浜 通 り 北 部

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 JR常磐線と国道6号線沿いの浜通り中央部・北部には2市9町3村があり、独自のふるさとおこし運動を繰り広げています。阿武隈山脈の高地にひろがる双葉(ふたば)郡川内(かわうち)村・葛尾(かつらお)村・相馬(そうま)郡飯館(いいだて)村、太平洋岸沿いの平野部に開けた双葉郡広野(ひろの)町・楢葉(ならは)町・富岡(とみおか)町・大熊(おおくま)町・双葉町・浪江(なみえ)町、相馬郡小高(おだか)町・鹿島(かしま)町・新地(しんち)町、原町(はらまち)市・相馬市があります。

 海の幸・山の幸に恵まれ、縄文文化・弥生文化の遺跡も多い。古墳時代から急速に開拓が進み、大和政権のもとで、染羽国造(しめはのくにのみやつこ)・浮田(うだ)国造を設置したことが古記録にみえます。奈良時代には標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)の3郡がおかれ、12世紀頃、石城郡から楢葉郡が独立しました。双葉郡は楢葉郡・標葉郡を併せて1896(明治二十九)年に成立し、また、相馬郡は行方郡・宇太郡を合併して同年に置かれました。中世の楢葉郡は楢葉氏・岩城氏の支配をうけ、近世になると平藩領・幕領・棚倉藩領・多古(たご)藩領などど変遷がはげしく、時代によりことなりました。行方郡は、「文治五(1189)年奥州合戦」に参加した功労として相馬氏が領する所となりました。相馬氏は南北朝の頃から宇太郡に勢力をひろげ、また、15世紀末には標葉氏が支配していた標葉郡を支配、豊臣秀吉から3郡4万8000石の所領を認められました。近世には3郡6万石の相馬中村藩として明治維新まで続きました。鎌倉時代以来同一領主の支配のもとつちかわれた相馬人の気風が、「相馬野馬追」の伝統を受け継ぎ、民謡の里、二宮御仕法の土地として、全国的にも有名な土地柄をそだててきました。

 主要産業は第一次産業ですが、近年は中小企業の進出もめざましく、兼業農家がほとんどです。双葉郡の海岸一帯は日本有数の原子力発電基地に変貌し、浪江町・小高町・原町市・鹿島町・相馬中核工業団地にも発電所建設計画があり、この海岸一帯は日本有数の電力基地に発展することが予想されます。常磐自動車道・東北自動車道の開通、相馬中核工業団地の整備、四全総による阿武隈地域総合開発構想などにより、飛躍的発展が期待される地域です。




1、楢葉・標葉の里

2、相馬野馬追いの里ー相馬南部

3、相馬中村とその周辺ー相馬北部




1、楢葉・標葉の里

 楢葉は、太平洋岸中部の双葉郡(双葉とは楢葉と標葉(しねは)の意)の南半分で、その南端が双葉断層と太平洋が交差するため海岸線に山がせり出した広野町、以北の楢葉町・富岡町、そして阿武隈山系のの川内村をさします。古代には石城郡、中世の激動を経て近世には平藩及び幕領小名浜の領地に編入されなどの地域が大部分であるため、歴史的文化的には、いわき市との関連が密です。

 標葉は古代には標葉郡に属し、中世には標葉氏一族によって支配されましたが、戦国時代に標葉氏は相馬氏に敗れ、以来、近世を通じて相馬氏の支配下となりました。大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村をさします。したがってこの地域は、小高町以北の地域と歴史的文化的に密接な関連をもちます。



成 徳 寺(じょうとくじ)

                                    ▼ 双葉郡広野町折木字舘331
                                    ▼ 常磐線広野駅下車10分

 広野駅から南西方の国道西側、折木川南方の丘陵に成徳寺(浄土宗)があります。鎌倉時代末の1330(元徳二)年創建で、いわき市の専称寺の末寺です。本堂の阿弥陀三尊像などに古刹の面影をしのぶことができますが、庫裏におかれた阿弥陀如来坐像(県文化)は、鎌倉初期の作と伝えられる寄木造のもので、ほとんど欠損がありません。

 駅の東方、浅見(あさみ)川の河口に出ると右岸に奥州日の出松とよばれる松が見えます。森鴎外の『山椒大夫(さんしょうだゆう)』の原作である安寿と厨子王丸伝説で、越後の人買い山岡大夫にだまされたことを知り身を投げてしまう姥たけにまつわる伝承が残されている松です。

 旧国道を駅前から約1km北上すると北迫地蔵(きたばじぞう)があります。1782〜84(天明二〜四)年を中心とした天明の大飢饉の餓死者を供養し、人心の平穏を祈願するために建てられたものです。今でも毎年8月24日に地蔵講が開かれ、供養が続けられています。

 地蔵の脇に「島田帯刀(しまだたてわき)尊公」と刻まれた石塔があります。島田帯刀父子は1822〜53(文政五〜嘉永六)年、陸奥代官の職にあり、1747(延享四)年以後幕領となっていたこの地方を支配しました。この碑は1833〜36(天保四〜七)年の大飢饉に際し、窮民を救済し餓死者を未然に防ぐため、島田帯刀が独断で年貢米を救助米にあてた功績を顕彰したものです。当時島田代官支配下にあった近隣地域には、このほかに「県令島田帯刀君」などど刻まれた碑が十数基現存しています。

 さらに国道を北上すると二ツ沼があります。『万葉集』に収められている相聞歌「沼二つ 通は鳥が巣 我が心 二行(ふたゆ)くなくも なよ思はりそね」(巻14)はこの地のものであると考証され、沼のほとりに歌碑があります。



天神原(てんじんばら)遺跡

                                        ▼ 双葉郡楢葉町北田字天神原1
                                        ▼ 常磐線木戸駅下車10分

 二ツ沼から北上すると楢葉町です。右側に折れて旧国道を進むとまもなく東側に楢葉城跡があります。平安末、桓武平氏の岩城成衡(いわきなりひら)と平泉藤原清衡(きよひら)の養女徳姫との間に生まれた5子隆祐(たかすけ)が分封によって楢葉の地を得たと伝えられ、その居館を構えたのがこの城の始まりです。戦国時代の1474(文明六)年まで楢葉氏がこの地方に勢力を保っていましたが、かわって岩城氏が支配者となりました。その後、この地方をめぐって岩城氏と北の相馬氏が争奪を繰り返すことになり、この城は戦略的にたいへん重要な意味をもちました。

 国道六号線に戻り北上、まもなく左折し木戸川に沿って上流に約8kmさかのぼると、渓谷の雄滝・雌滝を奥宮とする古い信仰の形を残す大滝神社があります。毎年4月の第2日曜日を中心に5日間にわたって熊野信仰に由来する浜下りの神事(県民俗)が行われます。木戸川下流、上小塙(かみこばな)地区にある木戸八幡神社は楢葉隆祐が勧請したと伝える社で、本殿は1665(寛文五)年に改修されたものであり、当時の建築様式をよく残しています。

 楢葉城跡の北方約2km、木戸川左岸、標高40m前後の平坦な丘陵の先端は天神岬スポーツ公園になっており、公園内で二つの史跡を見ることができます。天神山館跡と天神原遺跡(県史跡)です。天神山館はその歴史を明らかにする史料はありませんが、土塁・空堀跡で規模の大きさをしのぶことができ、その形態・立地などから、戦国末期に楢葉城とともに戦略上重要な意義をもった館であると考えられます。

 天神原遺跡は1979(昭和五十四)年までの調査で土壙墓(どこうぼ)47基・土器棺墓33基が発見されました。東日本最大規模の弥生時代中期の墳墓群です。この遺跡の特色は、遺体を直接埋葬する土壙墓と土器棺墓が共存する埋葬様式であることと、「天神原式」とよぶべき土器型式の標準遺跡であることです。なお、国道沿いの楢葉町コミュニティセンター内の楢葉町歴史資料館に、出土した合蓋(あわせぶた)土器棺(国重文)をはじめ遺物・古文書・民俗資料などが展示されています。



麓 山 神 社

                                ▼ 双葉郡富岡町上手岡字麓山
                                ▼ 常磐線夜ノ森駅バス川内行片倉下車5分

 夜ノ森駅から東へ500mほど行くと、夜ノ森公園の桜並木が続きます。1900(明治三十三)年、荒野であったこの地の開拓のため入植した半谷清寿(はんがいせいじゅ)が、自宅周辺に300本の桜を植えたのが桜並木の由来です。

 桜並木から県道を西に進むと右前方に典型的な端山(はやま)(人里に近い浅い山の意)である麓山が見えます。古くは麓山権現とよばれ、出羽三山との関連も考えられる修験の山であり、女人・不浄の者禁制でした。1868(慶応四)年の神仏分離令以降、次第に神社としての体裁を整え、今では、山頂に山宮、山麓に里宮からなる麓山神社(祭神麓山祗<はやまつみ>神)があります。毎年8月15日の例祭の夜、300年以上続けられている豊作祈願の火祭りが行われます。



平 伏 沼(へぶすぬま)

                                   ▼ 双葉郡川内村上川内字平伏森
                                   ▼ 常磐線夜ノ森駅バス川内行終点下車
                                     バス乗換え小野新町行子安川下車2時間

 バス停子安川で下車、林道を約7km行くとモリアオガエルの繁殖地(国天然)で有名な平伏沼に着きます。モリアオガエルは山地の池や沼の周辺の林にすみ、樹上産卵の習性をもつ体長8cm前後のカエルです。毎年6月以降の蒸し暑い日、平伏沼のほとりのミズナラなどの枝に白い泡状の卵を産むため沼にあらわれます。やがて孵化(ふか)したオタマジャクシは沼に落ちて水中生活を始めます。

 バス停川内の西方の山腹に天山文庫阿武隈資料館があります。カエルの詩でも知られる草野心平(くさのしんぺい)とモリアオガエルの川内村の村民との交流の場として建てられた山荘が天山文庫です。氏の蔵書をはじめとする遺品が保管されています。阿武隈資料館には民俗関係資料が常時展示されています。

 天山文庫から国道に出て大越方面に750mほど進み、1440(永享十二)年創建の長福寺(曹洞宗)を右手にみる地点から左側に折れて山腹まで登ると虚空蔵堂があり、長福寺の当初の本尊虚空蔵菩薩像(県文化)が収められています。像は手指・持物はなく、欠損も見られますが、平安期の作でヒノキのお一本造です。

 村内各所に保存されている三匹獅子舞(県民俗)は、延宝年間(1673〜1681)に伝えられたものといいます。村の上・下にある諏訪神社の春秋の例祭(5月5日・9月15日)に境内で奉納されます。



福島の原始力発電所

 双葉郡の海岸線は、海抜30mほどの三紀層台地と、これを開折して形成された小沖積平野が数キロメートル間隔で交互に並んでいます。大熊町のこの台地にはかって軍用練習飛行場がありましたが、第二次大戦後は放置されて広大な原野となっていました。この原野を1964(昭和三十九)年に東京電力が買収し、1966年から原発基地としてスタートしたのが福島第1原子力発電所です。1号機(46万kw)が1971年3月に完成し、以後2号機から5号機(いずれも78.4万kw)と建設され、1979年10月に6号機(110万kw・隣接双葉町域)が運転を開始し、ここで470万kwを発電して京浜方面に送電します。またこの発電所の温排水を利用した福島県栽培漁業センターが近くに建設され、1982年5月からアワビ・ウニなどの種苗を育成しています。

 大熊町の南の富岡町と楢葉町にまたがる海岸台地に福島第2原子力発電所(楢葉町波倉)があります。1975年11月に着工、1982年から1987年までに隔年ごとに4号機まで営業運転を開始しました。沸騰水型軽水炉で各1基110万kwの出力、4基あわせて440kwを発電し、福島第1原子力発電所とあわせると10kmの海岸線で実に900万kw余の発電をする、日本最大の原子力エネルギー基地となります。

 楢葉町の南となり広野町の海岸台地には東京電力広野火力発電所があり、出力60万kwの1・2号機が1980年に完成、1989年6月には3号機(100万kw)が営業運転を開始しました。同年8月に同規模の4号機が着工され、1993年に完成しました。



清戸迫(きよとさく)装飾古墳

                                        ▼ 双葉郡双葉町新山字清戸迫
                                        ▼ 常磐線双葉駅下車12分

 双葉駅からJRの線路沿いに南へ200mほど行くと切通しがあります。この両側丘陵が新山城跡で、中世に標葉隆連(しねはたかつら)の拠った所です。さらに南へ国道288号線を横断すると、郡内最古の県立双葉高校が見えます。これを過ぎて前田川を渡ると双葉南小学校があり、この小学校の裏山中腹にあるのが清戸迫装飾古墳(国史跡)です。1967(昭和四十二)年、小学校の敷地造成中に偶然発見されたものです。

 古墳時代後期につくられた清戸迫古墳群の中の1基で、玄室(げんしつ)天井はドーム型、玄室床面は隅丸のほぼ方形であり、玄室奥壁に朱彩の壁画が描かれています。左七回りの渦巻き文を中心に、左右に冠帽をつけた立像人物、むかって右の立像人物のわきにはやはり帽子をつけた騎馬人物、渦巻き文の下に獲物をねらって弓を構える人物、周りに動物5匹といった構図で、彩色も鮮明であり、古代豪族の狩猟のようすを彷彿とさせるものがあります。

 瀬戸迫古墳の西800mの稲荷神社境内にそびえる老杉が、前田の大杉(県天然)で、浜通り屈指の大きな杉です。根回り13.3m樹高21mあり、古伝では8世紀に植えられたといいます。

 双葉町の海岸台地郡山地区の鹿嶋(かしま)神社東裏に、細弁蓮華文の軒丸瓦を出土し、礎石を残している五番廃寺(ごばんはいじ)跡があります。現在は五番遺跡の木標があるのみの畑地となっています。ここから500mほど行くと郡山海水浴場に着きます。この南側丘陵にあるのが沼ノ沢古墳群(7世紀頃)です。1955(昭和三十)年には6基確認されましたが、海食によって今では第3号墳を残すのみです。



本 屋 敷 古 墳 群

                                        ▼ 双葉郡浪江町北幾世橋字織迫
                                        ▼ 常磐線浪江駅下車20分

 浪江駅の北東2.5km、国道6号線が室原(むろはら)川を北に越えた東側台地の南東端河岸段丘上に本屋敷(もとやしき)古墳群(県史跡)があります。1981(昭和五十六)年に発掘調査が行われ、前方後方墳・円墳各1基、方墳2基が確認されました。主墳ともいえる前方後方墳は全長36.5mで、割竹形木棺が認められ、木棺底部から管玉(くだたま)・ガラス小玉・櫛(くし)などの副葬品が出土しました。浜通り地方では最も早い5世紀に造営されたと推定され、前方後方墳ー方墳ー円墳に順に築造されたと考えられます。

 この台地上にはほかにも古墳が点在します。本屋敷古墳の北400mに藤橋(ふじはし)古墳があります。藤橋不動尊本堂の建つところが墳丘で、前方後円墳(前方後方墳の説もあります)です。この不動尊は旧暦2月28日には例祭でにぎわう所です。本屋敷古墳群のある台地下南縁を東流する用水堀は掃部堰(かもんせき)と称し、文政年間(1818〜30)につくられたものです。この用水沿いに大聖寺の前を通り、1.5kmほど東へ行った台地上に堂の森古墳があります。全長約67mの前方後方円墳で、俗に瓢箪(ひょうたん)塚と呼ばれる本県屈指の大型古墳です。

 またその東400m程の所に安養院(あんよういん)古墳群、さらに200m東には狐塚古墳があります。このほかに浪江町には加倉・上ノ原・高塚・丈六(じょうろく)・太平山(おおひらやま)などの古墳群があります。



大 聖 寺(だいしょうじ)

                                  ▼ 双葉郡浪江町北幾世橋字北原
                                  ▼ 常磐線浪江駅バス両竹行幾世橋大町下車5分

 幾世橋大町バス停から北へ300mほど行くと、南面する石段に突き当たります。その両側には東北地方南部でも珍しいアカガシ樹群(県天然)がみられます。石段を上った台地上に大聖寺(真言宗)の境内があります。寺伝では大同年間(806〜810)の開基とされますが、明らかではありません。中世、この地方は桓武平氏の流れをくむ標葉(しねは)氏の所領で、この寺は標葉氏三祈願所の一つで、真言宗標葉三十三寺の本寺だったといわれます。1492(明応元)年標葉清隆が相馬氏によって権現堂に滅んだのちは、相馬氏の支配する所となりました。

 大聖寺はもとはこの東300mほどの所にありましたが、明治初年にこの地に移ってきました。ここは1701(元禄十四)年に相馬6代藩主昌胤(まさたね)が5000石の隠居料をもって退隠した「北原御殿」とよぶ山荘のあった所です。当時の面影をしのぶよすがもありませんが、山荘の正門が大聖寺山門につかわれ、寺の裏手の杉林には、当時寿の池とよばれた池跡をみることができます。山門左手の銅鐘は昌胤奉献のもので、「宝永六(1709)年」の銘があり、もとは1870(明治三)年にここから相馬市に移った興仁寺(こうにんじ)の梵鐘でした。境内最奥部には相馬家墓地があり、昌胤とその次男で8代藩主尊胤(たかたね)の墓があります。また、墓地入口には戊辰戦争で勇壮な死を遂げた相馬藩士脇本喜兵衛の墓があります。

 本堂の裏手に旧渡部家住宅(県文化)があります。これは現在サケ漁でにぎわう泉田川簗場(やなば)近くの荒井の地にあったものを移築復元したもので、江戸時代後期の地方上層民家の造りをよく示しています。

 また、大聖寺に伝わる紙本著色両界種子曼陀羅(しほんちゃくしょくりょうかいしゅしまんだら)(県文化)は「文明六(1474)年」の銘があり、鎌倉時代以降の種子曼陀羅の遺存するものとして貴重です。なお、その筆者は仏画師ではなく僧侶です。

 大聖寺の南西、泉田川(上流を室原川といいます)北岸に望まれる杉林の丘は古城(ふるじろ)(泉田城)跡で、相馬・標葉両氏抗争の接点となった所です。また、大聖寺東隣の幾世橋小学校に伝存する井田川の丸木舟(県民俗、現在県立博物館寄託)は小高町の井田川浦が干拓されるまで、浦周辺の村民が漁労に用いたもので、「どんぶね」とよばれ大正時代まで使われていましたが、干拓後は姿を消しました。



相馬駒焼と大堀相馬焼

 通称相馬焼には、相馬藩の御用窯であった相馬市中村の田代家に伝わる相馬駒焼と江戸時代以来民窯として日用陶器を生産してきた浪江町の大堀相馬焼があります。

 相馬焼は、1648(慶安元)年に藩主利胤(としたね)に供奉して上洛した藩士が、京都御室焼(おむろやき)を野々村仁清(ののむらにんせい)に学び、帰藩後中村に創業したといわれ、代々田代家が業を継ぎ現在(15代田代清治右衛門<せいじえもん>)に至っています。製品に狩野(かのう)流の野馬が描かれるようになったのは1659(万治二)年からで、駒焼といわれる由縁(ゆえん)です。青ひび・二重焼を始めたのは寛政年間(1789〜1801)といわれます。田代家(相馬市田町・相馬駅から徒歩5分)に伝わる田代駒焼登り窯(県民俗)は、荒砥石(あらといし)を積み上げた7段の窯です。この製品は明治以前は私に販売することは禁じられ、「御止め焼」といわれました。

 大堀相馬焼は、浪江町の西6kmの大堀地区一帯に25戸の窯元があります(1988年現在)。創業は元禄年間(1688〜1704)といわれ、当地の半谷休閑(はんがいきゅうかん)という人の下僕の左馬(さま)が、中村(相馬市)で製陶技法を修得しこれを休閑に伝授したのが始まりとされ、愛宕神社に陶祖碑が建っています。大堀相馬焼も青磁・走り駒の絵とともに厚手が特徴で、廃藩まで相馬藩の保護措置がとられ、日用品を生産してきました。1978(昭和53)年には通産大臣から伝統工芸の指定をうけました。なお、栃木県の益子(ましこ)焼の陶祖大塚啓三郎の協力者田中良平によって、相馬焼の影響が遠く益子の地に及んでいます。



権 現 堂 城 跡

                                    ▼ 双葉郡浪江町西台
                                    ▼ 常磐線浪江駅バス小高行西台坂下下車5分

 浪江駅から北東に2kmほどの室原川北岸の台地に権現堂城跡があります。通称館公園といい、舌状台地の南東端部に位置し、西側に空堀があり、他の三方は断崖となっています。この権現堂城は中世標葉氏の居城で、標葉清隆(きよたか)が1492(明応元)年に相馬氏により滅ばされた所です。この双葉郡は、古代には染羽国造(しめはのくにのみやつこ)の地であり、その北半分がのち標葉郡となって、桓武平氏の流れをくむ標葉隆義(たかよし)が拠った所です。

 隆義の居館は請戸(うけど)(浮戸)の御館(浪江町請戸本町付近)にありました。後世、南北朝時代に南朝方にくみし、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の配下に入り、請戸から出陣していますが、このころ標葉氏の居館は高瀬川南岸の太平山城跡といわれます。1337(延元二)年に摂津国へ出陣したのは持隆(もちたか)で、顕家戦死後も天王寺浜合戦に参陣しました。浪江町高瀬の仲禅寺(ちゅうぜんじ)(曹洞宗)にある木造十一面観音坐像の胎内銘によれば、1343(康永二)年に合戦犠牲者供養のため標葉持隆と一族二百数十名が寄進安置したと記されています。

 この動乱期から相馬氏との抗争が激化しますが、幾世橋満開の古城(泉田城)も両氏抗争の接点になった所です。嘉吉年間(1441〜44)に標葉清隆は、請戸から権現堂(浪江町本城)に移り、さらに相馬氏に対すべく権現堂城を築城して、まもなくこの城に移りました。しかし、家臣が次第に相馬側に離反し、ついには1492(明応元)年暮れの大雪の日に、家老の手引きで相馬軍が乱入するところとなり、清隆・隆成父子は自殺して標葉氏嫡流は滅亡したといわれます。この父子の墓というのが浪江町川添の正成寺(しょうさいじ)にあります。



正 西 寺(しょうさいじ)

                                             ▼ 双葉郡浪江町川添
                                             ▼ 常磐線浪江駅下車15分

 浪江駅から常磐線の踏切を越えて、約1kmの舌状台地の東縁に正西寺(浄土真宗)があります。ここは、標葉氏の菩提寺華光(けこう)の所在したところで、明治初期に正西寺が移ってきたものです。正西寺境内には15世紀末、相馬氏に滅ぼされた標葉氏の惣領清隆の墓があります。かって、華光院のころに伊達政宗がここに宿泊したと旧記に記されており、新井白石の「藩翰譜(はんかんふ)」にも記載されています。

 「藩翰譜」には、関ヶ原の戦い後の1602(慶長七)年、相馬義胤が家康の出兵に応じなかったことを理由として、いちどは相馬領を没収されましたが、のち旧領地を安堵されたのは、伊達政宗の仲介が功を奏したと記しています。政宗が宿敵だった相馬氏のために幕府にとりなしたのは、1600年の関ヶ原の戦い直前に、会津の上杉景勝を背後から撃つべく、家康の命をうけて上方から帰国するため相馬領を通過することとなり、ここに宿泊したといいます。相馬藩では宿敵政宗をうつ機会到来と藩論がたかまりましたが、けっきょく正々堂々と戦いで決すべきだということで、政宗襲撃をやめ伊達領におくったことを恩に感じたためであると書かれています。
 浪江町はもと標葉氏の本拠地で、その館跡が多い。請戸本町・同太平山・浪江本城・西台館公園などは標葉惣領家の居館のあったところで、ほかに小丸など旗本らの館跡が各地にあります。




2、相馬野馬追いの里ー相馬南部

 相馬南部とは、もとの行方(なめかた)郡域をさし、小高町・原町市・鹿島町・飯館村の地域です。小高町は、小高町・金房(かなふさ)村・福浦(ふくうら)村が合併して1954(昭和二十九)年に成立しました。原町市は、同年に原ノ町・太田(おおた)村・大甕(おおみか)村・高平(たかひら)村を合併、さらに翌年に石神(いしかみ)村も加わり原町市として誕生しました。鹿島町も、同年に鹿島町・真野(まの)村・上真野(かみまの)村・谷沢(やさわ)村を合併し、さらに飯館村は、大館(おおだて)村と飯曾(いいそ)村が1956年に合併して成立したものです。



小 高(おだか)城 跡

                              ▼ 相馬郡小高町字古城・城下・八景前・金谷前
                              ▼ 常磐線小高駅下車15分

 小高駅前のメインストリートを1kmほど進み、右折して小高川にかかる丹(に)塗りの妙見橋を渡ると、正面に丘陵が広がります。このあたり一帯が小高城跡(県史跡)です。現在本丸跡には相馬小高神社(妙見神社)が鎮座し、毎年7月25日の相馬野馬追祭にはその中心行事の「野馬掛(かけ)」の神事がここで行われます。
 野馬掛は妙見社へ野馬を奉献する行事で、小高神社の拝殿には、この行事を描いた相馬野馬追額三面(県有形民俗)があり、その勇壮な行事をしのぶことができます。また宮司蔵の大悲山文書(県重文)は、南北朝動乱期の史料として知られます。 

 小高城は紅梅山浮舟(こうばいさんうきぶね)城ともよばれ、南北朝時代の1336(建武三)年相馬重胤(しげたね)がその子光胤(みつたね)に命じて築かせたことに始まります。のち相馬利胤(としたね)が宇多(うだ)郡に中村城(相馬市)を築き移転するまで、12代270年余の間相馬氏の居城となりました。その間1597(慶長二)年から1603年までの一時期、行方郡牛越(うしごえ)村(原町市)に牛越城を築き住んだことがあります。

 相馬氏はもと下総国(しもふさのくに)千葉氏の一族で、1189(文治五)年源頼朝の平泉藤原氏討伐、いわゆる「奥州合戦」に従った功績により千葉介常胤(ちばのすけつねたね)が浜通りの諸郡を与えられたとき、その次男にあたる相馬師常(もろつね)が行方郡(小高周辺)の地頭職につきました。その後、1323(元享三)年師常から6代目にあたる相馬重胤が下総国から行方郡大田村の別所館(原町市太田)に移り住み、南北朝動乱期の1336年にこの小高城に移り、奥州相馬氏の基を築きました。その後、相馬氏は15世紀末南隣の標葉氏を滅ぼし標葉郡を支配、16世紀中頃には北隣宇多郡の黒木氏を攻めて宇多郡を配下に収め、3郡を統治することになります。

 建武の新政がはじまると、北畠顕家が陸奥国司となり、相馬重胤もその配下として行方郡の奉行を命じられましたが、1335(建武二)年足利尊氏(たかうじ)が新政府にそむくと、尊氏側にくわわり、小高城を築いてまもない頃、北畠顕家と鎌倉に戦い敗死しました。このとき小高城に残って守ったのが光胤です。しかし、顕家軍が尊氏を敗走させた後多賀城へのかえりみち、この小高城を攻撃し、1336(建武三)年5月攻め落とされ、光胤以下一族の多くが戦死しましたが、翌年にその孫胤頼のとき小高城を奪い返し、北朝側の重要な位置を占めることになりました。

 時代が下って、戦国時代伊達政宗と相馬義胤との争いが激しくなる中で、相馬領北辺の宇多郡が攻められ、重胤が小高城に移住して以来の最大の危機を迎えました。1589(天正十七)年のことです。小高城に武士、農民に至るまで集まり、妙見の神水をのみかわして伊達軍への抗戦を誓い合いましたが、翌年、豊臣秀吉の「奥州仕置(おうしゅうしおき)」の処置によりようやくその苦境を脱することができました。この年3郡4万8000石を安堵され、近世大名へと存続することができたのです。

 小高城は、小高川を中心とする沖積平野に舌(ぜつ)状に形成された台地上にあり、およそ300メートル四方の平山城で、中世城郭の特徴をよく示しておりす。台地のくびれ部を切って空堀とし、周囲を削って堀と池をめぐらし、台上に土塁の跡が見られ、本丸跡は東西およそ163m・南北およそ127mで、原形がよく保存されています。

 本丸跡の相馬小高神社は、妙見大明神・妙見社(妙見様)ともいい、天御中主(あめのみなかぬし)神を祀る妙見社で、相馬三妙見の一つです。相馬重胤(しげたね)が関東からこの行方(なめかた)郡(相馬郡南部)にうつるさい奉じてきたもので、相馬氏がその本拠を移すごとに建立され、相馬市中村、原町市太田とこの小高町の三妙見社があります。祭神の妙見は、妙見尊・妙見菩薩・北辰菩薩ともいわれ、北斗七星を神格化したものとされ、相馬氏代々の守護神であり、明治以後は天御中主(あめのみなかぬし)神に統一しています。神社の拝殿には18世紀頃制作の相馬野馬追額3面(県民俗)があり、宮司家が所蔵する南北朝動乱期の史料としてしられる中世の大悲山文書(だいひさもんじょ)16通(県文化)とともに貴重です。

 小高城跡から500mほど西方へ行くと同慶寺(どうけいじ)(曹洞宗)があります。相馬中村藩の菩提寺であり、ここに旧藩主並びに令室らの五輪塔・墓石が25基ひっそりと立っています。また霊屋(みたまや)には明治に至るまでの藩主と一族の位牌137基が安置されています。



大 悲 山 の 磨 崖 仏

                              ▼ 相馬郡小高町泉沢字薬師前12・字後屋14
                              ▼ 常磐線小高町駅バス浪江行薬師堂下車5分

 小高城跡を後に旧浜街道を南に1.5kmほど行き、中世相馬氏のわかれ岡田氏の岡田館跡を右に見ながらさらに1.5kmほど行けば、道路右側にうっそうとした杉森が見えてきます。これが大悲山の大杉(県天然)で、この森に大悲山の磨崖仏があります。第3紀層の砂岩をくり抜いて彫ったもので、薬師堂石仏・阿弥陀堂石仏・観音堂石仏(いずれも国史跡)の三つからなり、東北地方で最も大きな磨崖仏群です。明治の初め頃まで磨崖仏を管理する慈徳寺(真言宗)がありましたが、いまはありません。その寺伝では大同年間(806〜810)徳一大師の作と伝えられていますが、様式的には平安時代後期の造仏と見られます。なお、中世には相馬氏のわかれ大悲山(だいひさ)氏がこの地に根拠をおいていました。

 薬師堂石仏は、間口15.3m・奥行5.2mの岩窟の奥壁に釈迦如来坐像を中心に7体の仏像を高肉彫(たかにくぼり)にし、光背(こうはい)は薄肉彫または線彫であらわし、彩色は肉身部に黄土、衣文(いもん)には丹彩が残っていますが、もとは光背の覆輪(ふくりん)に金箔、そのほかに群青(ぐんじょう)がみられたといいます。各像とも剥落(はくらく)がひどく、顔面・両手・台座とも同様で印相(いんそう)などは不明です。

 薬師堂の北東約10mの所に、阿弥陀堂石仏1体がありますが、形状が明らかでないほど欠損しています。また、阿弥陀堂石仏の下の道を北東に400mほど行くと観音堂石仏があります。間口13m・奥行2.7m・高さ12mの岩窟に、巨大な十一面観音坐像を高肉彫にし、両翼に33体の化仏(けぶつ)を彫ってあったといわれますが、欠損がひどくはっきりしません。千手観音の頭部上半部と脇手左右七臂(しちひ)と化仏の一部を残すのみとなっています。化仏には丹彩が残っています。

 このような石仏群は、天台宗などの影響で九州から東北までひろがっていますが、大分県の熊野磨崖仏・臼杵の石仏など、また、関東の北では栃木県の大谷の石仏とこの大悲山の磨崖仏などが有名です。なお、この磨崖仏は鎌倉時代以降つくられた相双地方の磨崖仏にも影響を与えました。



桜 井 古 墳

                                        ▼ 原町市上渋佐字原畑66−1
                                        ▼ 常磐線原ノ町駅下車40分

 原ノ町駅から東方へ20分ほどで国道6号線の高見町交差点に出ます。交差点から700mほど東に行くと「国指定史跡桜井古墳入口」という標札があり、そこを左に折れると400mほどで前方に杉森が見えてきます。この森が桜井古墳(国史跡)です。正しくは桜井古墳群第1号前方後方墳で、前方部が旧地名原町市大字桜井字東畑にあったのでこの名称がつきました。いまでは町名変更により高見町となっています。桜井古墳は東北地方を代表する前方後方墳で、前方部が西面しています。1983(昭和五十八)年の確認調査によると、全長72m、前方部の長さ30m・高さ3m、後方部の一辺が45m・高さ6.35mで、その大きさは福島県内で3位、東北地方でも9位にランクされています。発掘調査が行われていないため棺槨(かんかく)の構造、埋葬品などは不明ですが、その外形などから4世紀末から5世紀前半代につくられたものと推定されます。新田川南岸のこの段丘上には、桜井古墳のほかに方墳1基を含めて10基の円墳が、東西500mの範囲内に分布しており桜井古墳群とよばれています。また、この周辺は桜井式弥生土器の出土する桜井遺跡としても有名になっています。

 桜井古墳群の手前を東西に走る市道に沿って、高さ1.5mほどの土塁の一部が確認できます。これがかっての「妙見神馬の牧」といわれた相馬中村藩の広大な藩運営牧場の周囲にめぐらされて、野馬の散逸を防いだ野馬土手の一部です。この部分は牧場(野馬原)の北端に位置していました。



羽 山 横 穴(はやまよこあな)

                                   ▼ 原町市中太田字天狗田100−93
                                   ▼ 常磐線原町駅バス小高行羽山嶽下車3分

 相馬野馬追祭場地(雲雀ヶ原<ひばりがはら>)の南隣に原町市営陸上競技場があり、そこから旧浜街道に沿って700mほど南に行くと、右手に羽山神社を祀る羽山岳があります。バスを降りて羽山木戸跡を通るとすぐ目の前に見える丘がそれで、頂上近くにコンクリートで外装された羽山横穴(国史跡)があります。

 羽山横穴は、1973(昭和四十八)年4月26日、羽山岳斜面の宅地造成中に偶然発見されました。横穴とは横穴古墳のことで、古墳時代末期の豪族の墓です。埋葬した部屋を玄室といいますが、玄室は一辺が2.7〜2.9mの方形で、天井の最も高いところが1.8mです。その玄室の奥壁と天井に朱と白色で絵を描いた装飾横穴古墳です。奥壁に朱(酸化鉄)で人物4・馬4・蛇行文1・長方形のシルエット1、さらに白色粘土を使った絵具で白く塗った上に朱の斑点を加えた白鹿1、朱と白の線で連結した朱色の渦巻文(うずまきもん)2といった構図の絵があり、天井には朱と白の円文(えんもん)が一面に散らばっています。これは7世紀初めの狩猟の様子を描いたものと思われますが、渦巻文が何を意味するかは不明です。玄室床面からは副葬品の鉄製直刀・金銅太刀・青銅製釧(くしろ)(=腕輪)・ガラス製小玉(装身具)・辻金具(馬具)などが見つかっています。1977(昭和五十二)年に現在の保存施設が完成しました。一般公開は4・5・9・10月の第2日曜日と前日の土曜日です。

 なお、浜通りにはこのほかに、双葉町清戸迫(きよどさく)横穴、いわき市中田横穴に装飾横穴があり、共通公開日として5月と10月の第2日曜日をあてています。 

 羽山岳から再びバスに乗り、旧浜街道を2kmほど南下し、中太田バス停の田園のなかに小高い杉森が見えます。これが太田神社の森で、この地を別に別所館跡ともいいます。

 太田神社を出て旧浜街道をさらに南下すると、2.6kmの所に長松寺(ちょうしょうじ)(臨済宗)があります。この寺はもと中村城下町にあり、相馬家19代相馬忠胤(ただたね)が藩主のときに建立した名刹で、中村藩の学問所として有名でした。1871(明治四)年に現在地に移転しましたが、そのとき銅鐘(国重文)も移されました。この鐘は銘文によると1659(万治二)年に相馬忠胤が寄進したもので、治工(じこう)は当時中村城下町に住まいの斉藤勘左衛門藤原清實です。長松寺から南へ500mほど行くと田園のなかに行徳上人と鶴の恩返しの伝説を伝える小鶴明神の祠があります。

 原町市内には、ほかに原町駅の南方1.2kmにある旧竹山家住宅(国重文)、常磐線太田駅の南方3kmにある初発(しょはつ)神社のスダシイ樹林(県天然)があります。旧竹山家住宅は18世紀後半の建物で、相馬中村藩時代の在郷給人(ざいごうきゅうにん)の住宅として貴重なものです。スダシイ樹林は幹周り3.5mの主木を中心に24本のスダシイが自然林を形成し、自然林の北限として学術的価値が高いものです。



太 田 神 社(別所館跡)

                                    ▼ 原町市中太田
                                    ▼ 常磐線原ノ町駅バス中太田下車東へ15分

 中太田バス停をおりると、東方の田園のなかに小高いスギの森が見えます。これが太田神社の杜(もり)です。この地を別名別所館ともいい、平将門の末孫相馬重胤が、1323(元享三)年、下総国から奥州に移住し、妙見尊を安置し住んだ館跡です。つまり奥州相馬氏の最初の館であり、その時安置した妙見尊が太田神社であるといわれており、相馬三妙見の一つです。社殿は流造で幕末の建築です。祭神は本来妙見尊ですが、明治以降は天之御中主(あまのみなかぬし)神に統一されています。宝物には相馬野馬追祭に用いられる陣太鼓・鳥毛槍などがあります。また境内の一角に御神水(おみたらし)があるのも妙見神社の特色です。                                                       



相 馬 野 馬 追

 「〜相馬流れ山 習いたかござれ 五月中の申(さる)お野馬追」とは、相馬民謡の代表的な「流れ山」の一節です。「流れ山」は相馬中村藩の軍歌といわれ、相馬野馬追祭の出陣のときや陣中でうたわれます。相馬野馬追(国民俗)はこの地方では「お野馬追」といい、もとは「五月中の申」の日に行われましたが、現在は7月23日〜25日となり、7月は相馬地方の人にとって野馬追一色の月となります。

 旧相馬中村藩6万石の2市5町2村にまたがるこの行事の起こりは、相馬氏(相馬中村藩主)の遠祖といわれる平将門が下総国葛飾郡小金ヶ原(千葉県流山市郊外)に馬を放牧し、野馬を敵兵とみたてて武術を訓練したのに始まると言い伝えられています。14世紀、相馬重胤が奥州のこの地の移り住んでからも野馬追の行事は続けられ、現在に及んでいるものです。

 また、野馬追は相馬氏の信仰する妙見尊に駿馬(しゅんめ)を捕らえて奉納するという妙見信仰とも深く結びつき、相馬中村藩時代には現在の原町市街地の南部一帯を「妙見神馬の牧」と称して馬を放牧し、その野馬を追い駿馬を捕らえて妙見社に奉納する行事でした。17世紀中頃、相馬忠胤が武田流の兵法を野馬追に応用し、その陣立てにより幕末まで行ってきました。明治以降は妙見三社(小高神社・太田神社・中村神社)による祭礼行事として定着し、現在にいたっています。

 第1日目はお繰出しと宵乗(よいの)り行事で、妙見三社により出陣式ののち原町市の雲雀ヶ原に集合、宵乗り行事を行います。2日目は野馬追祭のハイライト甲冑騎馬が原町市内を練り歩くお行列と、雲雀ヶ原での神旗争奪戦、3日目は小高神社で行われる野馬懸の神事です。



泉 廃 寺 跡

                                 ▼ 原町市泉字宮前48・寺家前90ほか
                                 ▼ 常磐線原ノ町駅バス北泉回り烏崎行観音前下車

 原町から烏崎行のバスで海岸方面に行く途中、泉集落の広畑バス停を過ぎたあたりの田園の中に、ひときわ優れた姿の松の木が見えます。これが泉の一本松(県天然)です。根回り3m、四方に14mほど枝を広げたクロマツの巨木で、一葉をまじえているところから一葉松、通称「弁慶松」といわれます。その昔、泉長者の屋敷が弁慶に焼き払われたとき、弁慶はこの松に腰を掛け、燃えさかる長者の屋敷を眺めていたという伝説からそう呼ばれています。

 弁慶松の東方400mの所に泉廃寺跡(県史跡)があります。廃寺跡といえば古代の寺院跡のように聞こえますが寺院の跡が官衙(かんが)(古代の郡役所)の跡かは不明です。泉字宮前・寺家前・惣ヶ沢の広い地域から古瓦(軒瓦・軒丸瓦・布目瓦)が出土し、一部からは建物の礎石・炭化米なども見つかっています。特に目立つのは独特の植物文様の軒丸瓦です。ほかに三芯蓮華文(さんずいれんげもん)軒丸瓦・細弁(さいべん)蓮華文軒丸瓦・円面硯(えんめんけん)などが出土しています。古瓦は平安初期頃のものと考えられることから、古代の郡衙か郡寺・軍団などの跡と推定されています。

 原町市内の古瓦を出土する遺跡としてはほかに植松(うえまつ)廃寺跡京塚沢瓦窯(きょうづかざわがよう)入道迫瓦窯(にゅうどうさくがよう)などがあり、県下に知られた遺跡です。泉廃寺跡出土の古瓦は原町市教育委員会が管理し、原町公民館2階の資料室に展示してあります。

 泉廃寺跡に隣接した北山麓に木造十一面観音像(県文化)を祀る泉の十一面観音堂があります。この観音像は高さ160.6cmの寄木造壇像で、鎌倉時代末期のものです。近世には奥相三十三観音の第10番札所に組み込まれ、現在でも参拝者が絶えません。その秀麗な尊像の複製が野馬追の里歴史民俗資料館に展示されています。観音堂の縁日は1月20日と7月20日で、本尊のご開帳があります。



真 野(まの)古 墳 群

                         ▼ 相馬郡鹿島町寺内字大谷地・字仏方・字八幡林・小池字長沼
                         ▼ 常磐線鹿島駅下車20分

 駅前から直線にのびる鹿島町の通りを西方へ1.3km行くと、右側に男山八幡神社の森があります。安産の神として信仰を集めているこの神社周辺が鹿島町寺内字八幡林で、道路をさらに西方に100m行けば左側一帯が字大谷地地域です。大谷地地域の道路沿い左側には「史跡真野古墳群」の案内板が立っています。これらの地域が真野古墳群A地域です。さらに、1kmほど西方に行けば道路右側一帯が小池字長沼地域で、道路を右に入った所に真野古墳群B地区の案内板があります。これらの古墳群の地域をあわせて真野古墳群(国史跡)とよんでいます。

 真野古墳群は6世紀から7世紀にかけて築造された東北地方でも最大規模の群集墳です。1975(昭和五十)年の「真野古墳群確認調査報告書」によれば、東西1.3km・南北700mほどの真野川南岸の台地に、120余りの古墳が造られています。そのうち前方部が西面した前方後円墳が2基、残りは直径20m以下の小円墳です。1947(昭和二十二)年以降4回の発掘により30基が調査されましたが、開墾により姿を消したものもあり、現在49基の古墳を残すのみです。

 大谷地地区の案内板の立っている所が真野古墳群第20号前方後円墳の前方部の一部です。この古墳は全長28.5mで、方3m×3.5m、深さ1.3mの方形の礫槨(れきがく)内から鉄製直刀・鉄斧(てつぷ)などとともに金銅製双魚袋(そうぎょたい)金具(県文化)2枚が発掘され、全国的に有名になりました。またB群8号円墳からは青銅製馬鐸(ばたく)3個が発見されています。双魚袋金具は現在県立博物館に、馬鐸の内2個は慶応大学考古学研究所に所蔵されています。

 真野古墳群の北方、真野川をへだてて1.5kmの旧浜街道沿いに横手古墳群A地区(県史跡)があり、A地区から県道を西に1km行った所に横手古墳群B地区横手廃寺跡(ともに県史跡)があります。旧浜街道沿いの田園のなかに円墳が点在しており、この横手古墳群A地区には12基があり、珍しい景観です。

 鹿島町は『和名抄(わみょうしょう)』に「陸奥国行方郡真野郷」と記された地域であり、『万葉集』に笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った「陸奥の真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを」の歌に詠まれた地域です。真野古墳群に行く途中の左側丘陵登り口に「みちのく万葉植物園」の標柱があり、ここを登れば万葉植物園があり、多くの歌人が訪れています。



日吉神社のお浜下り

                                         ▼ 相馬郡鹿島町江垂字中館
                                         ▼ 常磐線鹿島駅下車20分

 鹿島駅を出て、旧浜街道に沿った鹿島の町を通り抜け南へ1.5kmほどで一石坂(いちこくさか)にさしかかります。上りつめたあたり一帯が中世の城館跡中館です。そこに樹齢800年を超す大杉がそびえたち、霊山城落城にまつわると伝えられる日吉神社があります。南北朝時代、この地方も戦乱に巻き込まれますが、陸奥国司北畠顕家らは一時期伊達郡の霊山城にこもって北朝軍と対抗し、そこに鎮座する山王権現を信仰しました。のち霊山城が落城するとき、一族の武将が山王権現の御神体を奉じて落ちのび、現在の地に安置しました。これが今の日吉神社であるといわれます。霊山城から逃げのびるとき、主従13人は変装して七福神になぞらえ、敵の目を欺きながらきたといい、その踊りが今に伝わる「方財踊(ほうざいおどり)」だといいます。相馬地方には方財踊(一般に万作踊ともいいます)が広く分布していますが、その元の踊りといわれます。

 また、お浜下りという神事が海岸一帯に多く残っていますが、そのうち最も規模が大きく、多くの民俗芸能が奉納されるものとして日吉神社のお浜下りが有名で、12年ごとの申年(さるどし)に行われます。方財踊もこのときに奉納されます。このほか、大名行列や数組の子供手踊・獅子神楽・おつづら馬などの芸能が奉納され、数百人の行列が御輿(みこし)を中心にして5km東方の烏崎(からすざき)の浜に下り、塩垢離(しおごり)の神事を行います。日吉神社のお浜下りと手踊は県無形民俗文化財です。毎年の春祭りには太神楽(だいかぐら)・日置(へき)流印西(いんざい)派の弓芸・獅子舞などの奉納があります。なお、鹿島町には多くの子供手踊のほか獅子神楽・獅子舞・田植踊・万作踊などが伝承されており、民俗芸能の宝庫でもあります。

 日吉神社の境内に隣接して方2間の観音堂があり、奥相三十三所観音第9番札所として参拝客が絶えません。



阿 弥 陀 寺

                                        ▼ 相馬郡鹿島町南屋形字前畑168
                                        ▼ 常磐線鹿島駅下車20分

 鹿島駅の北東方の山寄りに、ひときわ高くそびえる大イチョウが見えます。ここが阿弥陀寺(曹洞宗)の境内です。正しくは中目山岩松院(なかのめざんがんしょういん)阿弥陀寺といい、岩松義政が建立したものです。岩松義政は中世関東の名族新田岩松の一族で、1406(応永十三)年、関東での一族の内紛が原因で行方郡千倉庄(なめかたぐんちぐらのしょう)(現在の鹿島町)に移住しました。初め横手村御所内(この地名は岩松氏の館の名から起こったといいます)に住み、のち病気のため屋形村に移り館を構えたといいます。岩松義政がもってきた持仏阿弥陀如来三尊像を安置し、養連(ようれん)社良長(りょうちょう)上人源尊(げんそん)を開山として一寺を建立したのがこの阿弥陀寺で、岩松義政の移住の年代をもって寺の開山としています。源尊上人は広野町折木成徳寺(おりきじょうとくじ)開山の聖觀(しょうかん)上人の高弟でした。

 本堂は桁行7間・梁間5間で、1736(享保二十一)年の建立です。境内には岩松義政の墓と伝える五輪塔、阿弥陀堂、相馬中村藩第16代義胤の次男相馬及胤(ちかたね)と夫人の五輪塔・自然石の墓石があります。梵鐘(ぼんしょう)銘には「享禄二(1529)巳丑中秋十日奉行目々沢盛清桑折左馬之助久家」とあり、この年に再鋳したことがわかりますが、その後も改鋳されています。相馬中村藩の浄土三ヶ寺の一つでもありました。

 岩松義政は移住のときに数々の寺宝をもってきたといい、現在も義政公遺品として伝えられています。刺繍(ししゅう)阿弥陀名号掛幅(みょうごうかけふく)(国重文)・刺繍阿弥陀三尊来迎掛幅(県文化)・法然上人像板木ほか10枚(県文化)のほか、三尊阿弥陀如来像(善光寺式程見(ほどみ)の如来。脇仏1体欠損)・絹本著色涅槃図などがあります。刺繍阿弥陀名号掛幅は毛髪で「南無阿弥陀仏」の6字を刺繍したものです。法然上人像板木の刻銘には「正和乙卯(1315)年十月二十一日」とあり、法然上人遷化(せんげ)100年後に彫られた京都知恩院の原板を模刻したもので、室町時代初期のものと思われます。

 阿弥陀寺の東方2kmの所に、鹿島町北海老に宝蔵寺(ほうぞうじ)(真言宗)があります。1268(文永五)年の中興開山と伝え、「永享八(1436)年」銘の牛王宝板木(ごおうほうはんぎ)、「嘉吉四(1444)年」銘の梵字(ぼんじ)五輪塔板木などを伝えています。また、東流する真野川の南小島田の遠藤貞信氏宅には「貞治八(1369)年」銘の地蔵菩薩立像板木(県文化)を伝えており、地蔵菩薩の来迎像板木は類例が少なく貴重なものです。




3、相馬中村とその周辺ー相馬北部

 相馬北部とは相馬市と新地(しんち)町をさし、郡名は古くは宇多(うだ)(=宇太)郡でした。戦国時代の末期に郡の南半分は相馬領、北半分は伊達領に分割され、以後、幕藩時代を通して相馬中村藩と仙台藩に二分されてきましたが、1896(明治二十九)年南隣郡の行方(なめかた)郡と合併して相馬郡と改称しました。

 相馬市の市街地中村は、幕藩時代に相馬6万石の城下町として栄え、浜街道の中村宿としてにぎわった町です。相馬氏は中村城に移った翌年から田野を碁盤目状に区画して町人を移住させて町場を造営しましたが、町割りや屋敷割りは今でもかわりなく、道幅の狭い隘路(あいろ)が多いという城下町の特色を残しています。相馬氏は954(昭和二十九)年、中村町を中心に近郊7ヶ村を合併して市制をとり相馬郡からわかれました。



中 村 城 跡(=馬陵城<ばりょうじょう>)

                                            ▼ 相馬市中村字北町
                                            ▼ 常磐線相馬駅下車20分

 市街地の西に中村城(県史跡)があります。市役所前を通る国道115号線を進むと右手に城跡が見えてきます。国道の突き当たりが大手一の門です。中村城は別名馬陵城ともよばれ、江戸時代を通して相馬6万石、藩主13代の居城として相馬中村藩政の中心をなし、明治維新をむかえています。

 古くはこの地は天神山と言われ、801(延暦二十)年、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、菅原敬実(すがわらたかざね)をおき、鎌倉時代には源頼朝が奥州藤原氏討伐の帰途立ち寄ったと伝えますが、本格的には大永年間(1521〜28)に中村氏が館を築いたことに始まります。その後、黒木(くろき)城を拠点とした黒木氏が支配する所となりましたが、相馬氏が宇多郡を支配後さらに手を加え、北の拠点として城代をおきました。17代相馬利胤(としたね)は中村移城にあたり木幡勘解由長清(こわたかげゆながきよ)を築城奉行として普請拡張を加えて本格的な城郭に仕立てあげ、1611(慶長十六)年、これまでの中世居城であった小高城から移りました。この頃は相馬氏と対立抗争を続けてきた伊達政宗が仙台城に移って間もない頃で、これに呼応して伊達氏に備えた中村移城であったといわれます。

 中村城は舌(ぜつ)状丘陵の先端に築かれ、本丸を中心とした丘陵の連郭(れんかく)部と二の丸など平地の輪郭(りんかく)部からなる平山城(ひらやまじろ)です。石垣が少なく土塁の多いのが特徴ですが、北に守りの固い複雑な縄張り(城の設計)がよく残り、素朴で小規模ながら堅城の風格をもち、中世城の特色を残した近世城郭として評価の高いものです。

 本丸の南西隅に三層の天守閣がありましたが、1670(寛文十)年に落雷で焼失し、以後再建しませんでした。殿舎は明治初年にすべて壊され、古江戸と庭の大藤だけが残り、跡地には1879(明治十二)年に始祖相馬師常(もろつね)らを祭神とする相馬神社が建ちました。1648(慶安元)年につくられた大手一の門だけが、城跡に残された唯一の城の建物です。

 城跡の西一角、妙見郭に「お妙見さま」とよび親しまれている相馬中村神社があります。相馬野馬追を主催する相馬三妙見の一つで、相馬氏の中村移城にともなって下総相馬以来の鎮守である妙見宮を小高から移して祀りました。祭神は明治になってから政府の神仏分離政策によって天之御中主(あめのみなかぬし)神にかわりました。妙見信仰は相馬武士の精神的支柱でしたので、今でも相馬野馬追の総大将はここから出陣(お繰出し)します。

 相馬中村神社の社殿は1643(寛永二十)年に完成したもので、総素木(そうしらき)造で柿葺(こけらぶき)(現在は銅板葺)、一間社流造の本殿・幣殿拝殿からなる権現造の桃山様式を伝え、相馬地方の社殿建築の指標となることから1983(昭和五十八)年国の重要文化財に指定されました。近年、老朽化が目立つようになったことから本格的な修復工事が進められ、1,993(平成五)年に装いも新たに社殿が完成しました。

 相馬藩御用窯である田代法橋(たしろほうきょう)田代駒焼登り窯(県民俗)は田町桝形跡のそばにあり、江戸時代からかわりありません。小泉の歓喜寺(かんきじ)(真言宗)は相馬家累代の祈願寺で、妙見社の別当寺だったことから相馬家系図や千葉妙見縁起(ともに県文化)や市文化財を所有し、その多くは市役所裏の相馬市文化センター博物館に収蔵されています。博物館では相馬岡田文書(県文化)や髪飾用具コレクション(県民俗)をはじめ、日本橋三越本店のロビーを飾る天女(まごごろ)像で知られた郷土の彫刻家佐藤玄々(さとうげんげん)の作品、二宮仕法関係資料、出土考古品などを収蔵公開し、特別展は夏の野馬追展が恒例になっています。



洞 雲 寺 と 愛 宕 山

                                        ▼ 相馬市西山字表西山
                                        ▼ 常磐線相馬駅バス福島行表西山下車

 バス停から国道115号線を西に向かうと家並みが切れたあたりに洞雲寺(曹洞宗)があります。ここは藩学問所の長松寺(ちょうしょうじ)(臨済宗)があった所です。長松寺は相馬氏19代忠胤が祖母長松院(17代利胤継室)の菩提所として創建、教学に熱心な忠胤が1655(明暦元)年に藩学問所としました。1822(文政五)年に藩校育英館が創設されるまではここが相馬藩教学の中心でした。明治になって長松寺が太田(原町市)に移り、小高から洞雲寺が移ってきたものです。洞雲寺は伊達政宗に奪われた駒ヶ嶺城の奪還をはかり、1590(天正十八)年、童生淵(どうしょうぶち)で戦死した中村城代隆胤(たかたね)(16代藩主義孝の弟)の菩提を弔って創建されました。ここの相馬家墓地には長松院らの大きな五輪塔が並び、近くには相馬に逃れ刑死した水戸天狗党の乱の残党の墓と、戊辰戦争の官軍墓地があります。

 この西山一帯は相馬の風致地区の一つ愛宕山史跡で、幕末維新期に相馬藩の顧問として活躍した慈隆(じりゅう)和尚の私塾である金蔵院(こんぞういん)学塾があったところです。その跡には礎石などが残り、往時を偲ばせます。
 僧慈隆は日光山にいましたが、ゆえあって山をおりることになったとき、相馬藩は、彼が傑出した人物で、また二宮仕法の推進者でもあったので相馬に招きました。1856(安政三)年彼は相馬にくだり、金蔵院を宿舎とし、みずから洛山慈隆と称し、庵号を静慮(せいりょ)と名付けました。彼は、藩主の最高顧問として、役人の訓戒、子弟の教育にあたりました。彼はここに学塾をつくり、塾生は寄宿生300人、通学生100人にもおよんだといわれます。そのほか二宮仕法の実施に大きな力となり、戊辰戦争では、東奔西走して相馬を戦火からすくいました。明治維新後は行政の改革に尽力しましたが、明治5年東京の相馬家で病没しました。
 

 中腹には二宮仕法を推進した草野正辰(くさのまさとき)・池田胤直(たねなお)の両家老を祀った地蔵堂があり、山頂には二宮尊徳の遺髪を葬った尊徳の墓と慈隆の墓が並んでいます。頂上の愛宕神社は中村城下の火伏せの社です。この下を通る国道115号線は1960(昭和五十三)年まではトンネルだったところです。愛宕山の真下を流れる宇多川は、中村城築城のおり、城近くの流れをここで南に切り換えて現在の流路にしました。城の堀水はここが取入口です。



涼ヶ岡(すずみがおか)八幡神社

                                   ▼ 相馬市坪田字涼ヶ岡
                                   ▼ 常磐線相馬駅バス車川経由原町駅行八幡下車

 愛宕山から宇多川の南対岸、清水橋のたもとにある熊野堂城跡は南北朝の動乱期(1335〜38)に南朝の白川結城宗広(ゆうきむねひろ)の臣中村六郎広重がたてこもり、黒木城と呼応して南朝の拠点霊山の海道口を守った拠点城で、相馬氏を中心とした北朝方と再三攻防戦を繰り広げた所です。これを契機に相馬氏は宇多郡進出を果たしました。今は切り立つ岩肌に往時の面影をとどめるのみで、頂上の一部は住宅になっています。熊野堂の東一帯は奈良時代の瓦が出土する黒木田(くろきだ)遺跡で、宇多郡衙(ぐんが)の有力な推定地です。

 熊野堂の南、八幡集落にある涼ヶ岡八幡神社は、建武年間(1334〜38)に中村六郎広重が守護社として建立したと伝え、境内には戦勝を祈願した矢旗塚があります。1695(元禄八)年に相馬藩主6代昌胤(まさたね)が再建造営した社殿(県文化)は、拝殿と流造の本殿を幣殿でつないだ権現造で、江戸時代初期建築様式の特色をみることができます。

 八幡集落から鉄道を越えると東にのびる高松丘陵があります。この西端に、この地方には珍しい吉田神道(よしだしんどう)の様式と伝える都玉(くにたま)神社があります。藩主昌胤が、早逝したわが子都胤(くにたね)を吉田神道によって祀った社殿は1718(享保三)年の創建で、裏山には都胤の塚があります。この丘陵には多数の横穴と山上墳からなる高松山古墳群があります。丘陵の南に広がる坪田耕土(こうど)は二宮仕法の発業の地。東の旧国道には旧街道景観を残した旧浜街道松並木があり、近くには1931(昭和六)年から地元の仏師荒嘉明(あらよしあき)に始まり3代にわたって悲願をこめて彫り続けている未完の磨崖仏、百尺観音があります。



黒 木 城 跡

                                      ▼ 相馬市黒木字西館
                                      ▼ 常磐線相馬駅バス丸森行黒木下車3分

 中村城から北西に2km、国道113号線沿いの黒木集落の西に、建武年間(1334〜38)に黒木大膳亮正光(だいぜんのすけまさみつ)が築いた黒木城跡があります。黒木氏は北畠顕家の家臣といわれ、熊野堂城とともに南朝霊山の搦め手口からの北朝軍の進出阻止にありました。霊山落城後は相馬氏の配下に入りましたが、16世紀中頃に相馬氏に滅ぼされるまでの200年間余、この城を本拠に宇多郡を支配しており、中世相馬史解明の鍵を握る武士です。相馬氏はここを伊具郡をめぐる伊達氏との攻防の拠点にしましたが、城代の謀反が相次ぎ、中村移城後まもなく廃城としました。輪郭式の平城に近い形状の城跡は耕地になっていますが、周囲には二重堀がめぐり、城の縄張りもほぼ明らかです。

 黒木集落は近世浜海道の黒木宿で、東西家並みでしたが、1747(延享四)年の大火にあい、復興後現在の南北家並みにかえ、名を岩井宿と改めました。



松 川 浦

                                    ▼ 相馬市尾浜・松川・岩子ほか
                                    ▼ 常磐線相馬駅バス松川浦原釜行松川港

 相馬駅から4km東方に「日本百景」の一つ県立自然公園松川浦があります。南の磯部からのびた砂嘴(さし)が宇多川・小泉川の河口をふさいで生まれた現存する県内唯一の潟湖(せきこ)です。奇岩や白砂青松の島々が散在している景観は、早くから松島に次ぐ景勝地として知られ、『万葉集』の東歌にも詠まれました。その松ヶ浦万葉碑は、岩子の厚生年金松川浦荘に立っています。藩政時代に歌人としてしられる相馬6代藩主昌胤の願いにより、東山天皇から松川十二景の絵に添えて公家の詠んだ和歌、絹本著色松川浦十二景和歌色紙帳(市博物館蔵)が贈られて新名所に加えられてからは、江戸の文人も多くこの地を訪れました。十二景の歌碑としては鵜の尾岬(おざき)の水茎(みずくき)山など浦をめぐる故地に建てられたのをはじめ、多くの文学碑があり、最近は「へりおす」殉難碑や岩子には林不亡(はやしふぼう)にちなんで丹下左膳(たんげさぜん)の巨碑が立ちました。これらの文学碑をめぐるのも浦巡りの楽しみの一つになっています。

 松川浦は藩政時代には藩主遊休所として庶民の立ち入りを禁じていましたが、十八世紀頃から塩田が開かれて島々では製塩が行われるようになり、明治時代の中頃までつづきました。島や浦近くの岩穴は濃塩水を蓄えた製塩名残の塩穴です。和田の川沿い森近くの塩釜神社は、1615(元和元)年に千葉行徳(ぎょうとく)の製塩技術を伝えた玄蕃(げんば)の塚があります。

 外海への浦口はこれまでは鵜の尾岬下の飛鳥(あすか)湊でしたが、明治の末に州が岬にくっついたので現在の港口を切り開きました。このとき岬にあった松川集落はすべて対岸に移り、鵜の尾岬は無住の陸繋島(りくけいとう)にかわりました。浦にある磯部・岩子・松川の3港の船はみなこの港口から出入りしています。浦の産業も時の移り変わりと相まって変化しました。製塩にかわってノリの養殖へ、第二次大戦後はアサリが加わり、今、松川港は漁業基地に、浦は観光地となり、松川浦は自然美と産業と観光を調和させながらさらに大きく変貌しようとしています。



駒 ヶ 嶺 城 跡

                                             ▼ 相馬郡新地町駒ヶ嶺字館
                                             ▼ 常磐線駒ヶ嶺駅下車15分

 駒ヶ嶺駅の西方に旧仙台藩領駒ヶ嶺があります。駅から国道6号線を越えると、かって浜街道の駒ヶ嶺宿だった東西にのびる家並みに出ます。この一帯が1570年代(天正年間)に相馬盛胤(もりたね)の築城した駒ヶ嶺城跡(臥牛(がぎゅう)城)です。標高50m森林のおおう山頂に、本丸と二の丸・三の丸があり、要所に空堀と枡形状土塁を築く梯郭(ていかく)式の山城は、戦国時代期特有の風格を残しています。
 家並みのなかほどから大手道を登れば、城門跡の虎口を通り、二の郭・三の郭を経て虎口の残る本丸と西館へと続きます。西側には二重堀がめぐるなど城郭の縄張りが良く残っています。東側国道6号線下の低地は宅地と荒れ地になっていますが防御と灌漑を兼ねた湛水地(たんすいち)である御池(おいけ)跡です。

 この城は伊達氏と対立抗争を続ける相馬氏が宇多郡北部の支配強化のため、中村支城と新地蓑頸(みのくび)城の繋ぎ城として築き、伊達軍の再三に及ぶ宇多侵攻を防いできました、しかし、1589(天正十七)年、三春城をめぐって伊達政宗と争っていた相馬義胤が田村郡に出陣中に、その虚をついた政宗によって攻略されました。伊達氏と相馬氏は中世以来さかいを接しながら争いを続けた宿敵で、南北朝に始まる抗争は戦国期に頂点に達しました。義胤は再三城の奪還をはかりますがついにならず、以後、この地は伊達氏領になりました。藩政時代には1718(享保三)年(徳川中期以降)から宮内氏が領主になり、代々駒ヶ嶺城に居館(2000石)して藩境警備に当たりました。明治戊辰戦争のとき、仙台藩兵はここを本営として最後まで西軍に抵抗し、浜街道の最終戦である駒ヶ嶺戦争は1ヶ月余にも及びました。この戦いでは、仙台藩とともに奥州越列藩同盟に属していた相馬藩は、西軍に降伏し、徹底抗戦を続ける仙台藩と激しい越境戦を展開したすえ、因縁の駒ヶ嶺城を奪回しました。御池跡の旧道脇には、戊辰戦争仙台藩士の慰霊碑と、放置された仙台藩兵の遺体を村人が集めて葬った戦死塚が立っています。

 戊辰戦争後、仙台領民は相馬の態度を激しく非難しましたが、相馬領民も政宗の新地攻めを非難して応酬するといった、駒ヶ嶺をめぐる抗争は後世にまで遺恨となって、住民のあいだに感情的敵対意識をのこしたのでした。

 駒ヶ嶺小学校の北東丘陵には、日本最古で最大の古代製鉄コンビナート遺跡である武井製鉄遺跡群がありました。ここでは燃料の木炭生産、鉄精錬から鉄製品の製造までの一貫した生産が行われていました。記録保存ののち開発されましたが、出土品は県文化センター(福島市)にあります。

 駒ヶ嶺の南、塚部・渋民丘陵が相馬と伊達の藩境(相馬市・新地町境界)で、この稜線に沿って江戸初期に阿武隈高地山麓から旧新沼浦までおよそ6kmに及ぶ藩境土塁が築かれました。このような土塁が藩境に築かれたのは伊達・南部境以外では全国でも珍しいものです。現在国道113号線バイパスが建設中で大部分は消滅しましたが、一部は三貫地貝塚の南西、113号線に近い北原地区に分断の歴史を秘めて残っています。国道6号線とバイパスの交差点西側の善光寺(ぜんこうじ)遺跡からは7〜8世紀初期の須恵(すえ)窯が十数基見つかり、切り取った1基は新地町役場の側にある農村環境改善センターで公開しています。この丘陵東端の裾にひろがる大森遺跡からは、古墳時代の「千枚田」状の水田跡や当時の人と牛馬の足跡が見つかり、日本でも数例しかない馬鍬(まぐわ)が出土しました。古墳時代に旧新沼浦の縁ではすでに牛馬耕が行われたことを物語っています。遺構は記録保存後開発されましたが、出土品は県文化センターで見ることができます。



三貫地(さんがんち)貝塚

                                        ▼ 相馬郡新地町駒ヶ嶺字田丁場
                                        ▼ 常磐線駒ヶ嶺駅下車20分

 駒ヶ嶺駅から国道6号線を越え、阿武隈高地にむかってのびる直線道を行くと、水田が畑にかわるあたりの桑畑のなかに三貫地貝塚(県史跡)の案内板が立っています。この貝塚は新地貝塚に続いて1893(明治二十六)年に発見され、1924(大正十三)年・1952(昭和二十七)年・1954年の三回組織的の発掘調査されて、多様な葬法をした百十数体の人骨をはじめ、双口土器・注口土器などの優れた土器、多様な骨角器が出土して注目されました。これらの結果から三貫地貝塚は縄文時代後期から晩期にかけて形成されたアサリを主とする内湾性の貝塚で、この貝塚人の平均寿命は男29.2歳・女32.1歳と推定されるなど、貝塚研究に画期的役割を持つものとして特筆され、現在では福島県内で最も保存状態のよい貴重な貝塚です。

 この貝塚の周辺一帯はまた、縄文時代から中世にかけての複合遺跡である三貫地遺跡でもあります。1976(昭和五十一)年から数次に及ぶ遺跡の範囲確認調査では、地点貝塚や縄文中期から弥生時代の遺物包含層・遺構をはじめ、古代の集落跡などを広く埋蔵していることが確認されています。

 このあたりから眺める西の山並みでひときわ目立つ紡垂形をした山が、新地貝塚生成伝説の主の住みかとされる鹿狼山(かろうざん)です。『むかし、この山に手の長い神様が住み、その手をのばして貝をひろってたべていた。神様でも殻まではたべられないので、それを小川にすて、殻はつもりつもって貝塚になった』というもので、貝塚にたいする素朴な疑問がうんだこの巨人伝説は、かなり昔から伝えられていたと思われます。北の丘陵にある子眉嶺(こびみね)神社は駒ヶ嶺の地名伝説をもつ延喜式内大社で、馬の神様として信仰を集めています。



觀 海 堂(かんかいどう)

                                         ▼ 相馬郡新地町谷地小屋字桝形
                                         ▼ 常磐線新地駅下車6分

 新地駅前のT字路から西一帯は谷地小屋要害跡で、藩政時代亘理伊達氏の新地陣屋がおかれていました。相馬盛胤が伊達氏領の伊具・亘理進出をうかがう足がかりとして、1564(永禄七)年頃築いた谷地小屋城を、伊達氏が江戸初期に改築再利用したものです。明治の末までは、方形複郭のうち本丸に二重の水堀がめぐり、内土塁には桜が植えられていたことから桜館(さくらだて)とよんでいました。水田のなかに見える屋敷地は、わずかに残った二の丸の一角です。南の中島集落はかって伊達氏の家臣集落です。この集落の東口にある觀海堂(県史跡)は、明治新政府の学制発布に先立って、教育立村を願う村民が創設した共立学校です。仙台藩校養賢堂(ようけんどう)教授であった氏家閑存(うじいえかんそん)を迎え、1872(明治五)年5月、亘理伊達氏の家臣旧臣宅を学舎として開校しました。觀海堂は1873年、学制施行とともに県下にさきがけて小学校(觀海堂)になりました。觀海堂創設にあたった目黒重真(めぐろじゅうしん)が、学校運営の財源として学校助田料借地(のちに学校田)を取り入れ、また、学校図書館ともいうべき觀海堂文庫を備えたことは、近代教育史上画期的な施策として注目に値します。文庫は仙台藩主伊達慶邦(よしくに)の筆になる「觀海堂」の掲額とともに町教育委員会で保存しています。

 役場の北向の農村環境改善センターでは、古代の須恵器を焼いた登り窯を見ることができます。町の東西にのびる家並みは浜海道の新地宿で、町名はこの宿駅名をとりました。浜街道は町の西のはずれから北西に大きく迂回して蓑頸(みのくび)城跡の前を通る道です。蓑頸(新地)城は相馬盛胤が1566(永禄九)年に、谷地小屋城にかえて宇多郡最北端に築いた伊達氏に備えた城です。伊達政宗が駒ヶ嶺城とともに攻略したのち普請をしましたがまもなく廃城しており、城跡の保存がよく戦国期における相馬氏の築城技術を知るうえで貴重な城跡です。



新 地 貝 塚

                                          ▼ 相馬郡新地町小川字貝塚西
                                          ▼ 常磐線新地駅下車30分

 新地高校の東に隣接して、新地貝塚(国史跡)とこの貝塚の生成にまつわる巨人伝説の主を祀った手長明神(てながみょうじん)社跡(国史跡)があります。このあたりは手長明神が住んだという鹿狼山から東へ4km、貝を捕った海岸からは2km入った標高15mほどの微高地の先端で、縄文時代後・晩期の馬蹄形をした貝塚が形成されています。

 江戸時代中頃、仙台藩儒学者佐久間洞厳(さくまどうげん)が伝説と貝塚屋敷を『奥羽觀蹟聞老志(おううかんせきぶんろうし)』に紹介したことから、古くから知られていましたが、中村(相馬市)の館岡虎三(たておかとらぞう)らが1890(明治二十三)年調査結果を発表し、本県の学術調査と研究報告の先駆けとなりました。これに着目した東京大学の山内清男(やまのうちすがお)らは、1924(大正十三)年に初めて層位発掘による土器の編年を試みました。このとき出土した瘤つきを特徴とする土器の型式は新地式土器と名付けられました。新地貝塚は考古学史上貴重な貝塚です。

 新地貝塚の北一帯は、縄文中期の複式炉をもった集落遺跡と古代集落が複合している山海道遺跡です。この北西の丘陵には手長明神を合祀した二羽渡(にわたり)神社があります。境内にある地蔵は皮膚病に御利益があるということから、8月23日の祭礼日には地蔵に飴を塗る奇習があり、「あんこ地蔵」とよばれています。