、友雅を退屈させない。
そして、自分ですら気づかなかった友雅自身を引き出していくのだ。
嫌ではない、というより、むしろそれは心地いい程だった。
のために生きていたいと、冗談ではなく思わされる。
いつ死んでも構わないと思っていた過去が嘘のよう。
もし、彼女と出会わなかったとしたら…自分はここに存在しなかっただろう。
だからこそ、思わずにはいられない。
自分の今までの生は、に出会うために在ったのだ、と。

「友雅さん…?」
隣からおずおずとかけられた声に、思考が中断される。
「…あの…私、何か変な事言いました?」
心配気に眉根を寄せてそう問われ、ようやく自分が難しい顔をしていたことに気づく。
「いや…すまないね。少し考え事をしていたのだよ。」
「考え事?」
鸚鵡返しに問うの澄んだ瞳は、出会った頃のまま。
汚れを知らないその色を、出来ないと知りつつ染めてみたくなる。
友雅はの耳元に唇を寄せると、甘く響く低音の声音で囁いた。
の事を考えていたのだよ…」
「わっ!わわわ、私の事っ!?!」
たったそれだけで顔を真っ赤に染めて慌てるを有無を言わさず抱き寄せる。
「とっと友雅さんん!??」
思わず声が裏返る。
が、そこではようやく気づいた。
の肩口に頭を預けた友雅は…声を殺して笑っている。
「〜〜っ!!からかったんですね?!」
「いや…」
友雅はいまだおさまらない笑いを堪えながらの抗議を片手で遮ると、笑いで浮いた涙を拭い、答える。
「可愛い姫を私の色に染めるのは、まだ先の話になりそうだ…と思ってね。」
「っはいぃ???」
「はははははっ!!」
友雅がまた笑い出すと、は羞恥と怒りで顔を赤くし、酸欠の鯉のように口をぱくぱくさせたかと思うと、とうとう噴火した。
「友雅さんのばかああぁっ!!!」
そして頬を膨らませてぷいとそっぽを向くと、御簾の中へ入ってしまう。
…」
「知らない知らない!友雅さんなんか知らないのっ!!」
これは本格的に怒らせてしまったようだ。
友雅はやれやれとため息を吐くと、立ち上がった。

友雅が動いた事で、ふわりと伽羅の香がの鼻先を掠める。
それが、静かな衣擦れの音と共に遠ざかっていく。
友雅がいなくなるとは思わなかったはその事態に驚いた。
何が起こったのかいまいち理解できない。
慌てて頭を整理しようとしていると、少しもしないうちにまた、伽羅が香った。
そして御簾を隔てた向こう側に、香の主が腰をおろす。

その手には、琵琶。
は、友雅の琵琶が好きだ。
友雅の奏でる旋律は、風のようで、時に優しく、時に激しい。
その音色は彼自身に似ていて、雅楽とか難しい事はわからないけど、ただ、好きだった。

友雅が、御簾の向こうで誰をも魅了する艶やかな笑顔を見せる。
「天の岩戸に籠もられたアマテラス様は…さて、私の楽の音でも現れてくださるかな?」
言って、弦を爪弾く。
その音が…
「ああ、これだから雨の日はいけないね。湿気で音が変わってしまう…。」
友雅の細く長い指が、弦を調節しては、1音爪弾く。
そんな些細な動作すら美しくて、は知らず見惚れていた。

調弦を終えた友雅が楽の音を紡ぎ始めると、その流麗な調べは大地を濡らす雨の如く、の心の深いところにまで染み渡る。


その、いつもとほんの少し違う音が…

いつもと少し違う空気が…

いつもと違う、2人の距離が…

落ち着かない。

たまらなく、不安だった。


何かに引かれる感じがして、友雅は楽の音を止めずにそちらを見やる。
そこで見つけたものは友雅を満足させるのに十分だった。

自分の衣の端をそっと掴んでいたのは、御簾の下から伸ばされた愛しい人の手。
たったそれだけで、全身が暖かい気持ちに包まれ、友雅は静かに目を伏せ微笑んだ。

しかし、手を伸ばした当の本人はそれでは安心しきれず、縋るものを求めて口を開いた。
「…友雅さん……」
空気に消え入りそうな、その声。
「…?」
今度は楽の音を止めて、名を呼ぶ。
「…もう、怒ってないですから…」
衣を握る手が、少し震えていた。
光の加減で、外から御簾の中を伺い知る事はできなかったが、切なげなその声が、の気持ちをストレートに友雅に伝えていた。
友雅は衣を握るの手に自分のそれを重ね、優しく囁く。
「では、姿を現してくれるかい?アマテラスの君…」
言葉に導かれるように、はおずおずと御簾をくぐり廊下に降りると、友雅から少し離れたところに膝を抱えてちょこんと座る。
どんな表情(かお)をしていいのかわからず、少し怒ったような表情のが可愛らしくて、友雅は笑みを深くした。
「友雅さん…」
剥れた顔のまま、言う。
「琵琶、もっと聴きたい…」
友雅は微笑みを肯定の返事に代え、また調べを紡ぎはじめた。

ゆっくり流れる時間(とき)に合わせるように、彼女の心が癒されるように。

優しく、愛しく。

…愛しているよ、


友雅の暖かい音色に、ささくれだった気分が落ち着いていく。
唱えられる音(ことば)に込められた意味がわかるから。
それはとても心地良くて、安心できて、ついまどろんでしまう。

が舟を漕ぎはじめたのに気づいた友雅は、ことさらゆっくり、静かな旋律を奏でた。
しかし、静かな寝息を立てはじめたをその眠りから引き戻したのは、自身のくしゃみだった。
身体が冷えてしまったのだろう。
友雅は何も言わずにを引き寄せると、羽織っていた狩衣を着せかけた。
また琵琶を紡ぎ始めると、優しい音と愛しいぬくもりに包まれ、はまた少しもしないうちに健やかな寝息を立てはじめる。

一指も触れないと信頼されているのは嬉しいが、男として些か情けないと思うのは幸せな悩みなのだろうか。


 

 先程は怒らせてしまってすまなかったね

 けれど

 私は君に嘘はつかない

 信じてくれるだろうか

 先の言葉も、すべて

 本心だ、と…


肩に頭を預けて眠るに頬を寄せると、仄かな侍従の香りが心地いい。

例え本心だとしても、それを押しつけるつもりは友雅にはない。
きっとそれは彼女を傷つけてしまうから。
自分に生きる意味を示してくれた大切な人。
彼女のためなら、いつまでも待てる。
我ながら気の長い話だと思いつつ、それは少しも嫌ではなかった。

今までの生がに出会うために在ったのだとしたら、これからの生はと共に生きるために在る。

雨に濡れた紫陽花が鮮やかに咲き誇る。

乾いた心に慈雨を降らせ、世界を鮮やかに変えた人の寝息は、暖かで愛しい音色。
琵琶と混ざれば、和音になる。
二人で紡ぐ旋律は、時に様相を変えながら、遙かなる時空の中で鮮やかに香り続ける。

死が二人を分かつまで…


【了】

 

朱鷺夕芽様『月の在る空』

http://tukisora.cool.ne.jp/


≪夕芽様コメント≫
うああああっ!!ごめんなさい、ごめんなさい!!(><;)
砂吐きまくりですよね!!?お体は大丈夫ですかーーー!!?(焦)
「折角サイト立ち上げるんだから、友雅×神子であま〜いヤツ書いちゃおうv」
なんて思った私がバカでした…(遠い目)
でも、こういう話嫌いじゃなかったりするので、そのうちまた書いちゃう事でしょう(やめい!)

朱鷺は京ED派なのでバリバリ京ED後のお話です(*^−^*)
友雅さんて、すっごく雅な人だから、京にいて欲しいんですよね〜☆
あと、すっごい個人的な意見なんですが、
神子が京に残ったら、友雅さんはすぐに神子をお持ち帰りvvすると思うんです。
でもきっと、すぐに手を出したりはしないんだろうな〜。
うん。なんか、そんな感じ。
と、いうわけで、この話の中では神子と友雅さんは部屋が別だったりするんですね(^^;
すっごい私的見解で失礼しましたm(_)m

ちなみに今回のぷちテーマは「花(紫陽花)」と「楽器(琵琶)」でした!!
テーマ決めを手伝ってくれた旭ちゃん!ありがと〜vvv

そういえば、朱鷺が書く小説で神子が泣かないのって、珍しいなぁ…
いや、泣かせる事は全然重要ではないんですが、
ただ、女の子の涙って好…(撲殺!!)

<以下音信不通>

 

[涙のひと言]

夕芽様のサイトの開設記念フリー作品として配布していたものを

いただいてまいりました。

さすが、正真正銘の友神子様! 友雅さんの一つ一つの所作が、

とても雅に描かれています。甘々でお洒落で雅でと三拍子揃った

とても素敵な作品ですね。何処かから友雅さんの琵琶の音が聞こ

えてきそう♪

そしてそして、自分の名前を友雅さんが呼んでくれるなんていう

とびきり素敵な演出も心憎いばかりです。

夕芽様、とっても素敵なお話をどうもありがとうございました!

 

朱鷺夕芽様のサイトへは『リンクのお部屋』からどうぞ

 

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