自由民権運動と喜多方事件

 

 三島通庸が1882(明治一五)年1月福島県令になったとき、自由党撲滅などの内命を受けていたといいます。ここに三方道路(若松から新潟・山形・栃木)問題に端を発した喜多方事件が動きはじまめす。県令三島は、着任まもなく6郡長を集めて連合会を作らせ、議員を選出させて、実質審議もさせずに道路工事の推進を決定させます。県議会議長河野広中は、県会無視の県令に対し、すべての議案を否決する旨の決議を送付し、自由党と県令の対立はしだいに鋭くなりました。6月末、県令は郡長会議に就労時間割の制定、路線の査定と着工、3月にさかのぼっての代夫賃(男1日15銭・米3升分)徴収を命じました。6郡連合会の民権派は、臨時会を請求したが拒否去れ、8月には起工式が強行されました。労役は、15歳以上60歳までの男女が毎月1日、2年間にわたり、現場集合午前5時・実労働10時間という過酷なものでした。しかも現場まで25kmぐらいはふつうで、前後3日を必要としました。
 
 自由党会津部は、法廷闘争を組みながら、9月末、4千余名の賛同を得て権利恢復同盟を結成し、民意と権利の回復と公益による道路開削を訴えました。この同盟は、耶麻郡長に対し、訴訟中なので人夫も代夫賃も出さないと通告しました。郡長は、抵抗する農民を呼びだして代夫賃をとりたてようと迫るが効果がありません。そこで財産公売の手段にでますが、同盟は財産権の侵害であると訴えました。その訴えは誣告罪であるとして、三浦文治は逮捕第1号となりました。続いて宇田成一rが詐欺罪(同盟会費徴収のこと)で逮捕されました。指導者を奪われた農民たちは真相究明のため若松警察署にむかいますが、弾正ヶ原(塩川)で日没を迎え、喜多方署へ折り返しました。時に11月28日夜8時頃といわれます。代表数名が署長と談判中、何者かの投げ石を合図に抜剣した巡査や土工等が群衆を襲い、多くの負傷者や逮捕者がでました。翌朝未明、同県本部が襲われて多くの指導者が逮捕去れ、これを機に県下各地の自由党員が一斉に逮捕されました。

 

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