浜 通 り 南 部

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 福島県浜通り南部に、県全体の9%(1230ku)の面積を占める広域都市が、1966(昭和四十一)年、5市4町5村の合併によって誕生しました。古くから伊波岐(いわき)・石城・岩城・磐城などとこの地方をさす呼称から、仮名文字だけの「いわき」の市名がつけられました。

 いわきの原始・古代の遺跡・遺物は豊富に検出されています。縄文早期の矢之内遺跡、前期 の竜門寺(りゅうもんじ)遺跡、中期の大畑貝塚、後期・晩期の寺脇(てらわき)貝塚・薄磯(うすいそ)貝塚などが著名です。弥生時代の遺跡の発掘例は十数ヶ所にとどまりますが、古墳時代に入ると、5世紀の造営と見られる玉山(たまやま)1号墳が出現します。6世紀以降の古墳はおびただしい数にのぼります。菊多国造(きくたのくにのみやつこ)や石城国造の設置をはじめ、大和朝廷の統治の浸透がうかがえます。

 奈良時代には、常陸国府から陸奥国府に至る海道(かいどう)の要衝としての役割が課せられていました。多くの条里制遺構や菊多軍衙(ぐんが)跡と石城軍衙跡が知られています。平安時代末期には関東の平氏と奥州藤原氏の影響を受けながら、菊多庄や好嶋(よしま)庄が成立します。

 鎌倉時代には、好嶋庄が関東御領となりましたが、地頭岩城氏の勢力が拡大し、南北朝から室町を通じて強大化しました。戦国大名岩城氏の勢力は、佐竹・伊達両氏と離合を繰り返しましたが、奥州仕置と関ヶ原の戦いに際して佐竹氏と密着し、その結果、出羽国亀田(秋田県岩城町)に転封されました。

 江戸時代に入ると、”いわき”は磐城平城(たいら)を舞台にして動いています。鳥居・内藤・井上・安藤氏と藩主がいれかわり、磐城平藩・泉藩湯長谷藩・窪田藩・幕府領小名浜・笠間や棚倉藩の分領・飯野八幡神社領などに分割統治されていました。

 安政年間(1854〜60)から始まった石炭の生産は、1960年代のエネルギー革命によって閉山しましたが、地元に各種の関連工業を誘致させました。また、臨海低地では古くからの農業や水産業に近代の商工業が、山間地には林業や農業に加えて酪農が立地しました。1988(昭和六十三)年、常磐自動車道が開通し、産業・観光面などで首都圏との結びつきが強まっています。




1、勿来の関を越えて

2、三函のいで湯ー湯本

3、岩城氏の栄華を訪ねて

4、古代文化の里




1、勿来の関を越えて

 福島県の太平洋沿岸はふつう「浜通り」といわれます。古代・中世には海道あるいは東海道とよばれていました。「常陸国風土記」には、この海道の多珂国(たかのくに)を653(白雉四)年に二分して、多珂郡と石城郡(いわきぐん)としたとあります。『続日本紀』によれば、718(養老二)年に、陸奥国のうち、海道の石城(いわき)・標葉(しねは)・行方(なめかた)・宇太(うた)・亘理(わたり)の5郡と、多珂(たか)郡北部の210烟(いん)を割いて菊多郡とし、あわせて海道6郡を石城国としたといいます。そして719年には、石城国に「駅家(えこや)一十処」を新設しました。菊多(きくた)関(勿来関)はこのときにその名を与えられたと思われ、常陸・石城両国の国境に設置されました。



勿 来 の 関 跡

                                    ▼ いわき市勿来町関田長沢
                                    ▼ 常磐線勿来駅バス九面行勿来入口下車15分

 バス停から常磐線を越えて山の手に進むと、勿来関跡があります。勿来関は古くは菊多関といわれ、勿来関とよばれるようになったのは、江戸時代の文人たちが文学的修辞からその呼称をつけたことに始まります。799(延暦十八)年の太政官符には「擬郡司十八人、白河、菊多関守六十人」とみえており、坂上田村麻呂の征夷軍の北上の時期における菊多関の機能が想像されます。その後、10世紀の初め頃までには関の役割は終わっていました。

 現在の勿来関跡の場所には、葛山為篤(かつらやまためあつ)の『磐城風土記』(1670年)や中山信名の『新編常陸国誌』などによって比定されたものです。以来、頼山陽(らいさんよう)・管茶山(かんちゃざん)・幸田露伴(こうだろはん)・徳富蘆花(とくとみろか)・長塚節(ながつかたかし)・斎藤茂吉(さいとうもきち)らが関跡を訪れ、もっぱら文学上でもてはやされてきました。最近いわき市では関跡に歴史文学館を建てています。また、八幡太郎義家の騎馬銅像が建てられているのは、「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」の歌に託してのことです。この場所が古来の菊多関であったかどうかは疑問とされています。有力な説としては、茨城県の関本上根岸から、上野台ー大作ー中山廃寺跡を経て、福島県いわき市勿来町の出蔵ー関根ー北境ー国魂神社に至り、菊多郡衙跡につながるルート上に菊多関があったとしています。

 勿来関跡の北西約4km、勿来第1小学校の近くに国魂神社があります。同社は菊多国造が祀った神社と伝え、この神社の北側の台地の大高地区は、縄文弥生・古墳・平安時代の遺跡がひしめいています。なかでも、(こおり)遺跡は長者屋敷の伝説をもち、正倉群とみられる礎石や炭化籾(もみ)・平瓦・甕形土師器(かめがたはじき)などが出土しており、菊多の国魂神社の近くであることから、郡衙跡に比定されています。

 また、郡遺跡の北東方2.5kmの鮫川右岸には、御宝殿熊野神社があります。この神社に伝わる稚児田楽(ちごでんがく)と風流(ふうりゅう)(国民俗)は、よく古式を残しています。



泉 城 跡

                                             ▼ いわき市泉町3−2
                                             ▼ 常磐線泉駅下車5分

 泉駅の南側、旧泉小学校跡地一帯が泉城跡です。泉城は1634(寛永十一)年に磐城平藩から分家して泉藩2万石を興した内藤政晴によって築かれました(内藤氏3代継続)。泉藩はその後領主が板倉氏(2代)・本多氏(7代)と移り変わりましたが、幕末まで続きました。特に本多忠籌(ただかつ)は心学に傾注し、藩政改革によって農民救済や武士の倹約を進める一方、寛政の改革では松平定信のブレーンとして活躍しました。

 現在、城跡には堀と土塁の跡が残っているだけですが、近くの北野神社と諏訪神社の間や下川の八帆入(やおいり)橋付近は、城下町の面影を残しており、船着場を含めて落ち着いた町並みがみられます。

 1868(慶応四)年、泉藩では廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、寺院も民間に払い下げられましたが、下川の寺跡には、江戸からの帰り空船が重しとして運んだという石の山があります。

 泉駅から東へ下川につうじる道が、旧国道6号線と交差する所に諏訪神社があります。神社の敷地は中世の滝尻城跡です。この城を中心として1337(建武四)年に南北朝両軍による合戦が行われています。現在では土塁と環壕の一部が城の面影をしのばせます。



島 倉 城 跡

                                      ▼ いわき市小名浜島字館下・犬吹
                                      ▼ 常磐線泉駅バス湯本方面行馬玉下車

 バス停一帯が島倉城跡です。藤原川の沖積平野に半島状に突出した丘陵の端にあり、城の西端をJR常磐線が通ります。北東と北の斜面は急崖で、麓には縄文海進の海食崖が残っています。南斜面は緩斜面と段丘があります。その尾根と谷の斜面に沢山の曲輪群をつくり、頂上の曲輪には土塁を設け、一部を石垣としました。山麓には家中屋敷を配置し、岩ヶ岡沿いに短冊型の地割りをもつ館下の城下町をつくりました。南北朝のいわきを代表する山城です。
 
 城主は岩崎氏で、岩城一族です。湯本・内郷までを勢力圏としていましたが、1410(応永十七)年に岩城惣領家に敗れました。なお、藤原川と釜戸(かまど)川沿いにある丘陵には、島倉城を小さくした山城群が密集して、現在、熊野権現・八坂・稲荷・牛頭天王などの小社が鎮座しています。



寺 脇 貝 塚

                                   ▼ いわき市小名浜古湊字寺ノ脇
                                   ▼ 常磐線泉駅バス江名行小名浜営業所下車5分

 バス停から南へ120mほど行くと寺脇貝塚があります。藤原川流域の沖積低地の小名浜は、太古、大きな入江の海底でした。この低地を囲む三方の台地には縄文時代の集落地が存在し、夏井川や藤原川の流域には多くの貝塚が見つかっています。その中でも寺脇貝塚・綱取貝塚・大畑貝塚などは、外洋性貝塚として貴重です。

 寺脇貝塚は縄文晩期の貝塚で、古湊の冷泉寺(れいせんじ)という寺脇にあったところから名付けられました。ここから発掘された釣針は、鹿の角で軸の部分と返りの部分を別々につくって、これを組み合わせた珍しいものです。これはたいへん貴重なものとして「寺脇型」とよばれ、県は1968(昭和四十三)年、これらを含む骨角製品194個・土製品6個・貝製品17個・石製品5個・土器1個、その他の土器片を含めて重要文化財に指定しています。

 綱取貝塚は、小名浜港東岸のマリンタワーの建つ三崎台地にあり、大畑貝塚は西岸の台地にあります。これらの貝塚から出土した骨角製漁具は、マグロやカツオなどの捕獲が盛んであったことを物語っています。



住 吉 神 社

                                      ▼ いわき市小名浜住吉字住吉
                                      ▼ 常磐線湯本駅バス小名浜行住吉下車5分

 バス停から西へ行くと、国道と藤原川の中間に住吉神社(祭神底筒男(そこつつのお)命・中(なか)筒男命・表(うわ)筒男命)があります。住吉神社は古代東北地方の海上交通の守護神として、航海安全・国家鎮護のために奉斎された、延喜式内社として知られます。拝殿と幣殿は近来の造営ですが、現在の本殿(県文化)は桃山建築の三間社流造の様式を伝えており、神社の所蔵する棟札から1641(寛永十八)年に再興されたことが知られています。12月12・13日の祭礼には、かって勅使の参向があったことを伝える参向式や流鏑馬(やぶさめ)が行われます。

 住吉神社の北300mほどの所の岩山に、別当寺だった医王山保福寺(ほふくじ)(曹洞宗)があります。1574(天正二)年、門渓永朴(もんけいえいぼく)の開山と伝えられていますが、創建をさかのぼる「正中三(1326)年」の胎内銘のある木造薬師如来坐像があります。

 住吉の東方2kmほどの御代(みよ)には熊野山光西寺(こうさいじ)(臨済宗)があります。境内には「御代の大仏」で知られる露座の銅造阿弥陀如来坐像があります。また、宝物として紙本墨書後西天皇宸翰(しんかん)御懐紙が保存されています。



禅 長 寺(ぜんちょうじ)

                        ▼ いわき市小名浜林城字大門
                        ▼ 常磐線湯本駅バス玉川団地経由小名浜行玉川中央下車3分

 バス停から東へ国道6号線にむかって進むと、左手に普門山禅長寺(臨済宗)があります。今では住宅団地にすっかり囲まれていますが、大同年間(906〜810)、徳一大師によって開かれたと伝える古寺です。1579(天正七)年には正親町(おうぎまち)天皇の勅願所となり、江戸時代には末寺を擁して寺領30石を有し、門前には下乗の牌を掲げていました。
  

 唐様式の拝殿には、正親町天皇宸筆(しんひつ)による木造扁額(へんがく)「普門山禅長護国禅寺」「海会(かいえ)」の2面(県文化)が掲げられています。また、1410(応永十七)年、仏師院尊の制作になる室町美術様式の先駆的役割をなす作品として注目される木造観音菩薩半跏(はんか)像(県文化)の滝見観音が安置されるなど、格式の高い由緒ある寺でした。

 能因法師によって「夕されば汐風こしてみちのくの 野田の玉川千鳥鳴くなり」(「新古今和歌集」)とうたわれた玉川はこの地だといわれていますが、藤原川の氾濫原(はんらんげん)はかって海の入江で、当時このあたりは潟湖(せきこ)のような所で、アシが繁茂し海鳥が飛び交っていたと考えられます。太古、海であったことは、玉川の南方にある住吉神社境内にある岩山に波浪の痕跡を残した波食地形がそれを物語っています。




2、三函(さはこ)のいで湯ー湯本

 湯本川沿岸に位置する湯本は、古くは三函(さはこ)とよばれ、温泉で知られていました。『拾遺集』に「あかずして別るる人の住む里は さはこのみゆる山のあなたか」(読人知らず)と詠まれています。湯本の名称が出てくるのは南北朝期で、菊多庄の一部でした。江戸時代末期には石炭の採掘が始まり、明治以降は常磐炭田とともに栄えました。



湯 本 温 泉

                                              ▼ いわき市常磐湯本町
                                              ▼ 常磐線湯本駅下車10分

 湯本駅から北へ進むと、湯本の温泉街の入口に湯本神社があります。湯の岳(湯本の西方約4km)を御神体とし、大巳貴(おおなむち)命・少彦名(すくなひこな)命を合祀しています。延喜式内社で、古い歴史をもちますが、この地に造営されたのは1695(元禄八)年、平藩主内藤義孝(よしたか)によってです。『延喜式』神名帳に、当時の代表的温泉神社として記されているのはこの湯本のほかに伊予国温泉郡湯ノ神社・摂津国有馬郡温泉神社・下野国那須温泉神社の3座で、この町の温泉が古来から名湯の一つと数えられているのがわかります。

 温泉神社から北へ100mの所に観音山があります。ここは南北朝の争乱のとき抗争の場となった湯本城の跡だといわれています。この山の下には惣善寺(そうぜんじ)(浄土宗)があります。この寺は1559(永禄二)年、良恩(りょうおん)上人の開山と伝えらます。本尊は寄木造の阿弥陀如来坐像(県文化)で、像底の銘文に1335(建武二)年、比丘(びく)善来(ぜんらい)の願により院派の仏師院誉がつくったことが記されています。境内には亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)の高弟安田田騏(でんき)の墓があります。

 惣善寺の近くに「中の寺」と呼ばれる勝行院(しょうぎょういん)(真言宗)があります。1520(永正十七)年の再建と伝え、本堂右側にある釈迦堂には、寄木造の釈迦如来坐像(県文化)があり、鎌倉時代から南北朝時代にかけての特徴を示しています。温泉神社前の御斎所街道を西へ進むと、1670(寛文十)年、平藩主内藤忠興が2男政亮(まさすけ)に新田1万石分与してできた湯長谷藩領へ入ります。市立常磐病院前信号を左折し、500mで長谷寺(曹洞宗)にきます。この寺は大同年間(806〜810)、徳一大師の開山と伝えられています。現在の本尊は木造十一面観音立像(県文化)で、胎内銘には「文保二(1318)年」の年紀と、岩城氏の庶流岩崎氏一族50余人の名前が記されています。近くには、湯長谷藩士で京都三十三間堂において千二筋の矢を射たことで知られる鈴木吉之丞の霊神を祀った長松(ちょうしょう)神社もあります。



能 満 寺(のうまんじ)

                                     ▼ いわき市常磐西郷町忠多
                                     ▼ 常磐線湯本駅バス泉田行湯長谷下車15分

 バス停から南へ進み、県道(常磐ー勿来線、旧浜街道)を横切ってさらに行くと、右手に1469(文明元)年、松連(しょうれん)社良秀上人の開山した能満寺(浄土宗)があります。この寺にある木心乾漆(もくしんかんしつ)虚空蔵菩薩像(国重文)は天平期の特徴をよく示している仏像で、もと奈良東大寺所蔵のものといわれています。境内には袋中(たいちゅう)上人の生誕地碑があります。上人は1552(天文二十一)年にこの地に生まれ、能満寺・平の専称寺(せんしょうじ)・栃木の足利学校で学び、仏教を学ぶため明に渡ろうとしましたが果たせず、1603(慶長八)年、琉球に赴き、国王尚寧王(しょうねいおう)の帰依をうけ琉球念仏宗の開祖となりました。

 街道を湯本の方へ戻ると、左側に磐崎中学校の入口があります。この中学校の敷地からは縄文中期の土器が発掘されており、また、湯長谷藩主内藤氏の館が構えられていた所です。さらに街道を戻ると関船町に入ります。左手に見えるのが金比羅神社です。大物主大神・金山彦大神を合祀し、1505(永正二)年、この地に建てられました。漁業関係者の信者が多く、1月10日の例大祭には、海上祈願などの人々が多く参詣してにぎわっています。



上遠野(かどうの)城跡

                                    ▼ いわき市遠野町上遠野本町
                                    ▼ 常磐線湯本駅バス遠野行本町下車30分

 湯本からバスで御斎所街道を西に進み、本町で降ります。バス停から北へ坂道を上ってゆくと、上遠野中学校があります。このあたりから背後の山一帯が上遠野城跡です。この城は八潮見(やしおみ)城ともよばれ、南北朝以後、岩城氏の家臣上遠野氏の居城でした。上遠野氏はもと藤井氏と称し、下野(栃木県)の小山氏の一族であり、菊多荘の在地支配をゆだねられてこの地に土着しました。遠野町は戦国時代に上遠野城の根古屋(ねごや)・町構いとして発達し、江戸時代には御斎所街道の宿場町としての役割をもつようになりました。

 上遠野城の石垣は、主郭中央部の南側にあって、土塁も高さ10mを越すものもあり、曲輪群・堅堀・櫓(やぐら)橋などからなり、きわめてよい状態で保存されています。

 この町の北東にあって三大明神山南麓の深山田(みやまだ)の瀬谷俊次宅では、紙漉(す)きを50年も守り続けています。岩城延紙といわれた遠野紙は、250年前の享保期(1716〜36)から、地元では障子紙として、江戸では記録用紙として重宝され、明治初期に作られた福島県内の地籍図もこの紙が使用されました。したがって、産地も遠野町入遠野・内郷高野町・田人町など800戸の生産者を数えたこともありました。

 上遠野城跡から、さらにバスで御斎所街道を西に進むと、左手に御斎所山があり、その麓の街道沿いに田人町黒田といわき市錦町の両熊野神社の奥の院である御斎所山熊野神社があります。この神社は、宝亀年間(770〜781)に坂上田村麻呂の東征の折り、当地で「吾人紀州熊野権現なり」との神託があり、東夷を討ち功をそうしました。そこで、782(延暦元)年に紀州本宮から分霊を当地に奉斎して、御斎所山熊野大権現と称したと伝えています。



御 斎 所 街 道

 御斎所街道の由来は、この街道の難所の峠、鮫川右岸の標高600mの御斎所山の下を通ることによります。山頂には熊野神社があります。この山の北の斜面は原始林に近く、植生も豊かで紅葉が美しく、いわき市の天然記念物に指定されています。この街道は茨城県平潟港・植田からと、小名浜・湯本からの道が遠野町根岸で交わり、御斎所峠を経て石川町を通り、白河・須賀川・会津に至る海と山を結ぶ重要な街道でした。街道は鮫川沿いにあって、阿武隈山地を越すわりには御斎所峠は標高150mと低いところです。しかし、標高600mの山地の硬い変成岩(鮫川石として庭石として有名)地帯を通るので、谷壁は急峻(きゅうしゅん)で、鮫川の川底には平坦面はなく、街道は谷壁を通るので、難所は連続していました。根岸と才鉢(さいばち)の間は何回も上り下りがあり、曲がりに曲がった道で、幅を広くとれず、曲がり角で対向する牛と牛が衝突して100m以上の急崖を転落したこともあったので、牛方は曲がり角では笛を吹いて警鳴したといいます。これらの急峻な旧道は、現在の道路よりも15mほど高いところに分断されてあちこちに残っていますが、この道路の探索は危険をともなうので容易ではありません(根岸の坂本屋旅館の駐車場の西端から残る旧道は安全で、旧道の雰囲気も残しています)。

 現在の街道は1891(明治二十四)年に改修したおりにできた道を改良して使用しています。現在、御斎所峠には熊野神社遙拝所があって、境内には馬頭(ばとう)観音・牛頭(ごず)観音・道路改修記念碑・茶屋跡などがあり、貝屋(かや)では夫婦の道祖神、旧洞門のあった七曲がりには木樵(きこり)像の浮彫の山の神など、信州の石工によるみごとな石塔が散見されます。

 湯本近くになって、瀬峰(せみね)と上遠野町原前を結ぶ旧道は丘陵の尾根を通り、非常に見晴らしも良く平坦で保存状態も良くされています。 




3、岩城氏の栄華を訪ねて

 平・内郷を中心とするこの地域は、古代は陸奥国磐城郡に属していました。鎌倉初期には岩城氏が好嶋(よしま)庄の地頭となり、それ以後、室町・戦国期にかけて岩城氏が勢力をのばしました。しかし、関ヶ原の戦いに参加しなかったため、江戸幕府により所領を没収され、1602(慶長七)年に鳥居氏が10万石で平に入り、磐城平藩が成立しました。その後、藩主は内藤氏・井上氏・安藤氏とかわりましたが、平は城下町として繁栄しました。また、江戸時代末期から石炭の採掘が始まり、明治以降は石炭の町としても栄えることになりました。



白水阿弥陀堂

                                ▼ いわき市内郷白水町広畑
                                ▼ 常磐線内郷駅バス川平行阿弥陀堂前下車15分

 バス停から北に進み、白水川にかかる朱塗りの橋を渡ると、山懐に抱かれ、露盤から流れる美しい曲線をもつ阿弥陀堂の屋根が見えてきます。
 白水阿弥陀堂(国宝)は、正式には願成寺阿弥陀堂といいます。寺伝によると、願成寺は1160(永暦元)年、領主岩城則道の後室徳尼(とくあま)が、亡夫の冥福を祈って建立したといいます。徳尼は奥州藤原清衡(きよはら)の娘であると伝えられ、中尊寺金色堂や毛越寺(もうつうじ)の浄土教文化がこの地方に大きな影響を及ぼしたとみられており、浄土教文化の地方への波及の代表例として有名です。

 阿弥陀堂は方3間の堂で、正面は各柱間を扉口とし、側面は前面寄り1間、背面は中央間を扉口としており、他は横板壁となっています。屋根は宝形造・栩葺(ともぶき)で、屋頂には露盤・宝珠をのせています。内陣にはかって彩画が施されていた痕跡が認められます。堂内には木造阿弥陀如来および両脇寺立像・木造持国天立像・木造多聞天立像(いずれも国重文)が安置されています。いずれも平安時代のものであり、徳尼が中尊寺金色堂の仏像を写してつくらせたという伝承をもっています。

 阿弥陀堂の美しさは、堂の南にひろがる浄土庭園(国史跡)によっていっそうひきたちます。苑池には中島と小島・州浜や石組みが配置されています。中島には南橋と北橋がかけられ、大門に通じていました。浄土庭園は平安後期に流行した庭園で、浄土曼陀羅を現世に再現したものです。代表的なものとしては白水のほか、平泉毛越寺庭園や宇治平等院の庭園などがあります。

 願成寺の境域(国史跡)は内院と外院にわかれていました。内院には阿弥陀堂を中心とし、外院は東側に小御堂、西側に僧坊がありました。現在、東側一帯の史跡庭園整備が進められています。境域西の山腹には、本坊の無量寿院(むりょうじいん)成願寺(真言宗)があり、1321(元享元)年に版刻された白水版法華経板木が伝えられています。

 境域の南には白水川を隔てて遍照光院(へんしょうこういん)があり、ここはかて大師堂がありました。1576(天正四)年、戦国大名岩城親隆(ちかたか)夫人の寄進になる寺堂でした。また、白水川に沿って西の谷あいへ行くと弥勒沢(みろくさわ)があります。1855(安政二)年、片寄平蔵(かたよせへいぞう)が石炭の路頭を発見した所です。 



城 下 町 平

                                                 ▼ いわき市平
                                                 ▼ 常磐線平駅下車

 平という地名は中世の「飯野平(いいのたいら)」に由来します。平駅の西方2kmに位置する大館は、戦国大名岩城氏の居城であり、この大館を含めて東西に縄張りされた城郭は総じて飯野平城と称されます。国道6号線が49号線を分岐するあたりの西北に小高い山が見えますが、好嶋庄の要衝の地であり、南北朝期に預所伊賀氏と地頭岩城氏がしきりに相論した好嶋山はこのあたりなのかもしれません。

 岩城氏は、室町初期いらい、一族が惣領家職をめぐって抗争しましたが、1483(文明十五)年岩城常隆が覇権を握り、平駅の南東方3kmの山上にあった白土(しらど)城からこの大館の山上に築城し居城を構え、好嶋西庄(よしまにしのしょう)の中枢部を完全に支配下に入れました。以後、岩城氏は北方の相馬領の楢葉(ならは)郡や北西方の田村領境を侵攻し、南方では常陸領にまで領域を拡大しました。岩城氏はしばしば伊達氏や佐竹氏と婚姻関係を結んでいましたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に出陣した岩城常隆(つねたか)(伊達政宗のいとこ)は、帰陣の途中で急逝し、そのあとは秀吉の仲介によって佐竹義重の3男能化丸(のげまる)(岩城貞隆)が当主として迎えられました。関ヶ原の戦いに西軍についた佐竹・岩城両家は、秋田に移されました。

 1602(慶長七)、徳川家譜代の鳥居忠政が入封し、磐城平10万石(のち12万石)を領有しました。そして、あらたに飯野八幡宮の東方の物見ヶ岡とよばれる台地に平城を築きました。これが平駅の北に接する平城跡です。築城は12年間をかけて竣工し、物見ヶ岡を中心として本丸、その北に二の丸、北西に三の丸を配し、平城三階八棟櫓と称されていました。台地は「お城山」といわれ、当時の石垣や丹後沢・桜堀などの水堀が残されています。

 城下には紺屋町・鍛治町・材木町・大工町・鷹匠町・仲間町などの町名が残っていますが、戊辰戦争で焼失したあと鉄道が敷かれたり、外堀が埋められたりし、また、太平洋戦争の空襲にもあって、城下町のたたずまいは残されていません。わずかに城山の道筋や城下の大木戸にあたる紺屋町や鎌田町には、枡形の道が残されています。

 1622(元和八)年、鳥居氏が山形転封のあと、内藤氏(政長)が入封し、以後、1747(延享四)年に日向延岡(ひゅうがのべおか)に転封されるまでの125年間内藤氏の治世が続きます。内藤氏は文化事業に見るべきものを残しています。内藤義概(よしむね)(のち義泰)は風虎(ふうこ)と号して俳諧をよくし、北村季吟や西山宗因と親しくしました。次男の義英(よしひで)も露沾(ろせん)と号し、松尾芭蕉と交わりました。城西の高月屋敷に住み、いわき市内の古社寺には露沾の作品が多く残されています。奥の細道に旅立つ芭蕉へのはなむけの句に、「月花を両の袂(たもと)の色香哉」があります。

 城下の出来事で最大のものは元文三)年の惣百姓一揆でした。これは洪水・凶作のうえに新税・重税をかけられて困窮した農民が、町役所や牢屋・役人宅などを襲撃し、21ヶ条の要求をつきつけたものでした。およそ2万人が城下に攻め入ったといわれます。およそ1ヶ月に及びましたが、一揆の要求は認められず、指導者28人が捕らえられ、このうち7人が鎌田河原で処刑されました。当時の藩主は内藤政樹(まさたつ)であり、この惣百姓一揆が要因となって、1747年日向延岡に転封されたといわれます。
 
 内藤氏の後は、井上氏(正経(まさつね))が入封し、1756(宝暦六)年大阪城代となり、次いで美濃国加納の安藤対馬守信成が城主となりました。当時5万石、安藤氏は後に幕末外交に活躍した老中安藤正信がいます。戊辰戦争には平藩は奥州列藩同盟にくみし、西軍の集中砲火のため平城は焼失しました。



飯 野 八 幡 宮

                                             ▼ いわき市平字八幡小路
                                             ▼ 常磐線平駅下車15分

 平駅から国道399号線に出て福島方面に進み、裁判所の角を左折すると朱塗りの大鳥居のある飯野八幡宮(祭神譽田別<ほんだわけ>尊)があります。岩城4郡の総社で、旧県社です。

 平安時代の末期に岩城郡の豪族岩城氏一族によって開発された好嶋(好間)庄は、源頼朝の奥州征伐(1189年)に先だち、1186(文治二)年に鎌倉幕府の支配下に入りました。このとき、京都の石清水八幡宮を本社として、赤目崎見物岡(あかめがさきみものがおか)(現社地の東方300m)に八幡宮が建立されました。幕府は岩城太郎清隆(いわきのたろうきよたか)を地頭に任じ、預所に有力御家人の千葉介常胤(ちばのすけつねたね)をすえたのでした。さらに1204(元久元)年には尼将軍政子の命によって現在地に社地を移し、大規模な社殿の造営に着手しています。その地が飯野郷の台地にあたるので、飯野八幡宮と称されました。現在の社殿(国重文)は1616(元和二)年に再建されたもので、本殿は三間入母屋造であり、桃山時代の建築様式が伝えられています。祭礼(9月14・15日)には流鏑馬(やぶさめ)(県民俗)が行われます。

 好嶋庄は、現いわき市北半部に展開された関東御領の荘園でした。夏井川を挟んで東西両庄に分けられていましたが、飯野八幡宮は荘域一円の守護神として信仰されていたことが、1269(文永六)年の鳥居造立のための作料の配分状況からわかります。東西両庄ともに地頭は岩城氏一族が任じられていました。

 東庄の預所は大須賀氏(千葉氏庶流)となり、西庄預所は伊賀氏となりました。伊賀氏(室町時代以降飯野氏と改める)は八幡宮の北方500mの地(磐城高校の北)に居館を構えていました。方1町(109m四方)のみごたな土塁をめぐらし空堀を有する居館です。飯野家には、鎌倉から江戸時代に至る膨大な子文書、飯野文書(県文化)が伝存されています。

 この飯野文書は、我が国中世史上の重要な資料となっています。この文書によると、飯野八幡宮は1186(文治元)年、本宮(京都石清水八幡宮)から分祀され、赤目崎見物岡に勧請されました。当時すでにこの地方の開発領主として、奥州藤原氏と緊密なあいだにあった豪族岩城氏に対する、源頼朝の経営上の布石でもありました。岩城氏は夏井川・好嶋(好間)川流域の沃野を支配し、幕府の御家人に列し好嶋庄地頭に補任されていました。このことから鎌倉幕府にとって八幡宮は重大な意味あいをもつ神社となり、有力御家人千葉氏や伊賀氏を好嶋庄の預所として派遣してきました。このようななかでの預所と地頭との連帯、あるいは離反などを飯野文書は詳細に伝えています。

 元弘・建武をへて南北朝の動乱期には、足利氏がこの八幡宮を重視し、社殿の造営や神事(放生会・流鏑馬)を興隆しています。しかし、好嶋庄域の実質的な支配権は在地の地頭岩城氏一族におさめられ岩城氏は国人領主としてやがて戦国時代を成長していきます。文禄検地のさいに、飯野八幡宮には神領650余石が与えられ、社家飯野氏(伊賀氏の子孫)が支配しています。当時は社殿堂塔がならびたち、社家32人、供僧12坊があったとあります。

  



忠 教 寺(ちゅうきょうじ)

                                    ▼ いわき市四波字石森216
                                    ▼ 常磐線平駅バス四波行終点下車40分

 平駅の北方2.5kmほどの夏井川左岸に石森山(標高225m)がそびえたちます。この山の南斜面中腹に磐城山忠教寺(臨済宗)があります。1593(文禄二)年、岩城忠治郎貞隆の建立によるものといわれ、本尊釈迦如来坐像(県文化)は、藤原様式をうけた鎌倉時代初期の作で、1688(元禄元)年、平城主内藤義孝の寄進によるものです。境内には、中国原産の落葉高木カリン(県天然)があります。

 忠教寺に接して、自然休養村のフラワーセンターや生活環境保全林があります。フラワーセンターには、自然の起伏を生かした日本庭園やガラスの大展示温室をはじめ、モデル花壇や水生植物園・花木展示園などがあります。また、生活環境保全林には、「太陽の道」や「さえずりの道」など11kmにも及ぶ遊歩道がもうけられています。



赤 井 岳 薬 師

                                   ▼ いわき市平赤井
                                   ▼ 常磐線平駅バス赤井岳下行終点下車60分

 バスを降りると、西に赤井岳(標高605m)があります。その山腹に、樹齢数百年を数える杉やヒノキの巨木に囲まれて、赤井岳薬師を祀る水晶山常福寺(じょうふくじ)があります。現在は自動車で簡単に参詣できるようになりましたが、かっては赤井口から歩いて登りました。旧参道には、現在も老松の並木が薬師堂まで延々と続いています。

 この寺は新義真言宗知山派関東北準別格の本山で、734(天平六)年、大和国の鷲峰山(じゅぶせん)の僧源觀(げんかん)が、薬師如来像を護持して入山し、開創したと伝えられます。初め、水石山剣ヶ峰に草庵がありましたが、のち806(大同元)年、僧徳一によって現在地に移されたといいます。やがて真言密教の霊峰として信仰を集めました。祭礼は8月31日で、元旦の初詣とともに多くの参詣者を集めます。
 赤井岳の北西2kmほどの所に水石山(標高735m)があり、ツツジやモミジの季節には多くの人でにぎわいます。



磐 城 街 道

 いわき市平と中通り・会津を結ぶ古くからの街道が磐城街道で、三春・須賀川・本宮方面に至ります。中世にはこの街道に沿って岩城領の西端の三坂(みさか)の三倉(さのくら)城から下市萱(しもいちがや)の根古屋(ねごや)・中寺向館(なかでらむかいだて)・中寺北目館(きためだて)・渡戸(わたど)館・合戸(ごうど)館・大利(おおり)の館・好間(よしま)小館・飯野平城(いいのたいら)が並んでいました。三倉城は岩城氏の家臣三坂氏の館で、急崖と曲輪群からなり、虎口も残っていて山城の特色を持っています。合戸館は権現館ともいいます。山頂には竹柵に囲まれた円墳状の塚があり、そこには熊野権現社が祀られています。

 また、江戸時代になり、会津藩から江戸への廻米輸送、浜から内陸部への海産物や塩の輸送でこの街道を利用するようになると、三坂の中町・上市萱・中寺・合戸などの帯状の宿場町が発達しました。現在の国道49号線はこれらの多くの町をさけて通り、旧宿場町は昔の形態を今日まで残しています。

 この街道沿いの村々は江戸時代には放牧による馬産地となり、明治初期の地租改正時には入合地が国有林になり、その後、国有林の立木の払い下げをうけて木炭の生産地になり、その生産が衰えると換金作物としてタバコが導入されました。そのなかで沢渡(さわたり)地区だけが国有林の下戻しに成功して民有林となり、植林が施行されて杉の美林が連続しています。



常 慶 寺(じょうけいじ) 周 辺

                                  ▼ いわき市小川町上小川字植ノ内42
                                  ▼ 常磐線平駅バス小川行小川郷下車10分

 バス停小川郷を出ると県道(小川ー平線)沿いに静かな町並みが続きます。小川小学校脇を通り、北へ約1.5kmの芝原に遍照寺(へんしょうじ)(浄土宗)があります。この寺には西国三十三観音を安置した観音堂があります。1738(元文三)年に起きた平藩最大の事件である百姓一揆の指導者の一人として処刑された名主吉田長次兵衛の墓もここにあります。
 
 町に戻り、いわき市古道線を500mほど西へ行くと常慶寺(真言律宗)が右手にありあます。ここには「天明飢饉の碑」が残されています。これは天明の大飢饉の際、幕領小名浜代官蔭山外記(かげやまげき)がとった救荒策に感謝して、1786(天明六)年に建てられたものです。ここには白井遠平(しらいえんぺい)の墓もあります。彼は自由民権運動の士として活躍し、衆議院議員となりましたが、そのご実業界に転じ、炭坑の経営や常磐線建設運動なども行い、各方面での功績も多くあります。また、京都帝大にも学び、東大講師として活躍し、マルクス研究の第一人者として知られている櫛田民蔵(くしだたみぞう)も郷里のこの寺に葬られています。

 常慶寺から国道399号線を川内村方面へむかうと、途中、二ッ箭山(ふたつやさん)への登山口があります。二ッ箭山は、かっていわき「国峰(くにみだけ)」として民間信仰に結びつき、修験行者の心身錬磨の信仰の山として、二ッ箭山参りも行われた所です。山頂部には男体・女体の二つの巨岩峰があり、女体は鎖を頼って登れますが、男体はロッククライミングの心得がないと登れません。いわき中央低地や太平洋を見下ろせ、修験行者の修行にふさわしい山です。10月の紅葉期には全山炎と化し、そのすばらしい景観はみごとなものです。

  



小川江筋(おがわえすじ)取水口

                                        ▼ いわき市小川町関場
                                        ▼ 常磐線平駅バス小川行三島下車

 国道399号線からの小川町への入口にある三島橋の所に、小川江筋取水口があります。小川江筋は夏井川の水をひいて新田を開発するために、郡奉行であった沢村勘兵衛(さわむらかんべえ)が、藩命を受けて1651(慶安四)年に着工し、約3年で完成したものの、讒言によって切腹を命じられたと伝えられています。しかし、内藤家文書によれば工事は寛永〜寛文年間(1624〜73)の約30年続き、その間、一時彼は江筋に関係し、検地の失敗と部下の不正の責を負って死罪になったと考えられます。いずれにせよ全長30kmの江筋が丘陵沿いに流れ、約1200haの田畑をうるおし、米の増収をもたらしています。なお、1876(明治九)年に下神谷(しもかべや)に沢村神社が建てられ、その霊が祀られています。

 県道(小川ー赤井ー平線)を小川郷駅から平方面に戻ると、赤井の地に愛谷江筋(あいやえすじ)があります。これは山森治右衛門が1674(延宝二)年に工事を始めたといわれています。延長16km、水の流れが500ha田畑をうるおします。




4、古代文化の里

 平駅の南東を太平洋に注ぐ夏井川下流の右岸から南々東塩屋崎にかけてひろがる海岸平野部(夏井・高久(たかく)・沼ノ内・薄磯・豊間地区)は、古代石城(いわき)国の中心部でした。岩城国は718(養老二)年に菊多(常陸国)と石城・標葉(しねは)・行方(なめかた)・宇太(うた)・亘理(わたり)郡をあわせて一国とされたのです。翌年、石城国に初めて駅家10ヶ所も設置されました。石城国が、数年後に廃されて陸奥国に編入されてからは、石城郡衙(ぐんが)の機能を維持することになりました。古代から中世を通じて、夏井川下流右岸一帯が政治・経済の中心であったことは、多くの文化財の分布によって知ることができます。



専称寺と如来寺

                                ▼ いわき市平山崎字梅福山5・字矢ノ目92
                                ▼ 常磐線平駅バス西原行専称寺前下車10分

 バス停から平駅方向へ戻ると、左手に専称寺(浄土宗、県史跡)があります。1395(応永二)年、良就(りょうしゅう)上人が開創した浄土宗名越(なごえ)派本山の寺院です。6世良大の延徳年間(1489〜92)に勅願所となり、江戸初期には奥羽地方を中心として全国に300から500の末寺をもっていました。本堂は名越派壇林としての独特な構造を残し、ほかに経堂・庫裏・寂光院跡・衆寮跡などが良好に保存され、600本の白梅とともに優れた景観をみせています。

 専称寺の東方500mには如来寺(浄土宗)があります。この寺は1304(嘉元二)年に鎌倉から下向した真戒尼(しんかいに)に帰依した神主山名行阿(やまなぎょうあ)一族によって創建されました。1322(元享二)年、鎌倉名越谷の善導上人(尊觀)の法孫良山上人を迎えました。専称寺に壇林が移るまでは、如来寺が名越派本山で、銅造阿弥陀三尊像絹本著色阿弥陀三尊像(ともに国重文)を伝えていました(現、いわき市所有)。近世初頭の高僧袋中(たいちゅう)上人は如来寺と専称寺に学び、袋中の著書に「琉球神道記」があります。



大 国 魂(おおくにたま)神 社

                                     ▼ いわき市平菅波字宮前
                                     ▼ 常磐線平駅バス西原行大国魂神社下車5分

 如来寺から南東500mの所に大国魂神社(祭神石城国魂神・大巳貴神他)があります。延喜式内社で、磐城郡7座の首座です。古代石城国造(いわきのくにのみやつこ)や岩城郡郡司、中世国魂村(くにたまむら)(国衙<こくが>領)地頭国魂氏などが奉斎した神社です。国魂文書1巻22紙(県文化)は、鎌倉時代の岩城氏系図や南北朝時代の北畠顕家・足利尊氏袖判(花押)のある軍忠状などを含むものです。例祭は5月4・5日であり、豊間浜への神幸が行われ、出雲流神楽の大和舞を伝えています。

 大国魂神社の東方200mには、水田の中に高さ8m・直径37mの円墳、甲塚(かぶとずか)古墳(国史跡)があります。石城国造建許呂(たけころ)命を葬ったと伝えられています。この古墳の周囲には条里制の地名や遺構が確認され、近くの旧浜堤には、数基の古墳跡がみられます。また、この砂畑遺跡には古代住居跡が埋もれていました。



夏井廃寺(なついはいじ)塔跡

                                ▼ いわき市平下大越字石田
                                ▼ 常磐線平駅バス夏井・西原行細田下車25分

 大国魂神社から南東方2kmに夏井廃寺塔跡(県史跡)があります。塔跡と周辺遺構の数次に及ぶ発掘調査の結果、数棟の建物跡や塔跡基壇の構造などが判明しました。そのほかに重孤文軒平瓦・浮文複弁六葉蓮華文瓦や土師器(はじき)・須恵器・唐硯(とうけん)などが伴出しました。文字瓦には「子東人・丈部・里栖」など人名を示すものや「福・嶋・依」など地名の一部を示すものもありました。

 夏井廃寺塔跡の西方から南方にかけてひろがる舌状台地には、根岸遺跡があります。この遺跡は石城国衙(郡衙)の建物跡と推定され、重層をなす版築柱穴跡の群列が発見されました。この遺跡に近接する長者平とともに、このあたり一帯は「続日本後紀」840(承和七)年の条にみえる磐城郡司磐城臣雄公(いわきのおみのおきみ)の「官舎正倉一百九十字」建設のありさまを伝えているのでしょう。夏井廃寺塔跡一帯は古代石城国の風土記の丘にも比すことのできる所です。

 夏井廃寺塔跡から東方2kmほどで太平洋の砂丘に出ることができます。この海岸線は「新舞子浜」と名付けられ、南北12kmに及びます。南は塩屋崎灯台から北は四倉(よつくら)港に続きます。江戸時代の初期、平藩主によって植えられた防潮のためのクロマツ林が美しい。



高 久 古 墳 群

                             ▼ いわき市平下高久・沼ノ内
                             ▼ 常磐線平駅バス高久・豊間・江名行西原下車30分

 根岸遺跡の南西方にのびる大乗坊(だいじょうぼう)丘陵の南面には千五穴(せんごあな)とよばれる横穴古墳群があります。詳細な調査は行われていませんが、石城国成立以前の歴史の風景を知る重要な遺跡として知られいます。この丘陵の南東端近くには小鍛冶山(こかじやま)や金古堤(かなこづつみ)(=溜池)があり、製鉄跡の存在が推定されています。金古堤に接して高久古館(たかくこだて)((県史跡)があり、古代石城軍団の跡に比定されています。

 高久古館跡に上れば、滑津(なめつ)の川の河口近くの肥沃な田園風景が眺望できます。この一帯は牛転(うしころばし)古墳群・八幡(やあど)横穴古墳群・神谷作(かみやさく)古墳群・神殿(しんでん)古墳群・沼ノ内古墳群などが密集しており、これらの古墳群を総称して高久古墳群といいます。

 1951(昭和二十六)年に発掘された神谷作古墳101号墳出土の埴輪男子胡坐像(国重文)は、6世紀の東国の埴輪を代表する逸品です。三角形の天冠をかぶり、ヤマユリの花弁のような開いたひさしはゆらゆらと動き、先端につけられた鈴の音が聞こえてきそうです。美豆良(みずら)を肩までたらし、両手を前にささげ、あたかも死者への告文を誦しているようです。天冠と籠手(こて)、着衣には、三角形が朱で彩色されています。この埴輪のほかに女子像・跪坐(きざ)像の埴輪(ともに国重文)をはじめ、武人男子立像・さしば・飾馬・円筒埴輪の破片などが多数出土しています(いずれも磐城高校管理)。
 神谷作古墳群の北に隣接する八幡横穴古墳群からは金銅製忍冬文透彫(にんとうもんすかしぼり)の幡金具3枚が出土しました。

 神谷作から県道を南へ約2km行くと中田横穴古墳(県史跡)があります。凝灰質の砂泥岩層を掘削した複室をもつ横穴墓です。後室の周壁には連続する三角形が描かれています。青銅製の釧(くしろ)を含む装身具385点、銀製の鉾(ほこ)や桂甲(けいこう)などの武器・武具169点などの豊富な遺物が発見され、6世紀末の古墳文化を知るうえで重要な遺跡です。

 中田古墳は天光山密蔵院賢沼寺(けんしょうじ)(真言宗)の西裏に位置します。賢沼寺は「沼ノ内の弁天様」ともいわれ、境内に130aの沼があって、ウナギ(国天然)が生息しています。賢沼寺は中世の山城、沼ノ内館の一角にあります。賢沼寺バス停の北100mの所には沼ノ内公園があり、庭に面して愛宕神社が祀られています。1月15日の水かけ祭には、前の年に結婚した青年に地区の大人が水をかけて祝うという習わしがあります。



薬王寺(やくおうじ)周辺

                              ▼ いわき市四倉町玉山字林崎
                              ▼ 常磐線四ツ倉駅バス柳生・下小川・平行薬王寺下車

 四ツ倉駅から西へ、仁井田(にいだ)川の左岸に沿っていくと、広々とした田園風景が眺められます。四倉町の戸田から長友・名木にかけての一帯は、中世好嶋庄(よしましょう)(東庄<ひがしのしょう>)の中枢域であり、鎌倉末から室町初期にかけての岩城氏居城長友館がありました。長友館跡の東端には長隆寺(ちょうりゅうじ)があって、木造地蔵菩薩立像(国重文)を伝えています。仁井田川の右岸の戸田地区には条里制遺構の存在が確認されています。

 仁井田川の流域は、古代に石城郡玉造郷(中世の大野郷)と称されていました。古代の玉造りにちなんだ郷名と思われますが、工房跡などは確認されていません。しかしながらこの一帯には弥生から古墳時代の遺跡が多く、いわき地方の古代文化の一拠点であったことがわかります。

 薬王寺への途中、林崎でバスを降りると、大野中学校の西側に玉山古墳(県史跡)があります。東北地方屈指の前方後円墳で、全長110m、前方部の長さ50m、後円部の経は約50mの規模をもっています。内部構造は未発掘のため不明ですが、墳丘上の各所には葺石(ふきいし)が施されています。

 この古墳からさらに西へ2.2kmほどの所に薬王寺(真言宗)があります。薬王寺は徳一創建のいわき市四倉町の八茎嶽(やぐきだけ)薬師の別当寺として発展し、室町初期の国人領主岩城氏の保護をうけて壮大な伽藍を備えました。真言律宗や当山派修験宗と密接につながった寺院であり、末寺は162ヶ所を数えました。戊辰戦争のために多くの堂塔を焼失しましたが、鎌倉末期の木造文殊菩薩騎師像をはじめ、鎌倉後期の厨子入金銅宝篋印舎利塔(ずしいりこんどうほうきょういんしゃりとう)(ともに国重文)・刺繍阿弥陀三尊種子(ししゅうあみださんぞんしゅじ)懸幅(県文化)・絹本著色真言八祖像(しんごんはっそぞう)などが保存されています。また、薬王寺の境内には計58基の板碑があります。市内に残る板碑は計99基であり、しかも仁井田川流域に偏在しています。薬王寺の板碑は1285(弘安八)年から1378(永和四)年に及ぶものです。

 薬王寺から北西の山間へ5kmほど入ると、四倉町八茎に達します。このあたりが仁井田川の源であり、八茎鉱山があります。ここは銅山として有名であり、戦国大名岩城氏が開発しました。その後、大正・昭和期から盛んに銅・石灰・タングステンなどを産出しています。



波 立 寺(はりゅうじ)

                                    ▼ いわき市久ノ浜田之網
                                    ▼ 常磐線久ノ浜駅バス四ツ倉行波立薬師下車

 久ノ浜の駅前集落を南へ進むと、やがて家並みがとぎれ、松林越しに、波にあらわれている波立海岸が見えてきます。ここは波立薬師と呼ばれる医王山波立寺(臨済宗)があります。806(大同元)年、徳一大師が海上鎮護を念じて天竺(てんじく)渡来の阿弥陀如来を安置し創建したと伝えられています。

 薬師堂には、薬師本尊のほかに十二神将像・仁王像などが祀られ、海上安全や安産・縁結びを祈願する寺として、赤井岳薬師とともにこの地方の二大薬師として崇められています。いわき地方の夏祭りは、波立薬師の陰暦6月14・15日に幕を開け、陰暦7月末の赤井岳薬師の祭礼で終わりを告げます。

 寺の前の海岸は、初日の出を詣でる人々でにぎわう所で、海上に突き出た奇岩の岩礁弁天島に、日の出を取りこんだ風景は、日本画の世界そのものです。岩上には弁財天を祀る祠(ほこら)があり、鰐(わに)が淵(ふち)の人食い鮫の伝説でも知られています。

 寺の境内や付近一帯は、波立海岸の樹叢(じゅそう)(県天然)として、ツワブキ・ヤツデ・スダジイのような暖地性植物の北限地でもあります。



首長竜の発見地

                                    ▼ いわき市大久町大久板木沢
                                    ▼ 常磐線久ノ浜駅バス折木行入間沢下車5分

 いわき・双葉・北茨城地区の地質については、本州最大の炭田があったことから、早くから詳細に調査されていました。それによると、この地区には古生層・中生層・新生層とほぼ各時代の地層があることが知られています。そのなかで、近年話題を集めた首長竜や巨大アンモナイト化石の発見は、この地域に分布する双葉層群とよばれる中生代白亜紀層からの産出によるものです。

 首長竜は、1968(昭和四十三)年、いわき市久ノ浜町板木沢の入間沢橋上流約500mの大久川東岸の崖下から、鈴木直によって発見されました。その後数年間の発掘やクリーニング作業を経て、頭骨・脊椎骨(せきつい)・肋骨(ろっこつ)・指骨など約200点もの復元の結果、体長6.5m手をひろげたときの最大幅3m、足は手より若干短く、首の長さ・胴体ともに約3mであることがわかりました。首長竜類の進化系統のなかでは最も進んだ首の長い種類に属しています。化石としても、太平洋西岸地域では最も完全な形で発見されたものであり、学術的価値の高いものとされています。発見された地層の双葉層群と発見者鈴木直の名前から「フタバスズキリュウ」と命名されました。
 また、近くの筒木原(どうぎはら)からは、直径85cmもの巨大なアンモナイトが発見されるなど、大久川流域は化石の宝庫です。いわき市では、ふるさと創生事業としてこの地を「海竜の里」と名付け、露頭観察施設の建設を計画中です。