最終話 瞑想都市もうひとつの「ヤンゴン」

第十日目(僧院をたずねて)晴れ


ヤンゴンの瞑想センター


10時を少し回ったころ、アイさんとマーさんがロビーに迎えにきてくれた。ホテルからさほど遠くない場所にあるヤンゴン最大のモネストリー(仏教修養施設)に連れて行ってくれるというのだ。信心深いアイさんの薦めに従うことにしたのだった。

クルマは広大な敷地の、厚い塀とフェンスのゲートで覆われている建物の前で停まった。ゲートをくぐって入るとすぐ左手に事務所があり、その奥まったところに僧侶たちが食事をする板張りの大食堂があった。ゲートを入って右手には、二階建ての「メディテーションセンター(瞑想所)」がある。各階とも小さな学校の講堂ほどの広間があり、奥には高僧の顔写真が額に入って飾られている。一階が尼僧の、二回が男の僧の瞑想所になっている。

私が敷地内に足を踏み入れて間もなく、まず尼僧が瞑想所から静々と出てきて、合掌しながら無言のうちに食堂に向かって二列縦隊に並び始めた。やがてその列が先頭から動き出し、長屋のような食堂の入り口に向かって進みだした。敷地の奥の方に瞑想を終えた男性の僧も並んでいたのだろう、いつの間にか尼僧の横のほうまで隊列が進んできていた。列を見ると、男性僧の列にも尼僧の列にも剃髪し僧衣に身を包んだ外国人の姿が数多く認められ、そのなかには明らかに日本人と思われる男女の姿も混じっていた。

食堂棟には、敷地のゲートに近いほうから入り口が三つあり、列は決して交り合うこともなく整然としていて、もっとも左側の入り口から、男性僧の修行者、中央の入り口からピンクの僧衣をまとった尼僧、そして右の入り口からは女性の在家の修行者が入っていく。食堂の床は地面から50センチほど高いとこにあり、男性僧も尼僧も修行者も踏み石の前でサンダルを脱ぎ食堂に入った。そのしめやかで静謐につつまれた無言の行進は、見慣れぬものには衝撃的光景であり、感動を呼び起こした。

板の間の食堂には足の短い木の丸い食卓がいくつもあり、それぞれを五、六人の僧や尼僧や修行者が囲み、床にじかに腰を下ろして食事をした。一日に二回、早朝5時半ころと昼前に食事を摂るのだが、午後と夜は水や果汁以外には一切口にできない決まりになっている。二回目のこの食事が、もっとも重いディナーになっているのだ。ゲートがわに近い上座には男性の高僧のテーブル、次いで男性僧のテーブル。後方に行くにしたがって尼僧、女性の修行者のテーブルとなっている。

食堂の外側には屋外の台所のような設備があり、一般人の女性たちががボランティアで食事の世話をしていた。僧たちは、片足をくずして食卓の前で黙々と食事を楽しんでいた。日本の禅僧のように、食事のときにも作法に従っているという堅苦しさはなく、庶民のように思い思いに慎み深くただ言葉もなく食べものを口に運んでいた。剃髪した欧米人の男性が、托鉢で振舞われたご飯の入った鉢を左腕で抱え、右手を使ってじかに口に運んでいる姿がどこか痛々しく見えたが、どのテーブルもご馳走の山という印象を受けた。

この二回目の食事は、毎日一般人の「ドネート(寄付者)」が僧院に「寄贈」するもので、この日はヤンゴン市内のある実業家のファミリーが食事を振舞っていた。托鉢だけでは僧侶の食事をすべてまかなうことはできないので、こうしたドネーションの仕組みができたのだという。また寄付希望者はあとを断たず、先々までのウェイティングリストが詰まっている状態だと聞いた。食堂の前には大きな黒板が立てかけてあり、毎日この朝食のために誰がいくら寄付したかが記録され、だれもが閲覧できるようになっている。

寄付者は、このとき家族や親戚、友人たちも招き、わずか30分ほどではあるが、僧侶と一緒に食事をともにするならわしである。招かれた老若男女は、僧たちが瞑想をしているあいだ食堂の前の待合場所で待機し、僧たちが食堂のテーブルについたあとに食堂内の特別にしつらえた席で同じものを食べるのだ。

私が日本人観光客だと気づいたのだろう、ホストの奥様とおぼしきミャンマー人の女性が近づいてきて、
「よろしければ食事をごいっしょにいかがですか」
と、みごとな日本語で誘いかけてきた。
あいにくホテルでバイキングの朝食を摂ってまもない時刻だったので、さすがに食事は辞退したが、食事の風景は見学しまた写真もとらせていただいた。実業家のご夫婦は、若い頃名古屋に滞在していたことがわかった。ご主人が名古屋大学の大学院に進み、それから日本の企業に就職した。そこがミャンマーに現地法人を作る際に、彼が帰国し支社長になったのである。

奥方が、このモネストリーについて書いた本があるというので、事務所に誘われた。ここの高僧が書き、英語に翻訳したものだが、二冊で600Kだというので、薦められるままに購入した。
「この本を日本人の14歳になる少年が読んで感動し、ここに修行に来たことがあります。あとでその子のご家族が寄付したものが、向こうにみえる自動車です」
彼女が指差した方角を見やると、丸太と板を簡単に組んだ車庫に、頑丈そうな最新型4WDのランドクルーザーのような自動車がでんと鼻先を突き出して停めてあった。

敷地内には無数の居住棟がある。高僧には一軒屋が、普通の位の僧にはアパートの個室が、一時の修行僧にはゲストハウスの一室のようなものがそれぞれあてがわれている。どの居室にも、入り口のドアの上に四角いプレートが掲げられていて、この部屋はどこの国のだれだれが寄贈したものです、と丁寧に表示されている。

瞑想は早朝から夜9時頃まで瞑想センターで行われる。板の間をサークル上に静かに歩いたり、座禅のように座って瞑想したりする。天井から紐状のものがぶら下がっていて、それに直径1.5メートルほどの丸い筒形の蚊帳をつるし、夜間座って瞑想するときなど頭からかぶる。瞑想専用の蚊帳というのは珍しい。

瞑想センターには、子供たちが夏休みを利用して入所してくることも多い。こうした子供たちのためには、蚕棚のような形の寝泊りするだけの簡易宿泊所を設けている。
アイさんの子供は学校が休みになるたびに、ここに入って瞑想を続けているという。仏教にとても熱心な家庭のようだ。
ここでの生活はすべて、瞑想にささげられている。住まいも食事も人々の善意による寄付で支えられており、その喜捨の精神はミャンマーの国民性そのものである。すくなくとも、この施設が経営難で立ち行かなくなるということはありえないのである。
そして,このセンターには仏教に関心の厚い人々が老若男女を問わず世界中から訪れ、いる間剃髪し出家僧たちとともに瞑想に参加する。こうした生活洋式は、ミャンマーの国民生活の大部分を占めているはずだ。

そういえば、この国には東南アジアのどの国の首都にもある歓楽街というものが見当たらない。丁寧に探せば、きっとそういう場所はあるに違いないが、少なくとも表向きには存在しないようだ。

酒もタバコも慎み深い。私が何かのためにと成田空港の免税店で購入したウィスキーとタバコを、アイさんもマーさんもたしなむ人がいないということで受け取ろうとしなかった。強引に「日本にもって帰るのも大変なので、誰かにあげてもけっこうです」ということで、ムリに引き取ってもらったような経緯がある。

ミャンマーの庶民は夜10時過ぎに外出することを好まないという。特に出歩いて面白い施設がまったくないのである。この国のチャイナタウンも、他の国のそれに比べれば、ろうそくの光のように寂しい。ナイトマーットは9時を過ぎるとさっと潮が引いたように店じまいをしてしまう。バーやナイトクラブの看板やネオンサインも、結局私は見つけることができなかった。

バンコクのパッポンやタニヤ、マニラのパサイやマカティ、台北の林森北路などのようなナイトライフを期待するなら、ヤンゴンは、というよりミャンマーは目的地が違うといわざるをえない。
本当に、ミャンマーのナイトライフは寂しい。
ミャンマーの人々の楽しみは、現世のはるかかなたにあるのではないかと思えてならない。
瞑想センターを後にしながら、私はつらつらとそんなことを考えていた。

この日夜、長かったミャンマーの旅程をすべて終え、雷の轟音と稲妻が雲を切り裂くスコールの中なか、私はバンコクに向けヤンゴンの空港を離陸した。



→前に戻る

©Copyrights Yuza Taira,1999,2000,All rights reserved.