4k86:毛虫
「ねえ、蝶とか蛾ってね」 恭子がぼんやりと壁に掛けられた絵を見ながら独り言のようにつぶやいた。 まるで生まれた時からそこにしかいなかったような自然さでもって二人は同じ部屋にいた。 恭子はずっとベッドに横たわったままで、傍らに座る晃一もそこから動かない。 「蛹の中身って、ドロドロに溶けた細胞なんですって。毛虫の体を溶かしてバラバラにしてから、成虫の体を作り直すのよ」 「そうなの」 晃一はじっと座ったままだ。それは朝日の昇る瞬間や、朝顔の開花、それこそ蝶の羽化の瞬間を見逃すまいと目を見開く少年の様子に似ている。 「でね、蛹から出た後なんだけど、毛虫だった時の記憶ってどうなっていると思う? 羽化の後って毛虫だった頃の事を覚えているのかしら」 「――わからないよ。やっぱり記憶も無くなっちゃうのかな?」 「虫の変態<メタモルフォーゼ>って一体なんのためにやるのかしら。羽を手に入れるため? そのために体をバラバラにして、記憶を失って、それって毛虫にとってはもう死んでしまうのと同じことなのだと思わない?」 恭子の問いかけに晃一が疑問を挟むことは無かった。これは今までの二人のやりとりでも続いてきたことであった。 「私もあなたのことを忘れてしまうかもしれない。姿も全く違うわ。もう私は毛虫じゃなくて、全く違った姿になるの。そうなったらどうする?」 「それでも僕はここにいるよ。どんな姿になってもかまわない」 「記憶も無くなって、姿も変わっているのよ。もう私は私で無くなるの。それでもここにいてくれるのは嬉しいけど、それじゃああなたは一体私の何を好きでいてくれるのかしら」 明らかに困った顔の晃一の答えを無理に聞こうとせず、恭子は話を続けた。 「私はもうすぐ私で無くなるの。だから私は『その後の私』が何者なのかを見ることはできない。あなたが頼りなの。離れないで」 「大丈夫。僕はずっとここにいるよ」 一転して弱気になる恭子を晃一は懸命になだめ続けた。 さようなら、私はどうなるの、お願い、私なんか、こんな毛虫でも、そばにいて、目が覚めたら、見ないで、生まれ変わるの 悪夢にうなされてでもいるようにぽつぽつと話し続ける恭子の傍らで、晃一は頷き続け、やがて恭子は眠りに落ちた。 その後も、眠り続ける恭子の傍を離れず晃一は見守り続けた。
どうせ誰にも信じてもらえまい。ここは何も見なかったことにした方が良さそうだ。 小倉はそうすれば忘れることが出来るとでも言うように、何度も頭を振り続けた。 |