伊 達 氏 発 祥 の 地

 信達平野北部一帯は、東北の雄伊達氏発祥の地です。この地にある厚樫山は、奥州藤原氏と頼朝の鎌倉軍とが激戦したところで、この合戦で抜群のはたらきをした常陸入道念西(朝宗)はその戦功により頼朝から伊達郡の地をあたえられ、伊達氏を称するようになりました。「寛政重修諸家譜」によれば、初代朝宗が伊達郡にうつり阿武隈川東岸の高子(保原町)に城を築いたと記されています。現在丘の頂上にある神社は、朝宗が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したもので亀岡八幡宮と称したと伝えられています。

 その後、三代義弘は城を粟野大館(あわのおおだて)に移しましたが、この館のあった場所ははっきりせず、これを梁川城のこととする説もあります。

 城の北方約1キロの富野の地に梁川八幡神社が古い面影を残して鎮座しております。これは、義弘の時代高子丘から亀岡八幡をここに移したといわれています。境内には三重塔跡などがあり、伊達氏の氏神として代々の尊敬が厚く、伊達六六郷の総社としてさかえました。

 十四代稙宗(たねむね)は、1532(天文元)年に梁川城から西山城に移り、いわゆる伊達氏天文の乱後の1548(天文一七)年頃、その子晴宗が米沢城に移り住むまで、伊達氏の本拠となりました。

 その後、一六代輝宗、一七代政宗にいたり伊達氏は東北最大最強の大名に成長し、会津を征服した政宗はさらに関東進出をねらいますが、秀吉の統一事業の前に挫折します。1591(天正一九)年政宗は岩出山に去り、信達の地は蒲生氏郷の支配するところとなりました。伊達地方に居住した武将、寺社の多くは政宗とともに去っていきました。現在、藤田・石母田・塚目・徳江・内谷・小坂その他に伊達氏の武将たちの残していった館跡があります。

  伊達家の家系
  (1)朝宗ー(2)宗村ー(3)義弘ー(4)政依ー(5)宗綱ー(6)基宗ー(7)行宗ー(8)宗遠ー(9)政宗ー  (10)氏宗ー(11)持宗ー(12)成宗ー(13)尚宗ー(14)稙宗ー(15)晴宗ー(16)輝宗ー(17)政宗(独眼竜)初代仙台藩主

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