4k92:海

 

 

海を見ることが出来なくなった。

海辺に足を運んだ日は必ず悪夢にうなされて目が覚めてしまう。
同じ内容の夢だ。なにかとても恐ろしいものから逃れようと海の中でもがく夢。いくら泳ごうとしても手足はゼリーのように重たくなった海水に包まれ思うように動かない。


私は小さなボートに乗り、海面を覗きこんでいる。
暗い海の中になにかとても恐ろしいものを見つけ、ひどくおびえながらボートの中央に腰をおろした。
ボートは大人3人も乗れば沈んでしまうのではないかと思われるほどに小さな木製のもので、なぜかオールがなかった。
夢の中の私は陸の見えないほどの沖でボートに座り込んでしばらくじっとしていたが、思い直して再び海中を覗きこんだ。
緑青くどよんと濁った深い海に、とても大きなものが見え、それに引き込まれるように私は海に落ちた。

私は重たく生臭い水の中でもがき続け、そのうち手足を何かに掴まれながら海の底へと引きずり込まれていく。
ボートの底がキラキラ光るガラスのような水面の中央に見え、それが段々と遠ざかっていく。
ボートが遠のく。視界は段々と暗く、青黒く染まっていく。私を包み込んでいるゼリー状の海水は冷たくなっていく。
息が持たなくなってきた私は思い切って海の底を見た。

目を大きく見開き、焦点が合っていないような、感情を一切読み取る事ができない二つの目、その手前に必死で助けを求める二つの目、その4つの目に睨まれてギクリとしたその瞬間目が覚めた。
海の底に見えた顔。それが一体何の顔だったのか、目が覚めた後は思い出せない。


「底の見えない海ってとても恐いと感じませんか?」
「ええ。確かに」
「人間って水の中ではとても非力じゃないですか。海の中、見えない深いところに何かいたらと思うと恐ろしくて」
「わかりますよ。夜の海も恐い感じがしますね」
「でもそれだけではないんです。海そのものが恐くなってしまって……」

「なるほど。同じ夢にうなされると」
「はい。海を見た日は必ず」
「最後に夢を見た日はいつですか?」
「先月の16日です」
「その日はどういった状況で海を?」

確かあの日は弟の命日で。
そう。すっかり海に近づかなくなった私も、この日だけは弟の墓がある海岸近くへ足を運ぶのだった。

「失礼ですが、弟さんの事を少しお話いただけますか」

薄暗い部屋の中央で、私は大きな椅子の上であお向けになり、記憶の海に沈んでいった。


少年の頃の私と弟は小さなボートに乗っている。
そうだ。一緒に弟がいた。

言い出したのは私だった。
海岸にあったボートに乗り込み、二人は海に出た。ちょっとしたイタズラだった。
途中でうっかりオールを流してしまい、あっという間にボートは沖へと流されてしまった。

その後は良く覚えていない。
私は運良く通りがかった漁船に助けられた。どういう経緯だったか、私だけが助かったのだった。

弟は? 弟はあの時どうなったのだったか?


「その時のことに原因があるかもしれません。あなたの記憶にロックというか、そういったものがかかっていると思われます」
「思い出せないようになっていると?」
「そうです。あなた自身を守るためかも知れませんが、この記憶が原因となっているのだとしたら少し調べてみる必要があるかも」


私は再び記憶の海に沈んでいった。

ギラギラと照り続ける太陽の中、ボートは漂い続けていた。
手足を海水につけ、何とかボートを動かそうとする私に対して弟は文句を言い始めた。

兄ちゃんのせいだ。兄ちゃんがボートにのろうっていったから。

そんなこといったってしかたないじゃないか。おまえもてつだえよ。

やだよ。兄ちゃんがわるいんだからな。


「それで、どうなりましたか?」
「――弟と言い争いのようになって、それから……。 いや、思い出せません」
「夢では海の中に顔が見えたと」
「ああ、それは確かに……」
「弟さんの顔ではありませんでしたか?」


そうだ。弟が海に落ちたのだった。
私は慌てて弟を助け上げようと手を伸ばした。
確かに伸ばした。これは覚えている。だが――

弟の手が足が何か沢山の紐のようなもので絡めとられ、海中に引きずり込まれていく。それを見た私は恐ろしさのあまり手を引き、うずくまってボートの中で震えていたのだった。

弟が海に落ちた。
そう……そうだった。

その途端、海の中にいた何かが弟を引きずりこんで。

弟は海の底へ向かってゆっくりと沈んでいった。
私が夢の中で見た顔は弟の顔だった。あれに貪られる直前の、必死で私に助けを求めていた弟の顔だ。


「あなたと弟さんの2人がボートに乗っていて」
「そう。オールも流されて、どうしていいかもわからなくて」


兄ちゃん、助けて。
確かに弟の口はそう叫んで……。
そう。言い争いになって、私は確かに弟を海へ。

いや、違う。言い争いになったことだけじゃない。

私は確かにあれを見つけていた。
自分が助かりたいがために弟を犠牲にしたのだ。


海の底からあれが呼んでいる。
どろっと濁った二つの目が海の中で光っている。次の生贄はおまえだ。海に来いと。


大きな白い椅子の上に横たわっていた私は目が覚めると生臭い汗をびっしょりとかいていた。
とてもいやな夢をみていたようだが、どんな夢だったのかは憶えていない。
もう大丈夫でしょうと医者に言われたが、一体何があったのか気になって仕方が無い。

暑い。
無性に海が見たくなった。

 

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