4k90:中継ぎ三番手の約束

 

 

マウンド上でまたしても俺は迷っていた。
バッターボックスには奴がいる。宿命のライバル(と俺が勝手に思っている)であるこの男を、俺は三振にとらなければならない。
いつものパターンでいくならば、ボール球をフルに使って打ち損じを待つのが最善の策であると思われるところだ(そう。俺には球威が足りない!)が、今日この場面ではその策を取ることはできない。

約束をしてしまったのだ。
マンガのような話ではあるが、病気の少年から頼まれた俺は、奴を三振にとってやると大見得を切って来てしまったのだった。

「ねえ、本当に三振にとれる?」

病室というのはあまり気持ちの良い場所では無い。白い壁、白い天井、リノリウムの床、白いパイプの枠が張り巡らされたベッド。
少年はよほど野球が好きなようで、壁にはブルースターズのカレンダー、枕元のテーブルにはボールとグローブ、スポーツ新聞。
俺のファンなのだという。確かに今は7月なのに、カレンダーから10月の部分だけを先にはがして壁に貼っている。10月は俺とあと二人の選手がまとめて写っている月なのだった。

重い病気なのだと少年の母親から聞いた。来週には手術が行なわれるのだという。
生存の確率は非常に低く、手術が成功しても激しい運動はできないという話だった。
そんな少年に勇気を与えて欲しいのだという。

「本当は野球の話なんてしたくないんんです。でもあの子は毎日貴方の話ばかりして」
「はあ」
「いつも打たれてばかりだから、そのうち二軍に落とされ―― あ。御免なさい。息子が心配しておりまして」
「いやまあその通りなんで、気にしないでください」

気にしなければならないのは俺の方だ。

少年は野球をやっていたらしい。 右投げだが俺を真似たサイドスローだという。感心はしないが、悪い気はしない。

「見てろ。明日はビッグガイズ戦だ。あいつとの対戦もきっとある」

「いっつも打たれてるけど」

「大丈夫だ。今の俺には新しいウイニング・ショットがある」

それは俺のワイルドピッチを激増させてくれたフォークボールだ。
今の所、この球は奴にはまだ打たれていない(一回しか投げていないが)。
今シーズンからブルースターズの監督となった牛山さん、いや牛山監督直伝のフォークはキャッチャーも捕ることのできない魔球になってしまっていた。

「ずっとテレビで見てるよ。試合、出られるといいね」

こいつ、痛いところをついてきたな。
そう。まず試合に出なければ約束を果たすことはできない。

「大丈夫。打線もそこそこ調子がいいし、勝てそうな展開にもなるだろ」

「負け試合で敗戦処理でもいいよ」

実はそっちの方が確率が高そうな気がしたが、俺は苦笑いで答えるしかなかった。

あの少年に希望を与える。
今まで何となく野球をやってきた俺にとって、これほど大きな目標はかつて無かったのではないか?
そう思った。

待ちに待ったビックガイズ戦。
開幕と同時にロケットスタートに失敗したブルースターズは、7月にして早くもダントツの最下位であり、首位ビックガイズとのゲーム差は2ケタに達している。
今日の試合も完全なビックガイズのペースであった。
初回から先制を許し、既に7点差。試合は後半に入り、負けゲームの色が濃くなって来た。

奴の打順。ランナーはいないが、ブルペンにいた俺にお呼びがかかった。

来た。約束の場面だ。

敗戦処理そのものの様な気がするが、そんなことは関係ない。約束通り三振にとる。少年に希望を与えてやるのだ。


そして。

俺が放った初球のストレートは美しい放物線を描きレフトスタンド上段にいるビックガイズファンを歓喜させた。

俺は自分の腑甲斐なさに、生まれて初めてマウンド上で声をあげて泣いた。


翌日、スポーツ紙の1面は5打数4安打の奴が飾り、片隅にちょっとした事件として、敗戦処理で無駄に悔しがって泣き崩れる男の写真が載った。


「スマン! もう一度だけチャンスをくれ。今度こそ必ず三振にとるから」

「しょうがないなあ。僕は来週手術があるから、その後の試合でいいよ」

「わかった。まかせとけ。今度こそ必ず三振にとるから!」

「今度は初球、思い切ってフォークから入ってみたら?」

「う。しかし……」

「その優柔不断な性格もなんとかした方がいいと思うよ」

「耳の痛い事をはっきり言う奴だな」

「ピッチャーには自信と思い切りが必要だよ。だから僕も手術に迷いは無いね」

――果たしてこの少年に励ましは必要なのだろうか。俺の方が励まされてしまった。
横で母親が笑いを押し殺している。


肩を落としつつ廊下に出た俺を見送りに出てきた少年の母親は、涙で目を真っ赤にしながらもクスクス笑い、俺に何度もありがとうございますと礼を言った。なんとかもう一度お願いできませんかとも。

病院を出た俺は車の中で、少年と再会できる事を祈りつつ次回の配球を考えていた。俺にできる事はそれくらいしか無い。

ああ今度はどうしよう。初球はフォークかなあ。

 

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