博士課程の大学院生時代、または幸いにして研究職にありつけた若手の頃は、その人の研究が人生の中でも飛躍的に進む時期なのかもしれない。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、研究業績(学術論文数)も一挙に増加するのが普通である(そうでない人のほうが多いという噂もある)。ところが若手を少し過ぎて中堅に差し掛かった頃には、それまでの勢いが急に影を潜め、後は鳴かず飛ばずになる研究者が少なくないらしい(1)。
研究者として大成するには、独力で学術論文を書くための訓練を繰り返し、基礎体力を身に付けることが最も重要な課題となるはずなのだが、基礎体力がないことを自覚せずに研究職に就いてしまうと、或いは採用する側がその人の基礎体力のなさに気付かないで採用してしまうと、そこには喜劇しか産まれないことになる(独りになったとき、自分に何ができるのか考えてみるとよい)。基礎体力がないことで研究者が社会的に淘汰されていくのなら大歓迎だが、そのような人が自ら辞職して後進に道を譲ることは、現実では決して起こり得ない(例えば「生涯一助手(留意点: 研究業績があっても冷遇されている研究者を除く)」や「お情け講師」の弊害を考えてみるとよい。これが民間の会社組織だったら、当然のごとくリストラの対象である)。かくして日本の大学・研究機関には、閉塞感だけが漂い続けている。
研究者の配置替えや、研究機関・講座の名称替えだけで世間を護摩化すのは、もはや限界に来ている。実体を伴う抜本的な改革が、これらには必要なのではないだろうか。
[脚注]
(1) 研究者に要求されるのは、まず第一に「自分が何をやりたいのか?(研究のモチベーションは何か?)」と自問すること、次に「そのためには何が必要か?」と自問することだと思う。そのモチベーションさえ持ち続けることができれば、研究者としての成功は、学術論文を書くことを含めた全般的な技術を修得するための訓練と、その成果を活かす持ち場の確保いかんに掛かってくる。全体を見渡せば、研究の結果を出して学会講演にまでは漕ぎ着けても、独力で学術論文を書くという段階で(これが肝心なことなのだが)、つまずいてしまう人が多いようである。