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音楽は「MUSIC CUBE」からお借りしました。
| 柔らかな春の風が娘の髪を揺らした。 瞬きする度に、睫毛に乗った透きとおる露が、地面の上へ零れ落ちる。 薄青い色を反射した水の粒は地面を覆う緑の上へと着地した。 地面は柔らかな緑の草に覆われていた。 どこまでも続く地平線。 ただ風だけが青草を揺らして通り過ぎて行く。 不意に風の中に白いものが混じった。 娘は瞬きする。 錯覚かと思った。 しかし、白いものは確かに娘の視界に映っていた。 危うげな、消えてしまいそうな点。 ふわり、ふうわり、ふわり。 次第にそれは大きくなってくる。 近づいてきているのだ。 穏やかな風に煽られながら、おぼろげな輪郭が見えてきた。 それは白い蝶だった。 蝶は娘の傍まで飛んでくると、彼女の周りを旋回し始めた。
向かいの席に座った彼女が言った。 唐突の言葉に僕は首を傾げる。 僕の恋人の話題はいつもいきなりだ。 「夢の話?」 「そう。面白い夢だったのよ」 ウェイトレスが珈琲を2つ運んできた。 僕の前に1つ。彼女の前に1つ。 砂糖とミルクはなかった。 2人ともブラックが好みなので調度良い。 ウェイトレスがテーブルから離れるのを待って彼女が続けた。 「目が覚めたら知らない場所にいて、変な格好をしてるの。 着物なんだけど、ちょっと違うのよね。アジアの国の民族衣装みたいだったわ」 彼女は楽しそうだった。 「へぇ。それで?」 僕は珈琲を飲む。 良い薫りがした。 この店の主人は趣味がよいなと考える。 通り雨を避けて入った喫茶店だったけれど、当たりだった。 「何もわからなくて辺りを見まわしていたらね、1羽の白い蝶が飛んできたの」 彼女の声が耳に届く。 今日の彼女は黒いワンピースに白のバックと靴だった。 靴はエナメルで、その光りが目の中でチカチカする。 白い点滅。 あぁ、蝶のようだな。 偶然の一致に僕は笑った。 「それで、その蝶はどうしたの?」 僕の質問に彼女はちょっとだけ驚いたようだった。 「聞いてくれるの?」 「蝶の話なら興味がある」 「貴方が昆虫博士だとは知らなかったわ」 彼女は笑った。 ゆっくりと珈琲を口に含む。 勿体をつけるように僕を上目遣いで見た。 「知りたいですか?」 ピンクの口紅がほんのりとカップに跡を残す。 「知りたいです」 僕は宣誓をするように左手を揚げた。 窓を打つ雨音が耳に届く。 耳に心地好い音だ。 子どもの頃に耳が覚えた懐かしいリズムの反響。 僕は耳をすました。 雨は先刻より少しだけ激しさを増した気配がした。 「話すの止めようかなぁ」 しばらくの沈黙の後、彼女が言った。 「どうして?」 「貴方が興味をもったから」 彼女は両手で持っていた珈琲カップを下ろした。 いつの間にそんなに飲んだのか、珈琲カップは底が見えていた。 「興味を持たない方がよいの?」 僕が聞くと彼女の口元に笑みが浮かんだ。 ゆっくりと嬉しそうに囁く。 「そう。意味のない話がしたいの」 僕は可笑しくなって笑った。 彼女の言葉は何処までが意味を持つのだろう。 傍らをウェイトレスが通りすぎる。 彼女は珈琲のおかわりを頼んだ。 ウェイトレスは僕にもおかわりを勧めたが、僕は首を横に振った。 琥珀色の液体が彼女の珈琲カップに注がれる。 僕はそれを見届けてから、煙草に火をつけた。 「わかった。じゃぁ、意味のない夢の話をしよう」 「二番煎じよ」 「うん。その上、蝶だ」 気のない返事と供に、彼女の視線が僕から外れた。 ゆるやかに天井の方へと移って行く。 僕の手元から、煙草の白い煙が天井へと続いていた。 僕は彼女の反応に満足して話し始めた。 それは僕がみた夢の話。
遮るものは何もない、だだっ広い草原だ。 見渡せる限りの世界で緑の草が揺れていた。 風がザザァザザァと音をたてていた。 僕はその風に乗るようにしてゆったりと漂った。 しばらく飛んでいると彼方に人影が見えた。 至極気持ちよく飛んでいたのに仕方ない。 僕は人影に近づくために風に逆らって飛んだ。 何故か心がざわついて、そうしないではいられなかった。 風に逆らって飛ぶのは酷くしんどい作業だった。 羽根が千切れそだし、息苦しい。 やっとの思いで人影まで辿り着くと、そこにいたのは1人の娘さんだった。 僕は嬉しくなってその娘の周りをくるくると飛んで廻った。 娘さんが僕に呼びかけた。 「こんにちは。胡蝶さん」 ふんわりと僕は彼女の肩に止まった。 彼女の白い衣は僕の羽根と同じ色だった。 微かな甘い薫りが辺りに漂っていた。 僕がゆっくりと休もうと思った刹那、娘さんが僕に言った。 「あたし、もう行かなくちゃ。これから天帝様にご挨拶に行くの。 さようなら。胡蝶さん」 娘さんの細い指が僕を摘み上げて空へと帰した。 僕は悲しくなって、彼女の元を飛び立った。 そして長い長い間飛びつづけた。 やがて草原は消え、海を越え、知らない大陸まで飛んできた。
聞いていたのか、いないのか、曖昧な相槌が僕の声を遮った。 彼女は頬杖をついて窓の外を見ていた。 外ではまだ雨が降り続いていた。 人々は傘を挿して足早に通り過ぎて行く。 硝子の向こう側で傘の様々な色が反乱していた。 鮮やかな色彩の中を白い大きな傘が1つ、つうと横切る。 「それで最後」 僕は話を打ちきった。 テーブルの上の珈琲カップは2つとも空になっていた。 「最後?」 一応、話は聞いていたらしい。 彼女は首を傾げた。 「そう。白いチューリップの上で僕の命は終った」 僕は両手をひらひらと振ってみせた。 おどけてみせたつもりだったが、彼女は笑わなかった。 ただ、少しの間、視線を空に泳がせてから、窓の外を指差した。 「ねぇ、それってあんな感じ?」 指の先には白いチューリップが揺れていた。 窓の淵に沿うように僅かばかりの花が植えられていたのだ。 チューリップは雨なのに大きな花を開いていた。 そして、その花の中に白い蝶がいた。 蝶は動かない。 花も閉じない。 さらさら降る雨が、静かに、花と蝶の上に降り注いでいた。 |
| 2004年の年賀状のお礼。可憐なお嬢さんと蝶のイラストでした。 タイトルはあえて無しです。 |
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