新聞報道には、ある種のジレンマ(せめぎ合い)が存在する。記者には「全国各地で取材された有益な情報を、余すところなく詰め込んで報道したい」といった欲求が見られ、その一方で、新聞紙面のスペースの関係から「これらの情報が取捨選択され、さらには報道すべき記事の字数も限られてしまう」といった、物理的な制約が課されるのが常である。
必然的に、冗長な文章は削ぎ落とされ、新聞紙面には簡潔明瞭な文章だけが生き残ることになる。このような『研ぎ済まされた文章』に日頃から接していれば、その人の文章が巧くならない道理はない。もちろん、日々の情報を得るためだけの新聞の斜め読みでは、文章力が付くことは期待できない。一字一句、噛みしめるように文章を味わい、自分の中に取り込んでいくことが大切である。
私は20代後半から30代半ばまで、毎日のように、大学の図書館で全国紙3紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞: 五十音順)と地方紙1紙(新潟日報)に、2時間ほどかけて目を通していた(1)。世の中の出来事に関する情報収集と、それらの比較はもとより「これを続ければ、きっと文章が巧くなるに違いない」という信念に基づいた『図書館詣で』であった(2)。
それでは、このように新聞を丹念に読み続けることで、私の文章は巧くなったと言えるのだろうか? その答えは......、皆さんの判断に委ねたいと思う。
[脚注]
(1) 各新聞の報道記事を比較すると、例えば、朝日は左翼系とか、読売は右翼系とか、毎日は中立とか、それぞれに特色があって面白い。読んでいて、しっくりするのは朝日だし、全国紙の割に報道内容が新しいのは読売である。旧石器発掘ねつ造問題や学術論文ねつ造問題のような、科学上の不正に関する特ダネをすっぱ抜くのは、なぜか決まって毎日である。新潟日報は、地域のニーズに応えた紙面作りをしているので、情報源として活用するには申し分ない。
(2) 動物の行動を専門のひとつとすることから、人間の行動にも興味を持っている(趣味のひとつが人間観察である)。基本的に「動物の行動に意味のないものはない」と考えており、理解できない行動をとる人間を観察するのは楽しいものがある。この点で、前述の図書館詣でを含め、私自身の行動は「常に理にかなったものである」と思っている。