福島県の中世 南奥羽における中世の幕開けは、源頼朝の奥州侵攻に始まります。鎌倉政権にねらわれた平泉王国は、佐藤基治に石那坂、大木戸国衡に阿津賀志山(あつかしやま)(厚樫山・伊達郡藤田町)を守らせましたが、大敗し、佐藤氏は玉砕し首を阿津賀志山にさらされました。鎌倉方の海道軍は、岩城・岩崎氏両氏を合流し、たやすく北上しました。会津もまた北陸道の鎌倉方に占領されました。1189(文治五)年のことです。鎌倉方の諸将は戦功によって南奥州各地に新恩の所領を与えられ、関東武士の支配下に置かれました。中村氏(伊達氏)と伊達郡、工藤氏(伊藤氏)と安積郡、二階堂氏と岩瀬郡、結城氏と白河郡、三浦氏(蘆名氏)と会津諸郡、長沼氏と南山(南会津郡)、相馬氏と海道諸郡の関係が成立し、田村庄・石川庄・好嶋(よしま)などもこの頃成立し、田村氏・石川氏・岩城氏ら従来からの在地の勢力下におかれました。初めは伊達氏を除いてそのほとんどは、一族または家人を地頭代として派遣していましたが、鎌倉時代後期にはしだいに関東本領を離れて移住し、「相馬恋しや」とうたわれるようになりました。 1333(元弘三)年、後醍醐天皇の建武政権が発足すると、北畠親房・顕家父子は、義良(のりよし)親王を奉じて陸奥国多賀城に入り、翌1334(建武元)年に、顕家は陸奥守に任命され、式評定衆(しきひょうじょうしゅう)には結城・二階堂・伊達の諸氏が任命され、引付には石川一族の五大院・結城・伊賀・伊東・伊達の各氏が任命されました。南北朝の動乱期には、霊山城と宇津峯城を拠点として攻防を繰り返しましたが、1347(貞和三)年に霊山城が吉良貞家・畠山国氏両管領のひきえる北朝側のため、また1353(文和二)年に田村氏のまもる宇津峯城が落城し、南奥の動乱に終止符が打たれました。 いっぽう、この争乱の最中に、北朝党奥州管領畠山氏は管領吉良氏と争って敗北し、遺児大石丸が二本松に移り、吉良氏もまた大崎氏に追われて四本松(しおのまつ)(安達郡岩代町)に移りました。南北朝が合一した1392(明徳三)年、室町幕府は、鎌倉公方足利満兼に奥州2国の関東分国編入を許しましたが、大崎氏の勢力下にある奥州2国の支配は実現せず、ようやく1399(応永六)年に満兼の弟満直が安積郡笹川館(郡山市)に、満貞が岩瀬郡稲村館(須賀川市)に入りました。あたかも応仁の乱が起こったので、在地の豪族蘆名・伊達・大崎氏などがそのむこうをはり、この合戦の後、稲村御所において中小領主たちによる仙道一揆が結ばれ、南奥は幕府の影響下に入りました。こうした一揆が1400(応永七)年には懸田氏(霊山町)と藤井氏(いわき市勿来)の間でも、また1410年には、海道5郡の武士たちの間でも結ばれました。ところが1413(応永二十)年の伊達持宗の乱をきっかけに、武士団の対立が表面化し、上杉禅秀(1416〜17)・永享の乱(1438〜39)と続き、稲村・笹川両公方の勢力は駆逐され、ようやく奥州は独立しました。 この南奥の武士団の中から頭角をあらわしてきた伊達稙宗(たねむね)は、1523(大永三)年頃に本拠を梁川城から桑折の西山城へ移し、陸奥国守護職に任命されました。(鎌倉時代以降、陸奥国は名目的ではあったが、奥州探題の大崎氏が支配していたため守護制はなかった。) いっぽう常陸国太田を本拠とする佐竹義重は、1560年に棚倉を攻略し、1575(天正三)年に白川城を手中に収め、1579年にはその子義広に結城白川氏を継がせ、1587年には白川義広を蘆名盛隆の女婿とし、会津および中通り南部を手中に収め、伊達氏と直接国境を接することになりました。伊達政宗は1589年6月、蘆名攻めを強行し屈服させ、県内の相馬を除く全域・越後国東部・下野国北部・陸奥の南半分・出羽の南部をあわせた広大な地域を支配することになり、南奥における戦国時代は終わりを告げました。 ● 伊達氏発祥の地 |