しもきた情話〜北のまほろばシリーズ | |
ハリマオ | |
これまでの話
2005年9月28日 弟へのみやげ 9月末フィリピンから帰国して数日後、東京で所用を済ませた私ははやる気持ちで「はやて」に飛び乗り、ふたたび下北の地を訪れた。寒さが厳しくなる前に今度は「東通り」あたりをひと回りしてみたいとかねてから計画していた。太平洋に面した、下北でも最も寂れた土地で、ここまでたどりつくと人家もまばらだと聞いてきた。 田名部に宿をとり、翌日早起きして借りたクルマを自ら運転し東の六ヶ所村方面に向かった。舗装されてはいるが、どこまで走っても信号がなく、杉林と潅木に厚く囲まれた索漠とした風景が続くばかりだ。サマールの奥深い自然のようすとどこか似ている。瞬きするたびに現実と幻想が入れ代わり、木立の向こうになつかしい熱帯の海を想像したりしていた。 道の南側の樹林の背後には、広大な面積の自衛隊の訓練場がある。普段は砂丘を利用して戦車の砲撃訓練や戦闘機の爆撃訓練が行われている場所だ。しかし、この日砲弾の炸裂音などは聞こえず、のどかな鳥のさえずりが耳に届くばかりだった。太平洋の海が開けたあたりに、頑丈な防波堤に囲まれた小さな尻老(しちかり)村漁港があった。海岸にいたる坂道はていねいに舗装され、不必要なほどおおげさに立体交差の歩道橋が築かれていた。どうみても陸の孤島としかいえないはずの貧しいこの村にまで、おそらく「原発様」の御利益の波が、ヒタヒタと押し寄せて来ているのに違いない。 そこから海岸伝いに陸路尻屋崎に抜ける車道はない。いったん内陸に戻り、迂回してふたたび灯台を目指した。途中の丘陵地帯には、風力発電用の風車塔が鮮やかな白い肌をさらして何本も林立しているのが見えた。 むつに帰る途中、私は見えざる神様に引き寄せられるようにして、また「入口」に立ち寄った。旬の魚でもあったら買って送って欲しい。神奈川に住む弟から、出がけにそう言われたのを思い出したのだ。入口に隣り合う「野牛(のうし)」の漁港に差しかかったとき、運よく直売所の看板を見つけクルマを降りて物色してみたが、あいにくたいしたものはなかった。9月下旬のこの時期に、これといった魚介類の水揚げはなかった。 手ぶらで帰ったからといって文句を言う弟ではないが、約束を果たせずさてどうしようかと思案しながら、ふらふらと浜辺に出た。目の前の海は津軽海峡である。海岸線に沿ってはるか先に入口の集落がある。まるで砂場に積み木を二、三片集めた箱庭のように小さく映った。子供ごころに、入口と野牛との間は、相当な距離だと記憶していた。それがこんなにも近い隣り村だったのかと、海岸線に出てみてあらためて知った。 5〜6歳の頃、私はこの風景に育てられたのだった。身に余る丈の釣竿を小脇にかかえ、裸足で何度もこの砂を踏みしめたことを今でもはっきりと記憶している。足の裏にじかに感じたそのときの温かみがよみがえってくるようだ。海岸線は、ずいぶん陸側に迫っていた。行きかう人が少なくなれば、砂浜も荒れるものだろうか。足元の浜辺は陸の斜面までいちめん背の低い雑草に覆われていた。 ふと、思った。弟は、この風景を記憶しているのだろうかと。弟はこの入口で生まれた。そしてすぐに川内町に越していった。ものごころつく前のことだから記憶にはないかもしれない。しかし母の胎内にいて、津軽海峡から打ち寄せる荒い潮騒を何度も聞いたはずである。 わたしはとっさに腰をかがめ、砂浜に打ち上げられて白く風化した流木をひとつ取り上げた。記念に弟に持ち帰ろうと思ったのだ。しかし、すぐに(おや)と思った。形が人骨に似ていた。太い枝の端の断面が露になって、中心に枯れた骨髄のような芯がのぞいている。紛れもなく、それは何かの骨だった。浜辺を歩いていれば、さして珍しいことではない。人骨とは断言できぬが、生き物の骨には違いなかった。私はそれを元の場所に戻し、気休めにわずかな砂をかけて覆い、そして手を合わせた。 もっと海辺に近い場所に移動した。そこに、持ち帰るのに手ごろな大きさの干からびた流木が落ちていた。うん、これがいい。私は納得して、手に取り、木の肌にまとわりついた砂をていねいに払った。それから、抜けるようなまぶしい群青色の空にその木ぎれをかざしてみた。津軽海峡の潮風を、少しでも多く吸わせてやろうと思ったのだ。 それから私は、風景を写生する絵かきがよくやるように、絵筆に見立てた流木を横一文字に握り、大仰に腕を前方に伸ばしてみた。入口の箱庭のような集落は、遠近法の魔術で、灰褐色の木肌の水平線上にぴたりと並んで収まった。律儀な職人が勘を頼りに測ったように、それは風化した廃木の寸法に合致した。「この風景を切り取って弟に持ち帰ってやろう」。私はしてやったりと思った。 半そでのシャツの袖口に海風が荒々しく吹き込んで、幌のように旗めいた。なつかしい潮風だった。顔に当たる津軽海峡の風の芯はすでに冷気を帯び、耳の奥で行き場を失ってボーボーとうめき声を立てて逆巻いた。秋の訪れを感じた。下北の風の荒々しさにこらえながら、私は腕に精一杯の力を込め、まるで時間が止まったかのように、しばし砂浜に立ちつくしていた。 2005年7月24日 石塚利雄君のこと 小学二年の二学期、私は東通村入口小学校から川内町小学校に転校した。当時転校など珍しいことだったのか、「入口」を去る日の朝、全 校生徒がバス停近くの道端に集合して整列し、拡声器まで持ち出し、仰々しく見送ってくれたのを記憶している。恐らくそれは、転校生を 送り出すという一般的な理由だけでなく、下っ端の地位とはいえ父が国家公務員で警察官と同様その集落では「官」を代表する名士と見ら れていたことと無関係ではなかったと思う。その見送り風景の色あせた小さな写真が一葉手元に残っている。牧歌的な半農半漁の鄙びた集 落で、官が依然として絶大な権力を持っていた、そうした時代だったことを感慨深く思い起こす。 町立川内小学校は、実に面白い学校だった。時代を映し出したように、新しいものと古いものとが奇妙なほどない交ぜになっていた。入り 口小学校にはなかった、近代的な遊具や遊び場が備えてあった。そのくせ学校の制度は古臭く、旧態依然としていた。学卒の新任の教師は 、詰入りを着たまま教壇に立っていた。クラスには担任教師が指名する級長という者がいた。休み時間にいたずらなどした同級生を、級長が廊下に立たせる権限を持っていた。毎時限、担任が授業で教室に入る直前、廊下に立っている生徒のほっぺたの一番やわらかい部分を、理由も聞かず無言でつねり上げてお仕置きをしたりした。 名物先生もいた。山間部に分校があり、そこから毎朝老齢の教師が里に降りてきて、通学路に立っている。軍人のように微動だにしなかった。背筋を伸ばして細身の体躯をピンと立て、修行僧のような穏やかさで登校する私たちひとりひとりを笑顔で迎えた。この教師のいでたちが風変わりだった。足には地下足袋を履き、すねにはズボンの上からゲートルを巻き、背中には布地のリュックを背負っていた。私たちはその人物を「わらじ校長」とあだ名をつけて尊敬していた。後でわかったのだが、わらじ校長は京都大学の哲学科を出て、考えるところあってわざわざ川内町のそれも分校のある山奥に住みつき、思索を続けながら子供たちに教鞭をとっていたことを知った。 川内小学校の私のクラス担任は、山形先生と言った。やせていて、丸い銀縁のメガネをかけ、鼻の下に少しばかりヒゲをたくわえ、なかな かにお洒落な50代の教師で、生徒は震え上がるほどこわがる半面、父親のように心から慕っていたのだった。その当時の級長が小野賢裕 といい、立たされ坊主の常連が石塚利雄だった。賢裕は、田舎のイケメンで、船の絵を描かせると抜群にうまく、私の憧れのクラスメート だった。クラスを引っ張っていたのがこの二人のグループで、私もやがて仲間に迎えられた。 このグループをつないでいたのは野球だった。私たちは、休み時間を惜しんでは校庭に出てキャッチボールをし、休日になれば学校に集結 して日が暮れるまで野球をした。私のポジションはファーストで、ピッチャーはやはり小野賢裕だった。石塚のポジションは忘れたが、体格が図抜けて大きく、そこから想像するに恐らくキャッチャーだったと思う。学校に隣接する赤い塀の屋敷に住んでいた菊池茂も準レギュ ラーだったが、彼の母親が自由にわれわれと遊ばせてはくれなかったようだった。 野球をしたとはいえ、私はもうその頃には持病の小児喘息に煩わされていた。恐山の方角から吹き降りる冷気を含んだ「ヤマセ(偏東風) 」が、たびたび発作の引き金になった。しかし、この頃の思い出はすべて楽しいことばかりで、喘息に苦しんだいやな記憶が私自身にあま りない。それなのに、久しぶりに再会した石塚に言わせれば 「や〜、ほんとにおめえは、死んじまうんでね〜がど、いっつも思ってだじゃ」 と当時を振り返る。 ガキ大将の利雄は登校の途中で毎朝私を迎えに立ち寄った。そして、たびたび私の病欠の連絡係をした経験があるのかもしれない。下校時には、 何度も付き添うようにして、私のランドセルを背負って送ってくれたということだ。そのやさしいはずの利雄が、なぜか二年上の私の姉にはよく追い立てられ、叱られた記憶があるという。姉は笑って「覚えていない」というが、利雄のほうは今でも姉に追い回された経験がトラ ウマのようになっているらしく、思い出すたびに大きな図体を縮こまらせ震え上がるしぐさをしてお道化てみせた。 二年ほどして、私たちはまた転校した。全校生徒とまではいかなかったが、クラスの全員が学校の前の道に整列し、役所が手配した車で通 り過ぎる私たち家族を手を振って見送ってくれた。それから長い月日がたち、再会した場所は15〜16年後の東京だった。利雄は、下板 橋の床屋で理容師になる修行をしていた。私は大学受験に失敗し予備校に通い、池袋西口の三業通りの奥の薄暗い四畳半のアパートに住んでいた。そこから利雄の床屋までは歩いて30分ほどの距離だった。 会おうと思えばいつでも会える距離にいたが、私たちは数えるほどしか会っていない。15年以上の空白が、私たちの関係を水臭いものに変えていた。利雄は理容師、私は大学生 と別々の世界に向かって頑張っている最中で、お互いの過去を懐かしんで酒を酌み交わすより、どちらかといえば敬遠しあっていたと思う 。小野賢裕も、田名部の高校を出て上京していた。一度だけ私のアパートに来たことがあったが、落ち着かない様子で帰っていった。専門 学校の学生を転々と繰り返しながら、正々堂々とモラトリアム人間を生きていた。相変わらず、プレイボーイの体臭をむんむんさせながら 、シンナーを浴びるように都会生活を吸引し謳歌しそして溺れていた。 そしてさらに30年の歳月が流れた。小野賢裕は、その後結婚し奥さんの故郷の十和田市に戻ったが、不幸なことに若くして脳腫瘍で死んだ。石塚利雄は理容師の免許を取って間もなく、東京で知り合った浅虫出身の今の奥さんと結婚し、利雄の実家の家業を継ぐために川内町に戻った。 田名部のホテルに荷物を置いたまま、私はその利雄の誘いで彼の家に一泊することにした。45年も前の同級生が再び集まり、私の歓迎会 をしてくれた。地元の土建業を営む瀬川君も、町役場の重鎮の菊池君も来てくれた。正確に言えばふたりは小学校時代隣りのクラスにいた 。その彼らが、私を歓迎してくれた。利雄は仕事を早々に切り上げて、早い時刻からいい気分になっていた。 面わゆい言い方だが、利雄にとって私は「自慢の友」らしかった。皆の面前で私のことを実に悪しざまにいう、その悪態ぶりに並々ならぬ愛情が 込められているのがわかる。やさしさを素直に語れず、常にねじ曲げてしか表現できない下北人特有のあまのじゃくな暗さがあった。父も その意味で、同じ下北人種だった。面と向かえばくそみそな言い方をしながら、後で心配になって遠くから電話してくるような、優しさと繊細さが常に混在していた。 私がなにかをいう。利雄はその言葉尻を捉えて、皆の前で「ホンジねきゃな、こいつはよ」と大仰に私の足を引っ張る。気のおけない物言いがいつでも私と出来る関係を、利雄は皆に自慢したかったようだった。「ホンジ」とは、分別のような意味である。似たような言い方で「ハンカクセじゃな、おめえはよ」も連発する。「ホンジなし」も「ハンカクセ」も、「馬鹿」や「あほう」に近い罵詈雑言句である。その言葉を口にするたびに、利雄は私のほうを振り向きながら、満足そうな顔をした。相撲甚句でも聴くかのように、私はその忘れかけていた下北弁を胸の奥で懐かしみながら、利雄の言葉の暴力に込められた愛情をさりげなく聞き流していた。そばにいる奥さんも、それが殊更の愛情表現だと知り抜いているので、別段止める様子もなく聞き入ってうなづいている。 頃合を見て私も暴露情報をひとつ披露し応酬する。いつも寝かせてもらっている部屋に、賞状がいくつか立てかけてある。すごいなと思って近づいて見ると、送り主はみな川内警察署からである。それは賞状でなく、どれも店の前の川内川で溺れかけた人を真っ先に飛び込んで救助した時の感謝状で、利雄らしいという話で切り返すと、一堂はどっと沸いて、奥さんも涙を流して笑い転げている.....。 その夜やはり感謝状のある部屋に寝かせてもらった。翌朝利雄は、寝つかれなかったのか早起きすぎるのか、何度も私の部屋のふすまをそっと開け、中のようすをうかがっている。はじめは気づきながら無視をしていたのだが、何度もやるのでとうとう起きて、どうしたのか訊いてみた。 「市場さいってみねが。ちょうど魚あがるころだしてな」 漁港に隣接する市場に、漁から帰った漁船の水揚げが始まる頃なので、行ってみようと誘っているのだ。 私たちは二人で自転車にまたがり、岸壁のほうまで行くことにした。途中、家の庭先で水をまく中年の女性がいて、利雄が声を掛け合った。 「おめえ知らねが、(船橋)久夫のカカアだべ。クラス同じだで。おらどのマドンナだべな〜、もう」 「........、いやあ知らねえな。小学校二年生だろ。知ってるのは、畑中寿美子に深貝千恵子....ふたりがなあ.....」 「畑中ってへばよ、まいったじゃな、ある奴のことで相談あるって呼ばれでさ、上野の『聚楽』で泣かれじゃってよ....」 「オレはな、畑中っていえば昼の弁当思い出す。いっつも、イナゴの佃煮持ってきてたの知ってた?.....」 太鼓腹をした二人の男は、着ぐるみを着た人形のようにおぼつかない足取りで横に並んでペダルを漕いだ。もう何十年も前の青春だった。まるで昨日のことのように語り合いながら、私たちは潮の香りのする朝もやの中を、息を切らしながら漕ぎ進んだ。 2005年7月23日 「九艘泊(くそうどまり)」にて それはまるで、オペラのひと幕の手の込んだ舞台装置のような風景だった。 長いあいだ海の潮を浴び続けたせいなのだろう、視界に映る家 々はどれも灰褐色に風化していた。どこかで見た風景だと思った。すぐにフィリピンの東サマールで目にした海沿いの家々を思い浮かべた。うっそうとした緑を除けば、家々の木肌の色は灰褐色に沈んで、確かに目の前の光景に酷似していた。 それらが、小さな入り江を抱き込むようにして並び、今にも朽ちて倒れそうな心細い姿で肩を寄せあっている。ここが、下北半島の陸奥湾沿いを西に向かった終点「九艘泊(くそうどまり)」という名前の集落である。 何やら伝説めいたその名前が気にかかる。下北もここまでくれば、地元の人々も「果てしなさ」を実感するのではないか。しかし、この土地は あなどれない。断崖絶壁の幾峰かを越えれば、目と鼻の先に佐井村がある。かつて戦国から江戸の時代に、京都や大阪や北陸の回船問屋たちが、蝦夷の物産を求めて頻繁に往来していた。そのとき「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれる商船が、京の進んだ文化を運んできたのである。能舞や歌舞伎が伝承され、八幡様の例大祭の祭りの山車は京都の祇園祭のそれと酷似している。 下北の奥の奥にまでようやくたどり着いて文明の行き止まりを実感しながら、険しい岩戸をひとつ押し開ければ、クルリとからくり舞台が回るようにして、そこに京都の風雅が立ち現れるのだった。その劇場世界を治める魂が、この不思議な「九艘泊」の集落にも憑依したというのか。海辺で黙々と手仕事に励む老若男女は、見る限りみごとなまでに寡黙で、息遣いが整い、まるで舞台俳優のようにおごそかに見えてくる。 海辺で網を広げて掃除している猟師に近づいてみた。威勢のよさそうな若い男に声をかけた。気づいているはずなのに、タオルで顔を覆っていたその男はまるで私に反応してこない。しかたなく、すぐそばにいた老人に声をかけた。日焼けと潮焼けが一緒になって、猟師独特の赤黒い顔をして、それが額にいくつも折り重なった皺を刻んでいた。 私は老人のそばによって訊いた。 「今、何をしてるんですか?」 地元の人間が訊いたらなんと間抜けな質問だと思うであろうことは百も承知で、別世界から来た人間の特権をかざして恥もなく問いかけてみた。老人は手を休めずに、体も起こさずに言った。 「なにって、網掃除してるんだべさ」 魚網の目には、海草や海虫などさまざまなものの死がいが半ば乾燥してこびりついていて、それを箒やへらで取り除いているのだった。 「今朝、漁に出てきたばかりなんですか」 「んだ。網目が詰まれば、海水が通らなぐなって、網が膨らんで破れでしまうのさ」 老人は、素人にわかるように説明してくれた。 「早ぐしねば、このあど、もう一回仕掛げに行げなぐなるしてな」 「そうですか。このあとすぐにまた漁に出るんですか」 「んだ。この天気だべ。もったいねしてな」 空に雲ひとつなく晴れ上がる日は、一年のうち何日もないのだろう。絶好の漁日和だった。老人の足元には、取り除いた海虫やプランクトンを狙って、強い日差しのなかで、のどかにウミネコが集まってきていた。 「なにさ、こごさ写真コ撮りに来たのが」 名詞に「コ」をそえ、とげとげしさを和らげるその下北特有の言い回しが懐かしかった。カメラを肩に下げた旅行者を見慣れているのだろう。老人はお前もかという顔をしてやさしく訊いた。私が返答に窮していると、老人は続けて言った。 「この道まっすぐ行げば、今日は猿さ会えねえがも知れねけども、鹿にはたぶん会えるど思うよ」 老人の親切が、私に行ってみろと勧めているのだった。猿とはこのあたりを北限とするニホンザル、鹿とはカモシカのことである。 「そうですか」 私はことさら深くうなづき、その老人が教えてくれたとっておきの情報に感謝の気持ちをこめて言った。 老人から少し離れたところで、先 ほど私を無視した若い男が、終始うつむいたまま無言で作業を続けていた。きっと不意に声をかけられて、遠来の客人の質問に受け答えする役回りが自分ではないことを承知していたため、無視を決め込んだのだろう。そこに悪意は微塵もなく、この小さな集落の海の長老と若者衆の間の自然に築きあげられた秩序がそうさせたのに違いなかった。若者は、老人と私が会話しているさまを、ほっとしたようすで、少し距離を置いた場所からうかがっている。 私は老人にお礼をいい、海を背にし、軒先に漁具が吊り下げられている一軒の家のほうに歩いていった。午後の陽だまりのなかで、白い 頬かむりをした海の女が、小ぶりのイカを干している情景に出会った。立ち止まってしばらく私は彼女の手仕事を眺めていた。イカは白いものとやや赤味を帯びたものがあった。白いほうが今朝獲ってひらいたばかりのもの、赤いほうはひと晩たったものだった。干すとイカは赤味を帯びて少し縮む。海の女はそれを元に伸ばし、また台の上にさらして日干ししているのである。 カメラを向けると、少しうつむき加減になりレンズの視線ををよけた。下北の女特有の反射的動作だ。彼女たちに、見知らぬ人が向けたレンズの前でポーズを取る南方の女のようなおおらかさはない。白い頬かむりは、イスラムの女のような厳粛な慎み深さを髣髴とさせた。 2005年7月22日 吉田ベーカリーの思い出 これも東通村入り口に住んでいた頃のかすかな記憶だが、私は父がどこからか持ってきた摩訶不思議な食べ物に遭遇した経験がある。それは、仕事かなにかで打ち合わせに訪れていた客人に出されていた。しかし客はそれに手をつけずに帰ったのだ。父は私をからかうようなお道化た目で、ひとつ食べてみろと言った。どうやって食べるのか、方法がわからなかった。父は奇天烈なしぐさで皮をむき、なかから現れたクリーム色の部分を示し、これを食べるのだと言った。おそるおそるかみついてみた。食いちぎった小片が舌の奥に触れた瞬間、私はそのえもいわれぬ香りと味に気絶しそうになった。これが南方の味というものかと思った。バナナという、当時珍しい果物との衝撃の出会いだった。 果物といえば、人目を盗んでまわりの畑からイチゴやスイカをこっそり頂戴したり、野原に自生するスグリやアケビや野いちごを遊びの途中に食べていたそんな時代のことだった。父は、進駐軍の払い下げのような珍しい食べ物、缶詰やコーヒーなどをたびたび家に持ち帰った。バナナもきっと特殊なルートから手に入れた進駐軍関連の輸入ものに違いなかった。 田名部にいる頃、道端で遊んでいるとよく真っ黒な顔をした米軍兵が、何台ものトラックに分乗し、長い隊列を組んで通り過ぎた。私は近所の悪がきたちに混じって「クロンボ!クロンボ!」と叫びながら、路傍のタンポポを大急ぎで摘んで束にして、兵隊に向かって放り投げた。兵隊たちはガムやキャンディーや5円玉を投げて返した。戦争のことはもちろん、外国人の兵隊がなぜこんなところにいるのか、その意味を知るよしもなかった。 とにかく私は、日本がいよいよ高度成長に踏み出そうという時代のはざまで、文明果てる東北の奥のまた奥の鄙びた集落で、バナナとの衝撃の出会いを体験したのだった。 その頃やはり、都会の香りがしてやや贅沢な気分をもたらした食べ物があった。田名部の「吉田ベーカリー」というパン屋で売っている「サンドイッチ」だった。用事で田名部に行くたびに、母は私と姉を連れてその店に寄った。家に帰ってから、私たちは待ちきれないとばかりに、むさぼるようにしてそれを食べた記憶がある。私が好物だったのは「サラダパン」で、ていねいに潰した芋の甘さがいまも忘れられない。しかし、姉に言わせれば、「ピーナッツパン」が人気だったという。私は不思議なことに、そのピーナッツパンの記憶がまったくない。 いまやこの「吉田ベーカリー」は、下北の有名ブランドにまでなっていることに驚かされた。そしてこの店の「名物」が、「餡バターパン」だと聞かされていっそう驚いたのだった。幼い頃の私の記憶にはないので、この商品がずっと後になって開発されたものに違いない。 吉田ベーカリーのサンドイッチは、実に素朴である。スライスした生の食パンに餡や、バターや、バターピーナッツを塗って二枚重ねるだけである。注文を聞いてからその場でペーストし、パンの耳は切り落とさず、原寸のまま透明の袋に包み、賞味期限のシールを貼る。すべて手作業でやるのである。餡バターとは、一枚にバターを、もう一方に餡を塗り重ねるだけのものである。餡は恐れていたほどのくどい甘さではなく、あっさりしているので、酒飲みの大人でもじゅうぶんおやつ代わりにはなりそうである。。パンはしっとりした生パンで、焼く前の生地のモチモチした感触が残っている。 ヤフーなどで検索するとかなりの数が引っかかるので、「吉田ベーカリー」の「餡バター」はかなり有名ブランドになっている。しかし、よくよく記述を読みかえしてみると腑に落ちないことがあった。「創業昭和39年」とある。変だ。私たち家族はすでに昭和32年〜33年ごろにはこのベーカリーのファンだったのだから。 歴史を正す証人に似た、かすかな責任のようなものを感じながら私は田名部に乗り込んだのでもあった。そしてあれこれ情報を収集してまわった。有力情報をくれたのは、田名部町で床屋をしている佐々木さんだった。 話は飛ぶが、4月までほぼ毎月のようにフィリピンに行き、そこで50ペソ(約100円)で髪を刈ってきた。いったん100円の散髪の味をしめると、日本では高すぎて散髪屋に行く気にはなれなかった。ところがそれから数ヶ月、諸般の事情でずっと日本に滞在していたため、髪を刈りに行く機会がなかった。今回私を下北に呼んでくれた石塚利雄君は川内町の床屋さんで、「オレが刈ってやるから」と約束してくれていた。しかし、二日後に彼の家に行って泊まる予定になっていたのだが、うっとうしさに耐え切れず、とうとう限界がきてむつの滞在ホテルの裏手にある床屋に駆け込んだ。それが、佐々木さんの店だった。 ご夫婦でやっている。奥さんが刈り方の注文を聞く。佐々木さんがそれを奥でじっと聞いていて、いよいよ真打登場のように鋏と櫛を持って登場する。実にていねいで、腕はとてもしっかりしている。私はいち早く打ち解けたほうが良かろうと思って、マエダデパートの社長の恵三君と、川内町で床屋をしている石塚利雄君とは川内小学校の同級生だ。もう半世紀近く前に田名部にも住んでいた経験があると自己紹介めいた話をした。佐々木さんは、利雄に理容師の会合などでときどき会うので知っているといった。それから安心したようで、しだいに饒舌になった。私がときどき尋ねることもあったが、佐々木さんは手を少しも休めることなく、講釈師のようなこなれた口調で外来者の私にいろいろなことを教えようとした。奥さんがそばで聞いていて、私の訊きたいことと旦那さんの話したい話との穂先をなんとかつなぎ合わせようと、下北の女らしい奥ゆかしい気配りをときどき見せた。佐々木さんは話し上手、奥さんは聞き上手だった。いいご夫婦だと思った。旦那さんが刈り終わると絶妙な間合いで交代し、今度は奥さんが私の頭を洗いヒゲをあたってくれた。そのあいだ佐々木さんはソファに座り、体を前のめりにしながら、やはり話の手を休めることがなかった。 その佐々木さんの情報である。 常念寺にいたる店の前の道は「田名部町」といい、いまでこそさびれた飲食街になってしまったが、昔は田名部一の繁華街だった。この通りの田名部神社のならび、「楠こう」という割烹料理屋の隣りに、のれんにこだわっているのだろう今も古びた縦看板を出している「吉田ベーカリー」がある。佐々木さんの話では、この店が初代「吉田ベーカリー」だという。私たち家族が昭和32年〜33年ごろに買いに行ったのが、この店だったはずである。餡バターで隆盛を極める新町の吉田ベーカリーとは、どうやら「巻き(家系)」が違うようである。広告などには新町店の四十がらみの若い店主が登場する。先代とはどのような姻戚関係かわからない。この店が昭和39年に創業し、餡バターパンを発明し「吉田ベーカリー」の看板を引っ張っていたのだろうと想像する。田名部周辺で生まれ育った若い人々は、その後全国に散らばって、親しんできた餡バターの吉田ベーカリーを懐かしんでいる。 しかし、私たちにとって、吉田ベーカリーとはあくまでも初代の吉田ベーカリーで、餡バターもなにもなく、一途に私はサラダパンを、姉はピーナツパンを、それぞれ思い出の糧にして、半世紀近くも「オコリの火」を絶やさずにきたのだ。 初代の吉田ベーカリーは、家族に不幸があったとかで、私が田名部にいる間何度か店の前を往復したがいつもシャッターを閉ざしたままだった。記憶を確かめることで、過去の大切な思い出がもろくも壊れることがあるものだ。私の田名部訪問を予期していたように、シャッターを閉ざしたままの初代吉田ベーカリー。これはきっとお参りした恐山の霊たちの、粋なはからいなのかもしれない。ものごころついた頃のかすかな思い出が、私の心の中の釜戸でかえって濃度と圧力と重量を高めたような気がした。それを焚きつけるように、床屋の佐々木さんは「そうそう、あれが当時の吉田ベーカリーなはずです。間違いないです」と、慣れた手さばきで、櫛とすきバサミを軽妙に叩きながら、旅人を気遣うやさしさをこめてそう言った。 あのシャッターがもし開いていたら、煙を浴びた浦島太郎のように、私は過ぎた時間の果てしなさに呆然とし、ただ老いを思い知らされただけで、東京に引き返すことになっただろう。さいわい「箱のふた」は閉じたままだった。思い出のリアリティは、遠い昔のあの日によりいっそう近づいた気がした。それはまるで錆びついた古い懐中時計の針が、なにかの拍子でふたたび動き始めたようなものだった。私は心臓の深海から生き返った少年の胸のトキメキを手土産にし、この旅に満足し帰京したのだった。 蛇足だが、この田名部町には今回私が気に入って通った魚の店がある。常念寺前のすし屋「天一」、吉田ベーカリーのとなりにある「楠こう」、そしてもっとも満足したのが、小路「田名部町通り」の奥のカウンター風居酒屋「海魚(かいぎょ)」である。ここは下北の釣り人が集まる店で、粋のいい魚のほか毛がにやわたり蟹も食べられる。紹介しておきたい。 帰京前夜私は世話になったお礼にと思い、石塚利雄君と、同じく同級生の船橋久夫君ふたりを海魚と天一に招いた。それはそれで大いに満足したようで、ふたりは終始感激の言葉を口にして帰った。しかし、私は知っていた。魚介類の鮮度とうまさという意味では、彼らがふだん食卓で味わう、さりげない奥さんの手料理のほうが数段まさっているだろうことを。特に久夫は漁船操縦の免許を持っていて、その日川内町の釣り仲間を乗せて陸奥湾でカレイを釣り上げてきたばかりだった。「今度来るときには漁船に乗せてやる」と、久夫は日に焼けた下北人の顔をほころばせながら、何度も私に約束した。 2005年7月20日 恐山百景 恐山は死んだ者の魂が来世と現世を往来するとき、必ず立ち寄る場として知られている。今は「恐山」と 呼称するが、古くは「宇曾利山(うそりざん)」と呼び習わされていた。下北最高峰の釜臥山(かまぶせやま)をいただく 宇曾利湖のほとりにその場所はある。宇曾利とは、もともとアイヌ語で「くぼ地」や「盆地」のような意味を持つという。その宇曾利山が、いつしか恐山と訛っていった。 宇曾利湖のほとりに立つと、正面に峻険な釜臥山のシルエットがみごとなまでに浮き立ち、それが鏡の ような湖面に映り込む。どうすればこのような完璧に近い手つかずの山水がもたらされるものなのか、水際に立 つ誰もが、その自然の不思議な造形力の存在に思いいたさざるを得ない。その自然が織り成す神秘な創造と構成の魔力にたいし、人におそれを抱かせ圧倒される思いに駆り立てるのが、あたりの奇怪な景観である。(恐山百景03) 恐山には、植物が腐食して生まれる土はない。土地はすべて火山礫や火山弾が堆積したものであ る。いわば岩や砂利が一面にあり、そのすべてが軽石のような小さな空洞をもっている。そしてところどころ、岩穴や隙間から硫黄ガスが噴き出している。湖の波打ち際に立てば、足元には微細な砂でなく、粒の粗い軽石が珊瑚のかけらのように敷き詰められているばかりである。 そして硫酸による化学反応のせいで、小川や池や湖のほとりの水場などには、赤や黄色や抹茶クリームのような天然とは思えない、絵の具の色を流し込んだような帯状の場所があったりする。その中でも、特筆すべきは、「血の地獄池」である。池に溜まる水が赤い血の色を帯びて目に映る。場所が場所だけに、その赤さは確かに地獄に落ちる裁きを受けた者が流す血のように見える。(恐山百景04) しかしよく見ると、その赤味には血のような濁りがなく、どちらかといえばワインのロゼのような清澄さ である。水場に見られるそうした極彩色の部分に、顔を近づけてさらによく観察すると、実は水そのものは色がなく、恐山の山系のどこからか注ぐ実に透明な清水であることがわかる。あのあざやかな色あいは、この盆地自体が絵づけした陶磁器のようになって地面が変色していることによるものである。 平安時代の中ごろの862年、慈覚大師円仁という僧侶が人跡未踏のこの山に分け入り恐山を開基したという。ある夜、唐で修行をしていた慈覚大師の夢枕に魔神が現れて具体的な場所を示し、そこに仏像を彫り奉納せよと命じたのだと伝えられている。その場所が今の恐山だった。俗な言い方だが、霊山としてこのようにすべての道具立てが備わった土地も珍しく、深山を分け入ってその場所を発見したというのも不思議というほかはない。 訪れる者たちは言葉をなくし、火山礫の合間の小道をただ静かにめぐるのみである。そしてときどき、小塚状に積み上げられた小さな軽石を足元から拾い上げて、塚の背丈が大きくなるようできるだけてっぺんに積みなおし、手を合わせて通り過ぎるばかりである。ところどころ、地蔵仏が一体あるいは集合して、あるものは路傍に、またあるものは祠に納められ、真新しい純白ないし紅色の布で体の一部がくるまれていたりする。そして人々は、宇曾利湖のほとりにたたずみ、釜臥山を仰ぎ見る。(恐山百景01) これまでずっと、恐山は死者の魂に出会う場所だと教えられてきた。しかし、湖岸にたどりつき、私は奇妙な光景を目にし、その考えに少しずつ違和感を感じるようになっていた。そこには、まるで新しい生命を宿す植物かなにかのように、波打ち際におびただしい数の花と線香の束が無造作に挿されて置かれていたのだった。それを目の当たりにしたとき、私は死者ではなく、生きている者の魂に触れた思いがして、わが身に襲ってくる激しい震えを抑えることができなかった。 ここにたどり着くまでに、地蔵にかけられた赤い頭巾やちゃんちゃんこ、よだれかけやたんな、石仏の前のセルロイドの風ぐるま、そして子供が好みそうな無数の菓子や果物などを目にした。そして、それを目当てに舞い降りる、カラスの群れを何度も目撃した。ふとその花束のひとつに、手のひらで包んでしまえるほどの小さな「わらじ」が一足供えてあるのを見た。(恐山百景02) 恐山とは、愛する者と死に別れ、人が剥離した心を引きずりながら、宇曾利湖岸といういわば「断崖絶壁」に立つ場所である。そして、生きて残された者が、その悲しみと嗚咽を、行き場なくこだまさせあう奥深い峡谷でもあったのだ。ここでまざまざと見る光景は、生きている者のいじらしさとひたむきさと、失った者への慟哭に他ならない。いたこの口寄せに耳を傾ける現世の人々は、死者を悼み、なぜあれほどひたむきに涙を流せるのだろうか。日が暮れてもなお、現世の人々の絶望が、風ぐるまのようにカラカラと虚しくこの谷間にさまよっているようで悲しい。 釜臥山を仰ぎ見る宇曾利湖の水際にたたずみながら、私はただ生きて残る者の魂のうめきに、耳をそばだてながら静かに手を合わせるばかりだった。 2005年7月19日 斗南(となみ)藩のことなど とにかく私の父は頻繁に転勤した。言われれば断れない性格なのか、根っからイエスマンのサラリーマンだったのか、誰もが断るような僻地での仕事も引き受けた。おかげで家族は、ずいぶん犠牲になった。新たな辞令を家に持ち帰るたびに「いよいよまた来たか」とみなおろおろしながら、しかし家族はただ父についていくしかなかった。 仙台や札幌などの都会の話ではない。バスも日に2度しか通わなかったり、店といえば小さな雑貨屋か駄菓子屋のようなつくりの店が一、二軒あるかないかという、聞けば空恐ろしくなるような、本州最果ての名も知らぬ場所の集落に行かされるのだ。 おかげで父は、任地を1年半か2年で勤め上げるたびに出世していった。そのかいあってか、転勤も後になると、依然として地方部に変わりはなかったが、そのなかでも比較的拓けた「都会」ばかり回るようになった。父は異動を引き受けるたびに身分が上がり、地位にはさまざまな特権と特典がついているのが子供の目にもわかった。 下北周辺を歩き回っていたのは、父の職業人生の初期の頃で、私が3歳から5歳の時期だった。二つ上の姉はいたが、弟はまだ生まれていなかった。ものごころついたころは田名部に住んでいた。比較的大きな官舎だった。そして玄関の内側にはつばめが巣を作っていた。私はそれを家族の一員としてかわいがっていた。 そこから父が東通村入り口という場所に転勤を命じられた。役所が手配した車で家族が初めて父の任地に足を踏み入れた日、母はあまりに寂れ荒涼とした村の第一印象に恐れをなして、一晩中泣いていたのを覚えている。たとえばそれは漫画家ラットが描いたマレーシアのカンポンか、フィリピンのサマールの果てのバランガイのような、自然に満ち溢れたなかば自給自足の寒村だったというだけなのだが、母は人生を台無しにされた被害者のように嘆いた。私たち子供はといえばすぐにその環境になじみ、そこで得がたい経験をし、たくましく豊かな人生の基礎をはぐくむことができたと思っている。 さは然りながら、当時少しでも「都会生活」の便利さにあこがれる人々にとって、下北半島での暮らしはとても耐え忍べるしろものではなかったろうと思う。足を踏み入れる前に、何がしかの覚悟を人に突きつけてやまない寂寞とした空気が、この土地にはある。歴史を丹念に読み返してみると、下北半島のあたりは、北海道の松前地方で罪を犯した人間の流刑地であった過去をもつ。今も昔も下北とは、地理的な尺度を越えた、はるかなる土地であった。 その下北で、それでも父はある程度納得する機会を与えられて、荒涼たる景色のなかに踏み込んでいったのだろう。しかし明治維新の時代に、政権闘争に敗れ、負け犬としてこの未知の下北の土地に行くか、さもなくば死か、と過酷な運命を突きつけられた人々がいた。戊辰戦争で、維新政府に反逆した会津藩士である。 藩士は会津の土地を奪われ、下北に「移封」つまり「陸の島流し」に処せられたのである。半ば強制移住させられた人間のほとんどが、武士階級だった。なぜなら農民や商人は、担税者だったため、土地を耕したり物産の売買から税金を取り立てる必要があったため、維新政府は彼らを会津に残したのである。 下北行きを命じられたのは、手に職をもたない、税金をただ食いつぶすだけの「サラリーマン階級」、すなわち武士たちであった。開墾や生産の道具も与えられず、農具ひとつ持たされず、過酷な冬の寒さと風雪をしのぐ防具も何もなく、荒れた不毛の土地にただ放り出されたのである。明治3年のことだった。 当時はもちろん大湊線などはなく、半島を北上する幹線道路が整備されていなかったため、会津から奥羽街道をくだり徒歩で移封先の土地(現在のむつ市)に向かった。多くは半島縦断を試みる前に挫折し、現在の小川原湖や十和田市あたりに落ち着いたとされる。この藩士たちは、のちに生きる糧として畜産業を起こした。 さすがの維新政府も、落ちていく会津藩士に情けをかけぬわけにはいかなったようだ。アメリカ船を借りあげ、北陸から西回りで陸奥湾の大湊まで、藩士とその家族の運搬に手を貸した。陸路と海路を経て田名部に達した会津藩は、円通寺を拠点に新たに「斗南(となみ)藩」を起こし、荒れた土地の開墾に着手した。 絶望を希望に変えて、いよいよこれから頑張ろうという矢先のことだった。翌明治4年、廃藩置県で斗南藩は青森県に吸収合併されてしまう。会津藩士のまとまりは事実上解体し、政治的な力を失っていくのだ。希望がまたしても、絶望に転落していく。しかし、維新政府も反逆者の将来など気にも留めなかったのに違いない。 その斗南藩の遺跡のいくつかを田名部の町なかにたずねてみた。正直言って、遺跡の存在感はあまりに希薄だ。三万石の藩政を任されるはずだったが、わずか1年半の統治ではあまりにも短かすぎた。廃藩置県によって移封が解かれたのを喜び、ふるさとの会津が忘れがたくて引き返した者たちも数多くいた。留まった者たちはただの「よそ者」の平民となった。そして、目立たぬようひそかに土地の人々と同化していった....。 円通寺には、藩主松平容大(かたもり)が住んでいたことを表立って知らせる案内表示板などはない。斗南藩以前から存在していた寺として、あえて藩との関わりを避けているかのようにも見える。 斗南藩が初めて開墾を始めた丘陵地帯はいまは「斗南ヶ丘」と呼ばれているが、奥まった林の中にわずかにゆかりの石碑がひとつ建立されているばかりである。 斗南藩ゆかりの場所を二箇所ほど回ってくれと、タクシーの運転手に告げたら、あそこには何にもありませんよ、という顔をされた。確かに、名家会津藩がそのルーツとはいえ、斗南藩の藩政が田名部や下北の歴史をどれだけ変えたかは疑わしい。明治維新の混乱に巻き込まれた不運もあるが、下北における斗南藩の試みは失敗だったと評価すべきだろう。 ただ、明治3年から4年にかけて、この地に着の身着のままで移封されてきた会津の人々に、下北の人々は同情し、衣服や食物を分け与えて、そして彼らを暖かく迎えたことだけは確かなのである。 2005年7月17日本町あたり、宵闇に咲く浜ユリのこと 「ものごころ」とは、記憶の歴史のはじまりをいう。私の場合、それはまるで雲母の薄片のような頼りなさで、いつも田名部の街から始まっている。話は飛ぶが、私の左手の甲には、相当大きな火傷の傷痕がある。家中ひっくり返るほどの大事故であったに違いない。しかし、まったく私の記憶にはない。ものごころつく以前の、それは私にとって「先史時代」とも呼べる時代のできごとだったが、生涯私につきまとうことになった。 蛍のお尻にともる明かりのごとく、はかないものごころの記憶の小片に、母が私と二つ上の姉とを映画館に連れて行ってくれた光景がある。内容やタイトルなどはもちろん記憶していないが、ひとつだけ「女囚刑務所」のシーンがなぜか繰り返し現れる。青色の囚人服を着た女たちが、髪を振り乱してなにかを叫ぶ光景である。映画館の横には売店があって、そこで買って座席に正座しながら、その菓子を食べるのがうれしかった。映画の出し物は、私たち子供にとって興味の対象外で、もっぱら母がひそかに楽しむだけのものだったに違いない。映画はいつも都会のフレーバーを充満させて、外から気まぐれに訪れる「エイリアン」で、私たちは「映画が来る」という言い方をした。 劇場は尻屋崎方面に向かうバス通り、いまの呼称で県道338号線の、田名部川に沿った街道のどこかにあったような気がする。たまたま昼食を取ろうと暖簾をくぐった店で、それとなく注文係りの女性にきいたら、目の前の小路を行った先にいまは休館中の映画館がひとつあるという。食事のあと行ってみると、すぐに見つかった。私は道の反対側に立ち、遺跡か何かを観賞するかのように、しばし建物を見上げていた。 朽ちた歯のように文字の一部がかけ落ちていたが、それは「ほらく映劇」と読めた。幼い記憶との接点をまさぐってみたが、共振のきざしがない。劇場は天寿を全うした老人のように、風貌静かでかくしゃくとしていた。 建物に近づいて、ガラスごしに中を覗いてみたが、人の気配がない。おそらくこの「ほらく映劇」は私たちが利用した時代よりもずっと後に出来たのに違いない。記憶のなかの映画館は、入場してまっすぐのところに大きく重厚なドアがあった。しかし、ここは切符を買ってすぐ二階にあがる仕組みになっている。ロビーのはずれにあったはずの売店も、存在しない。違うと思い始めると急に興味がうせて、私は田名部川沿いの道に出てみた。映画館ほどの規模の建物がいくつかあったがその多くはなかにバーやスナックが軒を並べる歓楽ビルとなっていた。田名部川沿いの街道筋は、田名部きっての飲食街であることをのちに知った。 私は、いつのまにか映画館などはどうでもよくなって、周辺をくまなく歩きまわり、裏道の奥へ奥へと分け入った。そして驚いた。心臓が高鳴り始めた。分け入る小路のすべてに、樹海に誘惑する誘導灯のような小さな飲食店の看板が並んでいるのだ。まさかという気持ちで踏み入れると、その小路でも愛嬌の怪い看板が呼びかけてくる。行けども行けどもネオン看板が途切れることがなかった。 突然私は、東南アジアのどこかの町の裏道にたたずんでいる錯覚に襲われた。田名部の名誉のためにいうが、私は「風俗街」について語っているのでは決してない。ごく自然な連想に近いのだが、私はそのときフィリピンの地方都市のサリサリストを思い浮かべていた。 人が生きていくために、手っ取り早く生活の手段を見つけようとすれば、とにかく売り物(ストック)を見つけてきて、家の表通りに面した部分に穴を開け金網を張れば店になる。こうして誰も彼もが、月夜の小蟹の大繁殖のように、あっという間にサリサリストアの集落ができあがる。客だった隣人が次々にサリサリストアのオーナーになれば、やがて人々は誰のために商売しているのかわからなくなる。私はそんな自家撞着に陥ったサリサリストアの巨大な群生を、ネグロス・オクシデンタルのバコロド郊外で目撃したことがある。 田名部の常念寺と田名部神社を囲む一帯は、小さな居酒屋やスナック、バーなどが軒を連ねる一大「遊飲街」だったのだ。時々大きな建物が見つかるがその中にさえも、身の詰まったウニや、卵を抱えきれないほど孕んでいるハタハタのように、所狭しと生命力みなぎる一杯飲み屋が、軒を連ねてあふれ返っている。 日が沈みきるのを待ちきれぬといいたげに、宵闇の薄明かりのなかで店の看板がいっせいに灯をともす。下北の海沿いに群生する浜ユリの花弁のようで、どんより沈んだ闇に、それは物悲しくもあでやかに地の底から湧き上がり咲き誇る灯りなのだ。とはいえ私は、その可憐な灯りよりもむしろ、灯りの輪郭をイカ墨で絶妙にしめたような、味わいのある田名部ながらの朴訥で厳かな闇のほうがたまらなく好きだ。田名部の宵闇には不思議な存在感がある。 夏でもストーブを焚くことがあるというこの地方でのこと。厳しい四季の変化を生き延びる知恵なのか、あるいは身も心も、そして肉体の内からも外からも魂を暖めあう必要のためにか、田名部本町あたりに、人々は神社や寺を囲むようにして一大遊興の町を発展させてきたのに違いない。 2005年7月16日 半世紀ぶりにM君と再会 下北は本州最北の駅とされる。半島の中心都市は、むつ市で、歴史のなかで何度か統廃合を繰り返して大きくなったこの町は、その中心がどこにあるのか旅行者にはひと目で把握しにくい。街区で言えば田名部がその中心と呼べるエリアに当たるのだが、その名前の駅は存在しない。正確に言えば、「かつては存在していた」。しかし、下北駅で枝分かれしたJR大畑線が廃止になり、田名部の鉄道駅はなくなった。今は「バスの駅」として残っているだけである。 田名部は興味深い町である。北前船などが交易で頻繁に往来していた時代に、田名部川の河口から上流に少し奥まった場所に開けた経済・文化都市である。往時は、北陸や近畿の大手の回船問屋がこの町に支店を設けていたと聞く。その田名部の最寄り駅が下北になる。 今回はむつ市の田名部にホテルを取った。インターネットに接続できる環境が整っているというのがその理由だが、前回は川内町に住む幼馴染の石塚利雄君の家に世話になり恐縮した。床屋商売をしている彼の時間を拘束するのも気が引けたが、食事の世話などで奥さんの手を煩わせるわけにはいかないという気持ちがあった。 しかし、その「利雄」からさっそく電話が入った。小学校2年生のときの同級生のひとりが私に会いたがっているというのだ。彼の都合によれば、今日がいいと言っているとのこと、やや強引な電話でもあった。着いたばかりでは長旅の疲れも予想され、日曜日の夕刻ということもあり、初日はあえて会うことを控えようとあらかじめ約束していたはずの利雄が言うのだから、きっと相手の都合に合わせなければいけない事情があったのだろう。 私に会いたいと言ってくれたのは、このあたりで知らない人はいないというほどの経済人、前田デパートの社長、前田恵三君だった。「マエダ」と聞いて、私はくりくりした目の人のよさそうな恵三君をすぐに思い起こせた。家が川内橋のたもとで米屋さんをしていた前田がその後家業を引き継いで小売業で大成功したという噂は耳にしていた。 その彼とは、45年ぶりの再会になる。私のことはよく記憶しているらしいと利雄がいう。地元の大物経済人にのし上がった前田の都合に、逆らえなかったのだろう、私のほうに妥協してくれと暗にほのめかしてきたのだった。権威や肩書きが人間の価値にとって何ほどのものかという反骨の意識が人一倍強い私にとって、前田は前田だったけれど、地元に暮らす利雄にとっては「天上人」なのかもしれない。利雄の胸中、わからないでもなかった。 前回川内を訪ねたときも似たようなことがあった。やはり同級生のひとりのことを、私は「シゲル、シゲル」と呼び捨てにしていたときのことだった。利雄はたまりかね「いやー、そったら言いがだ、す(る)なじゃ。ありゃ、雲の上の人だしてな」と、私をしきりにたしなめた。 シゲルとは菊地茂のことである。当時も今も川内小学校の隣りに大邸宅を持ち、屋号を「マルヨ」と呼ばれる地元の資産家の坊ちゃんだった。父親の利一郎氏がのちに政界に出て、県会議員にまでなった人である。息子のシゲルは当時から育ちのいい坊ちゃんで、高校と大学は東京で勉強した。 私が川内に来ていると知り、その菊地茂が酒をもって会いにきた。そのとき世話になっていた利雄の家の居間に緊張が走っていたのがわかった。茂を目の前にして、わざわざ私のほうに視線を向けて利雄はなかば冗談交じりに「ぐだめき(愚痴)」を吐いた。 「オレの家さ来てくれるような奴でねえんだで。おめえが来てるがらこして駆げつけでるんだでば」 人見知りの激しい茂は、言われるままに聞き流していた。かつての「シティボーイ」、「僕らの永遠のアイドル」の面影は消えていた。長い年月の経過を改めて思い知らされた。公共事業縮小のあおりか、セメント会社の経営もきっと苦しかったに違いない。社長をしているいくつかの会社の名刺を差し出しながら、「従業員とその家族を思うと頑張らなければ」と何度もつぶやいた。 (この歳になってもまだ、他人のために頑張る気かよ、シゲル!もう十分じゃないか) 私は胸にこみ上げてくる熱いものをおさえながら、彼の話にうなづいて聞いていた。 前田は行きつけの居酒屋「味よし」ののれんの前に立って、私を出迎えてくれた。ホテルまで迎えに来てくれた利雄のワゴン車の中から、店の前に立っている男の姿を確認し、(あっ、前田だ!)とすぐにわかった。髪に白いものがずいぶん混じってはいたが、あのくりくり眼は紛れもなく前田だった。人の良さになおいっそうの丸みを加え、経済人として成功するには人柄がこうでなければいけないと感心した。 それから私たち4人は、川内小学校の校庭の陽だまりのなかで遊び回る児童にまい戻っていた。あの頃の同級生の噂話にふけり、よどみなく語らいながら、時のたつのも忘れるほど冗談を言い合い、そして笑った。 2005年7月16日 大湊線にて 東北新幹線「はやて」は八戸まで3時間。16両編成で、先頭の11号車から16号車までが「こまち」と呼ばれ、盛岡で切り離された後秋田に向かう。残った10両が、純粋な「はやて」となって一駅さきの八戸に滑り込む。 幼い頃私は母親に連れられて、青森から東京まで何度か往復した記憶がある。昭和30年代の終わりの頃だった。新幹線はまだなかった。寝台や在来線の特急はあったかも知れない。しかしそうした贅沢をする余裕のなかった我が家だったから、いつも夜行の急行列車を利用していた。今思うとあれは自由席だったのに違いない。硬い木製の座席に首尾よく座ることが出来た時もあれば、びっしり人で埋まった通路に新聞紙を敷いて、寝転がって一夜を過ごすこともあった。ほほに当たるひんやりとした列車の床の感触と、人いきれで蒸し暑く淀んだ空気の不快さを今も忘れることができない。東北本線の夜行列車は当時常磐線を経由するのがふつうで、終着駅の上野までは13〜14時間の長旅だった。それが今は八戸まで3時間。信じられないほど便利になった。 八戸から野辺地までは、在来線の普通列車に乗りかえ、野辺地で再び大湊線に乗り換えた。下北半島は「まさかり」の形をしているのだが、その「にぎり」の柄の部分を北上する単線の列車だ。進行方向左手に、防風林の切れ間に時々陸奥湾がひらける。右手には砂丘となだらかな丘陵がつづく。少年時代この列車に乗るたびに、私はちょっとやそっとでは帰れない遠い世界にいよいよ踏み込んだのだという心細い想いにかられた。 東京からの旅行者とおぼしき人々の小グループがいくつか乗り合わせているようすだった。あたりに鄙びた風景が展開するにつれ旅情がくすぐられるのだろう、じっとしていられずに車両の先頭に歩み寄って少年のようなひたむきさで食い入るように線路の先に見入っている。 2005年7月某日 旅のはじめに 私はいま、新しい旅の準備をしている。アジアへの旅をしばしのあいだ休憩し、まもなく本州最北の「下北半島」に向かおうとしているのだ。以前から、このサイトを訪れてくれている諸兄なら、そこが私の生まれ故郷だということを、記憶の片隅にとどめている人もいるかもしれない。私は生まれて7〜8歳の頃まで、そのあたりの野山を駆け回っていた。しかし、どちらかといえば病弱で、けっして腕白坊主のようなたくましい少年ではなかった。 不思議なもので、年齢がふるにつれて、ふと魔がさすように、自分のルーツを訪ねてみたいと誰しも思うもののようだ。家族というあやうい集団を引率し、ただひたむきに前を向いて歩いてきた自分....。それが、あるとき横にも後ろにも誰もいないことに気づく...、肩の荷もおりて、安堵の胸をなでおろし、これまでにどれほどの道のりをたどってここまできたのか、人生行路の距離と重みを確かめたくて、たたずみ、そしてはるか後方の出発点を振り返りたくなる、それは自然の衝動なのだろう。 それは生きとし生けるものが、いよいよ最後の旅に踏み出す前に、もう一度生まれ故郷の野山に背を押し送り出して欲しくて寄り道する「帰巣本能」のようなものなのかもしれない。その望郷の思いに、火をつけたのは、司馬遼太郎の名著、街道をゆくシリーズのひとつ『北のまほろば』との出会いだった。私はこの著書で、コンプレックスの源泉でしかなかった自分のふるさとのあたりが、古代から中世の教養人があこがれ続けた実に誇らしい世界であることを知らされたのだった。 「陸奥(むつ)」と呼ばれ、東北のさらに奥深い地方のことだ。ここには、厳しい自然以外になにもない。夏になれば「やませ」と呼ばれる偏東風が、作物を凍りつかせてしまう。その不毛の地に私は生まれ育った。冬にはほぼ毎日津軽海峡から暴風が吹き込み、生息する北限のニホンザルは、風雪を避けるために風向きと反対側の木の肌に必死にしがみついて、ひと冬のあいだ耐え忍ぶのである。 この地方には、北方から南下してきたと思われる漁労・狩猟をなりわいとする縄文の暮らしが、世界でも稀有なほど高度に栄えていたのだった。しかし、南洋を原産地とし、大陸を経て日本に伝播し、九州から北上してきた稲作を基盤とする弥生式農耕文化は、ついにこの地方に根づくことがなかった。のちに、全国の米が大阪に集められ、それが貨幣に換金され、経済を支える仕組みが日本にできあがると、下北周辺は中央から見れば生産性に乏しいまったくの辺境世界に追いやられ、日本で最も貧しいエリアとして見捨てられていったのである。 しかし、不思議なことがある。大人になって気づいたのだ。 「下北半島」には、他の東北地方には見られない、古来から伝承されてきた「能舞」や「歌舞伎」があるのだ。サルでも棲むことをあきらめたほどの、陸の果てと思われた僻地に、「中央」との接触を思わせる当時の「都会」の文化が息づいているのだった。なぜだろう。 ヒントは海にあった。 私はこの地方を見るとき、学校で習った社会科の地図帳を参考にしない。それはいつも、中央から陸路をたどる果てに「下北」を置いているからである。この位置関係では、下北地方の歴史を正しく学ぶことができない。 私はいつも下北を見るとき、大胆に地図帳を回転させ北海道松前地方を下にし、本州が上に来るように南北を逆転させて置き、しかも「津軽海峡」を中心にすえてかかることにしている。 下北は津軽海峡という豊かな交易の大回廊に、陸奥湾という内海をいだいて突き出した幸運な形の土地だった。ここには北陸地方や、京都そして大阪の回船問屋から派遣された交易船が頻繁に往来していた。豊富な北方の魚介類や、北海道やオホーツクあたりの珍しい産物を仕入れては、北陸地方を経由して中央で売りさばいていたのである。この交易には、生産者であるアイヌの人々も大いに活躍した。 陸によって見捨てられながらも、下北は海によって栄えた辺境の土地である。そしてそのことが、私の中では東南アジアの歴史的発展の原点となった「港市都市」と似て、同じ運命に見える。 東南アジアの「陸」とは、熱帯雨林のジャングルで、人々を寄せ付けない猛獣と病気のすむ恐ろしい場所であった。人々は海に面した河口の小さな陸地に町を建設し、海を往来して生計を立てていた。ジャングルはいつも人々に畏怖の念を抱かせ、無闇にあの森に近づいてはいけない、「神様が住んでいるから」と教えられ、そうして小さな動植物への畏怖の念が、アニミズムの源泉となった。 陸の障害を背にしながら海を往来し、海の恵みに育て鍛えられた下北への旅は、私の心の中でアジアへの同じ地平の旅へとつながっている。「下北へ行く」とはいっても、ハリマオの中ではなお「アジアの心」を旅し続けているのである。 それにしても、当時陸路での旅はどれだけ困難を極めたことだろうか。しかし、繰り返すが、陸奥(みちのく)や蝦夷(えぞ)と蔑称された下北は、鎌倉・室町時代以降、特に江戸時代の知識人には伝説の桃源郷として映ったようで、困難を承知で多くの冒険的旅行が試みられたことが知られている。そのひとり菅江真澄は、風雪の吹き荒れるなか、北海道松前地方からからこの下北半島にわたり、数多くの民俗学的資料となる文献を残している。それは現代語に翻訳され、『菅江真澄遊覧記』として平凡社の東洋文庫に収められている。 江戸時代の円空も、この奥深い土地に分け入り修行をした。しかし、もっとも驚かされるのは、平安時代にさかのぼる。唐に留学していた慈覚大師円仁という高僧が、ある夜夢に霊が立ち、「日本の東方旅程30日余りの場所に霊山がある。帰国したらそこに地蔵尊を1体彫って奉り、その地方に仏道を広めなさい」と命じられたという。帰国後862年円仁は、下北に赴きこの地に「恐山」を開山したのだという。 私はいま、司馬遼太郎の『北のまほろば』と菅江真澄の『遊覧記3』の二冊の愛読書と、ノートPCを旅行かばんにしのばせ、夏の恐山大祭の時期に照準を合わせ、旅の計画を練っている。大間のマグロをはじめ豊富で新鮮な魚介類、数々の温泉、そして幼馴染との再会を楽しみにしながら、いまむつを目指そうとしている。 |