福島県の近代・現代

 福島県の近代への夜明けは、1868(慶応四)年の戊辰戦争にはじまります。朝廷は、西郷・勝会談の一旬後、鎮撫総督に左大臣九条道孝、下参謀に大川格之助(のち元帥大山巌)・世良修蔵を任命し、仙台藩主伊達慶邦に会津総攻撃を命じました。将軍徳川慶喜とともに大坂を脱出し会津にもどった藩主松平容保(かたもり)は、米沢藩・仙台藩をとおして恭順謝罪の斡旋をたのむ一方、奥州列藩同盟の体制をかため、応戦の体制をとりました。

  戊辰戦争は、小峰城・棚倉城・平城・二本松城・会津若松城と激戦が続き、会津は籠城1ヶ月に及びました。中通りの東軍は、北上する西軍による白河城落城後も一進一退をくりかえし、日々悪化する戦況のなかで奮戦しましたが、三春藩の反盟により敗北を決定づけられ、三春藩を先導とした西軍のため二本松城が落城し、浜通りでは、西軍のため泉城・平城を落とされ、奥州列藩の東軍は双葉郡熊野町までしりぞきましたが、孤立した相馬藩も降伏し、浜通り全域が制圧されました。越後方面での戦闘も新発田藩の反盟で敗勢は決定的となり、西軍は長岡城をぬき若松城にせまりました。中通りの西軍を率いる参謀板垣退助も、保成(ぼなり)峠で会津軍を撃破し、猪苗代城をおとし、若松城下にはいり、米沢藩・仙台藩の降伏によって四面楚歌となった会津藩は、奮戦むなしく、若松城を開城し、ここに、東北地方における戊辰戦争は終わりました。

 白虎隊士が落城とおもいこみ、飯盛山いいもりやま)で自刃した白虎隊、十四歳の少年が参戦した二本松少年隊等の悲話がうまれたのもこのときです。

 明治前期の福島県をいろどる自由民権運動は、旧三春藩士河野広中による、石陽社(石川町)・三師社(三春町)の設立に始まります。この二社から河野らの思想をのりこえた行動的な民権運動家がそだっただけでなく、全国的な愛国社の設立・発展に貢献しました。その後、民権結社は明八会(二本松)・北辰社(中村)・興風社(平)・愛身社(喜多方)と広がりますが、運動の具体的な展開は、県議会での活躍で本格化します。

 1871(明治四)年の廃藩置県で置かれた平県・二本松県・若松県が統合され、1876(明治九)年に統一福島県が発足し、1878年1月地方3新法に先んじて、福島県民規則を制定し、その年6月、全国に先駆けて県議会を開設しました。福島自由党は、その県会において、1882年、県令三島通庸(みちやす)(1882年着任)の道路建設計画に抗して全議案を否決し、福島無名館事件・喜多方事件と発展して、県内自由党員の大量検挙が続き、壊滅的な弾圧を受けました。

 県内開発は、福島県と政府が士族授産のために行った大規模開田事業として、青森県の三本木原開墾・栃木県の那須野原開墾と並ぶ安積開拓事業がありました。1878(明治十一)年、政府は安積開墾を含む東北開発の基本政策を発表しましたが、安積開墾事業は1873年に福島県が指導し、開成社が計画着工したものでした。この事業には、フランスの土木技術を導入し、猪苗代湖の水を東流させる安積疎水事業をともないました。安積疎水事業は、猪苗代湖の水を調節して延長52kmの幹線と78kmの分水路により、安積平野に湖水をそそぐ大事業で、起工から3ヶ年の歳月と40万円を投じて、1882年10月通水に成功し、さらに1898年、疎水を利用した発電所が高圧長距離送電に成功し、電力の動力化が始まりました。1914年(大正三)年、猪苗代発電所から東京までの送電が開始され、電力県福島が誕生しました。

 輸出産業としての製糸業の近代化は、群馬県の官営富岡製糸場や東京の小野組築地製糸場を模範として、1873(明治六)年に二本松製糸場を建設したのを皮切りに、白河製糸場、喜多方製糸場を建設し、洋式機械による近代工業ををスタートさせました。

 1887(明治二十)年、東北本線が開通しましたが、「白河以北一山百文」の評価はかわらず、1905年(明治三八)・1913年(大正二)・1934年(昭和九)とたびたび冷害に見舞われ、東北の農業の振興は大きな政治問題となっていきましたが、いっこうに改善されず、そのたびに多数の工場労働者と、ハワイ・南アメリカ諸国・南太平洋・満州・樺太・北海道などへ移民を送り出していきました。離農者の中には、磐城炭坑に入り、さらにそこを追われて相相地区の干拓地へ入植していった移民の人々もありました。

 このようにして、戊辰戦争の焦土のなかから民権拡張を声高らかに立ち上がった県民たちも、兵力・軍馬・米・薪炭・石炭・電力と、そしてなによりも優れた頭脳を供給し続け、近代日本の兵站(へいたん)基地として役割を果たしてきました。特に、満州事変に始まる15年戦争では、各地に20余万人の郷土部隊を送り出し、6万人の戦死者を出しました。

 戦後は、21万人にも及ぶ引き揚げ者を迎え、食料・石炭・薪炭の増産に精励する傍ら、東北開発のための電力の自給を目的とする只見電源開発を進め、常磐郡山産業都市の建設を進めてきました。東北新幹線・東北縦貫自動車道の完成を機に、高速交通の時代に突入し、また第3セクター方式による会津ー鬼怒川線が開通し、首都圏のリゾート化が急速に進展する気運となっています。相馬地方の開発は、横断自動車道の建設と併せて、県内3地方の一体化を促進することになると思われます。1993(平成五)年に、福島空港が営業を始め、海外との直接交流が可能となりました。首都圏化の進行にともない、工場・住宅・ゴルフ場・スキー場などの建設が急増する中で、これからは、祖先が育て守ってきた自然環境の保全や文化財の保存との調和のある発展が望まれます。

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