常 磐 炭 田
1855(安政二)年、大森村の片寄平蔵がが、弥勒沢(いわき市内郷白水町)で石炭の路頭を発見したことから、常磐炭田の歴史が始まります。その後、湯長谷藩・平藩と商人等によって掘り出され、タールの原料や黒船の燃料として江戸や神奈川へおくられました。また商人たちは石炭の一部を長州攻撃の幕府軍に献納し、戊辰戦争になると奥州平定の西軍に納めてもいました。このように常磐炭田の歴史は幕末維新の動乱期のなかではじまりました。 1883(明治一六)年渋沢栄一・浅野総一郎・大倉喜八郎らが地元資本とともに常磐炭坑社をつくり、10年後には磐城炭鉱株式会社と発展しました。明治の末には磐城・入山・好間など大手の7炭鉱のまわりに50余りの中小の”ヤマ”があり、約1万5千人の労働者が年間200万トン近くを掘り我が国産業革命の一翼を担いました。 第一次世界大戦中の好景気の時代、昭和初めの不況の時代とすぎ、太平洋戦争では石炭報国の名のもとに、採炭現場がそのまま戦場となりました。戦後、朝鮮戦争時に常磐石炭産業は絶頂期を迎えましたが、昭和30年代には公害問題の深刻化と石油エネルギーへの依存の深まりにおされて、石炭産業合理化のなみが炭鉱をおそい、1973(昭和四八)年には閉山に追い込まれ、最後まで操業していた常磐炭鉱西部鉱も、昭和五一年九月三十日ついに閉山しました。その後、炭鉱跡地の工業団地化、スパリゾートハワイアンズを中心としたレジャーリゾート産業の成立などによって変身を遂げつつあります。
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