4k87:ランナーズ・ハイにしては距離が短すぎる

 

 

薄暗く、吐く息も白い5:30。バス停へと急ぐ一人の男。

年齢はおそらく30台前半〜半ば、その割にはスーツ姿が板に付いていない冴えない感じの男は、バス停まであとおよそ百数十メートルというところで突然走り出した。 今まさに停留所に着かんとするバスが見えたのであった。
家を出る前に確認した土曜ダイヤの時刻表によれば、この日最初のバス発車時刻までにはあと2分ほど余裕があったはず。しかしとにかく乗り遅れる訳には行かない。このバスに乗り遅れることは、当たり前ではあるが予定通りに目的地に着かないということなのであった。

昨日予定していた日帰り出張は一日遅れ、土曜日になってしまった。
同行を予定している後輩のSTに「寝坊するんじゃないぞ」と偉そうに釘をさした事が後悔された。
男は寝坊した訳では無かったが、忘れていた時刻表の確認を朝ネットで済ませると、そのまましばらくお気に入りサイトを読みふけってしまったのであった。寝坊より始末が悪い、これでは言い訳にもならない、と男は自らを責めつつ懸命に走った。
停留所に近づくバスを睨みつけ、男はバスの前方にある信号が赤であることを祈りつつ走り続けた。バスは交差点にある信号に近づきながら少し減速したように見えたが、このペースであれば停留所にはバスが先に着いてしまう。朝一番は乗客がほとんどいない路線である。乗り降りする客がいなければバスは停留所で止まることなく行ってしまうだろう。
川沿いにある、見通しの良い交差点に男から見て左側から右へ向かってバスは走っていく。男は交差点右手の停留所を見た。薄暗い朝の空気越しではあるが、停留所にバスを待つ乗客はいないことがはっきりと見て取れた。 交差点の信号が青である場合、双方のスピードから考えてバスと男は停留所手前の交差点でちょうど出合う形になる。

ここで男は考えた。
交差点で運転手に向かって何らかの意思表示を行えば、そして運転手がそれに気づいてくれれば、バスに乗ることが出来るのではないか?
しかし男は普段、人前で慌てて見せたりする事を極端に嫌っていた。発車寸前の電車に駆け込み乗車したり、待ち合わせの時刻に遅れそうだからとタクシーの運転手を急かしたりといった行為はとてもみっともない姿であり、なるべくそうならないように心がけていた。
だが今日は不覚を取った。
男は信号がバスを止めてくれることを願いつつ、そうならなかった時のためにどうやって運転手に自分の存在を知らせたものか、考え始めた。
軽く右手をあげつつバスに向かって走れば運転手は気づいてくれるだろうか。これくらいのアクションであればさりげなく、それほど恥ずかしくないように思える。男にとって一つの妥協点であった。 しかし運転手が気づいてくれなかった場合は最悪の状況となる。男は後輩STの冷めた目、試作を依頼した工場の担当者を想像した。 なりふりかまってはいられない。右手と言わず両手を挙げて振り回して見てはどうだろうか。そうしている自分の姿を想像した男は、そこまでしなければならない状況を生んでしまった自分の失態を恥じ、時刻表に記載された時刻よりも2分以上早く通過しようとしているバス、その様な運行を許しているバス会社とその経営陣を呪った。

嗚呼恥ずかしい。
もうすぐ「両手を挙げてぶんぶん振り回す」事になるのか。ついでだから「まってくれー」くらいの事は叫んでみるか。いよいよ恥ずかしい。 一通り醜態を晒す自分を想像し終わると、男はふと子供の頃に食べた菓子を思い出した。
菓子は赤い箱の中央に描かれたランナーの姿が印象的であり、一粒で何百メートルだとかいうキャッチフレーズで有名なものであった。ランナーは誇らしげな笑顔で両手を万歳の形にあげていた。
最近、なつかしの名曲を収めたCDがおまけについていたので一度買ったことがあったのを思い出したが、あの時はおまけのCD目当てであったので、菓子の方はあまり良く覚えていなかった。職場で隣の席にいたSTにでもあげてしまったかも知れない。

男は川沿いにまでたどり着いた。
川沿いに植えられているコスモスだろうか、かすかに花の香りがしたような気がした。子供の頃食べた菓子の味が思い出された。
男は走りながら運転手に向けて手をあげた。
運転手はちら、と男を横目で見ると少し笑ったように見えた。
間にあったか。男は走る速度をゆるめ、息を整えた。バスは停留所へとむかう。
しかし、どういう訳かバスは速度を落とすことなく停留所を通過してしまった。 男は愕然としながら遠ざかるバスを見送り、そして自嘲した。

そのバスの後窓ガラス上部には大きく二文字

「回 送」

と書かれていたのだった。

その2分後、男は時刻表通りにやってきたバスに乗車した。
乗客は男一人の、がらんとしたバスの社内で男は苦い敗北の後味を、あの菓子で打ち消したいと思った。
つい先ほど走った距離は、確かその菓子一粒でお釣りの来る距離であったはずだ。

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